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2011年8月30日 (火)

「女は顔やないで!」吉川元春の嫁選び

 

天文十二年(1543年)8月30日、毛利元就の次男・少輔次郎が14歳で元服し、元春と名乗りました。

・・・・・・・・・

享禄三年(1530年)に、あの毛利元就(もとなり)の次男として生まれた吉川元春(きっかわもとはる)・・・もちろん、もともとは毛利姓で、幼名も少輔次郎だったわけですが、

Kikkawamotoharu600 その破天荒な次男坊は、天文九年(1540年)に勃発した尼子氏との芸郡山城・攻防戦(1月13日参照>>)で初陣を飾ります。

なぜ破天荒かと言うと、この時、未だ元春は元服前の11歳・・・父・元就は、彼が出陣する事に反対していたのですが、それを押し切っての初陣だったのです。

やがて天文十二年(1543年)8月30日、父の「元」の1文字をもらい(諸説あり)元春と名乗って元服・・・その4年後には、父の他家乗っ取り作戦の手駒として、吉川家へと養子に出され、ここから吉川元春となります。

吉川家は、もともと、藤原南家の流れを汲む鎌倉幕府の御家人として駿河吉川(静岡市)に住んだ事から吉川氏を名乗り、後に安芸(あき・広島県)地頭として赴任してこの地で繁栄した名門の家柄・・・この時の当主は吉川興経(おきつね)が務めていました。

元就の奥さん・妙玖(みょうきゅう)(11月30日参照>>)は、この興経の父・元経(もとつね)の妹ですから、興経と元春の関係は従兄弟同士・・・そこを利用して、なんだかんだの理由をつけて興経を隠居させて、養子として送り込んだ元春に吉川家を継がせて乗っ取ったわけです(9月27日参照>>)

最終的に、この後、新しい当主=元春に謀反を起こしたとして、興経は息子とともに殺害されてしまいます。

ところで、そんな乗っ取り劇に前後して、元春は嫁取りも行っています。

お相手は、毛利の家臣である熊谷信直(くまがいのぶなお)という人物の娘・新庄局(しんじょうのつぼね)・・・

この信直という人は、あの源平合戦での活躍で有名な熊谷直実(くまがいなおざね)(11月25日参照>>)の直系の子孫という事で、代々、安芸の守護を務めていた安芸武田氏の家臣でしたが、あの西国の桶狭間と呼ばれる有田城外の戦い(10月22日参照>>)で元就が武田氏当主・を武田元繁(もとしげ)破った後くらいから、毛利の傘下となっていた人だったのです。

しかも、なんと、この結婚・・・元春の独断なんだとか・・・

というのも、
「そろそろ、元春にも良い嫁を・・・」
と考えた元就の意向を受けて、家臣の児玉就忠(なりただ)が、元春に、その気持ちを聞きに行ったところ

「まだ、嫁さんをもらう気はなかったんやけど、お父ちゃんがそない言うねやったら結婚しよかな…、でも、実は、もう心に決めてるコがおんねん
と元春・・・

そして、彼が「このコと結婚したい!」名前を挙げたのが、熊谷信直の娘だったのです。

元就の使者としてやってきた就忠・・・すでに、元春に心を決めた女性がいる事にも驚きましたが、その数倍驚いたのが、人物のチョイス・・・

実は、この新庄局・・・たぐいまれなるブサイク=残念なお顔であるとの評判の姫だったのです。

元春ほどの武将となれば、三国一の美女だってOKするはず・・・思わず就忠は、
「まことにアレですが、信直の娘というのは、この世にまたとないブサイクって聞いてますけど、後悔しはりませんか?」
と、確かめたりなんぞ・・・

すると元春は、
「いやいや、ブサイクやからええねんがな」
と・・・
「美人やったら、あっちゃこっちゃからお声がかかるけど、ブサイクやったら、そうも行かへんから、父親の信直はんも、きっと心配してはるやろ。
そこを、俺が嫁に欲しいって言うたら、信直はんは、やれ!うれしいとばかりに、この先も毛利のために尽くしてくれるに違いないやないか?
それに、チヤホヤされて育った美人よりも、ブサイクのほうが心配りができるかもヨ」

・・・と、こうして結婚した二人・・・

元春の読みはズバリと当たって、新庄局は家臣に慕われる良い奥さんになり、元就も「さすが!俺の息子や」と大いに喜んだ・・・という事ですが、お察しの通り、このお話、三国志諸葛孔明(しょかつこうめい)の嫁選びと良く似たお話で、ちょっとウサン臭いです。

この「新庄局がブサイクだった」という記述も、出て来る文献が限られていますので、ひょっとしたら事実ではない可能性も大いにあり・・・

実は、先ほど書かせていただいたように、元春の吉川家の乗っ取りが完了となるのは、吉川家の元当主である興経とその息子が殺害された時点なわけですが、その実行犯は、誰あろう、かの信直・・・個人的には、おそらくは、それに絡む政略結婚の可能性のほうが高い気がします。

それを、後世の人が、いかにも「元春が先見の明を持つ、カッコイイ武将」というイメージを作りたいがために、「新庄局は、実はブサイクで…」てな話にしてしまったのではないかと・・・

ただし、この時期に二人が結婚したのは、おそらく事実で、夫婦仲が良かったのも事実でしょう。

いくつか残された手紙でわかるのは・・・
この新庄局という人は、なかなかの気の強さを持っていた人のようで、結婚後は、渡鬼バリの嫁VS姑+小姑バトルを繰り広げていたようですが、こと、夫=元春との関係はすこぶる良好・・・四男二女をもうける仲睦まじい夫婦で、力を合わせて吉川家を盛り上げたようです。

事実、元春は生涯、側室をもうける事はなく、新庄局一筋で過ごしました。

元春の破天荒さと、新庄局の気の強さを受け継いだのか、ゴンタくれの不良息子だった次男の吉川広家に、夫婦連名で手紙を送るなど、良きパパ&ママぶりも垣間見えます。

ご存じのように、父・元就、兄・隆元(8月4日参照>>)亡き後は、その兄の息子の輝元を、弟の小早川隆景(こばやかわたかかげ)とともに盛り立て、吉川の「川」小早川の「川」で、「毛利の両川」と称されるほどに活躍する元春ですが、外戦の多い彼が、安心して家を留守にし、思う存分戦う事ができたのは、やはり奥さんのおかげ・・・

美人だろうがブサイクだろうが、しっかりした良い嫁をもらった事は確か・・・その点では、元春さんの嫁選びは正解だったって事ですね。

本年の大河ドラマ「江」・・・
どうしても、戦国時代の結婚に恋愛感情を絡めて、良き妻に、妻一筋の夫という構図を造りたいのであれば、お江さんではなく、新庄局を主役にした方が、よほど恋愛ドラマとして作りやすかったような気がしますが・・・

あっ、でも、たぐいまれなるブサイクを主役にすると、それはそれでマズイのかも・・・(。>0<。)
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2011年8月29日 (月)

生駒山に初のケーブルカー誕生…ケーブルカーの日

 

大正七年(1918年)8月29日、大阪電気軌道(現在の近鉄))の子会社である生駒鋼索鉄道が、奈良県生駒山の鳥居前⇔宝山寺間日本初のケーブルカー=近鉄生駒ケーブルを開業させました。

なので、今日8月29日は「ケーブルカーの日」という記念日でもあります。

・・・・・・・

大阪と奈良の府県境に南北に走る30km余りの山脈・・・これが生駒山脈(生駒山地とも)です。

その名前は、応神天皇の時代に百済から献上された馬を放牧した事に由来すると言われますが、標高300~400mの低い山々が連なる山脈で、最高峰の生駒山でも642mにすぎないですから、おそらく他府県の方々から見れば、「それ、どこ?」ってな感じだと思いますが、これが、大阪府民にとっては、なかなか思い入れのある山なのです。

なんたって、小中学校(特に大阪市内)の校歌によく出て来る(爆)

まぁ、大阪から見れば、生駒山からお日様が登って来ますから、美しいご来光とともに浮かび上がる生駒山の風景は絵になりますので、歌にもしやすい・・・

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淀屋橋から見た生駒山
江戸時代には、このあたりが、ご来光を拝む名所でした

それに、山頂にはテレビやラジオの送信所と中継局が設置されていますので、言わば関西圏の東京タワー(今後はスカイツリーかww)の役目も果たしていますから、これが無きゃ、大阪府民はテレビも見られない!!・・・

しかも、山上には様々なアトラクションのある遊園地もあり・・・テーマパーク全盛の今となっては、ちょっとレトロな昔ながらの遊園地で、もっぱらファミリー向けと言われますが、それこそ、一昔前までは、大阪在住のカップルのデートの場所でもありました。

そう言えば、大阪から奈良へと生駒山を貫く阪奈道路「ヘアピンカーブがスゴイ」と、命知らずのドライビングサークル(←一応、こう呼んどきます)のメッカだった事も・・・(過去の話です)

とは言え、そんな生駒山は、太古の昔から神々が住むとされる神秘の山でもあります。

その影響か?
かつては、遊園地のお化け屋敷にホンモノが出るとか、生駒トンネルの中を走る時だけ電車の中の乗客の人数が増えるとか、野生のトラが生息してる・・・なんて都市伝説が語られる場所でもあります。

なんせ、あの神武天皇が東征した時(2月11日参照>>)、海から上陸した神武一行を阻んだ登美那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)は、生駒の人ですから・・・

そんな生駒山の中腹にあるのが宝山寺・・・お寺の建つあたりは、古くは役行者(えんのぎょうじゃ)(5月24日参照>>)空海など、様々な聖人が修行を行う聖地とされる場所で、延宝六年(1678年)に宝山揕海(ちんかい)が、この地に大聖歓喜自在天(歓喜天・聖天)祀ったのが寺の始まりとされ、ご本尊は不動明王(1月28日参照>>)なれど、願い事を叶えてくれる歓喜天が庶民信仰と広く結びついた事から、「生駒聖天さん」の名で親しまれています。

国や人民といった公を守る天の仏神である不動明王よりも、現世でご利益のある聖天さんを求めてしまうのは、やはり、なにわの商売人のサガっちゅーもんでっしゃろか?

こうして多くの参拝客を集めた宝山寺・・・つまり大正七年(1918年)8月29日誕生した日本初のケーブルカーは、この宝山寺への参拝のための開業だったわけです。

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開業当時の生駒山ケーブル(近畿日本鉄道蔵)…踏切でカゴが待っていますww

そもそもは麓に鳥居があり、そこから石段を上って中腹の堂塔のある境内へと向かうわけですが、これが、高低差300mとは思えないほどのなかなかのハードっぷりで、さすがは修業の場といった感じ・・・という事でケーブルカーのお出ましとなったのです。

昭和四年(1929年)には、宝山寺の先に1kmが完成して、先ほどの遊園地に直結しているところから、現在では、ケーブルカーの車両デザインが、遊園地の乗り物を思わせるかわいい犬の「ブル」と猫の「ミケ」という動物の形をしたパステルカラーでして生駒山上遊園地のHP・ケーブルカーのページで見てネ>>)

なんだかちょっとばかり「宝山寺&神秘なる生駒山」には似合わない雰囲気ではありますが、

おそらく、古代より大阪の庶民とともに暮らして来た大らかな生駒山の神様は、「それも、なかなか、ええんちゃうん」と、寛容に受け止めてくれはるような気がします。
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2011年8月28日 (日)

外国の脅威から江戸を守る…品川砲台場・建設

 

嘉永六年(1853年)8月28日、黒船からの防衛ため、品川沖に沿岸砲台・御台場の築城を開始しました。

・・・・・・・・・・

嘉永六年(1853年)6月3日、東インド艦隊・旗艦サスケハナ号・司令長官ペリー率いる4隻の蒸気船が浦賀沖に姿を見せました。

ご存じ、黒船来航です(6月3日参照>>)

♪太平の 眠りをさます 正喜撰(じょうきせん)
 たった四はいで 夜も眠れず♪

と歌われた黒船ですが、見物禁止令が出た2月3日のページ(2月3日参照>>)にも書かせていただいたように、この一件に夜も眠れないほどだったのは、一般庶民より、むしろお侍さんのうほう・・・なんせ、品川沖まで、やすやすと艦隊が入り込んで来ちゃったわけですから・・・

早速、当時勘定奉行だった川路聖謨(かわじとしあきら)(3月15日参照>>)伊豆韮山代官江川英龍(ひでたつ)らを中心に、江戸を直接の脅威から防御するため、品川沖の海上に、石垣に囲まれた4角形、または5角形の様式の砲台を建設する事に・・・

そして嘉永六年(1853年)8月28日、その工事が開始されました。

Edowanezu800 まずは、第一から第三までが完成・・・
当初の予定では12基の建設が行われる計画で、続いて、第五、第六までは完成しましたがしたが、当然の事ながら莫大な費用がかかるわけで・・・

結局、第四台場は7割ほど完成ところで、第七台場は、未だ基礎部分の海の中の部分までで、この二つは未完成のまま、工事はストップ・・・なんせ、翌年の嘉永七年(1854年)に日米和親条約を結んじゃってますから・・・

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砲台場の絵図(左)と配置図(右)…右は第三台場の様子を自作した物ですが、左の絵図は5角形なので第五台場の絵図と思われます。

この砲台場は十字砲火・・・つまり、正面からの攻撃だけではなく、側面に回った敵艦をも攻撃する事ができ、なかなかのものでありましたが、結果的に、一度も実戦に使われる事なく開国・・・当時は、品川砲台と呼ばれていた名前も、そのうち、砲台としての機能を失ったんでしょうね~大正時代頃には、台場と呼ばれるようになり、そこに敬称をいつけて、御台場と呼ばれるようになりました。

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現在に地図に照らし合わせた砲台場の位置(現在は第三台場と第六台場が残っています)

では、結局、何の役にもたたなかったのか?
というと、そうでもありません。

最初のペリー来航から約1年経った2度目に来航の時は、すでに、この品川砲台の一部は完成していたため、ペリーは江戸湾に入る事ができず、引き返して、横浜から上陸しています。

ご存じのように、この時、結果的に条約を結んだ事で交戦にはなりませんでしたが、もし、砲台場の建設がなされておらず、ペリー艦隊が江戸湾へと入り込んでいた状態で交渉が決裂していたら、当時、世界一とも言わた人口密度の江戸の町が火の海になっていたかも知れませんからね~

また、もう一つ、ギリギリの線で回避された場面もありました。

それは文久三年(1863年)・・・
この3月に上洛して、朝廷と攘夷の約束をしてしまった第14代江戸幕府将軍・徳川家茂(いえもち)の意を受けて、5月に攘夷を決行した長州(5月10日参照>>)7月に薩英戦争に突入した薩摩(7月2日参照>>)・・・その家茂は、この8月には、「外国と戦争になってもやむをえない」として、一旦開港した横浜港を再び閉鎖する事を決意していたのです。

当然、そうなったら、このお台場に設置された大砲は、大いに活躍した事でしょう。

しかし、その直後に、京都で起こったのが、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)・・・これで、朝廷内の攘夷派が一掃される事となり、幕府による外国との戦争は回避されました。

次に江戸に危機が訪れるのは戊辰戦争の時ですが(1月23日参照>>)、この時は、世界的に見てもトップクラスの海軍を持つ幕府に対して、まともに戦えるほどの海軍を薩長は持っていなかったので(1月2日参照>>)はなから陸を行く東征の体制をとっていましたから、やっぱり砲台場の出番はなかったのですね。

今や海浜公園となり、レインボーブリッジでつながり、デートの定番となっているお台場・・・今となっては、使われなくて良かった戦争の遺物って感じでしょうか?
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2011年8月26日 (金)

幕末の日本を駆け抜けた外交官…アーネスト・サトウ

 

1929年(昭和四年)8月26日、幕末から維新にかけて、イギリスの外交官・通訳として活躍したアーネスト・サトウが86歳で亡くなりました。

・・・・・・・・

アーネスト・メーソン・サトウは、1843年(天保十四年)にイギリスロンドンで、スウェーデン人の父とイギリス人の母との間に生まれた三男坊でした。

Ernestsatow600 18歳でロンドンのユニバシティ・カレッジを修了した頃、たまたま彼の兄が図書館から借りて来た、ローレンス・オリファントが著した『エルギン卿遣日使節録』を読んで、アジア極東にある島国=日本に憧れたのです。

早速、日本語を学び始めると同時に、イギリス外務省通訳生の試験を受験するサトウ・・・これが、見事合格し、しかも入省直後に、希望していた日本駐在を命じられます。

こうして文久二年(1862年)8月の日本へやって来たのは、わずか19歳の時・・・しかし、それから1週間もたたない8月21日、あの生麦事件(8月21日参照>>)が勃発します。

江戸を出発して京都へ向かっていた薩摩藩の島津久光(ひさみつ)の行列が、神奈川宿近くの生麦村に差し掛かった時、その行列を横切った4人のイギリス人に、薩摩藩士が「無礼である」として斬りつけ、そのうちの1人=リチャードソンを殺害してしまったという事件です。

これまでも、同様の事件が起こるたびに実行犯に代わって賠償金を支払ってきた幕府は、今回もイギリスの求めに応じて見舞金を支払ったわけですが、イギリスは、薩摩藩にも犯人の引渡しと賠償金支払いを要求・・・

しかし、この交渉がなかなかはかどらず、イギリス公使代理のジョン・ニールは、その翌年、薩摩藩と直接交渉すべく、旗艦・ユーリアラス号以下・7隻の艦隊で鹿児島へと向かったのです。

サトウは、ムーア艦長が指揮する軍鑑・アーガス号に乗船し、ともに鹿児島に向かったわけですが、鹿児島湾内に入って来たイギリス軍鑑に薩摩藩が砲撃した事で、そのまま薩英戦争へ突入・・・(7月2日参照>>)

ここで砲撃にも加わり、焦土と化した鹿児島も目の当たりにしたサトウ・・・その後の薩摩との和議交渉にも同席しますが、実はこの頃までは、外交官として雑務が忙しく、ほとんど日本語の勉強ができていなかったため、とりあえず同席しただけで、まだまだ、正式に通訳になれるほどの日本語力は無かったようです。

しかし、翌年の元治元年(1864年)、賜暇(しか)休暇を終えて、2月に再び着任した初代駐日公使・オールコックの配慮で、日本語の勉強に費やす時間を増やしてもらい、思う存分の猛勉強・・・

8月に起きた長州藩との下関戦争(5月10日参照>>)後の賠償金交渉では、しっかりと通訳を務め、幕府との交渉をまとめあげました。

長州藩との話し合いの席では、家老の息子・宍戸刑馬(きょうま)と名乗った高杉晋作との交渉も行っています(8月8日参照>>)

翌・慶応元年(1865年)閏5月に、新しい駐日公使のハリー・パークスが着任した後は、サトウは書記官・秘書として、その片腕のごとく幕末維新の動乱に渦巻く日本を縦横無尽に駆け回る事になります。

この頃から、日本語の堪能なイギリス人として有名になりつつあったサトウ・・・ある時、通りすがりの日本人に「アンタ、日本語ウマイねぇ」と言われ、「おだてとモッコにゃ乗りたくねぇな」と答えたのだとか・・・さすがですなぁ(*^ー゚)bグッジョブ!!

