北条早雲~悲願の相模制覇に向けて
永正九年(1512年)8月12日、北条早雲に相模岡崎城を攻められた三浦義同が住吉城に敗走しました。
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かつては、美濃(岐阜県)の斉藤道三とともに、戦国下剋上の象徴的人物とされていた北条早雲(そううん)こと伊勢新九郎盛時(もりとき・今日は早雲と呼ばせていただきます)ですが、最近では、伊勢の無名の素浪人という過去のイメージは崩れ、すでに応仁の乱の頃から京都に太いパイプを持つ品格溢れる教養人であり、関東への進出も、京都の幕府の後押しがあった・・・なんて事も言われています。
とは言え、早雲が、正史に登場するのは、あの伊豆討ち入りのわずか1年前というのは事実で、例え、それまで水面下で動いていたとしても、そこまで歴史に残らなかった一武将が、その後、100年の長きに渡って関東一円を支配する北条氏の祖となる・・・しかも、戦う相手は一戦国大名ではなく、幕府公認の公方や管領なのですから、そのスター的魅力がかすれるなんて事はありません。
明応元年(1492年)の記録に、奉公衆(軍事のための将軍の直臣)の一人として歴史に初登場する早雲は、先にも書かせていただいたように、その翌年の明応二年(1493年・1491年説もあり)10月に、足利将軍家の支族で堀越公方を名乗っていた足利茶々丸を襲撃し、堀越公方を滅亡させます(10月11日参照>>)。
これが「伊豆討ち入り」と呼ばれる戦いですが、内輪モメでゴチャゴチャしてたとは言え、室町幕府の正式な役職である公方を、大名でもない一武将が倒して、伊豆という場所を奪っちゃったワケですから、これを戦国の幕開けと考える人も少ないないようです。
(アンケート企画「あなたが思う戦国の幕開けとは?」の結果発表も見てネ!>>)
さらに、明応四年(1495年)2月には、詐欺まがいの手法によって小田原城を手にする早雲・・・(2月16日参照>>)
とは言え、このあたりの早雲の記録は、まだまだ曖昧で、その年代や季節にズレがあるのも確かで、その細かな内容となれば、もっと疑わしい物なので、そこンところは今後の新たな発見に期待するとして、ともかく、現在のところ、文亀元年(1501年)頃までには、小田原城も手に入れて堀越公方も滅ぼして、伊豆一帯の支配を強固な物にしていたのであろうとされています。
そんな中、一方で繰り広げられていたのが、その公方の補佐する役割である関東管領職の奪い合い・・・20年近くに渡った山内(やまのうち)上杉家と扇谷(おうぎがやつ)上杉家の両管領家の争いは、いつしか山内家は旧敵の古河(こが)公方と結び、扇谷家は今川氏親(うじちか)やその配下の早雲を頼るようになり、やがて永正元年(1504年)9月の立河原の戦いへ・・・(9月27日参照>>)
どっちが勝ったのか?負けたのか?・・・
結局は、勝敗もウヤムヤな立河原ですが、この戦いで、はっきりとわかった事が一つ・・・「早雲のほうが、俺ら上杉より強いんちゃう?(゚ロ゚屮)屮」と上杉家が思った事・・・
そう、彼らが同族同志でウダウダやってる間に、どんどん力をつけて来た早雲・・・このままではヤバイ!とばかりに、両上杉家は、その同盟関係を復活させ、ともに早雲を警戒する立場をとるようになったのです。
上杉さん、ちょっと気づくの遅かったかも・・・怖いのは、もはや関東の早雲だけではありませんでした。
永正四年(1507年)8月には、越後の守護代・長尾為景(ながおためかげ)が守護の山内上杉房能(ふさよし)を死に追いやって実権を握り(8月7日参照>>)、さらに永正七年(1510年)には、房能の兄で山内上杉家・当主の上杉顕定(あきさだ)までを襲撃して殺害・・・
しかも、それに呼応するかのように、上野(こうずけ・群馬県)では、かつて山内上杉家とモメにモメてた長尾景春(かげはる)(5月13日参照>>)が再び反旗をひるがえし、武蔵(東京都の一部)では扇谷上杉家の家臣・上田政盛が挙兵(7月11日参照>>)・・・さらに、関東各地でも挙兵が相次ぎます。
しかし、さすがは上杉・・・ここは両家が手に手を取って何とか踏ん張ります。
この時、各地の様子をうかがうようにしていた早雲でしたが、混乱のとばっちりで高麗寺山城を両上杉の連合軍に襲われ、少々の撤退を余儀なくされます。
この結果・・・未だ両上杉家を相手にするのは時期尚早とみた早雲は、ひとまず、武蔵への進出を棚の上に置く事として、扇谷上杉家・当主の上杉朝良(ともよし)と和睦し、その矛先を相模(さがみ・神奈川県)の全土制覇に向けるのです。
今度の相手は、相模の守護・三浦義同(よしあつ・道寸)・・・扇谷上杉家出身で、三浦氏に養子に入っていた人物。
しかし、以前もどこかで書かせていただいたように、石橋を叩いても渡らないほどの慎重派の早雲・・・すぐにが動かず、とにかく時を待ちます。
いや、慎重派の早雲にしたら、こんなの、ほんのまばたきの間だったかも知れない永正九年(1512年)・・・あの両上杉家が、再びモメはじめます。
このあいだは、未だ時期尚早だと思ったさすがの上杉も、両家が分裂したら話は別・・・
8月に入って、早速、朝良との同盟破棄を表明した早雲は、永正九年(1512年)8月12日、義同が城主をつとめる相模岡崎城(神奈川県伊勢原市)を攻撃しました。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
早雲の事ですから、おそらくは準備万端整えての挙兵・・・義同はたまらず、三浦半島の付け根にある住吉城へと敗走します。
その勢いのまま鎌倉へと入った早雲は、住吉城の手前に玉縄城(神奈川県鎌倉市)を築城しはじめます。
もちろん、これは前方にある住吉城を攻めるための付け城ですが、そのワリには何重もの曲輪(くるわ・土塁のある広場)に囲まれた堅固な本格仕様・・・
そう、実は、この玉縄城は、後方にある武蔵を意識しての城・・・一旦、棚の上にあげた武蔵をいずれ攻める際に有利に展開できるよう、先の先を見据えての築城だったのです。
翌・永正十年(1513年)は、明けてからすぐに行動開始・・・1月も終わる頃に、かの住吉城も陥落させた早雲は、とうとう義同を、半島の先端の新井城へと追い詰めます。
しかし、さすがは早雲・・・ここからも、慌てず騒がず・・・慎重に確実に・・・「半島に突き出した天然の要害である城を相手にするには」とばかりに持久戦へと持ち込みます。
海から兵糧を補給しつつ籠城戦を決めこむ三浦勢ですが、一方の早雲も、新井城の援軍として駆けつけた太田資康(すけやす・道灌の嫡男)を討ち果たし、徐々に、形勢を有利にする事を怠りません。
この新井城が陥落して、早雲が相模制覇の悲願を達成するのは3年後の事・・・
そのお話は、
4年も前の記事で少々内容もかぶってますが、2007年7月13日【新井城の攻防!北条早雲・相模を制覇】でどうぞ>>
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