徳川家康…江戸転封の発想の転換
天正十八年(1590年)7月13日、小田原城内において、小田原征伐についての論功行賞が行われました。
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論功行賞=手柄に応じて賞を与える事・・・つまり、先の小田原征伐(7月5日参照>>)によって滅亡した北条氏の領地をどうするか?はたまた、誰に新たな領地を与えるか?などが,、豊臣秀吉によって決められ、参戦した皆に伝えられたという事・・・
ここで、徳川家康は、秀吉から、今までの東海(三河・信濃・甲斐・遠江・駿河など)に代わって、旧北条氏の領地であった関東一帯・・・いわゆる関八州を与えられるわけです。
・・・と、あえて、2008年に書かせていただいたページを、同じ文章ではじめてみましたが、そこでは、未だ小田原征伐の真っ最中の段階で、「勝利のの後には、北条の旧領である関東を家康に与える事、そして本拠となる城は、江戸に築くべき」という秀吉の打診があった事や、
結果論ではありますが、家康を関東にやってしまった事は、秀吉の失策ではないか?といった事など書かせていただきました(2008年7月13日を見る>>)。
先の小田原城下を見下ろしながらの打診は、『徳川実記』に書かれているお話ですが、家康の伝記である『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』でも、すでに5月の段階で打診があり、翌・6月には「拠点を江戸にるする」と、家康が秀吉に約束した事が書かれていますので、この論功行賞という公の場を迎える以前に、家康の心が決まっていたのは確かだと思われます。
もちろん、この関東への移転は、秀吉の命令なのですから、未だ豊臣政権下にいる家康にとっては、断る事はできないわけですが、果たして、そのホンネはどのような物だったのでしょうか?
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この転封が決まった時、家康の家臣の多くは不満を漏らしたと言います。
なんせ、京の都から遠く離れた、しかも、当時は漁村があるだけのド田舎に追いやられるのですから・・・
しかし、そんな家臣たちに家康は、
「旧領にプラス百万石なら、もっと北でもええワ…せやかて、3万を守備に当てても、5万を率いて上洛できる!そないなったら敵無しやで」
と言って説得したと言います。
まぁ、こういった記録は、徳川の家臣が殿さまをほめちぎるのが原則で、家康に先見の明があった事を強調したいのでしょうが、その分を差し引いたとしても、おそらく家康は、この江戸という所が、デメリットもあるものの、その反面、かなりのメリットもある事に気づいていた感もあります。
なんせ、家康の娘は北条最後の当主・氏直に嫁いでいます(11月4日参照>>)。
北条が秀吉に反発した事で、今回の小田原征伐となりましたが、それ以前は、娘を嫁に出して同盟を結んでいた仲なのですから、その北条の領地の情報をまったく知らなかったはずはありません。
おそらくは、江戸に入ると決めた時点で、それなりの構想を模索していた事でしょう。
まずは、当時の江戸の一番のデメリットと言えば、台地と湿地帯が多く平野部が少ないため、大規模な埋め立て工事が必要だという事でした。
しかし、それは、埋め立ててしまえば、逆に、充分に活用できる新たな土地になるという事でもあります。
しかも、これまでは、関東各地の武士たちが群雄割拠していて政情が不安定だったため、未だ発展途上の段階のままでしたが、そもそも江戸の位置は、西から運ばれて来た物資を荷揚げする、東国の玄関口としては、絶好な場所なのですから、自らの治め方次第で、海運の拠点へと変貌させる事も可能なわけです。
そして、次なるデメリットは、小さな漁村しかないような寂れた場所・・・
以前、大田道灌(どうかん)が江戸城を構築したお話のページで書かせていただきましたが(4月8日参照>>)、家康が入った時の江戸城は、かなりボロボロで、もはや建物も使い物にならない状態・・・現状を見た家臣たちも、あまりのヒドさに、あ然として立ちつくすだけだったと言います。
これも、かなりオーバーに書いてる可能性はあるにしろ、立派な建物が建っていたという事もなかったでしょうから、周囲の漁村も含め、すべて1からのスタートだったでしょう。
しかし、これも、裏返せば、1からのスタートとは、自分の思い通りの町を1から造る事ができるという事にもなります。
もし、家康が小田原城に入っていたら、逆に、すでに出来上がっている城下町を、自分の思い通りに造り変える事は不可能だったかも知れませんが、何もない場所ならば、自由にできるのです。
そして、その自由に町づくりができるというメリットは、はじめに家臣たちが最も嫌がった最大のデメリットである京都から遠いという事を、最大のメリットに変える事にもつながります。
そうです。
発想を変えれば、京都から遠いからこそ、秀吉や朝廷の影響を受けることなく、自由な町づくりができ、それが、今までにはない発展を遂げる町に成長させる事ができるという事なのです。
以前、家康が江戸に入った8月1日のページでも書かせていただきましたが(内容かぶってますが8月1日参照>>)、家康は、これまで、天下を左右して来たあまたの武将が、朝廷の関与によって、右往左往している所を見て来ています。
朝廷から距離を置き、その影響を受けない新たな武士政権・・・それは、京都から離れているという最大のデメリットを、最高のメリットに変える家康の発想の転換。。。
もちろん、さすがに、心の内までは読めませんので、あくまで推測ですが・・・
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コメント
今年の大河ドラマでは、「関東移転」にかなり前向きな印象でしたね。江さんが嫁いだ時点ではまだ「開発途上」ですね。
現在の「江戸っ子」の先祖のうちの何割かは、東海から移住した人たち(武士は言うまでもなく)なので、江戸っ子の性格は三河武士の気質なのかも。
数十年かけて日本屈指の城下町にするのはなかなか根気が入りますね。今日の地震後の東北復興の区画整理に、どうにか活用させたい…。
>「幕府」を使用したのは江戸中期から
時代劇では「ご公儀」とよく言いますが、足利幕府の室町時代には、どういう言い方をしていたんですか?