しかし翌年、『ジャパン・タイムズ』に匿名で掲載されたある論説が、徳島藩士・沼田寅三郎の手によって翻訳され、『英国策論(えいこくさくろん)と題して出版された事が大きな波紋を呼びます

そこには、「天皇を元首とする諸大名の連合組織が支配権力の座につくべき」と、倒幕派が泣いて喜ぶような内容が書かれていたわけですが・・・

実際には、この頃のイギリスの立場は、幕府に接近するフランスをライバル視しながらも、一応、表向きは中立の立場をとっていたわけで・・・にも関わらず、水面下では、薩摩や長州に接近しようとしているのが、イギリスのホンネである事が公表されちゃった形になってしまいました。

とは言え、通訳&右腕としては、相変わらずの活躍続けるサトウ・・・慶応三年(1867年)に起こったイカロス号水夫殺害事件(1月31日の後半部分参照>>)の時には、無実の直談判にやって来たあの坂本龍馬にも会っています。

なにやら・・・
容疑者として疑われている海援隊メンバーの姓名を、サトウが読み間違えたところ、龍馬がそれをバカにしてヘラヘラを笑いながら茶化す姿に怒り覚え、「マジメにやらんかい!」と怒鳴ったのだとか・・・すると「彼(龍馬)は、悪魔のような表情で黙り込んだ」と、サトウから見た龍馬は、極めて印象の悪い男だったようです。

やがて明治維新を見届けたサトウは賜暇休暇をもらって一時帰国・・・翌年、再び来日して明治十六年(1883年)まで、日本に滞在しました。

その後も外交官を続けたサトウは、あの日清戦争後の日英同盟の締結にも尽力し、イギリスにおける日本研究の第一人者と称されるほどだったとか・・・

やがて1906年(明治三十九年)、(しん・中国)での駐在大使を最後に外交官生活に終止符をうち、その後は、イギリスで枢密(すうみつ・政治上の諮問機関)顧問官や、国際仲裁裁判所の評定員などを務めた後、64歳で隠居・・・晩年は、イングランド南西部にあるデボン州にて、古典文学とクラシックを楽しむ、庭いじりの好きなおじいちゃんとして、独身貴族を謳歌していたようです。

そして1929年(昭和四年)8月26日86歳で永眠したサトウ・・・しかし、なぜか彼の遺品に中には、かつては1万冊は持っていたという和書のほとんどが消えていたのだとか・・・

実際には、友人にあげたり、博物館に寄付したりしたのだそうですが、本来なら、思い出深い和書は、いくつになっても手放したくないはず・・・

晩年には、もう日本に魅力を感じなくなっていたのか?
それとも、何かの思いがあって手放したのか?

それは、彼の研究が進んだ今でも謎とされているそうです。
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2011年8月25日 (木)

明応の大地震…北条早雲・堀越公方に引導

 

明応七年(1498年)8月25日、東海道沖に推定マグニチュード・M8.3の大地震が発生しました。

・・・・・・・・・・

明応七年(1498年)8月25日、辰の刻と言いますから、午前8時~10時の間ですね。

震源地は東海道に沿った太平洋沖で、推定マグニチュード・M8.3前後、紀伊半島から房総半島にかけての太平洋側が大きく揺れ熊野本宮の社殿や、那智の坊舎が倒壊したと言います。

世に、明応地震と呼ばれる大地震です。

この地震による津波も、紀伊半島から房総半島の範囲に押し寄せ、駿河湾では8m、伊勢志摩でも6~8mに達したと言われ、あの鎌倉の大仏を納めていた大仏殿が津波で倒壊し、以来、鎌倉の大仏様は、外に鎮座する姿になったのだとか・・・

また、それまで淡水湖だった浜名湖が、太平洋とつながって大きくなったのも、この時の津波による物とされています。

とは言え、この時期、あの応仁の乱がやっと終結したものの、世は、戦国へと突入しはし始めた頃・・・江戸時代に比べて、詳細な記録が少なく、特に数値的な物に関しましては、どこまで信用できる物なのかは微妙ではありますが・・・

ところで、実は、この大地震によって男を挙げた戦国武将がいます。

他人の不幸に乗じて・・・と聞くと、何やら、「死の商人」的な悪しき商売をイメージしてしまいますが、決してそうではなく、未曽有の災害に見舞われた人々に、生きる希望を与えた事で、その後に大きな支持を得たという事・・・

今だって、千年に一度というような災害に見舞われた場合・・・もし、ここで、民衆の立場に立ち、テキパキと災害対策をこなしす地方リーダーがいたとしたら、今はまだ他の地方にはわからずとも、おそらく後世には、その人の名が全国に轟き、民衆の心は一生その人から離れる事はないと思います。

Houzyousouun600 そうして男を挙げた人物・・・それが、かの北条早雲(そううん)こと伊勢新九郎盛時(もりとき・今日は早雲と呼ばせていただきます)なのです。

これまで、一介の素浪人から身を起こした下剋上の見本とされて来た早雲ですが、実はそうではなく、すでに京都に太いパイプを持つ品格溢れる教養人であり、関東への進出も、京都の幕府の後押しがあった・・・

あるいは、第9代室町幕府将軍・足利義尚(よしひさ)の側近であったという新説が、ほぼ定着しつつある事は、このブログでも度々お話させていただいています。

そんな中で、更なる新説を唱えるのが学習院大学家永教授・・・

教授の説によれば、あの伊豆討ち入りの最終段階で、早雲が足利茶々丸引導を渡す決定打となったのが、この時の大地震で被害に遭った被災者を、味方につけた事にあったのでは?という事のようです。

この伊豆討ち入りというのは(くわしくは10月11日参照>>)・・・
幕府から、関東の支配をするべく派遣されていた堀越公方足利政知(まさとも・足利義政の弟)が病死した後、後継者とみられていた義弟の潤童子(じゅんどうじ)とその母・円徳院殺害して、堀越公方を継いだ兄・茶々丸を、早雲が堀越館に攻め、追放したという物・・・

それこそ、いくら早雲が一介の素浪人でなくとも、未だ大名でもない一武将が、公式に幕府から派遣されている公方を撃ち破るという一大事件なわけで、これこそ、まさに下剋上として、この伊豆討ち入りを戦国の幕開けと考える人も少なくない一大事件です。

とは言え、そのページでも、延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)10月11日とさせていただいているように、その年数も複数の説がある出来事・・・この時、早雲に撃ち入られて敗北した茶々丸についても、以前は、この討ち入り直後に自刃したとされていました。

しかし近年の研究では、山内上杉氏武田氏の支援を受けて、討ち入りで伊豆国を追放された後も伊豆奪回を狙っていたとされ、自刃によるその死は、明応七年(1498年)8月であったという事が一般的となっています。

そこで教授の推理は・・・

明応七年(1498年)8月25日に起こった地震による大津波で、壊滅的な被害を受けたと思われる伊豆半島西部・・・

この時、伊豆対岸の清水にいた事で、津波の被害に遭わなかった早雲は、翌日、約500の兵を連れて駿河湾を渡り、味方の兵はもちろん、被災した人々の救護活動を俊敏に行うと同時に、茶々丸が籠っていた半島南部の深根城(静岡県下田)を攻めたのだと・・・

なるほど・・・
早雲が伊豆一国を手に入れる時、戦う前に、すでに領民たちのハートをガッチリと掴んでいたという事は昔から言われていましたが、そこには、未曽有の大災害に、救護活動を最優先にした、力強いリーダーの姿があったのかも知れませんね。
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2011年8月24日 (水)

世界と平等に…カミソリ外相・陸奥宗光

 

明治三十年(1897年)8月24日、幕末には海援隊の一員として活躍し、維新後は、政治家・外交官として腕を奮った陸奥宗光が、自宅にて54歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・・・

天保十五年(1844年)に紀州藩士・伊達千広(ちひろ)の6男として生まれた陸奥宗光(むつむねみつ・伊達小次郎)・・・安政五年(1858年)に江戸へ出て以降、多くの勤王の志士と交わりながらも、文久三年(1863年)に勝海舟(かつかいしゅう)神戸海軍操練所に入ります。

Mutumunemitu500 小生意気で口が悪く、何事も理詰めで相手を言い負かす性格は、周囲との衝突も多かったようですが、エラそうにのたまうぶん、覚えも早く、何をやらせてもテキパキとこなす若者だったのだとか・・・

そんな彼の才能に惚れ込んだのが、同じ海軍操練所で知り合った坂本龍馬・・・いつしか宗光も、自分を認めてくれる龍馬を慕うようになり、慶応三年(1867年)には龍馬の海援隊(亀山社中)にも加わります。

海援隊では商務担当として腕を奮っていたようで、龍馬も「刀を2本差さなくても食っていけるのは俺と陸奥だけ」と、その働きぶりを絶賛していたようです。

そんな宗光ですから、龍馬が近江屋で暗殺された時も、いち早く駆けつけ、独自の調査による復讐劇=天満屋事件も引き起こしています(12月7日参照>>)

明治維新後は外国事務局御用係兵庫県知事神奈川県令地租改正局長などを歴任しますが、いわゆる藩閥(はんばつ・維新に貢献した藩=薩摩・長州・土佐・肥前)の出身者でない彼は、とても順風満帆とは言い難いものでした。

特に薩長出身者のよる専横政治には嫌気がさしていたようで、やがて、同じ思いを抱く土佐出身の板垣退助(たいすけ)と親密になっていきます。

ご存じのように、退助は自由民権運動(10月18日参照>>)の政治結社=立志社を立ちあげた人物・・・そして、そこに起こったのが、あの西郷隆盛西南戦争(1月30日参照>>)でした。

その時の明治政府の中心人物である大久保利通(としみち)は、西郷とは幕末からの同志・・・おそらく、西郷の討伐には、ためらいを覚えるであろうから、その機に乗じて、退助の立志社を蜂起させて、さらに、自らは、その隙をつき、内部から政府を転覆させてしまおうと計画したのです。

しかし、利通は、その予想を遥かに超えたスピードで西郷を討伐を決意・・・結局、土佐蜂起計画も、実行する前に発覚してしまい、そこに深く関わっていた宗光も、禁獄5年の刑を受ける事に・・・

明治十六年(1883年)、伊藤博文井上馨(かおる)の奔走によって特赦(とくしゃ)となった宗光は、その伊藤の勧めもあってヨーロッパに留学・・・明治十九年(1868年)まで滞在して、この間に民主政治の先進国=イギリスから、西洋近代社会の仕組みや内閣制度、議会運営のノウハウなど、様々な物を吸収する事になります。

帰国後まもなく外務省に出仕する宗光・・・そのヨーロッパ留学の成果が見事発揮されるのが、明治二十一年(1888年)に駐米公使兼駐メキシコ公使として行った日墨修好通商条約(にちぼくしゅうこうつうしょうじょうやく)に始まる平等条約の締結でした。

しかし、そんな宗光さん・・・明治天皇にはかなり嫌われていたようで、明治二十三年(1890年)に第1次山形有朋内閣で農商務大臣となる時、「人となり、にわかに信じがたし」と言われ猛反対されたのだとか・・・

というのも、明治天皇が好まれる人物は、侍従を務めた山岡鉄舟(てっしゅう)(7月30日参照>>)や、後に天皇に殉死する乃木希典(まれすけ)(9月13日参照>>)といったような、無骨ながらも誠実でまっすぐな人・・・実は、宗光は、その対極にいるようなタイプで、一歩間違えばケガをしそうな過激さから「カミソリ陸奥」の異名を持っていたのです。

結局は、周囲の説得によって大臣就任に至るわけですが、この明治天皇の宗光への不信感は、その後も消える事はなかったのだとか・・・

しかし、幕末の龍馬同様・・・そんなカミソリを見い出して、切れる刃物だからこそ、うまく使いこなそうとしたのが伊藤博文でした。

その後、第2次伊藤博文内閣のもとで外務大臣となった宗光は、明治二十七年(1894年)、イギリスやアメリカをはじめとする合計15カ国と、それまで結ばれていた不平等な条約を改正して、新たに平等な条約を締結・・・幕末以来の悲願を達成させたのです。

同時に起こった日清戦争(6月9日参照>>)では、翌年の下関条約によって、日本に有利な条件での終結を導きました。

しかし、この頃、すでに肺結核という病に冒されていた宗光・・・明治二十九年(1896年)に外務大臣を辞職し、ハワイで療養するも快復せず、東京西ヶ原の自宅に戻っていた明治三十年(1897年)8月24日54歳でこの世を去りました。

Dscn1427aa600 現在、大阪の夕陽ヶ丘(天王寺区)には、清地蔵(さやじぞう)と呼ばれるお地蔵様があります。

ここは、宗光の父・千広が、鎌倉時代の歌人・藤原家隆のそばで眠りたいとの遺言した事で、その家隆の墓所・家隆塚の近くに埋葬された千広の墓所で、実は、宗光も、「父のそばで眠りたい」との遺言を残し、昭和二十八年(1953年)に鎌倉の寿福寺に移転されるまでは、宗光の墓所でもありました
(くわしい行きかたは本家HP「歴史散歩:上町台地」でどうぞ>>

龍馬とともに激動の時代を生きたカミソリ宗光は、伊藤博文によって研ぎ澄まされ、世界の表舞台に平等に立てる日本へと導いてくれたのですね。

・・・と、ちょっと持ちあげすぎかな???
でも、まぁ本日の主役なので(人><。)
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2011年8月23日 (火)

幕末の外国人商人・グラバーの置き土産

 

安政六年(1859年)8月23日、トーマス・グラバーが、開港後まもない長崎に赴任しました。

・・・・・・・・・

長崎の観光名所・グラバー邸にその名を残すトーマス・グラバーは、1838年(天保九年)にスコットランドの小さな漁村に、8人兄弟の5番目として生まれます。

Thomasglover600 当時、中国の上海(シャンハイ)にて商売を成功させていた父にならって、商売での野望を抱いた彼は、20歳で上海に渡り、ジャーディン・マセソン商会に入社します。

そして翌・安政六年(1859年)8月23日、弟のアレキサンダーとともに、開港まもない長崎にやって来たのです。

2年後の文久元年(1861年)、そのマセソン商会の長崎代理店としてグラバー商会を設立・・・最初こそ、仲介役として、長崎の出島を拠点に、輸出業や外国人相手の不動産屋をやったりしていましたが、やがては、父譲りの才能を発揮して、独自の人脈を築いていきます。

しかも、時は、まさに幕末の混乱・・・英国海軍との強力なパイプによって上海で成功を納めた父の事を目の当たりにしていた彼は、この日本の混乱に目をつけ、武器のの販売に手を広げます。

今で言うところの「死の商人」ですが、このビッグチャンスに、そんな事言ってられません。

しかも、彼は外国人で特定の政治的な考えもありませんから、幕府をお得意様としながらも、尊王攘夷派の志士たちも支援する・・・あの伊藤博文(当時は俊輔)留学費用を出してやったり、邸宅に隠し部屋を作って幕府から追われている志士をかくまったり・・・

そんな中で、薩摩の御用商人となったグラバーは、薩摩藩の家老・小松帯刀(たてわき)の紹介で、あの坂本龍馬にも出会っています。

慶応元年(1865年)には、龍馬の亀山社中とグラバー商会の間で、総額9万2400両(約21億円)の洋式銃の取引を行い、これが長州藩へと流れたおかげで、あの第2次長州征伐での幕府との戦い方の差(6月16日参照>>)を産み、さらに後の鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)をも左右した事は、度々、小説やドラマにも登場しますね。

そんなこんなして儲けたお金で、グラバーは、大浦海岸で日本初の蒸気機関車を走らせてみたり、大規模な製茶工場を建ててみたり、小菅に船工場を作ったり、高島炭鉱を開発したりと、様々な事業を手掛けました。

ところが、残念ながら、かの鳥羽伏見から戊辰戦争の頃が彼のピーク!・・・維新が成って安定した社会が築かれ始めるとグラバー商会は一気に傾きます。

確かに、グラバーには先見の明がありました。

「この先、平和な時代が訪れると武器は売れなくなる」
だから
「別の産業に先行投資しよう」

そう思って彼が起こした事業は、どれもこれも的外れではなく、むしろ将来の日本を担う有望な市場であったわけで、その目のつけどころは間違っていなかったのです。

ただ、明治維新という変革のスピードが、グラバーの予想以上に早かったのです。

武器が売れなくなった一方で、諸藩からの商品代金回収はなかなか進まず、あげくの果てに新政府の三条実美(さねとみ)からは、見事、借金を踏み倒され・・・

明治三年(1870年)、ついにグラバー商会は倒産してしまいました。

彼が先行投資した様々な事業が花開くのは、それからしばらく経ってからの事・・・

倒産後も日本に留まっていたグラバーは、最終的に、あの岩崎弥太郎の物となった高島炭鉱の顧問となって経営に当たりますが、これが、三菱財閥の躍進の大きな原動力となるのは、皆さまご存じの通り・・・

先の小菅の船工場も、やがて三菱造船所の母体となり、花開きます。

さらに、炭鉱顧問時代に、横浜にあったビール工場の経営不振の立て直しにも尽力したりしてますが、この会社は、現在のキリンピールであります。

晩年は東京で暮らしながら、外国人であるにも関わらず勲二等旭日重光章という勲章まで授与されているのですから、幕末に大儲けした財産はなくなってしまったものの、彼が日本に残した業績は大したものですね。

その中でも、「追われる志士をかくまう」・・・ひょっとしたら、これが、その先の日本にとっての一番の先行投資だったかも知れませんね。
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2011年8月22日 (月)

吉崎の鬼面伝説…「嫁威し肉附きの面」

 

本日は、昨日の吉崎御坊つながりで思い出した「吉崎の鬼面伝説」嫁威(おど)し肉附(にくづき)の面のお話を・・・

・・・・・・・・・・

文明年間(1469年~87年)、蓮如(れんにょ)上人吉崎の道場にいた頃(昨日・8月21日参照>>)、近くの十楽(じゅうらく)という村に与三次という農民がおりました。

もとは、日山城主・山治部右衛門の家臣で吉田源之進と名乗っていましたが、日山城の没落後、十楽村に留まって百姓となって、という妻との間に二人の男の子をもうけて静かに暮らしておりました。

ところが、ある時、息子ともども流行り病にかかり、3人ともが亡くなってしまいます。

悲しみに暮れる残された妻・・・しかし、もはや亡くなってしまった人は戻りません。

こうなったら、先だった者への救いを願い、遠い将来、美しい浄土にて、ともに楽しく暮らす事を祈ろうと、清は決意します。

「幸いな事に、あの蓮如さまが吉崎におられる」
とばかりに、夫の命日に吉崎にまいり、上人の話に聞き入るうちにしだいに引き込まれ、いつしか無二の信者となっていきます。

しかし、この嫁の態度が気に入らないのが姑・・・なんせ、この姑は無類の邪険な人で、息子や孫が亡くなってもなお、「将来の事なんかクソ喰らえ!」てな考えの持ち主・・・

その姑の気持ちを察してか、清は、昼は姑のご機嫌をとりながら百姓としての田んぼや畑仕事に精一杯働き、夜にだけ吉崎詣りに・・・という生活を続けていきます。

しかし、どうしても、清の毎夜の吉崎詣りを止めさせたい姑・・・

「ひとつ、脅かしてやろう」
とばかりに、ある夜、先祖伝来の秘蔵の鬼の面を持ち出して、白髪の髪をふりみだした自身の顔につけ、身には白い帷子(かたびら・単衣)をまとって、草木の茂る小谷にて待ち伏せしました。

そうとは知らない嫁の清は、いつものようにいつもの道を、念仏を唱えながら吉崎へ・・・

やがて、爽やかな風が吹き通る小谷に差し掛かった時、突然、目の前に現われた白髪の鬼!!!

