伏見城・落城…鳥居元忠の本望
慶長五年(1600年)8月1日、石田三成らに攻撃された伏見城が20日以上に渡る籠城戦の末に落城し、城将の鳥居元忠以下、約300名が自刃しました。
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4年も前の記事になりますが、関ヶ原の合戦の幕開けとも言えるこの伏見城への攻撃が開始された7月19日の日づけで、その流れを書かせていただきましたが(2007年7月19日参照>>)、本日は、その伏見城攻めで命を落とす徳川家康側の武将・鳥居元忠(もとただ)を中心に、改めてお話させていただきます。
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元忠の鳥居家は、純粋な武士の家柄ではありません。
中世から近世にかけて、諸国を旅して様々な商品の取引をする商工業者・・・具体的には、金掘りをやったり、鋳物やら木材なんかを現地に買い付けに行って、別の場所へ売るといった感じのお仕事・・・
遠隔地を渡り歩いた事で「ワタリ」と呼ばれていた職業で、鳥居家は、そんなワタリの中でも、三河(愛知県東部)の碧海郡(あおみぐん・愛知県岡崎市)という水運の要所に住み、水陸の運輸業に携わっていたわけですが、お察しの通り、この商売、かなり儲かります。
未だ人質時代の家康が、墓参りのために一時岡崎に帰国した時、元忠の父・鳥居忠吉(ただよし)が、自宅の倉に貯め込んだ金銀や米・武具などを家康に見せ、「いつか三河にお帰りになって出陣される時のために蓄えております」と言って、家康を感動させた・・・なんて逸話がありますが、それも、膨大な資産を持っていたがゆえにできた事でしょう。
そんな大金持ちの坊ちゃん・元忠は、やはり人質時代の家康の近習として仕えておりました。
家康より4歳年上の元忠・・・ひょっとしたら、近しいお兄ちゃんとして、よき相談相手だったのかも知れません。
あの桶狭間のドサクサでの独立(5月19日参照>>)の時も、家康とともにいた元忠・・・そんな彼の強みは、なんと言っても、その情報網のスゴさでした。
遠隔地を渡り歩いての商売という物は、膨大な利益をもたらすとともに、その各地に独自の情報ルートを構築する事もできるわけです。
元忠は、合戦の時はもちろん、平時の時も自ら先頭に立って情報の収集に当たっていたと言います。
そんな日頃の努力が花開いたのが、あの本能寺の変・・・以前、この本能寺の直後の家康の伊賀越えのお話をさせていただきましたが(6月4日参照>>)、もともと一番近くだったとは言え、混乱のさ中、その日のうちに異変を察知する事ができたのは、この元忠が、家康が堺に行った後も、京都にある茶屋(ちゃや)四郎次郎邸に残り、情報収集に当たっていたからなのです。
元忠が情報を届けてくれたおかげで、わずかな護衛しかいなかったにも関わらず、家康は、いち早く、畿内を脱出できたわけです(ちなみに江は同行してません・笑)。
こうして、情報収集という、どちらかと言えば目立たない地道な役どころだった元忠が、忘れ得ぬ歴史の1ページに刻まれる事になるのは、やはり、この最後の戦いとなった伏見城・・・
このブログにも何度か書かせていただいております通り、豊臣秀吉が亡くなった事で表面化して来た豊臣家の家臣同志の亀裂(3月4日参照>>)・・・
一応、豊臣家五大老の筆頭というポーズをとる家康は、さすがに自ら豊臣家に弓を引くわけにいきませんから、何とか、この亀裂をさらに広げて、豊臣家内の内紛を起こして、反対派を一掃したいわけで、もはや、爆発寸前の石田三成(みつなり)の背中を押すがごとく、上洛要請に応じない「会津征伐」(4月1日参照>>)と称して東へ向かい、居座り続けた伏見城を留守にするわけです。
この時、城将として伏見城に残り、畿内の情報収集を任された元忠・・・
このまま、家康が大軍を率いて東に行けば、手薄になった伏見城を三成らが攻撃して来る可能性は高い・・・その攻撃に耐えるには、ある程度、城の守りも固めなければなりませんが、かと言って、やはり、できるだけ多くの兵を引き連れて東下したい・・・
悩む家康に、元忠は、
「兵は、僕一人で充分ですよ!何事もなければ、また会えます。何かあれば、今夜限りです」
と言ってみせたと言います。
こうして6月18日、約1800名の守りの兵を残して伏見城を出立した家康・・・
一方の三成は、その間に、全国の武将に「家康打倒」の激文を発し、西国の雄・毛利輝元に総大将を頼み(7月15日参照>>)、7月18日、その輝元の名で、元忠に伏見城の開城を要求したのです。
