幕末の日本を駆け抜けた外交官…アーネスト・サトウ
1929年(昭和四年)8月26日、幕末から維新にかけて、イギリスの外交官・通訳として活躍したアーネスト・サトウが86歳で亡くなりました。
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アーネスト・メーソン・サトウは、1843年(天保十四年)にイギリスはロンドンで、スウェーデン人の父とイギリス人の母との間に生まれた三男坊でした。
18歳でロンドンのユニバシティ・カレッジを修了した頃、たまたま彼の兄が図書館から借りて来た、ローレンス・オリファントが著した『エルギン卿遣日使節録』を読んで、アジア極東にある島国=日本に憧れたのです。
早速、日本語を学び始めると同時に、イギリス外務省の通訳生の試験を受験するサトウ・・・これが、見事合格し、しかも入省直後に、希望していた日本駐在を命じられます。
こうして文久二年(1862年)8月の日本へやって来たのは、わずか19歳の時・・・しかし、それから1週間もたたない8月21日、あの生麦事件(8月21日参照>>)が勃発します。
江戸を出発して京都へ向かっていた薩摩藩の島津久光(ひさみつ)の行列が、神奈川宿近くの生麦村に差し掛かった時、その行列を横切った4人のイギリス人に、薩摩藩士が「無礼である」として斬りつけ、そのうちの1人=リチャードソンを殺害してしまったという事件です。
これまでも、同様の事件が起こるたびに実行犯に代わって賠償金を支払ってきた幕府は、今回もイギリスの求めに応じて見舞金を支払ったわけですが、イギリスは、薩摩藩にも犯人の引渡しと賠償金支払いを要求・・・
しかし、この交渉がなかなかはかどらず、イギリス公使代理のジョン・ニールは、その翌年、薩摩藩と直接交渉すべく、旗艦・ユーリアラス号以下・7隻の艦隊で鹿児島へと向かったのです。
サトウは、ムーア艦長が指揮する軍鑑・アーガス号に乗船し、ともに鹿児島に向かったわけですが、鹿児島湾内に入って来たイギリス軍鑑に薩摩藩が砲撃した事で、そのまま薩英戦争へ突入・・・(7月2日参照>>)
ここで砲撃にも加わり、焦土と化した鹿児島も目の当たりにしたサトウ・・・その後の薩摩との和議交渉にも同席しますが、実はこの頃までは、外交官として雑務が忙しく、ほとんど日本語の勉強ができていなかったため、とりあえず同席しただけで、まだまだ、正式に通訳になれるほどの日本語力は無かったようです。
しかし、翌年の元治元年(1864年)、賜暇(しか)休暇を終えて、2月に再び着任した初代駐日公使・オールコックの配慮で、日本語の勉強に費やす時間を増やしてもらい、思う存分の猛勉強・・・
8月に起きた長州藩との下関戦争(5月10日参照>>)後の賠償金交渉では、しっかりと通訳を務め、幕府との交渉をまとめあげました。
長州藩との話し合いの席では、家老の息子・宍戸刑馬(きょうま)と名乗った高杉晋作との交渉も行っています(8月8日参照>>)。
翌・慶応元年(1865年)閏5月に、新しい駐日公使のハリー・パークスが着任した後は、サトウは書記官・秘書として、その片腕のごとく幕末維新の動乱に渦巻く日本を縦横無尽に駆け回る事になります。
この頃から、日本語の堪能なイギリス人として有名になりつつあったサトウ・・・ある時、通りすがりの日本人に「アンタ、日本語ウマイねぇ」と言われ、「おだてとモッコにゃ乗りたくねぇな」と答えたのだとか・・・さすがですなぁ(*^ー゚)bグッジョブ!!