「キャー!」
と身の毛もよだつ恐ろしさではありましたが、
「食(は)まば食め、喰わば喰え金剛の、他力の信はよもやまじ…南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
と、一心に念仏を唱えながら、そのかたわらを抜けて吉崎へと向かいました。

「とりあえず、脅かしてやったわ」
と、満足した姑は、嫁が戻る前に家に戻って、何食わぬ顔で迎えてやろうと、急いで帰宅・・・

ところが、家に戻って、お面をはずそうとすると、どうした事か、お面が顔にくっついて離れません。

無理やり取ろうと力を入れると、顔の皮がはがれるように痛み、何ともできません。

「ここに嫁が帰って来たら、どないな言い訳をしよ…メッチャかっこ悪いやん。
こうなったら自殺しよか」

と、自害まで考えた姑でしたが、その頃には手足もしびれて思うようにう動かず、死ぬ事すらできませんでした。

やがて、吉崎より戻って来た清・・・すると、自宅には、あの小谷で会った鬼が!!!

Yosizakikimen4 すぐに気がついて
「お母さん、どないしはったんですか?」
と・・・

「あぁ、はずかしい」
と泣き崩れる姑・・・

さすがの姑も降参して
「小谷の鬼は、私で…」
と、すべての事を包み隠さず、ありのままに清に話しました。

「お母様・・・上人様がおっしゃるには、どんな者でも熱心に念仏を唱えれば、阿弥陀様は聞いてくださるとおっしゃっています。
さぁ、唱えましょう!」

と清・・・

生まれて初めて味わう恥ずかしさとともに感じた嫁のやさしさ・・・
姑は、やっと
「南無阿弥陀仏」
と、声に出しました。

すると、不思議な事に、その途端にお面はパタリと下に落ち、手足のしびれもなくなり、まるで夢から覚めたような心地よさ・・・

心入れ変えた姑は、以後、嫁とともに吉崎へ通うようになり、やがては彼女も無二の信者となりました。

・‥…━━━☆

現在、吉崎にある願慶寺は、蓮如の愛弟子・祐念坊(ゆうねんぼう)が開いたとされるお寺で、ここに、その問題の鬼面が残されています。

清と姑が「かくかくしかじか…」と、このお面を蓮如に差し出したところ、
「末代までのみせしめにせよ」と祐念坊に授けたのだそうで、そのお面は「嫁威肉附面(よめおどしにくづきのめん)と呼ばれています。

私ごとですが・・・
小学校の頃、たまたま訪れた旅行先の吉崎で、この話を聞いた時は、それはそれは夢に出てくるほど怖かったですが、

今では、話が納められている『願慶寺縁起』の、
「だから、日頃から、何事も悔い改めて念仏を唱える事が大事なのよ」
と締めくくるあたりを読んで
「見事な、PRコピーですな」
と感心してしまうという邪心あふれる大人になってしまいました。

ゴメンナサイ(*_ _)人…反省
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2011年8月21日 (日)

本願寺蓮如の吉崎退去と下間蓮崇

 

文明七年(1475年)8月21日、近畿での弾圧を逃れて越前の吉崎に滞在していた第8代本願寺法主・蓮如が、吉崎を退去しました。

・・・・・・・・・

浄土真宗の宗祖である親鸞(しんらん)(11月28日参照>>)の墓所であった京都の大谷廟堂(おおたにびょうどう)が、本願寺と名を改めて寺院となったのは第3代法主・覚如(かくにょ)の頃・・・それから50年余り後、第8代法主となったのが、本願寺中興の祖と称される蓮如(れんにょ)です。

蓮如は、御文(おふみ・自筆の手紙)を連発する事で、自らの教えをわかりやすく、かつ多くの人に伝え、社会的弱者や女性をターゲットにする事で、多くの信者を獲得し、これを機に、浄土真宗は日本一の大宗教集団へと発展していく事になります(2月25日参照>>)

しかし、もともと本願寺は、組織上は比叡山延暦寺の末寺・・・蓮如が独自の思想で独立した一宗を立てて大きくなっていく事を許せるはずもなく、寛正六年(1465年)1月、延暦寺の僧兵150人(300人とも)で以って、大谷本願寺を襲撃します。

やむなく蓮如は近江(滋賀県)金森に退去しますが、ここも、また襲撃され、一路、北陸へ・・・

やがて越前(福井県)吉崎に落ち着いた蓮如が、ここで布教活動を行うと、これまた、またたく間に信者が増え、文明三年(1471年)7月には防舎が完成(7月27日参照>>)・・・この吉崎御坊(ごぼう)を中心に、さらに信者の数が増えていく事になるのですが、当然の事ながら、そこには、農民だけでなく、地元に根付く地侍たちも入信する事になるわけで・・・

しかも、時代は応仁の乱の真っ最中・・・京都での合戦もさる事ながら、地元では越前(福井県)の守護・斯波義廉(しばよしかど)や、能登(石川県北部)の守護・畠山義統(はたけやまよしむね)、その配下の甲斐八郎朝倉孝景(たかかげ・敏景)など、東西入り乱れてのややこしい状態・・・

そんな中、加賀(石川県)でも、守護である富樫政親(とがしまさちか)が東軍につき、家督争い中の弟・富樫幸千代(とがしこうちよ)が西軍という形で京都での応仁の乱に参戦していたのですが、文明六年(1474年)、故郷の乱れっぷりに乗じて、兄・政親が、加賀全土を制圧すべく、本願寺門徒を味方につけて弟・幸千代を攻撃・・・勝利した兄・政親は、名実ともに加賀一国の守護となります(7月26日参照>>)

そのページにも書かせていただいたように、本願寺門徒と言っても、もはや農民だけでなく、多くの地侍たちが含まれた武装集団と化してましたから、彼らを味方につける事で、一気に勝利に導く事ができたわけです。

しかし、それは同時に、大きな問題もはらんでいました。

なんせ、「力がある」という事は、「上にたてつく」事もできるって事ですから・・・

「国人や地侍が本願寺の威勢を借りて、寺社に納めるべき年貢を納めよらへん!
そのために、神社仏閣では、まともな神事もできひん状態やがな。
幕府や守護に訴えてもいっこうにラチがあかんし・・・
こんな事、前代未聞、言語道断やで!」

と、グチをこぼすのは、白山信仰で有名な白山宮・・・

もはや、幕府や守護の威勢を越える状態になってしまった本願寺門徒たちに対して、やはり、そのまま見過ごすわけにはいかないのが政親・・・

弟との戦いの時に結んだ本願寺との同盟を破棄し、一転、門徒弾圧に乗り出したのです。

文明七年(1475年)3月下旬には、詳細はわからないものの、両者の間で大きな合戦があった事が記録されており、この時、戦いに敗れた本願寺門徒の多くが、越中(富山県)井波(いなみ)瑞泉寺(ずいせんじ・南砺市)に逃れたのだとか・・・

逃走した彼らが頼ったのは、やはり法主の蓮如・・・彼らは、蓮如に前面に立ってもらい、もう一度、富樫との和睦を結んでもらえるよう嘆願する使者を、吉崎の蓮如のもとに送りました。

ところが、この使者の応対したのが、下間蓮崇(しもつませんそう)という人物・・・

以前、後に石山本願寺の総大将として登場する下間頼総(しもま・しもつまよりふさ)のページ(12月9日参照>>)でも書かせていただきましたが、この下間という苗字は、親鸞の弟子となった蓮位房宗重(れんいぼうしゅうじゅう)を祖とする本願寺内衆(うちしゅう)の苗字・・・

しかし、実は蓮崇自身は、もともとは和田本覚寺の小僧で、途中から蓮如の教えを受けて側近になった人物なので、言わば新参者・・・なのに、その名前に蓮如の「蓮」の一字を賜り、内衆の姓である下間の苗字も与えられるくらいに才能を認められ、信頼されていたわけで、この吉崎御坊では蓮如の片腕となって活躍していたのでした。

ところが、この蓮崇が、何を思ったのか、彼らの願いを聞き入れるどころか、逆に
「上人さまは、“戦え!”と仰せです」
と、ウソの返事を伝えたのです。

そもそもは「過激な事はするな」信者の行動をたしなめていた蓮如さんですから、この時、その使者に直接会っていれば、おそらく和睦への道へと進んで行ったのでしょうが、蓮崇を信頼しきっていた蓮如は、この時、使者に会う事なく、任せっきりにしてしまったのです。

結局、蓮崇の言葉に扇動された彼らは、3カ月後の6月に再び、政親軍と交戦するも、またしても鎮圧されてしまいます。

この一件で「蓮崇のウソ」の話を知った蓮如・・・「北陸の門徒たちを鎮静化させるためには、自分がここを出よう」
と、五男の実如(じつにょ)本願寺を譲って隠居・・・そのまま吉崎を退去する決意をしたのです。

かくして文明七年(1475年)8月21日の早朝、船で旅立つ事になった蓮如が、海岸へ近づくと、船中に隠れるようにかがみこんでいる人影を発見・・・蓮崇でした。

Rennyosyouninedebubun600 「誰やねん!お前なんか、知らんなぁ」
と、キッツーイひと言とともに、蓮崇を引っ張りあげて、そのまま海へドボ~ンと投げ入れ、シカトしたまま、船は沖へ・・・蓮如さん、怒ってはります。

蓮崇は、海岸にひれ伏すように頭をつけ、ただひたすら泣いていたとか・・・

その後、畿内に戻った蓮如・・・明応五年(1496年)には、摂津・大坂に隠居所を建て、そこを住まいとしましたが、後に、その場所が、石山本願寺と呼ばれる一大拠点となる(8月2日参照>>)のは、皆さまご存じの通り・・・

一方、この一件で破門された蓮崇・・・時の実力者・細川政元(6月23日参照>>)を間に立てて、何度も詫びを入れますが、「俺が許しても、門徒が許さん」と、蓮如は、その詫びを拒否し続けました。

結局、蓮崇が許されたのは、明応八年(1499年)3月に蓮如が亡くなる(3月25日参照>>)直前だったのだとか・・・当の蓮崇は、その蓮如の死の3日後に、自殺をはかります。

ウソをついたために破門となり、何かと悪人呼ばわりされる蓮崇ですが、おそらく、彼の中には、蓮如を欺こうとか、裏切ろうなんて気持ちは毛頭なく、その時には、「これが、本願寺にとって最善だ」と思ってついたウソだったのでしょう。

3日後の自殺が、それを物語っているような気がします。

ところで、蓮如が何とか鎮静化させようとした北陸の一向一揆・・・皆さまご存じのように、それが鎮静化する事はなく、更なる第2幕が始まる事になるのですが、そのお話は、瑞泉寺に集まった宗徒が1戦交える2月18日のページでどうぞ>>
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2011年8月19日 (金)

榎本武揚率いる旧幕府艦隊…品川沖を脱出

 

慶応四年(明治元年・1868年)8月19日、榎本武揚旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱出しました。

・・・・・・・・・・・

ご存じのように、戊辰戦争は、慶応四年(明治元年・1868年)の1月3日に、江戸にてテロ行為を行う薩摩(12月25日参照>>)への討伐許可を得ようと、鳥羽街道伏見街道を大坂から京都へと向かっていた幕府の行列に、薩摩が砲撃した事で合戦の火蓋が切られ、鳥羽伏見の戦いと呼ばれます(1月3日参照>>)

しかし、すでに書かせていただいているように、実は、その1日前・・・
オランダ留学から帰国したばかりの榎本武揚(えのもとたけあき)が指揮する幕府戦艦・開陽丸(かいようまる)が、大坂湾上で薩摩の平運丸(へいうんまる)など3隻の軍鑑をとらえ、一斉砲火を浴びせて大勝利していたのです(1月2日参照>>)

おそらく、ここでの武揚は、幕府の海軍の強さを再確認するとともに、「これやったら、いける!」と思ったに違いありませんが、残念ながら、陸戦のほうは見事敗退・・・(1月5日参照>>)

そこで武揚・・・開陽丸を大坂湾に横付けし、反撃の秘策を胸に、大坂城にいる第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)のもとへと向かいます。

ところがドッコイ、その間にドラマのようなすれ違い・・・なんと、わずかの近臣だけを連れて大坂城を出た慶喜が、武揚のいなくなった開陽丸に乗り込んで出航・・・勝手に江戸へと戻ってしまうのです(1月8日参照>>)

完全に入れ違いに大坂城にやってきた武揚は、スカを喰らわされたウップンを晴らすかのごとく、大坂城に残っていた武器や什器などをはじめ、18万両の御用金までもを富士丸という船に積み込んで、やむなく出航・・・この富士丸には、ご存じ近藤勇土方歳三ら新撰組も乗船して、ともに江戸に戻りました。

その直後、大坂城は炎上し、戊辰戦争の初戦=鳥羽伏見の戦いは幕を閉じました(1月9日参照>>)

この鳥羽伏見の交戦中に、錦の御旗を掲げて官軍となった事を知らしめ、意気揚々の薩長は、やがて江戸へと迫ります。

そんな中で、官軍との徹底抗戦を叫ぶ者も多くいた江戸城内・・・江戸に戻ってすぐに海軍副総裁に任命された武揚も、「軍鑑で大坂を攻撃して畿内を制圧し、江戸城目前のところにいる官軍を挟み撃ちする」てな作戦を提案しますが、そんな抗戦派に立ちはだかったのが勝海舟(かつかいしゅう)・・・

1月23日に行われた江戸城での作戦会議(1月23日参照>>)の後、抗戦を避けて恭順姿勢による戦争回避を決断した慶喜・・・そんな将軍の決意を受けて実現したのが、あの勝海舟と西郷隆盛の世紀の会談でした(3月14日参照>>)

そこでの話し合いで、来たる4月11日に開城される事になった江戸城・・・

しかし、納得のいかない武揚は、その4月11日の夜、開陽丸以下、8隻の軍鑑を率いて、品川沖から館山沖へと退去してしまいます。

慌てて武揚の説得に向かう海舟・・・

江戸城が開け渡された以上、残るは、海軍の引き渡しと、今後の徳川家の行く末・・・

ここで、海軍の引き渡しをゴネてたら、徳川家への処分も、慶喜の処刑や家名の断絶なんていう最悪な事になりかねません。

「徳川家への処分」をチラつかせられたら、さすがの武揚も応じざるを得ず・・・軍鑑を、自らの指揮下に置きながらも、その場所は品川沖へと戻し、しばらく様子を見る事に・・・

やがて5月24日、徳川家の当主を未だ幼い徳川亀之助(家達)とする事と、駿河70万石への転封が決定します(5月24日参照>>)

何とか、徳川家は存続する事になった・・・おそらく、武揚も、この決定を待っていた事でしょう。
「これで、思う存分、ゴネられる」と・・・

ここで効いたのが、あの鳥羽伏見の戦いの最後に大坂城からパクって来た武器や什器や御用金・・・これらを軍資金に、軍鑑に燃料を詰め込み、密かに購入した武器弾薬を運び込み、新政府の目をかいくぐって市内に残る将兵を乗り込ませ・・・と、着々と脱走準備にとりかかります。

もちろん、これから向かうであろう東北で奮戦中の諸藩とも連絡をとりながら・・・
(江戸城が開城された事で戊辰戦争の舞台は東北に移っています。
 ●会津・白河口攻防戦
(5月1日参照>>)
 ●北越・朝日山争奪戦(5月13日参照>>)

Keioubosinsinagawasyukkou8 慶応戊辰秋八月品港出帆之図(函館中央図書館蔵)

かくして慶応四年(明治元年・1868年)8月19日の夜明け前・・・久しぶりに晴れ渡った空に、旗船・開陽丸から発せられた進軍ラッパの音が響き渡りました。

開陽丸に従うのは、回天(かいてん)蟠龍(はんりょう)千代田形(ちよだがた)(以上軍鑑)神速(しんそく)長鯨(ちょうげい)咸臨(かんりん)美嘉保(みかほ)(以上輸送船)合計8隻・・・月明かりに照らされた海を、一路、北へと向かいます

目指すは蝦夷(えぞち・北海道)ですが、まずは、頑張ってる東北の彼らのもとへ・・・

ところが・・・
この、旧暦の慶応四年8月19日というのは、新暦になおせば1868年の10月4日・・・残念ながら、思いっきり台風が近づいて来ちゃってました。
(戦国軍師のような天気予報士は同行してなかったのか?)

