秀吉の結婚+おまけクイズ「妻・おねの本名は?」
永禄四年(1561年)8月3日、木下藤吉郎と杉原定利の娘・おねが、清洲の足軽長屋で祝言をあげました。
・・・・・・・・・・
木下藤吉郎は、ご存じ、後の豊臣秀吉・・・結婚して奥さんになるのは、後に北政所(きたのまんどころ)、あるいは高台院(こうだいいん)と呼ばれるおねさん・・・
これまで、数々の小説やドラマに描かれている超有名人なので、皆さまも、それぞれ、「あの女優さんが良かった」とか、「この小説のおねさんが好き!」なんていうイメージをお持ちの事と思いますが、その反面、知られていない部分が多くある事も確か・・・
なんたって、とかく歴史の記録というものは、合戦を左右するような武功を挙げるか、ある程度出世しないと記録には残らないものでして・・・
これだけ有名な秀吉とおねさんですが、実を言うと、ちゃんとした記録というのは、天正元年(1573年)に織田信長が浅井長政を攻めて小谷城を陥落させ(8月27日参照>>)、その浅井の領地だった北近江3郡=坂田・浅井(あざい)・井香(いか)が秀吉に与えられ、長浜城を築き始める頃・・・そう、正式に大名となった前後くらいから後しか残っていないのです。
もちろん、まったく無いという事ではないので、ほんの少々のその他大勢の中にチョコッとある記録と、多くの伝承を交えて、小説やドラマは描かれますが、もちろん、そこには作家さんの推理も含まれている事になるわけで、だからこそ、ドラマや小説にするとオモシロイって事にもなるわけですが・・・
・・・で、肝心の秀吉&おねさんの結婚ですが・・・『平姓杉原氏御系図附言』に結婚へのいきさつが記録されています。
ただし、これも「或説云・・・」という「聞くところによれば・・・」てな感じの書き出しで始まる物なのですが・・・
「或説云、政所君秀吉公に嫁し給ふは実は野合也、故に朝日君快とし給はさりしを、七曲君御陀言にて秀吉公を御婿となし給ふといへり、御家伝の意味を考えるに実説なるへき歟、此時・・・」と、まだまだ続くので、その内容を要約させていただくと・・・
秀吉とおねが「結婚したい!」と言いだした時、これが恋愛結婚だった事から、おねの母親の朝日さんが「絶対アカン!」と猛反対・・・
そこで、見るに見かねた朝日の妹・七曲のダンナである浅野長勝が
「秀吉は、メッチャ頭ええし、武勇もあるし、英雄の素質があるヤツ・・・この乱世に、下っ端で終わるはずないと思える人物やよって、許したってぇな」
と説得・・・
それでも、朝日が難色を示した事から、長勝が、おねを自らの養女として、秀吉を婿とした・・・という事のようです。
かくして永禄四年(1561年)8月3日(6日の説もあり)、二人は足軽長屋で祝言を挙げるわけですが、その様子は、後に、おねが回想するように、土間に簀掻藁(すがきわら・スノコ代わりのワラ)を敷き、その上に薄べり(ござ)を敷いて座敷代わりにして祝言を行い、ともに信長に仕える親友として、前田利家・まつ夫婦が仲人になったという事で、そのお話は超有名ですよね。
それにしても・・・「土間にゴザを敷いて座敷代わりにして祝言を行った」という事は、当時の秀吉の居住スペースは土間だったという事ですから、いかに身分が低かったかがわかりますね~、そら、お母ちゃんも反対するわな(゚ー゚;
しかし、そんな反対を押し切っての結婚・・・おねさんのオトコを見る目は確かだったようで、秀吉は、見事に出世して、先に書かせていただいたように、天正元年(1573年)、一国一城の主となったわけです。
もちろん、そこには妻として夫を支えたおねさんの功績もあった事でしょう。
それが如実にわかるのは、天正二年(1574年)12月22日づけで、この時、戦場にいた秀吉がこほ(おねの秘書)に宛てた手紙・・・
先の天正元年(1573年)、長浜に居を構えた秀吉は、その城下町に人を集めようとして、長浜の町人の年貢や諸役を免除する政策を打ち出し、それが見事成功して、長浜の町は活気溢れる城下町となっていたわけですが、
1年経って、「ぼちぼち、先の政策を廃止して、税を徴収しようと思うんやけど」とおねに相談したところ「まだ、早い!」と、NO!の返事が返ってきます。
・・・で、この手紙の最後・・・
「かやうに申しつけ候へども、それさま御ことわりにて候まゝ、前々のごとく年貢・諸役ゆるし申し候まゝ、奉行の者共に、此のよし御申しつけ候べく候。かしく」
(嫁はんが反対したんで、やっぱ今まで通り免除する事にしたから、皆にそう伝えとしてね)
と・・・
秀吉さん、早くもおねさんに頭が上がらない雰囲気プンプン・・・いや、頭が上がらないというよりは、それだけ頼っていたという事でしょう。
なんせ、世は、まだまだ戦国ですから、この手紙を出した時の秀吉が戦場に赴いていたように、一家の当主は、その家を留守にする事が多い時代・・・その留守を守るのは嫁の役目ですからね。
現代の奥さまが主婦として家を守る場合は、あくまで自分ちなわけですが、大名の奥さまとなれば、その守る自分ちは、自分の家族だけではなく、領地・領民を含むのですから・・・
留守がちな自分より、常に領地にいて領民の事を見ている奥さんの意見を大事にしようという秀吉の姿勢は、この後も、いや、天下を取った後もず~っと続く事になりますし、おねさんも、それに見事に応えます。
まさに、お似合いの夫婦ですね。
ところで、最後に一つ、豆知識クイズ!!