当然ですが、元忠がそんな開城要求に応じるわけはなく、即座に籠城戦の構え・・・なんたって、できるだけ彼らをこの伏見城に引きとめて、東に行った家康が、態勢を整えて西に戻って来る時間を稼がねばならないわけですから・・・
かくして慶長五年(1600年)7月19日・・・伏見城への総攻撃が開始されます。
伏見城攻めの大将は宇喜多秀家、副将は小早川秀秋・・・さらに、毛利秀元・吉川広家・小西行長・島津義弘・長束(なつか)正家などなど、約4万もの兵に囲まれて銃弾の雨嵐を受ける伏見城は、もはや落城も時間の問題に見えました。
しかし、そんな銃弾攻撃にもビクともしない伏見城・・・やがて、7月29日には、しびれを切らした三成自らが攻撃に加わり、更なる総攻撃を仕掛けますが、それでもダメ・・・
結局、伊賀や甲賀の忍びを使って、城内に内応者を造る事と城のあちこちへ放火する作戦で城を炎上させ、慶長五年(1600年)8月1日、やっと伏見城を落城させたのです。
元忠は、その場に生き残っていた約300名とともに、本丸の廊下にて自刃・・・享年62歳でした。
と、4年前の2007年7月19日のページ>>に書かせていただいたのですが、それは、その元忠らが自刃して、血の海となった本丸の廊下の板を、天井へと移築した京都の養源院で聞いたお話・・・(養源院については4年前のページか、本家ホームページの【京都歴史散歩:七条通を歩く】でどうぞ>>)
一説には、元忠は最後まで自刃せずに討死・・・その首を取ったのは、あの雑賀(さいが・さいか)孫一であったとも言われています(【「鳥居忠政の仁義」…雑賀孫一とのイイ話】参照>>)。
ともあれ、ご存じのように、この間に家康は、豊臣恩顧の武将を先頭に次々と西軍の城を攻略し、態勢を整える事に成功したわけです(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】をどうぞ>>)。
とは言え、この時、三成が伏見城に攻撃を仕掛けて来るか否かは、徳川方にとっては一種の賭け・・・
「もし、何事もなければ、また会えます」と言った元忠ですが、これまで地道な情報収集に徹していた雰囲気から行けば、何も無ければ、元忠がここまで、その名を残す事は無かったかも知れません。
戦国に生まれた男として、その命よりも、名を残す事&家を残す事が本望であるのだとしたら、その命と引き換えに、息子・忠政が24万石の大名に引きたてられ、400年経った今でも、その武勇を語り継がれる事こそ、元忠の本望だったと言えるかも知れません。
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コメント
鳥居家は幕末間際に有名になりますね。
鳥居甲斐守(妖怪)が暗躍します。
鳥居家はサントリーの創業者の「鳥居家」と関係がありますか?
昨日の「江 姫たちの戦国」は、江さんと秀忠の婚礼でした。
長かった。\(^o^)/ 晴れて「秀忠の女房」になりました。
紆余曲折。「ようやく」の感があります。
すでに関ヶ原の戦いの場面は撮り終えたかもしれませんが、向井くんはどういう意気込みだったのかな?
次回の放送では秀忠が「男気」を魅せます。
投稿: えびすこ | 2011年8月 1日 (月) 17時07分
えびすこさん、こんばんは~
さて?どうでしょう?
サントリーの「とりい」さんは「鳥井」さんなので、違うかも知れませんね。
結局、江は、またまたツンデレモードですね。
投稿: 茶々 | 2011年8月 1日 (月) 22時38分
徳川家康の家臣の1人である鳥居元忠は、忠誠心の高い武将ではないかと思います。断片的な記憶ですが、家康が、長い人質生活において、側についていたわけですからね。関ヶ原の戦いから3年後に、征夷大将軍となった上で、幕府を開いた家康は、心の中では、元忠の戦死を、決して無駄にはしないと誓っていたかもしれません。だからこそ、徳川幕府が、264年も続いたのではないでしょうか。
投稿: トト | 2017年12月23日 (土) 10時14分
トトさん、こんにちは~
家康が…というよりは、この時代が配下の者の忠誠を大事にしないと成り立たない時代だったように思います。
…でないと、配下の者も主君のために命賭けられませんからね。
他のページ>>にも書かせていただきましたが、敵方の石田三成でさえ、元忠の忠誠に敬意を表してますね。
思えば、欧米の実力主義が一般となって、日本の生涯雇用が揺らいでしまう、つい最近まで、日本人の働き方は、こんな感じだったかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2017年12月23日 (土) 18時01分