その日のうちに暴風雨に遭遇した艦隊は、開陽丸にえい航されていた美嘉保が沈没、観音崎で咸臨丸が座礁・・・その後、何とか動く残りの艦隊が、散り散りになりながらも、約束の仙台領松島湾に到着した時には、千代田形と長鯨以外は、皆、満身創痍・・・ボロボロのズタズタでの再会となりました。

そしてこの後、榎本艦隊は、血気盛んな東北の猛者(もさ)を加えて、さらに北へと向かう事になりますが、その後の榎本艦隊の活躍は、
●【榎本艦隊・函館を奪取】>>
●【蝦夷共和国の誕生】>>
●【宮古湾海戦】>>
で、どうぞm(_ _)m
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2011年8月18日 (木)

名将・氏郷から3代…断絶となった蒲生忠知の怖い話

 

寛永十一年(1634年)8月18日、伊予松山藩主で、蒲生家最後の人となった蒲生忠知が31歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

蒲生忠知(がもうただとも)は、陸奥会津藩主・蒲生秀行の次男として慶長九年(1604年)に生まれました。

そう、あの織田信長にも豊臣秀吉にも愛され、戦国の世にありながらも悪い噂などついぞ聞いた事の無い「戦国一のイイ人」としてご紹介した蒲生氏郷(うじさと)(2月7日参照>>)の孫にあたります。

そんなイイ人でありながらも武勇の誉れ高き名将であり、もし、氏郷が、秀吉よりも長く生きていたら、あの関ヶ原も無かったし、その後の豊臣の滅亡もなかったかも知れないとまで言われる人です。

その氏郷さんのページにも書かせていただきましたが、氏郷の父である蒲生賢秀(かたひで)織田家に忠誠を尽くしたイイ人(6月2日参照>>)・・・おそらく、この「イイ人」というのは蒲生家代々のDNAに組み込まれている物ではないかと・・・

って事で、個人的には、おそらく、この忠知さんもイイ人だったと想像するわけですが・・・ドッコイ、忠知さんには、奇妙な噂がつきまといます。

ただ、これらのお話は、それこそ噂の域を出ない物で、戦国から江戸を通じての、お決まりの暴君パターンの内容の物・・・冒頭に書かせていただいたように、蒲生家がこの忠知さんで終わっちゃう以上、もはや「死人に口なし」で、ある事ない事書かれていそうですので、あくまで、それを踏まえて、お話をお聞きくださいませ~

・‥…━━━☆

・・・と、先に書かせていただいたように、忠知さんは次男・・・なので蒲生家当主として会津藩を継いだのは、兄の蒲生忠郷(たださと)だったのですが、この兄が、わずか26歳で後継ぎもいないまま亡くなってしまい、蒲生家が断絶の危機に・・・

Gamoutadatomo400_2 ただ、幸いな事に、この二人の兄弟の母が、あの徳川家康の三女・振姫(ふりひめ)だった事から、幕府からの特別の計らいを受けて、弟の忠知が後を継ぐ事を許されたのです。

ただし、他の大名家ならお取り潰しのところを、さすがに、家康の孫と言えど、そのままというわけにはいかず、会津60万石から伊予松山藩24万石へと、半分以下の減封にともなうお引っ越しとなってしまいました。

こうして忠知が入った松山城(愛媛県松山市)・・・現在の松山城は、もともとはあの賤ヶ岳七本槍(4月21日参照>>)の一人・加藤嘉明(よしあき)が構築した城に、忠知が整備を加えた姿となっています。

この松山城の整備の手腕でもわかるように忠知は、聡明で善政をしく、なかなかの名君であったと言われます。

しかし、一方では、彼が造ったと言われる二の丸跡の庭園には、今も俎石(まないたいし)なる石が残っており、妊娠中の女性がこの石に触れると流産し、出産経験のない女性が触れると不妊になってしまう・・・などと言われ、しかも、夜になると、この石から妊婦や胎児のすすり泣く声が聞こえるとも・・・

それには、こんな逸話があります。

上記の通り、伊予に転封された後も、なかなかの名君と誉れ高かった忠知でしたが、なぜか世継ぎに恵まれない事が悩みの種でした。

ある時、配下にいた一人の笛の名人が、月明かりの下で笛を吹いていると、そこに天狗が現われ、
「ええ曲聞かせてもろて、ありがとうo(_ _)oペコッ
お礼にこれを授けるけど、絶対に中を見たらアカンで」

と、小さな箱を置いていったとの事・・・

笛の名手の家臣が、その話を忠知にすると、当然ですが、
「見たい!」
とのご所望・・・

しかし、天狗から「開けてはいけない」と言われている箱・・・

家臣がしぶっていると、イラついた忠知が
「貸さんかい!」と・・・

ゴチャゴチャもみ合っているうちに、箱が壊れてしまい、中からは1つの巻物・・・

それを開いてみると、そこには
「蒲生家 断絶」
の文字が・・・

この事件以来、気を病んでしまった忠知は、暴君へと変貌・・・妊娠中の女性を見ると嫉妬心が押さえきれない人となり、城下から臨月の妊婦を連れて来ては、かの俎石の上に縛りつけ、腹を裂いては胎児を取り出して殺したのだそうです。

そんな事をくりかえしながらも、やがて、一人の男の子を授かったと言われますが、その男の子も生まれつきの病気のせいで早世し、結局は、世継ぎがいないままの寛永十一年(1634年)8月18日に、忠知は31歳の若さで永眠・・・

死因は疱瘡であったとも言われますが、実際には不明・・・名将・蒲生氏郷の家系は、わずか3代で断絶し、終わりを迎える事になったのです。

ただ、先ほどもお話したように、この「妊婦の腹を裂いて…」という行為は、あの日本書紀の時代からある暴君ぶりを表現する話の定番(12月8日:武烈天皇参照>>)となっていますので、そのまま信じるには至りません。

思うに、彼が整備したとされる二の丸に、なんとなく俎のように見える平らな石があった事から、それにまつわる逸話として、後に創作された物でしょうね。

後の寛永十二年(1635年)に松平定行(家康の甥)が藩主となって松山城に入って以降、四国の親藩として明治維新を迎えるので、この松山藩へのヨイショの可能性大な逸話だと思います。

なので、たぶん、夜にすすり泣く声は聞こえないと思いますので、ご安心を・・・
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2011年8月17日 (水)

3000人のさらし首…信玄の志賀城攻略

 

天文十六年(1547年)8月17日、武田信玄に攻められた信濃志賀城笠原清繁が討死・・・志賀城が陥落しました。

・・・・・・・・・・

これまで何度が書かせていただいてますように、父・信虎を追放して(6月14日参照>>)甲斐(かい・山梨県)を掌握した武田信玄が、まず行ったのは、父の代からの悲願であった信濃(長野県)への進攻・・・

Takedasingen600b 天文十一年(1542年)6月の諏訪(すわ)を皮切りに(6月24日参照>>)伊那谷へ進出(10月29日参照>>)する一方で、佐久方面にも攻め込み、天文十五年(1547年)5月20日には内山城(長野県佐久市)大井貞清(おおい さだきよ)降伏させた信玄・・・

そのまま勢いに乗った信玄は、翌・天文十六年(1547年)閏7月、笠原清繁(かさはらきよしげ)が守る志賀城(同佐久市)を包囲したのです。

志賀城は、上信国境の寄石山(よせいしやま)から延びる尾根に築かれた山城で、なかなかの堅城・・・守る清繁も、その自然の要害に囲まれた鉄壁の城に、ある程度の自信があったのでしょうか、上野国平井城(群馬県藤岡市)にいた関東管領・上杉憲政(のりまさ)援軍を依頼し、籠城作戦をとる事にします。

しかし、金井秀景ら西上野の国人衆からなる援軍が碓氷(うすい)を越え、小田井原(長野県北佐久郡御代田町)あたりまで到着すると、信玄は、本隊を志賀城の包囲に残したまま、別働隊を小田井原に派遣・・・

8月6日、激戦の末、この援軍を蹴散らした信玄・・・一説には、この小田井原の合戦で武田軍が挙げた敵の首級は3000余りに達したのだとか・・・

その夜の事・・・
信玄は、これらの首級のうち、名のある武将の首は槍先にかざし、その他の平首は棚に並べて志賀城下にに晒したのです。

一夜明けて、太陽が降り注ぐ中、援軍の到着を今か今かと待つ志賀城内の城兵が目の当たりにしたのは、見下ろす城下に、おびただしい数の無残な首が並ぶという悲惨な光景でした。

これで、一気に戦意を失う志賀城内・・・

かくして天文十六年(1547年)8月17日(11日とも)、もはや命運は尽きたと覚悟を決めた清繁以下300余名は、決死の突撃を決行し、壮絶な討死を遂げたのです。

落城後には、城内に残っていた女性や非戦闘員、さらに城下に住む男女までもがことごとく生け捕りにされ、甲府へと連行されたと言います。

その後の彼らを待つのは死か、例え生きたとしても、男なら金山工夫などの過酷な肉体労働か、女なら宿場の飯盛り女か・・・いずれにしても、このように生け捕りにされた人々が人身売買の道具にされるのが、この時代の常でした。

そんな中の一人だった城主・清繁の妻・・・一説には憲政の娘だったとも言われるこの女性を、信玄配下の小山田信有(おやまだのぶあり)買い取って妾にしたというお話は、以前の大河ドラマでも描かれていましたね。

戦いの後、廃城となった志賀城には、今は小さな五輪塔が建ち、本丸周辺にわずかな遺構をしのばせるのみだという事ですが、つい先日書かせていただいたような名言を残す名将=信玄(8月7日参照>>)と同一人物とは思えない、今回のさらし首披露は、信玄ファンにも、ちとツライところだと思いますが、世は戦国ですから、きれいごとだけではやっていけないのも事実・・・

結局、6年もかかってしまった佐久攻略・・・それには、今回の信玄が行った仕打ちに対する地元民の恨みと反発が大きかったからだとも・・・

それこそ、当の信玄も、後になって、「ちと、やり過ぎた」と思ったのでしょうか?

永禄三年(1560年)には、北高全祝(ほくこうぜんしゅく)禅師を迎えて、佐久の龍雲寺を手厚く庇護したと言います。
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2011年8月15日 (月)

肥後細川家・存亡の危機~板倉勝該・刃傷事件

 

延享四年(1747年)8月15日、江戸城内での刃傷事件・細川宗孝殺害事件が起こりました。

・・・・・・・・・

時は、江戸幕府・第9代将軍・徳川家重の時代・・・

その日は、月例拝賀の式日で総登城の日・・・朝の8時頃から順々に、江戸城には、多くの大名や旗本たちが、緊張の面持ちで、続々登城していたさ中の事・・・

そのうちの一人が、大広間の廊下に人が倒れているのを見つけます。

近づいて見ると、その人は、低いうなり声をあげながら、必死で起き上がろうとする様子・・・さらによく見ると、周囲にはおびただしい血が!!!

「どないしはったんですか?」
と、慌てて駆け寄って抱き抱えると、頭と肩に、かなりの深手・・・

すると、そのケガをした男は
「俺は、熊本藩主・細川宗孝(むねたか)だ」
と名乗り、
「まったく見知らぬ者に、突然斬られた」
と証言・・・

当然の事ながら、殿中は大騒ぎとなり、すぐにすべての門にいた門番へ問い合わせ・・・すると、「この間、登城した者はいたけれども、下城した者は一人もいない」と・・・

つまり、「宗孝を斬った犯人は、まだ、城内にいる」という事・・・

即座に、城内をしらみつぶしに探したところ、(かわや)に隠れていた不審者を発見します。

不審者の定義は微妙ですが、おそらくは、血のついた刀を持ったままだったか、衣服に大量のかえり血を浴びていたか・・・とにかく、その者を引っ張り出して問い詰めたところ、素直に刃傷を白状し、自身の名を、旗本・板倉勝該(かつかね)と名乗りました。

勝該は、下総(栃木県)芳賀(はが)郡6千石を知行する板倉重大(しげもと)の養子となって板倉家を継いだ堀田正休の次男・重浮(しげゆき)の息子で、それまで、兄の勝丘が継いでいた板倉家を、前年の12月に、その兄の死を受けて、彼が、あとを継いだばかりだったのです。

しかしながら、勝該には、なにやら性格的に問題があったようで、「このままでは家内を治めていけないのでは?」と思った板倉家・本家の板倉勝清(いたくらかつきよ)が、勝該を廃して、別の人物に後を継がせようとしていたのだとか・・・

Itakurahosokawakamon_2 それを知った勝該が勝清に恨みを抱き、勝清を亡きものにしようと斬りつけた。

という事なのですが、上記の通り、斬った相手は細川の殿さま・・・実は、この板倉家の家紋が、細川家の家紋=九曜星紋にそっくりだった事から、この日、背中にあったその家紋を見間違えて、宗孝に斬りかかったのでした。

つまり、完全な人違い・・・

勝該は、そのまま水野忠辰(ただとき)に預けられ、8日後の23日に切腹、改易となりました。

一方、災難なのは細川家・・・

現在のような医療技術もない時代・・・もはや、その命が風前の灯なのはケガの状態を見ればわかります。

しかし、宗孝は未だ31歳の若さで、世継ぎもおらず、後継者も未定でした。

先日お話した豊島明重事件(8月10日参照>>)のように、未だ戦国が色濃く残った時代はとうに過ぎ、元禄赤穂事件(12月24日参照>>)以降は、殿中の刃傷沙汰は喧嘩両成敗が基本・・・

ただでさえ、何かしらのお咎めを受けるのに、そこに後継ぎもいないとなっては、肥後細川54万石は、お取り潰しになるが必至・・・

そんな窮地を救ったのが、事件の起こった時、たまたま近くにいたわせた仙台藩主・伊達宗村(むねむら)でした。

宗村は、まだ、宗孝の息がある事を確認し、
「とにかく、息のある間に、江戸藩邸に運び込み、手当をして、宗孝を1分1秒でも長く生きさせて、その間に、養子を立てて、その者に後を継がせる手続きをせよ
と指示したのです。

細川家では、早速、藩邸に宗孝を運ぶとともに、その日のうちに、弟の細川重賢(ほそかわしげかた)養子に迎え、幕府に届け出・・・

とは言え、実際には、残念ながら宗孝は、その日に亡くなってしまっていたのですが、それは、そこ、すでに藩邸に運び込んでしまっている以上、チョイとばかりのゴマかしはきくもんで、翌・16日になって、その死亡を届け出ました。

不幸中の幸いな事に、その頃には、すでに、この事件は「人違い」による物と把握していた幕府は、当然の事ながら、「細川家には罪は無い」との判断・・・何とか、無事、細川の家を守る事ができたのです。

以来、細川家では、それまで使っていた九曜星紋から、少し●の小さめデザインの家紋に変更し、さらに、それまでは、背中に一つ、両胸に二つ、両そでの前側にの、計・5つ紋だったのを、背後からも見えやすいようにと、両そでの後ろ側にも家紋を配置した「7つ紋」の特別な物にしたのだとか・・・

宗孝さんは、お気の毒でしたが、とにかく細川家が守られて、しかも、後を継いだ重賢がかなりの名君となって藩を立て直(10月26日参照>>)平成の世には総理大臣まで輩出したのですから、良かった良かった・・・という事ですね。
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2011年8月14日 (日)

徳川慶喜の参謀・原市之進

 

慶応三年(1867年)8月14日、幕末期に、幕府目付として活躍した原市之進が暗殺されました。

・・・・・・・・・

慶応三年(1867年)10月14日・・・ご存じ、大政奉還(たいせいほうかん)が行われました。

徳川幕府が政権を天皇に返上する・・・一見、徳川幕府の敗北宣言のようにも見える、この大政奉還ですが、実は、そうではない事は、このブログでも時折書かせていただいておりました。
2006年10月14日>>2011年11月22日参照>>

もはや、薩摩と長州には倒幕以外は見えなくなっていた時代、その上げた拳を引っ込ませるためには・・・

一旦、天皇へと政権を返上し、その天皇の下に、各大名家からの代表者による議会を設置し、その者たちによる政治を行えば、体系そのものは現在の幕府組織とほとんど変わらない議会という物で幕府が生き残る一方で、政権は返上してしまっているので薩長が幕府を倒すための大義名分は無くなる・・・

つまり、幕府が生き残るための大政奉還だったわけです。

思えば、この時点では、完全に、倒幕あるのみの西郷隆盛大久保利通を、将軍・徳川慶喜(よしのぶ)翻弄した感さえあります。

しかし、その後、まんまと西郷らの挑発に乗って(12月25日参照>>)突入してしまった鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)では、負けが決まったと同時に、わずかな側近だけを連れて、単身、江戸へと戻ってしまう慶喜・・・(1月6日参照>>)

確かに、批判覚悟の敵前逃亡には、慶喜なりの言い分や考えもあったのでしょうが、見事なタイミングで大政奉還を決断した鮮やかさに比べて、その後の行動は、何となく尻すぼみの体たらくな印象はぬぐえません。

実は、この慶喜の中の格差に、大きく影響していたのが、原市之進(はらいちのしん)という人物の死・・・ではないか?と言われています。

つまり、大政奉還までのシナリオまでは、すでに市之進が慶喜にアドバイスしていたものの、その先を決めないまま市之進が亡くなってしまったため、その後は、まるで空中分解するがのごとく、慶喜の態度がフラフラするようになった・・・という事です。

Haraitinosin400 それほどまでに慶喜の信頼を受けていた原市之進・・・

彼は、水戸藩の勘定奉行を務めた原雅言(まさこと)の次男として生まれ、藩校の弘道館に学んだ後、江戸の昌平坂学問所を経て、安政二年(1855年)の26歳で帰国してからは、弘道館の先生をするほどの優秀さでした。

ご存じのように、もともと水戸藩というのは、「水戸学」という尊王思考の強い場所・・・まして市之進は、その水戸学のリーダー的存在だった藤田東湖(とうこ)(10月2日参照>>)の従兄弟に当たりますから、それこそ、もともとはバリバリの尊王派でした。

幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら)(3月15日参照>>)ロシアとの交渉のたに長崎に行った時には、その従者として付き添い、勤王の志士たちとも大いに交わって、むしろ、尊王派の若きリーダーとして期待される人物だったのです。

一説には、あの桜田門外の変(3月3日参照>>)坂下門外の変(1月15日参照>>)影で演出したのは彼だったとも・・・

しかし、そんな市之進が、文久三年(1863年)に慶喜の側近となり、その補佐を務める事となります。

もともと、その慶喜が水戸藩出身だった縁なのでしょうが、翌年の元治元年(1864年)には、暗殺された平岡円四郎の代わりとして側用人となり、慶応二年(1866年)には幕臣に取り立てられます。

それこそ、慶喜からの信頼の証と言える出世ですが、それには、過去の尊皇派から一転、慶喜の側近となったからには、主君に忠誠を誓い、「出来る限りの事をやってのける!」という市之進なりのポリシーがあったのでしょうが、当然の事ながら、この転身ぶりを快く思わない者もおり、幕府内に敵が多い人でもありました。

ところで、第2次長州征伐の真っ最中だった慶応二年(1866年)7月、第14代将軍の徳川家茂(いえもち)が大坂城で亡くなった(7月20日参照>>)事を受けて、翌・8月には、慶喜が徳川宗家を継ぐのですが、これまでの例なら、徳川宗家を継ぐと同時に、そのまま将軍職につくのが一般的でした。