このおねさんというお名前・・・
現存する彼女の署名では「祢」というのが多く、その読み方は、「ね」か「ねい」となるので、ここのところのドラマでは、その「ね」に接頭語の「お」をつけて「おね」とされる事が多い(今回もおねさんと呼ばせていただきました~)のですが、ご存じのように、「寧(ねい)」や「寧々(ねね)」、「寧子」や「子為(ねい)」なんてのもあります。
(ちなみに、戦国時代は夫婦別姓なので、名前が「ね」の時の苗字は養女となった「浅野」を名乗ってると思いますが)
もちろん、冒頭にも書かせていただいたように、通常は「北政所」と呼ばれ、秀吉亡き後は「高台院」という院号も朝廷から賜っているわけですが、
いったい、正式な本名というの物は???
今回の正式な本名というのは、「その生涯で最も権威のある正式な書面に記載されている名前」と解釈してください。
おねさんは、天正十六年(1588年)4月19日に、朝廷から従一位の宣旨を受けていますが、そこに、この名前が記載されており、それが、彼女の正式な名=本名とされているのです。
はてさて、このおねさんの正式な名前(本名)はなんでしょう?
答えは… | 「豊臣吉子(とよとみのよしこ・きちこ)」 |
答えを見るには・・・
PCの場合は「答えは…」の右側「」内をマウスでドラッグして文字を反転させてください。
携帯で閲覧されている方はメニューから「テキストをコピー」を選んで、やはり「答えは…」の右側の文字を反転させてみてください(実際にコピーする必要はありません)。
どうでしたか?
あなたが思っていたお名前と同じでしたか?
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コメント
この名前は聞いた事があります。
今年の大河ドラマでは最終回手前まで北政所が出そうですね。おねさんは内助の功の代名詞ですね。
「内助の功」と言う言葉は、妻が夫の後ろで支える意味がある(と思う)ので、最近はあまり使う人がいないですね。
再来年は「主人公が活動的な女性」のピークになりそうな感じです。
大河ドラマで豊臣秀吉が若い時からお市の方に好意を寄せる描写は、平成年間では1996年の「秀吉」あたりからありますね。一昨年の「天地人」ではお市の方は出ていませんが。
投稿: えびすこ | 2011年8月 3日 (水) 17時16分
茶々様
この名前はへ~~です。
投稿: いんちき | 2011年8月 3日 (水) 17時22分
なるほどなるほど名前はそうだったのか~
ありがとうございます。
投稿: Ikuya | 2011年8月 3日 (水) 21時10分
茶々さんこんばんは!
いや~、スゴイものを見せていただきました。初耳でした。
思えば今年の主役(?)お江さんもイロイロな名前をお持ちなようで…
あの時代のセレブ女性には普通のことだったんですかね。不思議でしょうがないです。
投稿: 千 | 2011年8月 3日 (水) 22時13分
茶々さん、こんばんは!
パソコンが壊れてしまい、修理に出していたので7月はまるまる1か月間、ご無沙汰してしまいました。
北政所ですが、大坂の陣で秀頼が死に嫡流が途絶えた後、秀吉の遺物は北政所が管理する事になるのですが、その死後は養子である兄の子が、豊臣家の名跡を継承し、“高台院流豊臣氏”(所領は滋賀県栗東辺り)として幕末まで命脈を保つんですよね。
先日長浜城に行き、展覧会を観てきたのですが、そこで博物館学芸員の方からの情報として「おねね」と書かれた書状が発見されたのだとか…新たな論争があっても面白いかも!
