秀吉の京の夢…幻の方広寺・大仏殿
慶長十九年(1614年)7月26日、徳川家康が方広寺大仏殿の開眼供養を延期するよう命じました。
・・・・・・・
天正十四年(1586年)・・・豊臣秀吉は、奈良・東大寺の大仏をしのぐ大きな大仏と大仏殿を、京都に建立する事を計画します。
その大仏の高さは六丈三尺(約19m)で大仏殿の高さは二十丈(約60m)・・・東大寺の大仏が14.7mで大仏殿が46.8mなので、まさに一回り大きいといった感じ・・・
本来なら、20年はかかるであろう大プロジェクトを、わずか5年で頼むと、諸大名に命令を出したとか・・・
しかし、ちょうど小田原征伐(7月5日参照>>)と重なったために、思うように工事が進まなくなった事から、始め、銅製の大仏を計画していたのを乾漆像に切り替えて続行・・・まずは、文禄四年(1595年)大仏殿のほうが先に完成しました。
ところが翌・慶長元年(1596年)、近畿地方を激しい地震が襲い、なんと、完成寸前だった大仏が倒壊・・・すでに大仏開眼供養の日程も決まっているのに、主役がいないではお話にならない┐(´-`)┌
そこで秀吉は、ウソかマコトか、7日7晩に渡って信州(長野県)の善光寺の如来が「我を京都の阿弥陀ヶ峰に祀れ」と告げる夢を見たと称して、善光寺の御本尊を大仏の代わりにお迎えする事になったのです。
「権力に任せてムチャ言うなョ秀吉・・・」
と、お思いかも知れませんが、実は、この頃の善光寺の如来様は、戦国乱世の翻弄されて、アッチャコッチャに引っ越しさせられています。
まずは武田信玄が信州に力を伸ばした頃、甲斐(山梨県)に善光寺を建てたのでそこへ移動・・・その後、織田信長が武田を倒したので岐阜に善光寺を建てて、そっちへ移動・・・さらに信長が本能寺で倒れると、息子の織田信雄によって尾張(愛知県西部)は清州へお引っ越し・・・次に徳川家康によって浜松へ引っ越して・・・と、ほぼ40数年間、引っ越し続きだったのです。
だから、京都にお連れして良いってわけでもありませんが、とにかく、善光寺の御本尊は、一路京都へ・・・そして、来たる慶長三年(1598年)8月22日に開眼供養の式典が行われる事が正式発表されます。
ところが・・・です。
ご本尊が京都に到着した7月・・・この5月に病に倒れたものの、ここのところ快復傾向にあった秀吉が再び危篤状態に・・・
当然の事ながら、
「これは善光寺ご本尊の祟りでは?」
との噂がたつ・・・で、結局、
「ご本尊が、夢枕に立たれ、信濃の地に帰りたいとおっしゃられた」
という事にして、8月17日、ご本尊は再び善光寺に返されたのです。
しかし・・・そう、ご存じのように、秀吉は、その翌日の慶長三年(1598年)8月18日に亡くなってしまいます(8月18日参照>>)。
秀吉の悲願だった事もあり、8月22日には、大仏も如来もいない大仏殿にて、予定通り、主人公不在の大仏開眼供養が行われました。
その後、この一大プロジェクトは、息子の秀頼が受け継ぎ、もはや急ぐ事もなくなった事で、本来の願いだった銅製の大仏の鋳造を行いますが、慶長七年(1602年)・・・なんと、その鋳造中のミスで、火災が発生し、大仏は焼失してしまいます。(この火災は放火だったという説も…)
そして慶長十三年(1608年)、再び、大仏殿の再建と大仏の鋳造に挑戦する秀頼・・・今度は順調に行程が進み、慶長十七年(1612年)に、ようやく完成しました。
慶長十九年(1614年)には梵鐘も完成し、いよいよ正真正銘の開眼供養を行おうとした矢先の慶長十九年(1614年)7月26日、家康からストップがかけられたのです。
そう、去る7月21日・・・
「作られた梵鐘に、家康を呪う文章が書かれている」
と、イチャモンをつけた(7月21日参照>>)家康が、ここに来て、開眼供養の中止をも言って来たのです。
ご存じのように、このトラブルが解決できず(8月20日参照>>)、あの大坂の陣へと突入していく事になり、それが豊臣家の運命も決めてしまいます。
(大坂の陣については【大坂の陣の年表】で>>)
豊臣家が滅亡してから後・・・寛文二年(1662年)の地震で、少し痛んだ大仏様は「木造で造り直す」として壊され、その銅は、徳川幕府が新しく発行した通貨・寛永通宝の鋳造に再利用されたとか・・・