ところが、慶喜が将軍に就任するのは、それから半年後の12月5日・・・この動乱の時期に、実は半年間も将軍が空白になっていたのです。

実は、これも市之進の案・・・
「長州征伐の真っ最中に将軍職を継ぐやなんて・・・貧乏くじもえぇとこですやん!
そないに、自分を安売りしたらあきません。
もっと引っ張って引っ張って、幕閣や大名たちに、“どうか
(将軍に)なってください”って言わしてからにしなはれ」
と・・・

今後、この幕府存亡の危機に相対するには、将軍として、権力を行使する機会も増えるはず・・・その時のためにも、幕府の基盤をできるだけ強化せねばなりませんから、望まれてリーダーとなった事を強調しておく事に越した事はないわけです。

そんな市之進は、あの勝海舟の事が大嫌いで、海舟も市之進が大嫌い・・・

しかし、後の海舟の回顧録では、「陰険で大嫌いやったけど、頭のええヤツやった」と、自分大好きでめったに人を褒めない海舟が彼を褒めるあたりは、やはり相当な人物だったという事なのでしょう。

ただ・・・やっぱり敵は多かった・・・

慶応三年(1867年)8月14日、自宅にて、仲間であるはずの幕臣・鈴木豊次郎依田雄太郎によって暗殺され、市之進は38歳という若さでこの世を去りました。

『昔夢会筆記(せきむかいひっき)によれば、この暗殺劇を裏で指示したのは、あの山岡鉄舟だったとか・・・

慶喜にとって、正確な情報を届け、正確な判断のもとに助言をくれる腹心・・・最も信頼できる補佐役を失った慶喜が、この後からフラついて見えるのは、おそらく、私だけではないはずです。

助けもするけど、苦言も呈す・・・良きリーダーには、このような側近がいなくてはならなのは、いつの世も同じですね。
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2011年8月12日 (金)

北条早雲~悲願の相模制覇に向けて

 

永正九年(1512年)8月12日、北条早雲相模岡崎城を攻められた三浦義同が住吉城に敗走しました。

・・・・・・・・

かつては、美濃(岐阜県)斉藤道三とともに、戦国下剋上の象徴的人物とされていた北条早雲(そううん)こと伊勢新九郎盛時(もりとき・今日は早雲と呼ばせていただきます)ですが、最近では、伊勢の無名の素浪人という過去のイメージは崩れ、すでに応仁の乱の頃から京都に太いパイプを持つ品格溢れる教養人であり、関東への進出も、京都の幕府の後押しがあった・・・なんて事も言われています。

Houzyousouun600 とは言え、早雲が、正史に登場するのは、あの伊豆討ち入りのわずか1年前というのは事実で、例え、それまで水面下で動いていたとしても、そこまで歴史に残らなかった一武将が、その後、100年の長きに渡って関東一円を支配する北条氏の祖となる・・・しかも、戦う相手は一戦国大名ではなく、幕府公認の公方や管領なのですから、そのスター的魅力がかすれるなんて事はありません。

明応元年(1492年)の記録に、奉公衆(軍事のための将軍の直臣)の一人として歴史に初登場する早雲は、先にも書かせていただいたように、その翌年の明応二年(1493年・1491年説もあり)10月に、足利将軍家の支族で堀越公方を名乗っていた足利茶々丸を襲撃し、堀越公方を滅亡させます(10月11日参照>>)

これが「伊豆討ち入り」と呼ばれる戦いですが、内輪モメでゴチャゴチャしてたとは言え、室町幕府の正式な役職である公方を、大名でもない一武将が倒して、伊豆という場所を奪っちゃったワケですから、これを戦国の幕開けと考える人も少ないないようです。
(アンケート企画「あなたが思う戦国の幕開けとは?」の結果発表も見てネ!>>)

さらに、明応四年(1495年)2月には、詐欺まがいの手法によって小田原城を手にする早雲・・・(2月16日参照>>)

とは言え、このあたりの早雲の記録は、まだまだ曖昧で、その年代や季節にズレがあるのも確かで、その細かな内容となれば、もっと疑わしい物なので、そこンところは今後の新たな発見に期待するとして、ともかく、現在のところ、文亀元年(1501年)頃までには、小田原城も手に入れて堀越公方も滅ぼして、伊豆一帯の支配を強固な物にしていたのであろうとされています。

そんな中、一方で繰り広げられていたのが、その公方の補佐する役割である関東管領職の奪い合い・・・20年近くに渡った山内(やまのうち)上杉家扇谷(おうぎがやつ)上杉家両管領家の争いは、いつしか山内家は旧敵の古河(こが)公方と結び、扇谷家は今川氏親(うじちか)やその配下の早雲を頼るようになり、やがて永正元年(1504年)9月の立河原の戦いへ・・・(9月27日参照>>)

どっちが勝ったのか?負けたのか?・・・

結局は、勝敗もウヤムヤな立河原ですが、この戦いで、はっきりとわかった事が一つ・・・「早雲のほうが、俺ら上杉より強いんちゃう?(゚ロ゚屮)屮と上杉家が思った事・・・

そう、彼らが同族同志でウダウダやってる間に、どんどん力をつけて来た早雲・・・このままではヤバイ!とばかりに、両上杉家は、その同盟関係を復活させ、ともに早雲を警戒する立場をとるようになったのです。

上杉さん、ちょっと気づくの遅かったかも・・・怖いのは、もはや関東の早雲だけではありませんでした。

永正四年(1507年)8月には、越後の守護代・長尾為景(ながおためかげ)が守護の山内上杉房能(ふさよし)を死に追いやって実権を握り(8月7日参照>>)、さらに永正七年(1510年)には、房能の兄で山内上杉家・当主の上杉顕定(あきさだ)までを襲撃して殺害・・・

しかも、それに呼応するかのように、上野(こうずけ・群馬県)では、かつて山内上杉家とモメにモメてた長尾景春(かげはる)(5月13日参照>>)再び反旗をひるがえし武蔵(東京都の一部)では扇谷上杉家の家臣・上田政盛挙兵(7月11日参照>>)・・・さらに、関東各地でも挙兵が相次ぎます。

しかし、さすがは上杉・・・ここは両家が手に手を取って何とか踏ん張ります。

この時、各地の様子をうかがうようにしていた早雲でしたが、混乱のとばっちりで高麗寺山城を両上杉の連合軍に襲われ、少々の撤退を余儀なくされます。

この結果・・・未だ両上杉家を相手にするのは時期尚早とみた早雲は、ひとまず、武蔵への進出を棚の上に置く事として、扇谷上杉家・当主の上杉朝良(ともよし)と和睦し、その矛先を相模(さがみ・神奈川県)の全土制覇に向けるのです。

今度の相手は、相模の守護・三浦義同(よしあつ・道寸)・・・扇谷上杉家出身で、三浦氏に養子に入っていた人物。

しかし、以前もどこかで書かせていただいたように、石橋を叩いても渡らないほどの慎重派の早雲・・・すぐにが動かず、とにかく時を待ちます。

いや、慎重派の早雲にしたら、こんなの、ほんのまばたきの間だったかも知れない永正九年(1512年)・・・あの両上杉家が、再びモメはじめます。

このあいだは、未だ時期尚早だと思ったさすがの上杉も、両家が分裂したら話は別・・・

8月に入って、早速、朝良との同盟破棄を表明した早雲は、永正九年(1512年)8月12日、義同が城主をつとめる相模岡崎城(神奈川県伊勢原市)を攻撃しました。

Houzyousouunsagamicc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

早雲の事ですから、おそらくは準備万端整えての挙兵・・・義同はたまらず、三浦半島の付け根にある住吉城へと敗走します。

その勢いのまま鎌倉へと入った早雲は、住吉城の手前に玉縄城(神奈川県鎌倉市)築城しはじめます。

もちろん、これは前方にある住吉城を攻めるための付け城ですが、そのワリには何重もの曲輪(くるわ・土塁のある広場)に囲まれた堅固な本格仕様・・・

そう、実は、この玉縄城は、後方にある武蔵を意識しての城・・・一旦、棚の上にあげた武蔵をいずれ攻める際に有利に展開できるよう、先の先を見据えての築城だったのです。

翌・永正十年(1513年)は、明けてからすぐに行動開始・・・1月も終わる頃に、かの住吉城も陥落させた早雲は、とうとう義同を、半島の先端の新井城へと追い詰めます。

しかし、さすがは早雲・・・ここからも、慌てず騒がず・・・慎重に確実に・・・「半島に突き出した天然の要害である城を相手にするには」とばかりに持久戦へと持ち込みます。

海から兵糧を補給しつつ籠城戦を決めこむ三浦勢ですが、一方の早雲も、新井城の援軍として駆けつけた太田資康(すけやす・道灌の嫡男)を討ち果たし、徐々に、形勢を有利にする事を怠りません。

この新井城が陥落して、早雲が相模制覇の悲願を達成するのは3年後の事・・・

そのお話は、
4年も前の記事で少々内容もかぶってますが、2007年7月13日【新井城の攻防!北条早雲・相模を制覇】でどうぞ>>
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2011年8月11日 (木)

三遊亭円朝と「怪談・牡丹燈籠」

 

明治三十三年(1900年)8月11日、明治時代に落語家として活躍し、落語界の中興の祖とも言われる初代・三遊亭円朝が71歳でこの世を去りました。

・・・・・・

 

天保十年(1839年)に初代・橘屋圓太郎(たちばなやえんたろう・初代圓橘)の息子として江戸湯島に生まれた三遊亭円朝(さんゆうていえんちょう・圓朝)は、早くも7歳で初高座を経験し、その後もみるみる昇進・・・

Sanyuuteientyou500_2 とにかく噺がうまく、あまりの技術の高さに、周囲の落語家からの嫉妬を受け、彼の得意とする演目を、次から次へと先廻りして演じられて舞台を妨害される・・・なんてイケズも受けたのだそうです。

しかし、天才というものは、違うもんですね~

逆境を、逆手に取って
「ほんじゃ、誰もできない演目をやればいい!」
とばかりに、次から次へと、自らが創作した新作落語を発表して、更なる拍手喝采を浴びたのだとか・・・

そんな円朝が最も得意としたのは、お笑い系の話ではなく、人情噺怪談噺といった物・・・それこそ、その後の落語の形態を変えるほどの、見事な牽引ぶりを発揮して、「中興の祖」と称されるようになったのです。

中でもよく知られているのは『怪談・牡丹燈籠(ぼたんどうろう)・・・

このお話は、『四谷怪談』(7月26日参照>>)『番長皿屋敷』(7月29日参照>>)とともに日本三大怪談と称されるほどの有名なお話で、ドラマや映画として数多く描かれてきましたが、四谷怪談や皿屋敷が、深い怨念のもとに、言わば復讐する形で加害者のもとに登場するのと違って、この牡丹燈籠は、「叶わなかった恋を成就させたい」と願う、切ない乙女の恋心という事で、他の2作品とは、少し趣が違っています。

もともとは中国のお話だったというところから、なんとなく雰囲気が違ってみえるかも知れません。

・‥…━━━☆

ある時、萩原新三郎というイケメン浪人者が、知り合いの医者のもとを訪ねたところ、そこに治療に来ていた17歳のお露という女性に出会い、二人はお互いに一目惚れ・・・

しかし、新三郎はしがない浪人で、彼女は武家のお嬢様・・・会いたくても会えぬ日々が続きます。

そんな中、ある日の夜に、新三郎が一人家にいると、遠くから、カラン…コロン…と、家に近づく下駄の音・・・

気になって外に出てみると、そこには、美しい牡丹の花が描かれた燈籠を手に持つ女中のお米と、その後ろには振袖姿も艶やかなお露・・・

「こんな夜更けにどうしたんですか?」
と新三郎が聞くと、
「どうしても会いたくなって、こっそり会いに来ました」
と、お露・・・当然のなりゆきとばかりに、その夜、二人は新三郎の部屋で結ばれます。

それからというもの、お露は毎夜々々、新三郎のもとを訪ねてきます。

そうなると、いつしか近所の人々にも、なんとなく知れ渡るもの・・・一人暮らしのはずの新三郎の部屋から、毎夜々々聞こえて来る楽しそうな話声に興味を持った長屋の連中が、ふと興味本意で部屋の中を覗き込むと、新三郎が楽しそうに話し込んでいる相手は、なんとガイコツ・・・

そう、実は、新三郎に恋こがれながらも、会えぬ苦しみに打ちひしがれたお露は、恋わずらいとなり、やせ細ったあげく、すでに焦がれ死にしていたのです。

幼い頃から彼女の世話をしていた女中のお米も、その後を追うように自殺していて、二人は、もう、この世の人ではなかったのです。

そうとは知らず、毎夜逢瀬を重ねる新三郎は、みるみるうちに痩せていき、心配した近所の人たちが、新三郎に、すでにお露さんが亡くなっている事を告げ、「このままでは死人にとり殺されてしまうから・・・」と、お坊さんに頼んで、家の周囲にお札を貼って、霊が入って来れないようにします。

さすがにお露大好きの新三郎も、相手が幽霊となると、ちと怖い・・・

その夜、やはり、いつものように、カラン…コロン…と下駄の音・・・扉の前で、下駄の音が止まったかと思うと
「新三郎さま・・・なぜ、このような事を・・・開けてくださいまし!」
と懇願するお露の声・・・

ドラマなどでは、結局、「たとえ死人でも、やっぱり、お露が好き!」と、情にほだされた新三郎が、お札をはがして、お露を迎え入れるというパターンもあるのですが、落語の原作では、お露が、伴蔵という者に大金を支払って、お札をはがしてもらい、家の中に入るという事になってます。

やがて、しらじらと夜が明ける頃、お米の照らす牡丹燈籠の後には、お露と、そして、その後ろをついて行く新三郎の姿・・・

そのまま行方知れずとなった新三郎は、お露の墓の棺桶の中、すでに白骨となっているお露と抱きあった姿で死んでいるところを発見されます。

・‥…━━━☆

と、まぁ、こんな感じですが、円朝の落語では、ここに、お露の実家である飯島家のお家騒動や、継母の浮気などが絡んで、もっと複雑なお話になっているのですが、そこンところは、実際に落語をお聞きになるか、書籍などを読んでお確かめください(けっこう長いですので)

お家騒動や不倫の果てに、それぞれが「邪魔者を消そうか」と画策するあたりは、ひょっとしたら、純粋な恋のみに生きる幽霊よりも、今生きてる人間のほうがよっぽど怖いと感じるかも知れません。
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2011年8月10日 (水)

豊島明重の武士の一分…江戸城刃傷事件

 

寛永五年(1628年)8月10日、江戸城内での殿中刃傷事件・豊島明重事件が起こりました。

・・・・・・・・・・・

事件の名前にもなっている加害者の豊島明重(としまあきしげ・断家譜では明満・・・

その家系は平安末期から続く武蔵国(東京都の一部)の名族でしたが、戦国の初めにあの大田道灌(どうかん)(4月13日参照>>)敗れて没落・・・その後、明重の父と兄が、豊臣秀吉小田原攻めにおける忍城攻防戦(6月16日参照>>)に参加して活躍し、北条滅亡後に関東にやって来た徳川家康に気に入られた明重が、その息子で2代将軍となった徳川秀忠小姓となり大坂の陣で活躍・・・3代将軍・徳川家光のもとでは、目付という役職にありました。

一方、今回の事件で被害者となったのは井上正就(まさなり)・・・

正就の母が、秀忠の乳母であった事から、彼もまた早くから秀忠に仕え、大坂の陣で武功を挙げた事から、奉行を経て、元和八年(1622年)には老中となっていました。

そんな二人は、明重が天正七年(1579年)、正就が天正五年(1577年)生まれと、ほぼ同年代だった事もあり、いつしか、大のなかよしとなります。

お互いの屋敷を行き来しては、酒など酌み交わしながら、友情を深めていく二人・・・

ある時、いつものように正就の屋敷を訪ねた明重・・・そこに、正就の嫡男の正利が挨拶に来た事から、話題は、その正利の嫁取りの話に・・・

実は、明重には、正利にはちょうどお似会いの年頃の娘を持つ友人がおり、そちらの娘の縁談のほうも思案していたところだったのです。

それは、大坂町奉行嶋田直時の娘・・・なかなかの美人でもあるし、身分的にもちょうどつり合いがとれます。

この話を持ちかけられた正就のほうも、大乗り気で、話はとんとん拍子に進み、明重は仲人を頼まれます。

ところが、この話が周囲に知れわたるようになると、そこに「待った!」をかけた人物が・・・

Kasuganotubone500a それは、今や大奥を牛耳る家光の乳母・春日局(かすがのつぼね・お福)でした。

彼女は、老中と大奥のつながりを強くするためにも、正就の息子の正室には、大奥派閥にドップリ浸かった者の身内から選びたいと常々思っており、しかも、もうすでに、年頃の娘をピックアップしていたのです。

それが、出羽山形藩主・鳥居忠政(ただまさ)の娘・・・

やがて、春日局から正就のもとに「上意」と称して、正式に縁談が持ち込まれると、さすがの正就も話を断わり切れず、明重との縁談の方を反故(ほご)にして、春日局の縁談の方を決めてしまったのです。

しかも、明重が、嶋田直時の後任として、大坂町奉行になるはずだった話もパァに・・・

明重の面目丸潰れです。

そもそも彼は、ものすご~く剛直な性格・・・いわゆる、武士のバイブル『葉隠』(10月10日参照>>)にある「武士道とは死ぬ事と見つけたり」を地で行くような人・・・

この事を、「しゃぁないな~」受け流せる人ではなかったのです。

かくして寛永五年(1628年)8月10日、その前日の夜に、自らの決意を妻に語った明重は、いつもと変わらず登城し、正就の登城を待ちました

そして、江戸城西の丸の廊下ですれ違う二人・・・

すれ違いざまに、「武士に二言はないはずやろ!」と叫んだ明重は、即座に刀を抜いて正就に斬りかかりました。

逃げる正就・・・追う明重・・・

2太刀目の斬り込みが、見事、正就をとらえ、彼はその場で息絶えました。

 

二人を止めようと、慌てて駆け寄った青木忠精に背後から組かかられた明重は、それを振り払うかのようにして脇差を取り出してその場で割腹・・・その忠精もろとも、自らの腹を貫いたのです。

明重の腹を貫いた脇差は、背中を抜け忠精の命も奪いました。

ただし、正史には、その場では取り抑えられ、翌・8月11日に改易の処分となった後に切腹した事になっています。

こうして、3名の死を以って幕を閉じたと豊島明重事件呼ばれる刃傷事件・・・いや、その3カ月後に、責任を感じた嶋田直時が自刃するので、亡くなったのは4人ですね。

とは言え、この後、何度か起こる江戸城内の刃傷事件とは、少々、その後の処分が違っています。

なんせ、処分されたのは、豊島家の嫡子・吉継のみが切腹となっただけで、一族にはお咎めなし・・・もちろん、被害者の井上家もお咎めなし・・・

・・・というのも、未だ寛永五年という年代は、まだまだ戦国の気質という物が色濃く残っていた時代で、老中・酒井忠勝も、
「遺恨をそのままにしないのも武士道の一つ・・・これを厳罰にしたならば、武士の意地が廃れて百姓町人と同じという事になってしまう」
と、むしろ明重の行為を賞賛して、寛大な処置をするように進言したという事ですから・・

後の元禄赤穂事件の発端となる刃傷・松の廊下(3月14日参照>>)とは、その武士の一分も、かなり違っていたわけですね。

江戸約300年という長い時代・・・武士道という物だけを見ても、ひとくくりにはできない様々な変化があったようです。
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2011年8月 9日 (火)

真夏の夜の怪談話6…灯明守の娘in山崎

 

立秋も過ぎ、暦のうえでは秋ですが、まだまだ暑いですね~~

ではでは、今宵も、納涼怪談話と参りましょう!

