武田信玄・信濃制覇記念~その人材活用術と名言
永禄十年(1567年)8月7日、安曇郡の仁科盛政以下甲信の諸将士が、信州小県郡下ノ郷の生島足島社にて起請文を捧げ、武田信玄に忠誠を誓いました。
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武田信玄の治める甲斐(かい・山梨)は、東を北条の相模(さがみ・神奈川県)、南を今川の駿河(するが・静岡県中央部)という大国、西を巨大な赤石山脈阻まれていたゆえに、北方に広がる信濃(しなの・長野県)を武田の領地とする事は、父・信虎の時代からの長年の夢でした。
当時の信濃は、守護大名の小笠原長時が府中(松本市)で統治していたものの、その範囲は盆地周辺の筑摩(ちくま)と安曇(あずみ)と伊奈(那)のみで、それ以外は地元に根づいた国人たちの群雄割拠な状況・・・
天文十年(1541年)、父・信虎を追放して当主となった信玄(当時は晴信)は(6月14日参照>>)、翌・天文十一年(1542年)には、信濃の有力国人の一人・諏訪頼重(すわよりしげ)を滅ぼして諏訪一帯を平定(6月24日参照>>)・・・
しかし、その後、もう一人の有力国人・北信濃を牛耳る村上義清には少々手こずります。
初めての敗北を上田腹の戦い(2月14日参照>>)で喫し、続く戸石城攻防戦では「戸石崩れ」と称されるほどの崩れっぷり(9月9日参照>>)・・・
・・・が、その敗北によって、力技のみでなく、智略を以って戦いに挑む事を学んだ信玄・・・その後は、天文二十二年(1553年)に義清の本城を落として北信濃のごく一部を除く信濃全土をほぼ平定します。
しかし、この義清が、あの越後(えちご・新潟県)の上杉謙信を頼った事から、ご存じ川中島の合戦へと突入するのです(4月22日参照>>)。
- 天文二十二年(1553年)9月:第一次=布施の戦い
- 弘治元年(1555年)7月:第二次=犀川の戦い
- 弘治三年(1557年)8月:第三次=上野原の戦い
- 永禄四年(1561年)9月:第四次=八幡原の戦い
- 永禄七年(1564年)8月:第五次=塩崎の対陣
と、5回に渡って繰り広げられた川中島は、結局は、決着がつかなかったものの、そこで決着がつかなかったという事は、イコール、これまで信玄が獲得した領地も減らなかったという事なわけで、永禄十年(1567年)8月7日、甲信の諸将が信玄に起請文を捧げて忠誠を誓ったことで、信濃制覇の悲願を達成したのです。
この後の信玄は、あの桶狭間(5月19日参照>>)で大黒柱の今川義元を失った今川の領地=駿河へと、その矛先を変える事になります(12月12日参照>>)。
ところで、先ほども書かせていただいた対義清との2度の敗戦・・・その生涯で、70余りの合戦を経験したうち、わずか3回しか負け戦がなかったと言われる名将の信玄が、この時に苦汁を味わった事で、その戦い方を大きく変え、一皮むけた成長ぶりを見せてくれるわけですが・・・
具体的には、合戦に至る前に、充分な準備と、あらゆる策謀を仕掛けて「戦わずして勝つ」・・・あの孫子の兵法(本家HPでくわしく…別窓でひらきます>>)を重視し、それを実践する事だったと言われています。
その中でも、信玄が最も得意としたのは人材活用術・・・信玄は、よく、若い近習たちに、その術を説いてみせたと言います。
いつどんな時も、大将は人を正しく評価し、家臣たちの個性を把握して適所に人を任ずる事が重要で、決してえこひいきはせず、手柄を立てた者へのねぎらいも、その大小に応じて、大将自らが行う事・・・。
また、相手の性格を見る時、間違えやすい3つのタイプというのも教えてくれています。
1つ目は、分別のある人をダメ人間と思ってしまう
2つ目は、遠慮深い人を臆病者だと思ってしまう
3つ目は、がさつな人間を武勇のある者と思ってしまう
「分別のある人や遠慮深い人は、10あっても7分を残して3分ほどしか話さない・・・それは、後先の事を考え、常にすべての事を大事にしていて、言った事には責任が伴う事を知っているので、細々と調べて行動し、不用意に発言しないだけ・・・
しかし、がさつな人間は、分別も遠慮もなく、やたら物を言い、後先を踏まえず、口まかせ手まかせの行動に出るワリには肝心なところで遅れをとるか逃げ出す・・・無分別な人間に相対すると、コチラの身も滅ぼす事になるので、大変恐ろしい」
のだそうです。