投稿: えびすこ | 2011年7月13日 (水) 16時57分
あ、私も知りたいです。
あと、“幕府”の初出についても。
投稿: ことかね | 2011年7月13日 (水) 17時44分
徳川家康…小生のこの人物像はありきたりですが「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」です。
幼少の頃人質で、今川に鉄砲玉として使われ、信長に事実上使われ、優秀な息子を殺されても耐え…、同盟国の部下(秀吉)にも頭を下げ、家臣に裏切られても「良し」とし…
生い立ちから察するに江戸転封などは、「屁の突っ張りにも、ならんですたい…ハハハ…」
となるのでしょうか…。
本人が語ったわけではないらしいですが、「人の一生は重荷を負うて~急ぐべからず」
この人物にはこの言葉が幾分合ってるような気が…。(昔、この湯呑み、在ったと思うけど…どこ行ったんやろ…。ニャハ!!)
茶々様のこの人物のイメージはどないでっしゃろ??
(その後、耐え過ぎた爺様が弾けたのか?…)
ではでは
投稿: azuking | 2011年7月13日 (水) 18時26分
えびすこさん、こんばんは~
今年の大河では秀忠さんが、なにやら攻撃的で父親に反発的なイメージに描かれているので、家康も同じキャラというわけにはいかないので、何事にも前向きな人という設定にされたのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年7月13日 (水) 18時53分
ことかねさん、こんばんは~
実は
私も知りたいです。
何て呼んでたんでしょうね~
投稿: 茶々 | 2011年7月13日 (水) 18時54分
azukingさん、こんばんは~
おっしゃる通り
「人の一生は重荷を…」っていうのは、ご本人の言葉ではないようですね。
個人的には、けっこうしたたかで、やはりタヌキ爺のイメージですねww
でも、悪口じゃないですよ。
長かった戦国を終わらせるという事は、かなりズル賢い人でないと無理でしょうから。
投稿: 茶々 | 2011年7月13日 (水) 18時58分
この話を聞くとやっぱり「タヌキおやじと言われた家康だなー」と思ったりします。
ド田舎から今や日本の首都ですもの。
「天下をとる時まで町づくりさ(^o^)/」という感じで力を蓄えていたのだろう。あくまでも私の考えです。(いつか来るその時を待っていたのだろう…)
ボロい江戸城が見てみたいのと、「幕府」と言う言葉はどうして使うようになったか気になります。
投稿: Ikuya | 2011年7月13日 (水) 19時06分
Ikuyaさん、こんばんは~
そうですね~
まだまだ知りたい事、たくさんありますね~
投稿: 茶々 | 2011年7月14日 (木) 01時39分
確かに秀忠が家康に物言う感じですね。
そうなると、「恐妻家」ではないのかも?
反発するのは「思春期」と言うのもありますね。今の秀忠はまだ10代です。
「言いたい事を言う性格」なのは、今までの時代劇での秀忠にはいないのでは、と。
秀忠の弟たちも終盤には出てくるかな?ちなみに御三家の「初代3兄弟」は、姪の千姫より若いんですよ。
投稿: えびすこ | 2011年7月14日 (木) 16時47分
えびすこさん、こんにちは~
そうですね。
今に残る文献を見る限りでは、秀忠さんは、マジメで素直な印象を受けるので、これまでに、あんな雰囲気の秀忠さんにしたドラマや小説は無かったでしょうね。
たぶん、主役の江を、マジメで素直な夫を尻に敷くカカア天下の鬼嫁にさせたくないがための性格の変更ではないでしょうか?
投稿: 茶々 | 2011年7月14日 (木) 17時16分