本日は、大阪は山崎(三島郡島本町)・・・織田信長本能寺に倒した明智光秀と中国から戻った豊臣(羽柴)秀吉が戦った、あの天王山の麓に伝わる「灯明守(とうみょうもり)の娘」というお話です。

・・・・・・・・・・

今も現存する離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)・・・古くからあるこの神社には、その昔、灯明守という神様にお供えするともし火の番をする係のおじいさんがいました。

毎日、日が暮れると、神社の前に建つ背の高い燈籠に灯りをともし、一晩中、灯りが消えないように油の加減を調整する係なのですが、離宮八幡宮には、もう一つ、淀川の向かい側にある八幡(やわた)にも大きな燈籠があって、そちらには、毎日渡し舟に乗って灯りを灯しに行くという、けっこうハードな仕事です。

しかも、この灯りは、神様のためだけでなく、夜の暗い淀川を船で行く人たちの道しるべにもなっていて、大変役だっていたのですが、おじいさんも、もう若くは無く、北風の吹く寒い夜などは、とても身が持たない状況でもあった事から、時々は、おじいさんの孫娘が、仕事を手伝いながらも、何とか、毎夜欠かさず、灯明を守る日々でした。

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離宮八幡宮への行き方&周辺の見どころは「本家HP:歴史散歩・天王山」で紹介しています>>

ところが、そのおじいさんが、ある時、ポックリと亡くなってしまいます。

一人残された孫娘は、おじいさんの代わりに灯明守の仕事を続ける事になりますが、この孫娘が、実は、絶世の美女・・・「都でも、これほどの美女にはそうそうお目にかかれない」と、皆が噂するほどの美しさだったのです。

おじいさんの仕事を継いだ孫娘は、おじいさんに代わって、10日に1度の割合で、町の油問屋に油を買いに行くのですが、早速、この油問屋の若旦那が彼女のとりこに・・・

「そんな仕事は、ウチの下男にやらせるから嫁にけぇへんか?一生遊んで暮らさしたるで~」
と誘いますが、彼女には、すでに将来を約束した恋人がおり、今は遠くで働いているものの、いずれ一緒になろうと言い交わしていましたから、そんなお誘いは丁重にお断り・・・

なかなかのイケメンで金持ちだった若旦那は、これまでフラれた経験などなく、初めて思い通りにならない女を目の当たりにして、彼女に恨みを抱くようになります。

一方、この離宮八幡宮にいた若い神主も、彼女の事が好きになり、毎夜、灯りをともしに来る彼女を誘いますが、やっぱりダメ・・・

そして、この若い神主も、「この八幡宮のおかげで飯が食えてるくせに、ワガママな女やで」彼女を憎みはじめます。

さらに、毎日向こう岸まで運んでくれる渡し舟の船頭も・・・舟の上でその思いをコクりますが、やっぱり断わられ、この船頭も、彼女を憎らしく思うようになるのです。

やがて、この3人は、ふとした事から、お互いが彼女に思いを寄せながらもフラれた事を知るようになると、3人で意気投合・・・皆で、彼女をおとしいれる相談をするのです。

そして3人は、毎夜、彼女がつけた大燈籠の灯りを消して回るというイタズラをやりはじめます。

冒頭に書かせていただいたように、この燈籠の灯りは淀川を上下する船頭たちの目印にもなっていましたから、そんな船頭たちから、離宮八幡宮へ「この頃、ず~~っと灯りがともってないぞ!」っとクレームの嵐・・・

まさか、自分の部下がイタズラに関わってる事など知るよしもない八幡宮の老神主は、孫娘を呼び出して、「仕事をサボらないように」と注意します。

何が何やら、身に覚えのない娘は弁明しますが、実際に灯りが消えている事は事実・・・しかたなく、その夜から、何度も見回りをする彼女ですが、つけたばかりの灯りが家に帰る頃にはもう消えている・・・という事のくりかえしで、もう、疲れ果ててしまいます。

そして、いつしか・・・
「燈籠の灯りが消えるのは、灯明守の娘が、わざと消して、余った油をコッソリ売って、ウラで大儲けしとるんや」
なんて噂がたつようになります。

もちろん、この噂の出どころも、あの3人組・・・

やがて話がどんどん大きくなって、とうとう、都から取り調べの役人がやって来て、娘を取り調べる事になるのですが、例の3人は、
「娘が灯りを消してるのを見た」とか、
「油を盗んでいるところを目撃した」とか、
「コッソリ、油を売ってるのを見た」とか、
自らが証言者となって、彼女を追い込むのです。

もちろん、娘は泣きながら無実を訴えますが、お金持ちの問屋の若旦那やら、神主やらの証言に比べて、身分の低い彼女の弁明などは信じてもらえるはずもなく、「神様を愚弄した罪は重い」として、淀川の河原にて斬首される事に・・・

娘の事をよく知る人たちは、当然、彼女がそのような悪い事をする娘ではない事を知っていましたから、「可哀そうに・・・」と涙を流しましたが、もはや、どうしようもなく・・・娘は、河原の露と消えました。

それからの事です。
山崎や八幡では、不思議な事が起こりはじめます

死んだ娘の代わりには、縁もゆかりもない中年の男が灯明守の仕事を引き継いでいたのですが、彼が、夕暮れ、灯りをともそうと山崎の燈籠に向かうと、不思議な事に、もう灯りがついているのです。

しかも、ふと向こう岸に目をやると、すでに八幡の燈籠にも灯りがついています。

それは、次の日も、そして、また次の日も・・・

そうなったら、恐ろしくなって来るのが人の常・・・中年男は、慌てて離宮八幡宮の老神主に相談・・・未だ、事情を知らない老神主は、「これはキツネかタヌキの仕業に違いない!」とばかりに、灯明守の男と若い神主に見張りを命じます。

その夜・・・草むらに隠れて見張っていた二人でしたが、その日に限って時刻になっても灯りはともらず・・・もはや、「我等に恐れおののいたか!」とばかりに、若い神主が草むらから出て帰ろうとすると、突然、大燈籠に灯りがともります。

「んな、アホな!」
と、若神主が、燈籠に近づいた途端
「ひゃぁ~~助けて~~」と悲鳴・・・

続いて草むらから出て来た灯明守の中年男が、悲鳴をあげた若神主のほうを見ると、なんと、彼の周りを不気味な炎の玉のような物がグルグル回っています。

よく見ると、それは炎の玉ではなく、血みどろの女の生首・・・宙を舞うその生首が、口からゴゴーと炎を吐きだしながら若神主に襲いかかっていたのです。

「わ悪かった・・・謝るから命だけは助けてくれ!」
そう、その生首は、無実の罪で処刑された孫娘の首でした。

娘の生首は、謝りまくる若神主の首筋に噛みついたかと思うと、一気に噛み殺してしまいました。

その様子をみていた中年灯明守も、思わず「助けてくれ!」と叫びましたが、彼女の生首は、新しい灯明守には目もくれず、そのまま、炎を吐きながら、淀川の水面を横切ったかと思うと、向こう岸の八幡の大燈籠の回りをグルグル旋回し、吐きだした炎で、燈籠に灯りをつけた後、どこへともなく飛び去って行ったのです。

それからというのも、毎夜、どこからともなく現われた生首が、両岸の大燈籠に灯りをともしては消え去るようになり、いつしか、誰が、何人が見てようが現われるようになり、目撃者の数も日に日に増えていきました。

やがて、あの船頭が、淀川を航行中に娘の生首に襲われて命を落とします。

最後に残った若旦那・・・「今度は自分の番だ!」と、怖くなり、河内にある親戚の家に身を隠しますが、なんと、娘の生首は、淀川づたいに河内まで飛び、この若旦那も喰い殺してしまいました。

それでも、なお、大燈籠の灯りがひとりでにつく現象はおさまらず、山崎や八幡に住む人々は恐れおののき、夕方になると皆、家の雨戸をピッシリと閉めて、中に閉じこもるようになります。

そうなると、当然の事ながら、あちらからこちらから、真相を知る人々の証言が出始め、やがて、娘が無実の罪であった事、彼女をおとしいれたのが、死んだ3人である事などが明らかになっていきました

真相を知った老神主は、
「知らなかったとは言え、わしらが悪かった・・・どうぞ、この罪を許してくだされ~」
と、淀川の河岸に十三重の石塔を建立し、河原で盛大なお祭りを催して、娘の霊を慰めたのです。

すると、その夜・・・
どこからともなく現われた娘の生首は、うれしそうに石塔の回りを何度か回ったかと思うと、自ら、淀川の深い底めがけて川面へと飛び込み、そして、もう2度と、現われる事はなかったという事です。

この石塔は、明治の頃までは残っていたと言われますが、河岸工事で撤去されたのか、現在は残っていません。

本当の事を皆に知ってもらえた事で、娘は成仏したのでしょうか???
なんとも、悲しいお話です。
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2011年8月 8日 (月)

乱世と平時で髭のある無し…ヒゲの日に因んで

 

今日8月8日は、「ヒゲの日」という記念日だそうです。

理由は、「八」という漢字が、ヒゲの形に似ているからだそうで、あのカミソリでお馴染のシック=Schickが制定した記念日なのだそうです。

・・・・・・・・

そもそもは神代の昔から、ヒゲというものは権威の象徴のように扱われていました。

あの『古事記』の有名な天岩戸のくだり・・・

もともと、なぜに、太陽神であらせられる天照大神(オマテラスオオミカミ)が天岩戸にお隠れあそばす事になったかと言えば、弟の建速須佐之男(タケハヤスサノヲノミコト)が、田んぼの水を止めたり、神聖な御殿でウ●コしたり、屋根の上から皮を剥いだ馬を投げ込んだりという乱暴を働いた事に怒って、岩戸の奥深くにひきこもったわけです。

結局は、天宇受売命(アメノウズメノミコト)の裸踊りで注意を引き、何とか岩戸から引っ張り出して事無きを得たわけですが、その後、八百万の神々が集まって会議を開き、乱暴を働いたスサノヲの処分を決定・・・

それが、両手両足の爪を抜いて髭を切り、高天原から追放!というものでした。

現代だと「ヒゲくらい、なんぼでも切らしたるがな」って思いますが、神代の昔は、それが罰として成立するくらい、ヒゲを切る事が屈辱だったわけです。

とは言え、そんなヒゲにも、どうやら、その時代々々のブームという物があるようで・・・

そう、切る事があれだけ屈辱だったヒゲは、貴族の間には好まれず、平安時代の貴族たちの間では、むしろ、お歯黒をしてお化粧をして女物をはおる・・・といった風貌がステキとされたのです。

ところが、中世から戦国時代になると、これまた一転、ヒゲをはやすのが流行・・・いや、むしろ、ヒゲが無い事がカッコ悪いとまで言われるようになります。

あの豊臣秀吉がヒゲが薄かったため、「つけ髭」をしていたのは有名な話ですよね。

なのになのに・・・

江戸時代に入ると、またまた一転、ヒゲを剃るのが大流行するのです。

これには、一つオモシロイ逸話があるのですが・・・

Doitosikaru500 徳川家康秀忠家光と3代の将軍に仕えた土井利勝(どいとしかつ)・・・彼の父・水野信元は、家康の母・於大(おだい)の方の兄という事で、つまり、利勝と家康は従兄弟同士だったわけですが、その家康からの可愛がられ方、出世の仕方、風貌のそっくりさから、「利勝は、家康のご落胤(隠し子)ではないか?」との噂があったのです。

それが、晩年、すでに家康も亡くなった寛永(1624年~1643年)の初め頃、ますます、その風貌が家康そっくりになっていき、「まるで生き写しだ」とまで言われ、隠し子の噂がますます大きくなっていきます。

やがて、利勝本人も気になってきて、鏡なんぞ覗きこんでマジマジと見てみると、本人から見ても「似てるなぁ」と・・・

「どうしたもんやろか?」
と考えた結果・・・
そうや!このヒゲがあるからそっくりなんや・・・ヒゲなんか添ってしまえ!」
と、その立派なヒゲを、おしげもなく剃り落としてしまいました。

その心の内を知らない周囲は、突然の事にビックリ!

とは言え、今や幕府でトップの実力者である大老の利勝がヒゲを剃ったのですから、その理由など知らぬ配下の者も、とにかく皆、右へならえとばかりにヒゲを剃りはじめ、いつしか、おしゃれ番長=利勝の「ヒゲ無しスタイル」が大流行・・・

やがて、ヒゲは、未だ戦国の気質を持った者の証のように言われるようになり、ヒゲを生やしているだけで謀反の疑いをかけられるほどに・・・そして最終的には、「風紀を乱す」との理由で、幕府から禁止令まで出る事に・・・。

まぁ、本当に土井さんが率先したのかどうかはともかく、江戸時代には、顔に傷があるなどの理由がない限り、ヒゲを生やすお侍はいなかったのだとか・・・

ところがドッコイ、そんな江戸時代も終わり、明治に入った途端に、またまたヒゲが大流行・・・以前のお札の肖像でお馴染の伊藤博文板垣退助、そして大久保利通なんかも立派なヒゲをたくわえた写真が残っていますよね?

うぬぬぬ・・・これは?

以前のページで、日本の歴史上、大いなる平和を感じた時期が2回あり、それは平安時代と江戸時代であるという事を書かせていただきました。

そのページでは、平和な時の武装放棄について(12月31日参照>>)書かせていただいたんですが、この見事な一致・・・ひょっとして、人は平和になるとヒゲを剃りたくなる生き物なのかしら?

確かに、ヒゲという物は男性ホルモンによって発毛が促進されるもの・・・もちろん、男性ホルモンは男性だけにある物ではなく女性にも存在し、女性ホルモンも男性の中に存在しますが、その多い少ないによって「男らしさ」「女らしさ」という物が形成されると言いますので、男性ホルモンで促進されるヒゲは男性ホルモンが多い=男らしい事を、その目で感じる事のできるシロモノという事なのでしょう。

こんな話があります。

ある群れのボス猿の●タマを切り取ると(生物学的実験だそうなのでお許しを…)、そのボス猿は一気にボスの座から引きずり降ろされますが、その猿に男性ホルモンを注射すると、再び力を盛り返して、ボスの座に返り咲くのだとか・・・

つまり、男性ホルモンが多いほうが、より猛々しく、雄々しく、力も強く、支配欲も強い・・・

フムフム・・・だから、人は無意識の内に、戦乱の世にはヒゲをたくわえ、平和になるとヒゲを剃るという事なのかも知れません。

・・・で、今は???
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2011年8月 7日 (日)

武田信玄・信濃制覇記念~その人材活用術と名言

 

永禄十年(1567年)8月7日、安曇郡の仁科盛政以下甲信の諸将士が、信州小県郡下ノ郷の生島足島社にて起請文を捧げ、武田信玄に忠誠を誓いました。

・・・・・・・・・・・

武田信玄の治める甲斐(かい・山梨)は、東を北条相模(さがみ・神奈川県)、南を今川駿河(するが・静岡県中央部)という大国、西を巨大な赤石山脈阻まれていたゆえに、北方に広がる信濃(しなの・長野県)武田の領地とする事は、父・信虎の時代からの長年の夢でした。

Takedasingen600 当時の信濃は、守護大名の小笠原長時府中(松本市)で統治していたものの、その範囲は盆地周辺の筑摩(ちくま)安曇(あずみ)伊奈(那)のみで、それ以外は地元に根づいた国人たちの群雄割拠な状況・・・

天文十年(1541年)、父・信虎を追放して当主となった信玄(当時は晴信)(6月14日参照>>)、翌・天文十一年(1542年)には、信濃の有力国人の一人・諏訪頼重(すわよりしげ)を滅ぼして諏訪一帯を平定(6月24日参照>>)・・・

しかし、その後、もう一人の有力国人・北信濃を牛耳る村上義清には少々手こずります。

初めての敗北を上田腹の戦い(2月14日参照>>)で喫し、続く戸石城攻防戦では「戸石崩れ」と称されるほどの崩れっぷり(9月9日参照>>)・・・

・・・が、その敗北によって、力技のみでなく、智略を以って戦いに挑む事を学んだ信玄・・・その後は、天文二十二年(1553年)に義清の本城を落として北信濃のごく一部を除く信濃全土をほぼ平定します。

しかし、この義清が、あの越後(えちご・新潟県)上杉謙信を頼った事から、ご存じ川中島の合戦へと突入するのです(4月22日参照>>)

と、5回に渡って繰り広げられた川中島は、結局は、決着がつかなかったものの、そこで決着がつかなかったという事は、イコール、これまで信玄が獲得した領地も減らなかったという事なわけで、永禄十年(1567年)8月7日、甲信の諸将が信玄に起請文を捧げて忠誠を誓ったことで、信濃制覇の悲願を達成したのです。

この後の信玄は、あの桶狭間(5月19日参照>>)で大黒柱の今川義元を失った今川の領地=駿河へと、その矛先を変える事になります(12月12日参照>>)

ところで、先ほども書かせていただいた対義清との2度の敗戦・・・その生涯で、70余りの合戦を経験したうち、わずか3回しか負け戦がなかったと言われる名将の信玄が、この時に苦汁を味わった事で、その戦い方を大きく変え、一皮むけた成長ぶりを見せてくれるわけですが・・・

