徳川慶喜の参謀・原市之進
慶応三年(1867年)8月14日、幕末期に、幕府目付として活躍した原市之進が暗殺されました。
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慶応三年(1867年)10月14日・・・ご存じ、大政奉還(たいせいほうかん)が行われました。
徳川幕府が政権を天皇に返上する・・・一見、徳川幕府の敗北宣言のようにも見える、この大政奉還ですが、実は、そうではない事は、このブログでも時折書かせていただいておりました。
(2006年10月14日>>・2011年11月22日参照>>)
もはや、薩摩と長州には倒幕以外は見えなくなっていた時代、その上げた拳を引っ込ませるためには・・・
一旦、天皇へと政権を返上し、その天皇の下に、各大名家からの代表者による議会を設置し、その者たちによる政治を行えば、体系そのものは現在の幕府組織とほとんど変わらない議会という物で幕府が生き残る一方で、政権は返上してしまっているので薩長が幕府を倒すための大義名分は無くなる・・・
つまり、幕府が生き残るための大政奉還だったわけです。
思えば、この時点では、完全に、倒幕あるのみの西郷隆盛や大久保利通を、将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が翻弄した感さえあります。
しかし、その後、まんまと西郷らの挑発に乗って(12月25日参照>>)突入してしまった鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)では、負けが決まったと同時に、わずかな側近だけを連れて、単身、江戸へと戻ってしまう慶喜・・・(1月6日参照>>)
確かに、批判覚悟の敵前逃亡には、慶喜なりの言い分や考えもあったのでしょうが、見事なタイミングで大政奉還を決断した鮮やかさに比べて、その後の行動は、何となく尻すぼみの体たらくな印象はぬぐえません。
実は、この慶喜の中の格差に、大きく影響していたのが、原市之進(はらいちのしん)という人物の死・・・ではないか?と言われています。
つまり、大政奉還までのシナリオまでは、すでに市之進が慶喜にアドバイスしていたものの、その先を決めないまま市之進が亡くなってしまったため、その後は、まるで空中分解するがのごとく、慶喜の態度がフラフラするようになった・・・という事です。
彼は、水戸藩の勘定奉行を務めた原雅言(まさこと)の次男として生まれ、藩校の弘道館に学んだ後、江戸の昌平坂学問所を経て、安政二年(1855年)の26歳で帰国してからは、弘道館の先生をするほどの優秀さでした。
ご存じのように、もともと水戸藩というのは、「水戸学」という尊王思考の強い場所・・・まして市之進は、その水戸学のリーダー的存在だった藤田東湖(とうこ)(10月2日参照>>)の従兄弟に当たりますから、それこそ、もともとはバリバリの尊王派でした。
幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら)(3月15日参照>>)がロシアとの交渉のたに長崎に行った時には、その従者として付き添い、勤王の志士たちとも大いに交わって、むしろ、尊王派の若きリーダーとして期待される人物だったのです。
一説には、あの桜田門外の変(3月3日参照>>)や坂下門外の変(1月15日参照>>)を影で演出したのは彼だったとも・・・
しかし、そんな市之進が、文久三年(1863年)に慶喜の側近となり、その補佐を務める事となります。
もともと、その慶喜が水戸藩出身だった縁なのでしょうが、翌年の元治元年(1864年)には、暗殺された平岡円四郎の代わりとして側用人となり、慶応二年(1866年)には幕臣に取り立てられます。
それこそ、慶喜からの信頼の証と言える出世ですが、それには、過去の尊皇派から一転、慶喜の側近となったからには、主君に忠誠を誓い、「出来る限りの事をやってのける!」という市之進なりのポリシーがあったのでしょうが、当然の事ながら、この転身ぶりを快く思わない者もおり、幕府内に敵が多い人でもありました。
ところで、第2次長州征伐の真っ最中だった慶応二年(1866年)7月、第14代将軍の徳川家茂(いえもち)が大坂城で亡くなった(7月20日参照>>)事を受けて、翌・8月には、慶喜が徳川宗家を継ぐのですが、これまでの例なら、徳川宗家を継ぐと同時に、そのまま将軍職につくのが一般的でした。
ところが、慶喜が将軍に就任するのは、それから半年後の12月5日・・・この動乱の時期に、実は半年間も将軍が空白になっていたのです。
実は、これも市之進の案・・・
「長州征伐の真っ最中に将軍職を継ぐやなんて・・・貧乏くじもえぇとこですやん!
そないに、自分を安売りしたらあきません。
もっと引っ張って引っ張って、幕閣や大名たちに、“どうか(将軍に)なってください”って言わしてからにしなはれ」
と・・・
今後、この幕府存亡の危機に相対するには、将軍として、権力を行使する機会も増えるはず・・・その時のためにも、幕府の基盤をできるだけ強化せねばなりませんから、望まれてリーダーとなった事を強調しておく事に越した事はないわけです。
そんな市之進は、あの勝海舟の事が大嫌いで、海舟も市之進が大嫌い・・・
しかし、後の海舟の回顧録では、「陰険で大嫌いやったけど、頭のええヤツやった」と、自分大好きでめったに人を褒めない海舟が彼を褒めるあたりは、やはり相当な人物だったという事なのでしょう。
ただ・・・やっぱり敵は多かった・・・
慶応三年(1867年)8月14日、自宅にて、仲間であるはずの幕臣・鈴木豊次郎と依田雄太郎によって暗殺され、市之進は38歳という若さでこの世を去りました。
『昔夢会筆記(せきむかいひっき)』によれば、この暗殺劇を裏で指示したのは、あの山岡鉄舟だったとか・・・
慶喜にとって、正確な情報を届け、正確な判断のもとに助言をくれる腹心・・・最も信頼できる補佐役を失った慶喜が、この後からフラついて見えるのは、おそらく、私だけではないはずです。
助けもするけど、苦言も呈す・・・良きリーダーには、このような側近がいなくてはならないのは、いつの世も同じですね。
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コメント
茶々様。こんばんは。
家康以来の頭脳と言われた慶喜にも、腹心がいたんですね。もし生きていたら、明治がちょっと変わったかも。
投稿: いんちき | 2011年8月14日 (日) 18時55分
こんにちは~
平岡円四郎は知ってましたが、この人は知らなかったです。でも、慶喜は開国派なのによく参謀が勤まりましたね。海舟が褒めるくらいだからよほど、というのはよくわかりますが。もう少し人となりや活躍話を調べてみたいと思いました。
ちなみに、鉄舟とは仲が悪かったのでしょうか?
投稿: おみ | 2011年8月14日 (日) 20時51分
いんちきさん、こんばんは~
>もし生きていたら、
私も、そう思いました。
それだけ優秀な人なら、維新後もきっと活躍したでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年8月15日 (月) 01時58分
おみさん、こんばんは~
>鉄舟とは…
「鉄舟がウラで糸を引いていた」というのも、あくまで噂の域を出ない話のようですし…
私も、もう少し、くわしく調べてみたいと思います。
投稿: 茶々 | 2011年8月15日 (月) 02時00分
ご先祖様もお喜びでしょう。
ありがとうございますm(_ _)m
投稿: 7代目原いちのしん | 2021年2月23日 (火) 21時49分
7代目原いちのしんさん、こんばんは~
コメントありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2021年2月24日 (水) 02時13分