しかし翌年、『ジャパン・タイムズ』に匿名で掲載されたある論説が、徳島藩士・沼田寅三郎の手によって翻訳され、『英国策論(えいこくさくろん)』と題して出版された事が大きな波紋を呼びます。
そこには、「天皇を元首とする諸大名の連合組織が支配権力の座につくべき」と、倒幕派が泣いて喜ぶような内容が書かれていたわけですが・・・
実際には、この頃のイギリスの立場は、幕府に接近するフランスをライバル視しながらも、一応、表向きは中立の立場をとっていたわけで・・・にも関わらず、水面下では、薩摩や長州に接近しようとしているのが、イギリスのホンネである事が公表されちゃった形になってしまいました。
とは言え、通訳&右腕としては、相変わらずの活躍続けるサトウ・・・慶応三年(1867年)に起こったイカロス号水夫殺害事件(1月31日の後半部分参照>>)の時には、無実の直談判にやって来たあの坂本龍馬にも会っています。
なにやら・・・
容疑者として疑われている海援隊メンバーの姓名を、サトウが読み間違えたところ、龍馬がそれをバカにしてヘラヘラを笑いながら茶化す姿に怒り覚え、「マジメにやらんかい!」と怒鳴ったのだとか・・・すると「彼(龍馬)は、悪魔のような表情で黙り込んだ」と、サトウから見た龍馬は、極めて印象の悪い男だったようです。
やがて明治維新を見届けたサトウは賜暇休暇をもらって一時帰国・・・翌年、再び来日して明治十六年(1883年)まで、日本に滞在しました。
その後も外交官を続けたサトウは、あの日清戦争後の日英同盟の締結にも尽力し、イギリスにおける日本研究の第一人者と称されるほどだったとか・・・
やがて1906年(明治三十九年)、清(しん・中国)での駐在大使を最後に外交官生活に終止符をうち、その後は、イギリスで枢密(すうみつ・政治上の諮問機関)顧問官や、国際仲裁裁判所の評定員などを務めた後、64歳で隠居・・・晩年は、イングランド南西部にあるデボン州にて、古典文学とクラシックを楽しむ、庭いじりの好きなおじいちゃんとして、独身貴族を謳歌していたようです。
そして1929年(昭和四年)8月26日、86歳で永眠したサトウ・・・しかし、なぜか彼の遺品に中には、かつては1万冊は持っていたという和書のほとんどが消えていたのだとか・・・
実際には、友人にあげたり、博物館に寄付したりしたのだそうですが、本来なら、思い出深い和書は、いくつになっても手放したくないはず・・・
晩年には、もう日本に魅力を感じなくなっていたのか?
それとも、何かの思いがあって手放したのか?
それは、彼の研究が進んだ今でも謎とされているそうです。
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コメント
え~、サトーさんは独身貴族だったんですか?てっきり佐藤さんという日本人女性と結婚して、帰化した人かな?なんて思ってました・・・^^;
投稿: Hiromin | 2011年8月26日 (金) 20時23分
Hirominさん、こんばんは~
わぉ!すんませんm(_ _)m
書き足りない部分が…
サトウさんは生涯独身でしたが、日本にいる時に武田兼さんという女性との間に3人の子供をもうけていたそうで、一応、認知してお金も送っていたみたいです。
次男さんは、ロンドンにも行った事あるらしいです。
投稿: 茶々 | 2011年8月26日 (金) 20時38分
大量な本を手放したのは役立てほしいから手放したのでしょうかね?
本は読んで本だから?それともやっぱり少々冷めた?
「佐藤」「薩道」(当て字だけど)と名乗るほどの日本好きの思いが聞いて見たいです。(ハンサムですね~)
遅くなりましたm(_ _)m
400万アクセスおめでとうございます!
身の回りの忙しい中ほぼ毎日更新してくださってありがとうございます。これからも頑張ってください!
投稿: Ikuya | 2011年8月26日 (金) 21時09分
Ikuyaさん、お祝いコメントありがとうございますo(_ _)oペコッ
>大量な本を手放したのは…
「役立ててほしい」って感じなら良いですね~
一説には、老後の一人暮らしが寂しくて、日本に行きたがってた…なんて話もありますが、どうなんでしょう??
投稿: 茶々 | 2011年8月27日 (土) 01時24分
岩波文庫の「一外交官の見た明治維新」を
読んでいます。約50年の翻訳なのに、
読みやすいです。日本のキセルタバコは一日1回手入れしないと使えないので、不便とか書いているし。葉巻を吸っていたんですね。
最近は岩波文庫がある書店も少ないですね。市立図書館も古い本は少ないです。
リーユースして欲しい利用者にあげています。貸し出しも司書でなく、書店の派遣員てす。建物も駅前のビルの中にあります。
投稿: やぶひび | 2012年6月 9日 (土) 19時37分
やぶひびさん、こんばんは~
良い古書を手に入れるのは、なかなか難しいですね。
最近は、ネットで漁ったりしてますが…
投稿: 茶々 | 2012年6月 9日 (土) 20時16分
アーネストサトウについて学ぶうちにお邪魔しました。
とても勉強になりました。
有難うございました。
御礼にポチと押させていただきました。
投稿: 三毛猫 | 2017年12月17日 (日) 05時04分
三毛猫さん、こんにちは~
うれしいコメント、ありがとうございました。
励みになります。
投稿: 茶々 | 2017年12月17日 (日) 15時54分
1万冊がケンブリッジに、3万冊が大英博物館に、少数がオックスフォードとロンドン大学に寄贈され、この他数千冊が日本大学に収蔵
ってウィキペディアに書いてありますね。
投稿: T4 | 2022年5月 7日 (土) 13時49分
T4さん、情報ありがとうございます。
Wikiは、あまり見ないもので…
やはり、何かの思いが合って寄贈したのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2022年5月 8日 (日) 02時13分