具体的には、合戦に至る前に、充分な準備と、あらゆる策謀を仕掛けて「戦わずして勝つ」・・・あの孫子の兵法本家HPでくわしく…別窓でひらきます>>)重視し、それを実践する事だったと言われています。

その中でも、信玄が最も得意としたのは人材活用術・・・信玄は、よく、若い近習たちに、その術を説いてみせたと言います。

いつどんな時も、大将は人を正しく評価し、家臣たちの個性を把握して適所に人を任ずる事が重要で、決してえこひいきはせず、手柄を立てた者へのねぎらいも、その大小に応じて、大将自らが行う事・・・。

また、相手の性格を見る時、間違えやすい3つのタイプというのも教えてくれています。

1つ目は、分別のある人をダメ人間と思ってしまう
2つ目は、遠慮深い人を臆病者だと思ってしまう
3つ目は、がさつな人間を武勇のある者と思ってしまう

「分別のある人や遠慮深い人は、10あっても7分を残して3分ほどしか話さない・・・それは、後先の事を考え、常にすべての事を大事にしていて、言った事には責任が伴う事を知っているので、細々と調べて行動し、不用意に発言しないだけ・・・

しかし、がさつな人間は、分別も遠慮もなく、やたら物を言い、後先を踏まえず、口まかせ手まかせの行動に出るワリには肝心なところで遅れをとるか逃げ出す・・・無分別な人間に相対すると、コチラの身も滅ぼす事になるので、大変恐ろしい
のだそうです。

もちろん、信玄自身、この事を踏まえて人材の適用を心がけていました。

ある時、「コイツは臆病者で役にたたない!」と周囲の評判が悪かった岩間という家臣に接した時・・・信玄は、「彼の臆病さは慎重さからくる物である」と見抜き、こっそりと隠し目付役を命じます。

しかも、
「家中の気になった所は、漏らさず報告してね・・・万が一漏れがあったら死罪にしちゃうわよ」
と、少々脅しもかけました。

すると、その岩間は、信玄の狙い通り、見事に細やかで正確な調査を行って、この人材配置が大正解だった事を証明してくれました。

また、合戦の時には、短気でイケイケ感満載の山県昌景(やまがたまさかげ)と、慎重すぎてチョイと奥手な高坂昌信(こうさかまさのぶ)にペアを組ませて、それぞれの短所と長所を補わせるように出陣させたのだとか・・・

さらに、身分の低い奉公人に対しても、
「朝に私用のある者は昼に、夜に私用のある者は朝に、朝晩忙しい者は昼に出勤したら良いよ~」
と、3交代シフト制のフレックスタイムも導入していたのだそうで、まさに
「人は城 人は石垣 人は掘 情は味方 讎(あだ)は敵なり」
「渋柿も甘柿もともに活かせ」
ですね。

これらの、信玄の人材活用術や、それを言い表した名言は、『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)をはじめとする文献に「ある夜、信玄公がいわれた」という感じの、いわゆる夜話・・・城内で夜に主君を酒を酌み交わしながらの思い出話として収録されているわけですが・・・

最後に一つ、信玄公の名言を・・・
「木に枝葉があるように、人には学問がなけらばいけない・・・ただし、学問というのは書物を読むばかりではなく、自分自身の進む道について学ぶ事である。
身分の上下を問わず、武功忠功のある人に教えを請い、他人とではなく、去年の自分と比べなさい
(←チョイとだけ私的解釈も入ってます)
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2011年8月 5日 (金)

浦島太郎の変貌~開けてびっくり玉手箱

 

今日、8月5日には、「8=ハ」「5=コ」の語呂合わせで『ハコ(箱)の日』という記念日なのだそうです。

って事で、箱にまつわる昔話・・・と言えば、やっぱ超有名なアレ・・・
「浦島太郎」ですよね~

Urasima600 とは言え、この浦島太郎・・・皆さんもご存じの通り、まるで宇宙旅行を思わせるようなSFチックなストーリー展開・・・

これが、けっこう最近に作られたものなら「さもありなん」ってとこですが、もはや、その成立年代もわからないほどの古代より語り継がれて来たかと思うと、ワクワクドキドキです。

ところで、皆さんがよくご存じの浦島太郎のストーリーと言えば・・・

  1. 浜辺で子供にいじめられている亀を助ける
  2. 「お礼に」と海の底の竜宮城へご招待
  3. 竜宮城の乙姫のもてなしを受け、タイやヒラメの舞い踊り~
  4. 3年経って実家の事が気になり「帰りたい」と告白
  5. 「だったらコレを持って帰って」と玉手箱をもらう
    「でも、開けちゃダメよ」と釘を刺される
  6. 故郷についたら両親も家もなく、自分がいなくなってから300年が経ってる事が判明
  7. 途方に暮れた太郎が玉手箱を開けると白い煙が出て来てお爺さんに…

てな感じですよね。

ただ、実を言うと、このストーリーは明治時代国定教科書に載せるために書きかえられたストーリー・・・と言ってもご安心を・・・

最初のいじめられている亀を助ける部分を付け加えて、「良い事をすると、良い思いができる」という事を教えようとしたのと、竜宮城での乙姫とのラブラブ描写が子供にふさわしくないのでカットした程度で、あらすじはほとんど昔の物と変わっていません。

もちろん、明治の時だけではなく、太古の昔より語り継がれて来た浦島太郎は、その時代々々で様々なバージョンアップをくりかえして今日に至っているのです。

現存する文献で最古なのは『日本書紀』(養老四年・720年に成立)・・・

そこの「雄略22年(478年前後?)の条に、「丹後(京都府北部)に住む水江浦島子(みずのえのうらのしまこ)が亀を釣り、蓬莱(ほうらい)へ行った」という事が、たった1行ちょっとだけ書かれています。

次に『万葉集』(天保宝字三年(759年)頃に成立)・・・

ここに、高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)という人物が作った長歌「詠水江浦嶋子一首」として納められています。

長いと言っても歌なので、物語のあらすじのような展開ですが
「水江之浦嶋子が生業としている釣りを終えて帰ろうとすると、海神の娘だという亀姫なる女性と出会い、語り合ってるうちに結婚する事になり、常世の国にある彼女の宮殿へ・・・

3年経って、「結婚の事を両親に知らせたい」と言ったところ、「絶対に開くな」と言って(くしげ・化粧箱)を渡されて戻って来る。

しかし例のごとく家も知る人もなく・・・ふたを開けるともとに戻るのではないか?と考えて奩のふたを開けると、中から白い煙が立ち上り、叫びながら大暴れし、心を失った彼は、黒かった頭髪が真っ白になり息絶えた」
とあります。

そして『丹後国風土記』・・・

この風土記というのは、ご存じのように古事記や日本書紀と同時期の元明天皇の時代・和同六年(713年)5月2日全国に編さんの命令が出された物で、その地方に伝わる伝説や名産品などを紹介する地元ガイドブックのような物(5月2日参照>>)・・・ただし、丹後国風土記そのものは現存せず逸文(いつぶん・かつては存在していたが、現在では伝わらない文章)のみなので、鎌倉時代に成立した釈日本紀(しゃくにほんぎ)などの複数の書物に登場する「丹後国風土記に書かれていた話」を参考に、その内容を見て行くしかないのですが・・・

実は、今現在も丹後地方に「水の江の島子」という昔話が口伝えで残っており、逸文の内容も、これに非常によく似ています。

おそらく、これが、一番原型に近いのではないかと想像するのですが・・・

「昔、丹後は水の江という村に住む島子という漁師・・・その日はサッパリ魚が採れずにため息をついていたところに、赤・青・黄・黒・白の5色に光る亀を見つけます。

とりあえず船べりに置いておいて、うつらうつらしながら釣りを続けていると、いつの間にやら、メッチャ美人が、島子の横に・・・

「私は、わたつみの国の亀姫・・・あんたはんが親孝行なええ息子やと聞いて迎えに来ました。
大切にするさかい、船を東の方向へ向けなはれ~~~」

波をズイズイついてふわりと着いた所には立派な宮殿が・・・そこで、例のごとくもてなしを受けて有頂天になる島子ですが、やはり、しばらくして故郷が恋しくなる・・・

すると亀姫は、
「ひきとめる事なんてできひんけど、いっぺんわたつみの国を出ると、2度と戻って来られへんのどす。
ほやから、この玉くしげを私やと思うて持って行って」
と例の箱・・・

村に戻って、例のごとく・・・寂しくなった島子が、玉くしげのふたを開けると、ぽくぽくと煙があがり、その煙が島子の体を包んだかと思うを、スィ~ッと大空に呑み込まれてしまいました」

この伝承の昔話と丹後国風土記と違うところは、
「宮殿に入ると、7人の童子(すばる星=プレアデス星団)と8人の童子(あめふりぼし=ヒアデス星団)に迎えられた」という描写と、
「開けると、ここへは戻れなくなる」と言われて渡された玉匣(たまくしげ)を開けると「風雲舞い飛び、悲しくなった島子が歌を詠むと、玉匣に亀姫が声を飛ばしての反歌が返って来た」
という描写が加わるところです。

これら水江浦嶋子が略されて浦島子となり、やがて平安時代に『浦島子伝』『続浦島子伝』などの文献が登場するのですが、この時代に重視されていたのが、島子と亀姫の愛の生活・・・原文は漢文で書かれているので、恥ずかしながら、未だ読んだ事ないのですが、聞くところによれば、かなりきわどい描写もあるのだとか・・・(だから明治にカットしたのねん(*゚ー゚*))

と言っても、平安の人々が快楽のためにいわゆる「エロ本」として読んだのか?というとそうではなく、その愛し合い方が不老不死をもたらす神仙思想に通じる秘術であるという事でもてはやされたようです。

その後、中世になると浦島太郎・玉手箱という名称が登場し、室町時代の『御伽草子(おとぎぞうし)によって、そのストーリーも固定化され、全国ネットの有名な話となります。

御伽草子の内容も、ほぼ同じですが、最後に玉手箱を開けた浦島太郎は、鶴になって空に飛んで行った事になってます。

こうして時代によって様々なバージョン変化を繰り返す浦島伝説ですが、そてにしても、一貫して変わらないのが、竜宮城で過ごした何日間が、この世の地上では何百年にも相当するという最もSFチックな部分であり、そして、一番不思議で魅力的な部分でもあるここ・・・

もし、浦島太郎の物語がすべて作り話だったとしても、もはや時代も特定できないような古代に、時間の流れ方の違いという物を考えた人がいたという事になりますからね~

アインシュタイン相対性理論によれば、運動をしている物体の時間経過は、静止している物体の時間経過より遅くなり、それは光速に近づけば近づくほど、その差が大きくなるとされています。

つまり、高速で移動する乗り物に乗っている人は、地上にいる人よりも時間が遅く流れるという事です。

この現象は、正式な物理用語ではないものの「ウラシマ効果」と呼ばれ、実際に、高速で移動する航空機に搭載された原子時計に遅れが生じる事で確認されているとの事・・・

浦島太郎は光速で移動したのかい???

そんな事を考えていると、ますます浦島太郎のミステリアスな魅力にとりつかれてしまいそうですが、とりあえずは、音速ジェット機で世界を旅し続けたら、いつまでも若々しくいられるのか?というアンチ・エイジングについて知りたい茶々でおます。
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2011年8月 4日 (木)

毛利隆元と尾崎局

 

永禄六年(1563年)8月4日、毛利元就の嫡男・毛利隆元が、安芸佐々部蓮華寺で急死しました。

・・・・・・・・・・

ご存じ、西国の雄・毛利元就(もとなり)の嫡男として大永三年(1523年)に生まれた毛利隆元・・・

Mouritakamoto600 10代の頃に、当時、毛利家が従属していた周防(すおう・山口県)大内義隆のもとに人質に出され、多感な青春時代を過ごす事になりますが、彼にとっては、とても有意義かつ幸せな人質生活だったようで、後に、大内氏の家臣であった陶隆房(すえたかふさ・晴賢)が謀反を起こした(8月27日参照>>)には、「時期を待て」という元就に対して、すぐさまの出兵を主張してきかなかったとか・・・。

この時の隆元の態度を見た父・元就が、「感情に先走る分別のなさ・・・このまま隆元に跡目を継がせて良いものか?」と悩んだという逸話から、何かと愚将呼ばわりされる隆元さんですが、して愚将ではなく、むしろ内政などの事務的な事に長けていた人と思われます。

ただ、比べられる元就がスゴ過ぎて、「父に比べたら・・・」となるのですが、そもそも、一介の国人から西国の覇者へと成りあがった父と比べる事自体にムリがあるわけで、「俺ができたのに、なんでお前はできないんだ!」なんて事を、お父さんから言われ続けた事で、偉大すぎる父親を持ったプレッシャーを感じ、隆元自身は、なかなか自分に自信が持てない性格になっちゃったようです。

そんな隆元さん・・・正確な時期はわからないものの、おそらく天文十八年(1549年)前後に、大内氏の重臣・内藤興盛(おきもり)の娘で、大内義隆の養女となった女性と結婚します。

女性の実名はわかりませんが、結婚した隆元とともに暮らした場所の名をとって尾崎局(おざきのつぼね)と呼ばれます。

これまで、元就をはじめ毛利一族の結婚は、ほぼ同等の国人同志の婚姻だった中で、名門の大大名・大内氏の女性を娶る事は、言わば破格の婚姻でしたし、一方の大内氏にとっても、実力ある登り調子の利との関係を強くするという利点がありました。

こうして結婚した隆元と尾崎局・・・戦国の典型的な政略結婚ではありましたが、二人の関係はすこぶる良かったようです。

そもそも、隆元さんの書状の現存が少ないのですが、おそらくは、戦場から出したとおぼしき、
(娘が元気だと聞いて)元気が何より・・・これかも油断なく育ててくれよ」
とか、
(長男・輝元のワンパクぶりを聞いて、その輝元に対して)お母さんの言う事をちゃんと聞いて、あんまり遠くに遊びにいかないように・・・」
なんていう、ほのぼのとした書状がいくつか残ります。

どれも、尾崎局に直接宛てた手紙ではありませんが、夫婦の仲が良いからこそ、こんな言葉が出るのだなと感じさせてくれる書状・・・尾崎局とともに過ごした家庭は、「父に比べて劣る」と言われ続けて、自分の実力の無さに悩む隆元にとって、おそらくは、心慰められる癒しの家庭だった事でしょう。

しかし、そんな穏やかな結婚生活は、わずか10年ほど・・・

永禄六年(1563年)8月4日隆元は、未だ41歳という若さで急死してしまうのです。

この年の5月、九州大友氏を攻めるべく出陣した隆元でしたが、その途中で、第13代将軍・足利義輝(よしてる)の仲介で、大友氏と毛利氏の講和が成立したので、今は尼子氏の白鹿城を攻めるべく出雲(いずも・島根県東部)に出陣している父(8月13日参照>>)のもとへと引き返す事になったのですが、

その帰り道に、毛利の傘下となっている備後(広島県東部)和智誠春(わちまさはる)の家に招かれて、酒宴でもてなしてもらった直後に体調を崩し、翌朝亡くなってしまったのです。

このあまりの急死は、当然のごとく、もてなした誠春に疑いがかかります。

直後から、出雲の尼子氏に通じた赤川元保誠春と組んで隆元を毒殺したとの噂が流れ、結局、この二人は、後に元就によって死へ追い込まれる事になるのですが、この時の尾崎局の心境はいかばかりであったでしょうか?

というのも、実は、彼女の姉か妹が、誠春の息子・元郷(もとさと)に嫁いでいたのです。

戦国の世のならいとは言え、心はりさける思いであった事でしょうが、この時の尾崎局の動向については、残念ながら、記録はありません。

ただ、幸いな事に、まだ夫の父の元就が健在で、未だ幼い輝元の後見してくれる事に、少しの安心感はあったかも知れません。

ただ、その元就も、その8年後の元亀二年(1571年)に亡くなってしまいます。

すでに、毛利一門衆の宍戸隆家(ししどたかいえ)の娘との婚姻を済ませているとは言え、輝元は、未だ二十歳に満たない若さ・・・ここで、尾崎局は動きます。

元就の死の直後、吉川元春(元就の次男)小早川隆景(元就の三男)へ宛てて、元就の死を悼みつつも「残された輝元にとっては、あなた方二人の叔父が唯一の頼り」と、亡き夫の二人の弟に対して、息子への支援を求めるしっかりした手紙を書いています。

この手紙の一件は、わんぱく小僧の子育てに奮闘していた若き妻が、夫の死を乗り越え、義父の死を受けて、いつしか、ただ悲しむだけの女ではない、強き母に成長していた事を物語ってくれています。

女は弱し、されど、母は強し・・・

尾崎局は、その翌年、元就の後を追うように45歳の生涯を閉じますが、ご存じのように、彼女の思いを受けた二人の叔父は、この後、「毛利の両川(りょうせん)と称されるほどに、輝元をサポートする事となります。
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2011年8月 3日 (水)

秀吉の結婚+おまけクイズ「妻・おねの本名は?」

 

永禄四年(1561年)8月3日、木下藤吉郎と杉原定利の娘・おねが、清洲の足軽長屋で祝言をあげました。

・・・・・・・・・・

木下藤吉郎は、ご存じ、後の豊臣秀吉・・・結婚して奥さんになるのは、後に北政所(きたのまんどころ)、あるいは高台院(こうだいいん)と呼ばれるおねさん・・・

これまで、数々の小説やドラマに描かれている超有名人なので、皆さまも、それぞれ、「あの女優さんが良かった」とか、「この小説のおねさんが好き!」なんていうイメージをお持ちの事と思いますが、その反面、知られていない部分が多くある事も確か・・・

なんたって、とかく歴史の記録というものは、合戦を左右するような武功を挙げるか、ある程度出世しないと記録には残らないものでして・・・

これだけ有名な秀吉とおねさんですが、実を言うと、ちゃんとした記録というのは、天正元年(1573年)に織田信長浅井長政を攻めて小谷城を陥落させ(8月27日参照>>)、その浅井の領地だった北近江3郡坂田浅井(あざい)井香(いか)秀吉に与えられ、長浜城を築き始める頃・・・そう、正式に大名となった前後くらいから後しか残っていないのです。

もちろん、まったく無いという事ではないので、ほんの少々のその他大勢の中にチョコッとある記録と、多くの伝承を交えて、小説やドラマは描かれますが、もちろん、そこには作家さんの推理も含まれている事になるわけで、だからこそ、ドラマや小説にするとオモシロイって事にもなるわけですが・・・