さらに寛政十年(1798年)・・・落雷によって大仏殿も木造の大仏も焼失・・・その後、同じような規模の大仏殿が再建される事はありませんでした。
方広寺(方広寺への行き方は、本家HP「京都歴史散歩:七条通を歩く」へどうぞ>>)
現在も、京都東山に残る方広寺・・・あの大坂の陣のもととなった梵鐘が、当時のまま残りますが、秀吉の頃には東西約200m、南北約260mあったと言われる壮大な境内は、かなり縮小された形となってしまいました。
平成十二年(2000年)には、現在の方広寺の南隣にある京都国立博物館の敷地内から、大仏殿の遺構が発見され、その大きさが記録通り、奈良の大仏をしのぐ物であった事が確認されました。
こうして方広寺が縮小される一方で、江戸時代に大きな発展を遂げたのは、いち時は「大仏の代わりに」と京都へ運ばれたご本尊を持つ善光寺・・・
戦国時代に荒廃の一途をたどっていた善光寺は、家康から寺領を寄進されて手厚く保護され、「一生一度は善光寺詣り」と、善男善女の参拝の耐えない大きな寺院へと生まれ変わりました。
今は幻となってしまった豊臣の世の方広寺跡の博物館敷地内では、平成二十一年(2009年)にも大きな発見があり、10tトラック1万台ぶんの大量の土を運んで、その整地を行った事が明らかとなっています。
天下人によって変わる運命・・・
天下人によって書き換えられる歴史・・・
以前、阪神大震災で有馬温泉の極楽寺が半壊した時、その建物の下から、秀吉の湯殿の跡が発見されたというニュースがありました。
この湯殿の事は、地元の人には伝承として語られていたものの、その存在を証明する確かな史料はなく、伝説上のシロモノとの判断がされていましたが、上記の通り、偶然にも発見されました。
どうやら家康が、太閤の湯と呼ばれていたその湯殿の上に土を盛り、徳川家が手厚く保護する極楽寺を建てて、湯殿を末梢したという事のようです。
そう言えば、大阪城も・・・昭和三十四年(1959年)に、地中に埋もれた石垣が発見されるまで、現在の大阪城が徳川時代の物で、秀吉の大阪城が、その地下にスッポリ埋められている事は、誰も知りませんでした(2007年8月18日参照>>)。
建物も、そして出来事の記録も・・・
徳川家に末梢された豊臣の跡が、まだまだ埋もれているような気がしてなりません。
もちろん、これは「徳川が悪い」という意味ではありません。
そんな徳川の大坂城も、明治維新後は、新政府によって、東洋一の軍事施設に造りかえられるわけですから・・・あくまで時代の流れの中での出来事です。
だって、そんな埋もれた歴史を、一つ一つひも解いて行く事が、これまた楽しいんですからね。
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コメント
善光寺の御本尊が40年も「引っ越し」を繰り返したのは、貴重な仏像としてあがめられたからでしょうか?
今は元の場所に安置されているから良かったんですが。
信州・善光寺は1回行った事があります。
投稿: えびすこ | 2011年7月26日 (火) 16時55分
えびすこさん、こんばんは~
やはり、霊験あらたかったんでしょうね~
しかし、お寺に力があったら、ご本尊を移動させるなんて事もないでしょうから、戦国武将の権力の移動に翻弄されたという事でしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年7月26日 (火) 19時04分
あの善光寺の御本尊様にそんな過去があったとは・・・元の故郷?に戻れてよかった・・それにしても家康さん、豊臣家を徹底的にこの世から亡きものにしたかったんですね。滅んだ後も、まだどこかに名残はないか?と粉々に踏み潰したかったんでしょうか。それだけ手ごわい相手だったか、恨みがあったのか、怨霊になったらどうしよ(;;;´Д`)と恐ろしかったのか、単にいぢわるじじいだったのか・・・
投稿: Hiromin | 2011年7月26日 (火) 21時04分
Hirominさん、こんばんは~
やhり、それだけ手ごわい相手だったんじゃないかと思います。
なかった事にしたかったんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年7月26日 (火) 23時20分