もちろん、信玄自身、この事を踏まえて人材の適用を心がけていました。
ある時、「コイツは臆病者で役にたたない!」と周囲の評判が悪かった岩間という家臣に接した時・・・信玄は、「彼の臆病さは慎重さからくる物である」と見抜き、こっそりと隠し目付役を命じます。
しかも、
「家中の気になった所は、漏らさず報告してね・・・万が一漏れがあったら死罪にしちゃうわよ」
と、少々脅しもかけました。
すると、その岩間は、信玄の狙い通り、見事に細やかで正確な調査を行って、この人材配置が大正解だった事を証明してくれました。
また、合戦の時には、短気でイケイケ感満載の山県昌景(やまがたまさかげ)と、慎重すぎてチョイと奥手な高坂昌信(こうさかまさのぶ)にペアを組ませて、それぞれの短所と長所を補わせるように出陣させたのだとか・・・
さらに、身分の低い奉公人に対しても、
「朝に私用のある者は昼に、夜に私用のある者は朝に、朝晩忙しい者は昼に出勤したら良いよ~」
と、3交代シフト制のフレックスタイムも導入していたのだそうで、まさに
「人は城 人は石垣 人は掘 情は味方 讎(あだ)は敵なり」
「渋柿も甘柿もともに活かせ」ですね。
これらの、信玄の人材活用術や、それを言い表した名言は、『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』をはじめとする文献に「ある夜、信玄公がいわれた」という感じの、いわゆる夜話・・・城内で夜に主君を酒を酌み交わしながらの思い出話として収録されているわけですが・・・
最後に一つ、信玄公の名言を・・・
「木に枝葉があるように、人には学問がなけらばいけない・・・ただし、学問というのは書物を読むばかりではなく、自分自身の進む道について学ぶ事である。
身分の上下を問わず、武功忠功のある人に教えを請い、他人とではなく、去年の自分と比べなさい」(←チョイとだけ私的解釈も入ってます)
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コメント
いや~信玄公はさすがに人間的魅力があるある…。
以前躑躅ヶ崎館に行って思ったことですが、割と攻略しやすい館を拠点にしていたことからも、人間的な結束力、信頼性を重点に置く藩主だったのではと…。
この人の弱点はやはり世継ぎ…。
優秀な人物(勝頼)より、信頼性のある人物を置く方が滅亡への道に繋がらなかったのではと…(天下取りは無理でしょうが一大名として存続できたかも…どんなもんでしょ?)
も、いっこ…
甲府にある信玄像は、えらい、ごつい感じがしたんですが、実際はどんな感じなんでしょ?
死因もよくわかりません。
も一つ。
このオモロイ記事に今現在コメント0ってどーゆーこと!?(拍手は31もあるのに…?)
ではでは
投稿: azuking | 2011年8月 9日 (火) 00時35分
azukingさん、こんばんは~
以前、信玄公の遺言のところでも書かせていただきましたが、もう少し、後継者の準備を盤石にしておけば良かったと思いますね~
個人的には、勝頼さんもなかなかの人物のように思いますので、大名として生き残れたような気がします。
見た目に関しては、やっぱり謎でしょうね。
想像画も、どこまで似ているのか不安ですし…
コメントは…
書き込みは、少々敷居が高い物ですからね。
そのためにも拍手を設置しているので、無言の応援も活力になっています。
投稿: 茶々 | 2011年8月 9日 (火) 01時01分
茶々様、こんにちは。
さすがは武田信玄。今の時代でも勉強になる話ですね。
投稿: いんちき | 2011年8月 9日 (火) 09時13分
いんちきさん、こんばんは~
ホントに…
今でも勉強になる名言ですね~
投稿: 茶々 | 2011年8月 9日 (火) 23時24分
川中島に行くと、案内してくれる人がいて、その人の好みにより、謙信よりか、信玄よりになるのだろうか? 私の時は謙信公にヒイキでしたけど。
投稿: おいらん | 2013年1月20日 (日) 22時41分
おいらんさん、こんばんは~
>その人の好みにより…
たぶん、そうでしょうね。。。
でも、川中島の地理自体は、どっちかと言うと謙信の範囲で、信玄は進攻して来た感があるので、案内の方は、謙信寄りの方が多いんじゃないか?と想像しますが…
投稿: 茶々 | 2013年1月21日 (月) 03時59分