榎本武揚率いる旧幕府艦隊…品川沖を脱出
慶応四年(明治元年・1868年)8月19日、榎本武揚が旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱出しました。
・・・・・・・・・・・
ご存じのように、戊辰戦争は、慶応四年(明治元年・1868年)の1月3日に、江戸にてテロ行為を行う薩摩(12月25日参照>>)への討伐許可を得ようと、鳥羽街道と伏見街道を大坂から京都へと向かっていた幕府の行列に、薩摩が砲撃した事で合戦の火蓋が切られ、鳥羽伏見の戦いと呼ばれます(1月3日参照>>)。
しかし、すでに書かせていただいているように、実は、その1日前・・・
オランダ留学から帰国したばかりの榎本武揚(えのもとたけあき)が指揮する幕府戦艦・開陽丸(かいようまる)が、大坂湾上で薩摩の平運丸(へいうんまる)など3隻の軍鑑をとらえ、一斉砲火を浴びせて大勝利していたのです(1月2日参照>>)。
おそらく、ここでの武揚は、幕府の海軍の強さを再確認するとともに、「これやったら、いける!」と思ったに違いありませんが、残念ながら、陸戦のほうは見事敗退・・・(1月5日参照>>)
そこで武揚・・・開陽丸を大坂湾に横付けし、反撃の秘策を胸に、大坂城にいる第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)のもとへと向かいます。
ところがドッコイ、その間にドラマのようなすれ違い・・・なんと、わずかの近臣だけを連れて大坂城を出た慶喜が、武揚のいなくなった開陽丸に乗り込んで出航・・・勝手に江戸へと戻ってしまうのです(1月8日参照>>)。
完全に入れ違いに大坂城にやってきた武揚は、スカを喰らわされたウップンを晴らすかのごとく、大坂城に残っていた武器や什器などをはじめ、18万両の御用金までもを富士丸という船に積み込んで、やむなく出航・・・この富士丸には、ご存じ近藤勇や土方歳三ら新撰組も乗船して、ともに江戸に戻りました。
その直後、大坂城は炎上し、戊辰戦争の初戦=鳥羽伏見の戦いは幕を閉じました(1月9日参照>>)。
この鳥羽伏見の交戦中に、錦の御旗を掲げて官軍となった事を知らしめ、意気揚々の薩長は、やがて江戸へと迫ります。
そんな中で、官軍との徹底抗戦を叫ぶ者も多くいた江戸城内・・・江戸に戻ってすぐに海軍副総裁に任命された武揚も、「軍鑑で大坂を攻撃して畿内を制圧し、江戸城目前のところにいる官軍を挟み撃ちする」てな作戦を提案しますが、そんな抗戦派に立ちはだかったのが勝海舟(かつかいしゅう)・・・
1月23日に行われた江戸城での作戦会議(1月23日参照>>)の後、抗戦を避けて恭順姿勢による戦争回避を決断した慶喜・・・そんな将軍の決意を受けて実現したのが、あの勝海舟と西郷隆盛の世紀の会談でした(3月14日参照>>)。
そこでの話し合いで、来たる4月11日に開城される事になった江戸城・・・
しかし、納得のいかない武揚は、その4月11日の夜、開陽丸以下、8隻の軍鑑を率いて、品川沖から館山沖へと退去してしまいます。
慌てて武揚の説得に向かう海舟・・・
江戸城が開け渡された以上、残るは、海軍の引き渡しと、今後の徳川家の行く末・・・
ここで、海軍の引き渡しをゴネてたら、徳川家への処分も、慶喜の処刑や家名の断絶なんていう最悪な事になりかねません。
「徳川家への処分」をチラつかせられたら、さすがの武揚も応じざるを得ず・・・軍鑑を、自らの指揮下に置きながらも、その場所は品川沖へと戻し、しばらく様子を見る事に・・・
やがて5月24日、徳川家の当主を未だ幼い徳川亀之助(家達)とする事と、駿河70万石への転封が決定します(5月24日参照>>)。
何とか、徳川家は存続する事になった・・・おそらく、武揚も、この決定を待っていた事でしょう。
「これで、思う存分、ゴネられる」と・・・
ここで効いたのが、あの鳥羽伏見の戦いの最後に大坂城からパクって来た武器や什器や御用金・・・これらを軍資金に、軍鑑に燃料を詰め込み、密かに購入した武器弾薬を運び込み、新政府の目をかいくぐって市内に残る将兵を乗り込ませ・・・と、着々と脱走準備にとりかかります。
もちろん、これから向かうであろう東北で奮戦中の諸藩とも連絡をとりながら・・・
(江戸城が開城された事で戊辰戦争の舞台は東北に移っています。
●会津・白河口攻防戦(5月1日参照>>)
●北越・朝日山争奪戦(5月13日参照>>))
かくして慶応四年(明治元年・1868年)8月19日の夜明け前・・・久しぶりに晴れ渡った空に、旗船・開陽丸から発せられた進軍ラッパの音が響き渡りました。
開陽丸に従うのは、回天(かいてん)・蟠龍(はんりょう)・千代田形(ちよだがた)(以上軍鑑)、神速(しんそく)・長鯨(ちょうげい)・咸臨(かんりん)・美嘉保(みかほ)(以上輸送船)の合計8隻・・・月明かりに照らされた海を、一路、北へと向かいます。
目指すは蝦夷地(えぞち・北海道)ですが、まずは、頑張ってる東北の彼らのもとへ・・・
ところが・・・
この、旧暦の慶応四年8月19日というのは、新暦になおせば1868年の10月4日・・・残念ながら、思いっきり台風が近づいて来ちゃってました。
(戦国軍師のような天気予報士は同行してなかったのか?)
その日のうちに暴風雨に遭遇した艦隊は、開陽丸にえい航されていた美嘉保が沈没、観音崎で咸臨丸が座礁・・・その後、何とか動く残りの艦隊が、散り散りになりながらも、約束の仙台領松島湾に到着した時には、千代田形と長鯨以外は、皆、満身創痍・・・ボロボロのズタズタでの再会となりました。
そしてこの後、榎本艦隊は、血気盛んな東北の猛者(もさ)を加えて、さらに北へと向かう事になりますが、その後の榎本艦隊の活躍は、
●【榎本艦隊・函館を奪取】>>
●【蝦夷共和国の誕生】>>
●【宮古湾海戦】>>
で、どうぞm(_ _)m
.
「 幕末・維新」カテゴリの記事
- 坂本龍馬とお龍が鹿児島へ~二人のハネムーン♥(2024.02.29)
- 榎本艦隊の蝦夷攻略~土方歳三の松前城攻撃(2023.11.05)
- 600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語(2023.01.31)
- 維新に貢献した工学の父~山尾庸三と長州ファイブ(2022.12.22)
- 日本資本主義の父で新一万円札の顔で大河の主役~渋沢栄一の『論語と算盤』(2020.11.11)
コメント
せっかく日本一の艦隊でしたのに、お天気の神様と勝利の女神様は微笑まなかった様ですね。
もしかして榎本さんは雨男だったりして。
投稿: Ikuya | 2011年8月19日 (金) 18時50分
Ikuyaさん、こんばんは~
この後も、いいところで開陽丸が座礁したりして、なんとなく、榎本さんには、女神がほほ笑んでくれなさそうですね。
投稿: 茶々 | 2011年8月20日 (土) 00時08分