・・・で、肝心の秀吉&おねさんの結婚ですが・・・『平姓杉原氏御系図附言』に結婚へのいきさつが記録されています。

ただし、これも「或説云・・・」という「聞くところによれば・・・」てな感じの書き出しで始まる物なのですが・・・
「或説云、政所君秀吉公に嫁し給ふは実は野合也、故に朝日君快とし給はさりしを、七曲君御陀言にて秀吉公を御婿となし給ふといへり、御家伝の意味を考えるに実説なるへき歟、此時・・・」と、まだまだ続くので、その内容を要約させていただくと・・・

秀吉とおねが「結婚したい!」と言いだした時、これが恋愛結婚だった事から、おねの母親の朝日さんが「絶対アカン!」と猛反対・・・

そこで、見るに見かねた朝日の妹・七曲のダンナである浅野長勝
「秀吉は、メッチャ頭ええし、武勇もあるし、英雄の素質があるヤツ・・・この乱世に、下っ端で終わるはずないと思える人物やよって、許したってぇな」
と説得・・・

それでも、朝日が難色を示した事から、長勝が、おねを自らの養女として、秀吉を婿とした・・・という事のようです。

かくして永禄四年(1561年)8月3日(6日の説もあり)二人は足軽長屋で祝言を挙げるわけですが、その様子は、後に、おねが回想するように、土間に簀掻藁(すがきわら・スノコ代わりのワラ)を敷き、その上に薄べり(ござ)を敷いて座敷代わりにして祝言を行い、ともに信長に仕える親友として、前田利家まつ夫婦が仲人になったという事で、そのお話は超有名ですよね。

それにしても・・・「土間にゴザを敷いて座敷代わりにして祝言を行った」という事は、当時の秀吉の居住スペースは土間だったという事ですから、いかに身分が低かったかがわかりますね~、そら、お母ちゃんも反対するわな(゚ー゚;

Koudaiin600 しかし、そんな反対を押し切っての結婚・・・おねさんのオトコを見る目は確かだったようで、秀吉は、見事に出世して、先に書かせていただいたように、天正元年(1573年)、一国一城の主となったわけです。

もちろん、そこには妻として夫を支えたおねさんの功績もあった事でしょう。

それが如実にわかるのは、天正二年(1574年)12月22日づけで、この時、戦場にいた秀吉がこほ(おねの秘書)に宛てた手紙・・・

先の天正元年(1573年)、長浜に居を構えた秀吉は、その城下町に人を集めようとして、長浜の町人の年貢や諸役を免除する政策を打ち出し、それが見事成功して、長浜の町は活気溢れる城下町となっていたわけですが、

1年経って、「ぼちぼち、先の政策を廃止して、税を徴収しようと思うんやけど」とおねに相談したところ「まだ、早い!」と、NO!の返事が返ってきます。

・・・で、この手紙の最後・・・
「かやうに申しつけ候へども、それさま御ことわりにて候まゝ、前々のごとく年貢・諸役ゆるし申し候まゝ、奉行の者共に、此のよし御申しつけ候べく候。かしく」
(嫁はんが反対したんで、やっぱ今まで通り免除する事にしたから、皆にそう伝えとしてね)
と・・・

秀吉さん、早くもおねさんに頭が上がらない雰囲気プンプン・・・いや、頭が上がらないというよりは、それだけ頼っていたという事でしょう。

なんせ、世は、まだまだ戦国ですから、この手紙を出した時の秀吉が戦場に赴いていたように、一家の当主は、その家を留守にする事が多い時代・・・その留守を守るのは嫁の役目ですからね。

現代の奥さまが主婦として家を守る場合は、あくまで自分ちなわけですが、大名の奥さまとなれば、その守る自分ちは、自分の家族だけではなく、領地・領民を含むのですから・・・

留守がちな自分より、常に領地にいて領民の事を見ている奥さんの意見を大事にしようという秀吉の姿勢は、この後も、いや、天下を取った後もず~っと続く事になりますし、おねさんも、それに見事に応えます。

まさに、お似合いの夫婦ですね。

ところで、最後に一つ、豆知識クイズ!!

このおねさんというお名前・・・

現存する彼女の署名では「祢」というのが多く、その読み方は、「ね」「ねい」となるので、ここのところのドラマでは、その「ね」に接頭語の「お」をつけて「おね」とされる事が多い(今回もおねさんと呼ばせていただきました~)のですが、ご存じのように、「寧(ねい)「寧々(ねね)「寧子」「子為(ねい)なんてのもあります。
(ちなみに、戦国時代は夫婦別姓なので、名前が「ね」の時の苗字は養女となった「浅野」を名乗ってると思いますが)

もちろん、冒頭にも書かせていただいたように、通常は「北政所」と呼ばれ、秀吉亡き後は「高台院」という院号も朝廷から賜っているわけですが、

いったい、正式な本名というの物は???

今回の正式な本名というのは、「その生涯で最も権威のある正式な書面に記載されている名前」と解釈してください。

おねさんは、天正十六年(1588年)4月19日に、朝廷から従一位の宣旨を受けていますが、そこに、この名前が記載されており、それが、彼女の正式な名=本名とされているのです。

はてさて、このおねさんの正式な名前(本名)はなんでしょう?

答えは… 豊臣吉子(とよとみのよしこ・きちこ)

答えを見るには・・・
PCの場合は「答えは…」の右側「」内をマウスでドラッグして文字を反転させてください。
携帯で閲覧されている方はメニューから「テキストをコピー」を選んで、やはり「答えは…」の右側の文字を反転させてみてください(実際にコピーする必要はありません)。

どうでしたか?
あなたが思っていたお名前と同じでしたか?
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いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

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2011年8月 2日 (火)

石山合戦・終結~石山本願寺炎上

 

天正八年(1580年)8月2日、本願寺・顕如が退去した後も籠城を続けていた教如が石山本願寺を退去・・・10年に及ぶ石山合戦が終結しました。

・・・・・・・・・・・

第15代室町幕府将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛するも、その義昭に制限を加えて、むしろ自らがトップに立たんが勢い織田信長・・・(1月23日参照>>)

不満を持った義昭の呼びかけによって、越前(福井県)朝倉北近江(滋賀県北部)浅井、さらに越後(新潟県)上杉謙信甲斐(山梨県)武田信玄という大物を加えて信長包囲網が形成されます。

そんな中、すでに京都・山科から、大坂・石山(現在の大阪城公園付近)へと本拠地を移し、城のごとき堀をめぐらして土塁を築き、大阪湾のデルタ地帯に、一大自由都市を築きあげていたのが第11代法主・顕如(けんにょ)大坂石山本願寺です。

Isiyamahonganziteramati 御影堂(ごえいどう)を中心とする本願寺の伽藍を、コの字型に6つの寺内町が囲み、それぞれの町は本願寺に年貢を納める以外は、町内による自由な自治制度によって運営されていて、当時、その住民は1万人を超える数になっていたのだとか・・・

Teramati2 天下を狙う信長にとって、その支配下に納まらない本願寺とその宗徒は目の上のタンコブ・・・しかも、本願寺宗徒による一向一揆と言っても、それは、農民がクワや竹ヤリでゴチャゴチャやってるような集団ではなく、武将が指揮を取る、れっきとした武装集団(12月9日参照>>)なわけで、当然の事ながら、そのまま野放しにしておくわけにはいきません。

やがて、ことごとく対立する信長を仏敵とみなした顕如は、元亀元年(1570年)8月、「打倒!信長」を、諸国の信徒に呼びかけて挙兵・・・10年渡って繰り広げられる石山合戦が勃発します。

その間にも信長は、顕如の呼びかけに応じた長島一向一揆を相手にし(5月16日参照>>)浅井&朝倉を倒し(8月27日参照>>)、信玄という柱を失った武田に一発カマして(5月21日参照>>)一つ一つ、その包囲網を崩していくのです。

やがて天正四年(1576年)から、最も激しい攻防戦が繰り広げられます。

5月には天王寺合戦(5月3日参照>>)・・・
7月には第1次木津川口海戦(7月13日参照>>)・・・

この第1次の海戦で、本願寺に味方する村上水軍にしてやられた信長は、年が明けた天正五年(1577年)、やはり本願寺に同調する雑賀(さいが・さいか)を叩きながら(3月15日参照>>)噂の鉄甲船を完成させ(9月30日参照>>)、天正六年(1578年)に起こった第2次木津川口海戦では、見事、勝利します(11月6日参照>>)

これにて、大坂湾の制海権を信長に奪われた本願寺は、海上からの兵糧の補給が思うようにできなくなり、しだいに、その勢いは衰えていきます。

天正七年(1579年)10月には、途中で本願寺側に寝返った荒木村重有岡城が開城され(12月16日参照>>)一族の女・子供までが処刑された事で、本願寺に籠城する皆々の間にも、「来年には信長が総攻撃をかけて来て、皆殺しにされるゾ!」なんていう噂も飛び交い始めます。

しかし、信長のとった行動は・・・

なんと、時の天皇・正親町(おおぎまち)天皇仲介に入ってもらって、本願寺と和睦する・・・だったのです。

このブログで、かねがね叫んでおりますが、信長さんは、何でもカンでも根絶やしにやってしまう人ではありません(個人的好みも入ってますが…(゚ー゚;)

政治や経済に介入しなければ信仰は自由というのが、信長さんのモットーでして、おそらくは、もはや、最初の頃の勢いを本願寺に感じなくなっていたのでしょう。

また、そんな本願寺に振り上げた拳を下ろさせるには、そもそも将軍・義昭の声かけで始まったこの戦いを、将軍よりも権威のある天皇の勅命(ちょくめい・天皇の命令)で幕を閉じさせる事が必要だと考えたからではないかとも・・・。

こうして天正八年(1580年)3月、信長の起請文が天皇を介して本願寺に渡され、顕如が大坂を退去して紀州(和歌山県)雑賀に退き籠る事を条件に、宗徒たちの命が保証され、顕如は石山本願寺を出たのです。

しかし講和に反対して、その後も籠城したのが、長男の教如(きょうにょ)・・・

しかし、そんな教如も、天正八年(1580年)8月2日、とうとう本願寺を退去し、やっとこさ和睦が成立・・・ここに石山合戦は終結しました。

この父・顕如と長男・教如の退去日の差が、後々、東西二つの本願寺に分かれる基となるのですが(1月19日参照>>)、一説には、この教如の籠城は、父親と意見が対立したわけではなく、命の保証という最大の和睦の条件を、本当に信長が守ってくれるかどうかを見極めるために、あえて、退去の時をズラしたのだとも言われます。

とは言え、本願寺を出た後は、淡路・雑賀衆の数百艘の迎えの船に守られて、教如は、雑賀へと移るのですが、その教如の退去直後に寺内から出火・・・三日三晩燃え続けた本願寺の伽藍は、全て焼失してしまったのです。

Kawaraご存じのように、この後、本願寺の跡地に、あの豊臣秀吉が、難攻不落の大坂城を築く事になりますが、今となっては、大阪城のどのあたりに石山本願寺があったのか・・・その全容は謎となっています。

おもしろいのは、現在の大阪城内にも残る『蓮如上人袈裟懸の松』(浄土真宗の開祖・蓮如が袈裟をかけたとされる松の木)が、江戸時代の大阪城の絵図では内堀の内側の天守台のすぐ東にあるにも関わらず、現在では内掘の外になちゃってます。

それだけ、石山本願寺の遺構が見つかっていない・・・という事で、歴史好きとしては更なる発見に期待したいところです。

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 大阪城にある『蓮如上人袈裟懸の松』
碑の後ろにある元気な松の隣に初代?の松の根元だけが残ります。
(『蓮如上人袈裟懸の松』の詳しい場所は本家ホームページの
【歴史散歩:大阪城公園・パーフェクトコース】でどうぞ>>

 
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2011年8月 1日 (月)

伏見城・落城…鳥居元忠の本望

 

慶長五年(1600年)8月1日、石田三成らに攻撃された伏見城が20日以上に渡る籠城戦の末に落城し、城将の鳥居元忠以下、約300名が自刃しました。

・・・・・・・・・

4年も前の記事になりますが、関ヶ原の合戦の幕開けとも言えるこの伏見城への攻撃が開始された7月19日の日づけで、その流れを書かせていただきました(2007年7月19日参照>>)、本日は、その伏見城攻めで命を落とす徳川家康側の武将・鳥居元忠(もとただ)を中心に、改めてお話させていただきます。

・‥…━━━☆

元忠の鳥居家は、純粋な武士の家柄ではありません。

Toriimototada400 中世から近世にかけて、諸国を旅して様々な商品の取引をする商工業者・・・具体的には、金掘りをやったり、鋳物やら木材なんかを現地に買い付けに行って、別の場所へ売といった感じのお仕事・・・

遠隔地を渡り歩いた事で「ワタリ」と呼ばれていた職業で、鳥居家は、そんなワタリの中でも、三河(愛知県東部)碧海郡(あおみぐん・愛知県岡崎市)という水運の要所に住み、水陸の運輸業に携わっていたわけですが、お察しの通り、この商売、かなり儲かります。

未だ人質時代の家康が、墓参りのために一時岡崎に帰国した時、元忠の父・鳥居忠吉(ただよし)が、自宅の倉に貯め込んだ金銀や米・武具などを家康に見せ、「いつか三河にお帰りになって出陣される時のために蓄えております」と言って、家康を感動させた・・・なんて逸話がありますが、それも、膨大な資産を持っていたがゆえにできた事でしょう。

そんな大金持ちの坊ちゃん・元忠は、やはり人質時代の家康の近習として仕えておりました。

家康より4歳年上の元忠・・・ひょっとしたら、近しいお兄ちゃんとして、よき相談相手だったのかも知れません。

あの桶狭間のドサクサでの独立(5月19日参照>>)の時も、家康とともにいた元忠・・・そんな彼の強みは、なんと言っても、その情報網のスゴさでした。

遠隔地を渡り歩いての商売という物は、膨大な利益をもたらすとともに、その各地に独自の情報ルートを構築する事もできるわけです。

元忠は、合戦の時はもちろん、平時の時も自ら先頭に立って情報の収集に当たっていたと言います。

そんな日頃の努力が花開いたのが、あの本能寺の変・・・以前、この本能寺の直後の家康の伊賀越えのお話をさせていただきましたが(6月4日参照>>)、もともと一番近くだったとは言え、混乱のさ中、その日のうちに異変を察知する事ができたのは、この元忠が、家康が堺に行った後も、京都にある茶屋(ちゃや)四郎次郎に残り、情報収集に当たっていたからなのです。

元忠が情報を届けてくれたおかげで、わずかな護衛しかいなかったにも関わらず、家康は、いち早く、畿内を脱出できたわけです(ちなみに江は同行してません・笑)

こうして、情報収集という、どちらかと言えば目立たない地道な役どころだった元忠が、忘れ得ぬ歴史の1ページに刻まれる事になるのは、やはり、この最後の戦いとなった伏見城・・・

このブログにも何度か書かせていただいております通り、豊臣秀吉が亡くなった事で表面化して来た豊臣家の家臣同志の亀裂(3月4日参照>>)・・・

一応、豊臣家五大老の筆頭というポーズをとる家康は、さすがに自ら豊臣家に弓を引くわけにいきませんから、何とか、この亀裂をさらに広げて、豊臣家内の内紛を起こして、反対派を一掃したいわけで、もはや、爆発寸前の石田三成(みつなり)の背中を押すがごとく、上洛要請に応じない「会津征伐」(4月1日参照>>)と称して東へ向かい、居座り続けた伏見城を留守にするわけです。

この時、城将として伏見城に残り、畿内の情報収集を任された元忠・・・

このまま、家康が大軍を率いて東に行けば、手薄になった伏見城を三成らが攻撃して来る可能性は高い・・・その攻撃に耐えるには、ある程度、城の守りも固めなければなりませんが、かと言って、やはり、できるだけ多くの兵を引き連れて東下したい・・・

悩む家康に、元忠は、
「兵は、僕一人で充分ですよ!何事もなければ、また会えます。何かあれば、今夜限りです」
と言ってみせたと言います。

こうして6月18日、約1800名の守りの兵を残して伏見城を出立した家康・・・

一方の三成は、その間に、全国の武将に「家康打倒」の激文を発し、西国の雄・毛利輝元に総大将を頼み(7月15日参照>>)、7月18日、その輝元の名で、元忠に伏見城の開城を要求したのです。

当然ですが、元忠がそんな開城要求に応じるわけはなく、即座に籠城戦の構え・・・なんたって、できるだけ彼らをこの伏見城に引きとめて、東に行った家康が、態勢を整えて西に戻って来る時間を稼がねばならないわけですから・・・

かくして慶長五年(1600年)7月19日・・・伏見城への総攻撃が開始されます。

伏見城攻めの大将は宇喜多秀家、副将は小早川秀秋・・・さらに、毛利秀元吉川広家小西行長島津義弘長束(なつか)正家などなど、約4万もの兵に囲まれて銃弾の雨嵐を受ける伏見城は、もはや落城も時間の問題に見えました。

しかし、そんな銃弾攻撃にもビクともしない伏見城・・・やがて、7月29日には、しびれを切らした三成自らが攻撃に加わり、更なる総攻撃を仕掛けますが、それでもダメ・・・

結局、伊賀や甲賀の忍びを使って、城内に内応者を造る事と城のあちこちへ放火する作戦で城を炎上させ、慶長五年(1600年)8月1日、やっと伏見城を落城させたのです。

元忠は、その場に生き残っていた約300名とともに、本丸の廊下にて自刃・・・享年62歳でした。

と、4年前の2007年7月19日のページ>>に書かせていただいたのですが、それは、その元忠らが自刃して、血の海となった本丸の廊下の板を、天井へと移築した京都の養源院で聞いたお話・・・(養源院については4年前のページか、本家ホームページの【京都歴史散歩:七条通を歩く】でどうぞ>>

一説には、元忠は最後まで自刃せずに討死・・・その首を取ったのは、あの雑賀(さいが・さいか)孫一であったとも言われています【「鳥居忠政の仁義」…雑賀孫一とのイイ話】参照>>)

ともあれ、ご存じのように、この間に家康は、豊臣恩顧の武将を先頭に次々と西軍の城を攻略し、態勢を整える事に成功したわけです(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】をどうぞ>>)

とは言え、この時、三成が伏見城に攻撃を仕掛けて来るか否かは、徳川方にとっては一種の賭け・・・

「もし、何事もなければ、また会えます」と言った元忠ですが、これまで地道な情報収集に徹していた雰囲気から行けば、何も無ければ、元忠がここまで、その名を残す事は無かったかも知れません。

戦国に生まれた男として、その命よりも、名を残す事&家を残す事が本望であるのだとしたら、その命と引き換えに、息子・忠政24万石の大名に引きたてられ、400年経った今でも、その武勇を語り継がれる事こそ、元忠の本望だったと言えるかも知れません。
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