投稿: 御堂 | 2011年8月 4日 (木) 00時00分
えびすこさん、こんばんは~
最近のヤマトナデシコは、パワーがありますからね~
影で支えるより、頼れるおカミさんって感じでしょうか
投稿: 茶々 | 2011年8月 4日 (木) 01時43分
いんちきさん、こんばんは~
私も、初めて聞いたときは「へぇ~~」でした(´,_ゝ`)
投稿: 茶々 | 2011年8月 4日 (木) 01時44分
Ikuyaさん、こんばんは~
想像通りでしたか?
それとも、意外でしたかしら?
投稿: 茶々 | 2011年8月 4日 (木) 01時46分
千さん、こんばんは~
名前が色々あるというよりは、手紙やら文献やらで書き方が違うという事でしょうね。
文献などは、書かれた年代も違うので、伝わり方も違うって事かも知れません。
投稿: 茶々 | 2011年8月 4日 (木) 01時49分
御堂さん、こんばんは~
長浜城へ行かれたんですか?
今年は盛り上がってるでしょうね~
「おねね」は初登場だったんですか?
今後が楽しみですね。
そう言えば書き忘れてましたが、秀吉の手紙で「ね」というひらがな一文字のもありましたね。
投稿: 茶々 | 2011年8月 4日 (木) 01時52分
意外でした。
投稿: Ikuya | 2011年8月 4日 (木) 11時21分
Ikuyaさん、返信ありがとうございました
実は、私も意外でした(*゚ー゚*)
投稿: 茶々 | 2011年8月 4日 (木) 16時56分
>御堂さん。お久しぶりです。
「おねね」の呼び名もあったんですか?
いつの日か大河ドラマでそう呼ばれる事もあるかな?
「やまとなでしこ」は日本の神話に出てくる女神の別名でもあるんですね。知りませんでした。
昔から単語としてありますが、会話で使うのはめったにないですよね?昔からある割に時代劇では聞いた事がないです。「お前の女房は大和撫子だな」と言うセリフは聞きません。
投稿: えびすこ | 2011年8月 4日 (木) 17時21分
えびすこさん、こんにちは~
>時代劇では聞いた事がない
昔の女性は、大和撫子が当たり前だったからではないですか?
想像ですが…
投稿: 茶々 | 2011年8月 4日 (木) 17時46分
( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェーヘェーヘェー
秀吉の“吉”と高貴な女性に使われる“子”をくっつけたような名前ですね。
位と一緒に名前も下賜されたのかな?
投稿: ことかね | 2011年8月 7日 (日) 14時47分
ことかねさん、
たぶんそうでしょうね~
秀吉からとったか藤吉郎からとったかで、読み方もどっちかだと言う事のようです。
投稿: 茶々 | 2011年8月 7日 (日) 17時09分
はじめて!最近歴史に興味をもちはじめた初心者です。茶々様のブログ、いつも楽しく読ませて頂いています
秀吉とおねさんの恋愛結婚は、いまの時代の価値観と合うせいか、ドラマや小説でも肯定的に描かれることが多い気がします。が、当時の考え方からするとあまり歓迎されないものだったのでしょうか?
昔の人は「家のため」「主家のため」「国のため」と自分を二の次にして、他のより大きなものに尽くすのが美徳だったのかな、と思います。現代日本の「自分が自分が…」とはだいぶ違いますね
最近のTVの歴史ドラマは、その現代の価値観で描こうとするから変な仕上がりになってしまっていることが多い気がして…残念です
そんな中、歴史的事実だけでなく、その背景にある当時の考え方をわかりやすく解説してくださる茶々様のブログはとても面白いですし勉強になります!これからも頑張ってください
投稿: 茗子 | 2011年8月 8日 (月) 12時39分
茗子さん、はじめまして~
やはり、当時は、「恋愛結婚は身分が低い者同志がするもの」という考えがあったでしょうね。
秀吉はともかく、おねさんの家は一応武士ですから、お金のあるなしに関わらず、「恋愛結婚ははしたない」という感覚だったと思います。
「釣り合わぬは不縁のもと」ということわざがあるように、現代と違って、身分の上下によって、その価値観や生活の範囲も制限されていた時代ですから、親や知り合いの紹介で結婚する事は、意外に理にかなっていたかも知れません。
これからも、時々、遊びに来てくださいませo(_ _)oペコッ
投稿: 茶々 | 2011年8月 8日 (月) 16時42分