本願寺蓮如の吉崎退去と下間蓮崇
文明七年(1475年)8月21日、近畿での弾圧を逃れて越前の吉崎に滞在していた第8代本願寺法主・蓮如が、吉崎を退去しました。
・・・・・・・・・
浄土真宗の宗祖である親鸞(しんらん)(11月28日参照>>)の墓所であった京都の大谷廟堂(おおたにびょうどう)が、本願寺と名を改めて寺院となったのは第3代法主・覚如(かくにょ)の頃・・・それから50年余り後、第8代法主となったのが、本願寺中興の祖と称される蓮如(れんにょ)です。
蓮如は、御文(おふみ・自筆の手紙)を連発する事で、自らの教えをわかりやすく、かつ多くの人に伝え、社会的弱者や女性をターゲットにする事で、多くの信者を獲得し、これを機に、浄土真宗は日本一の大宗教集団へと発展していく事になります(2月25日参照>>)。
しかし、もともと本願寺は、組織上は比叡山延暦寺の末寺・・・蓮如が独自の思想で独立した一宗を立てて大きくなっていく事を許せるはずもなく、寛正六年(1465年)1月、延暦寺の僧兵150人(300人とも)で以って、大谷本願寺を襲撃します。
やむなく蓮如は近江(滋賀県)金森に退去しますが、ここも、また襲撃され、一路、北陸へ・・・
やがて越前(福井県)の吉崎に落ち着いた蓮如が、ここで布教活動を行うと、これまた、またたく間に信者が増え、文明三年(1471年)7月には防舎が完成(7月27日参照>>)・・・この吉崎御坊(ごぼう)を中心に、さらに信者の数が増えていく事になるのですが、当然の事ながら、そこには、農民だけでなく、地元に根付く地侍たちも入信する事になるわけで・・・
しかも、時代は応仁の乱の真っ最中・・・京都での合戦もさる事ながら、地元では越前(福井県)の守護・斯波義廉(しばよしかど)や、能登(石川県北部)の守護・畠山義統(はたけやまよしむね)、その配下の甲斐八郎や朝倉孝景(たかかげ・敏景)など、東西入り乱れてのややこしい状態・・・
そんな中、加賀(石川県)でも、守護である富樫政親(とがしまさちか)が東軍につき、家督争い中の弟・富樫幸千代(とがしこうちよ)が西軍という形で京都での応仁の乱に参戦していたのですが、文明六年(1474年)、故郷の乱れっぷりに乗じて、兄・政親が、加賀全土を制圧すべく、本願寺門徒を味方につけて弟・幸千代を攻撃・・・勝利した兄・政親は、名実ともに加賀一国の守護となります(7月26日参照>>)。
そのページにも書かせていただいたように、本願寺門徒と言っても、もはや農民だけでなく、多くの地侍たちが含まれた武装集団と化してましたから、彼らを味方につける事で、一気に勝利に導く事ができたわけです。
しかし、それは同時に、大きな問題もはらんでいました。
なんせ、「力がある」という事は、「上にたてつく」事もできるって事ですから・・・
「国人や地侍が本願寺の威勢を借りて、寺社に納めるべき年貢を納めよらへん!
そのために、神社仏閣では、まともな神事もできひん状態やがな。
幕府や守護に訴えてもいっこうにラチがあかんし・・・
こんな事、前代未聞、言語道断やで!」
と、グチをこぼすのは、白山信仰で有名な白山宮・・・
もはや、幕府や守護の威勢を越える状態になってしまった本願寺門徒たちに対して、やはり、そのまま見過ごすわけにはいかないのが政親・・・
弟との戦いの時に結んだ本願寺との同盟を破棄し、一転、門徒弾圧に乗り出したのです。
文明七年(1475年)3月下旬には、詳細はわからないものの、両者の間で大きな合戦があった事が記録されており、この時、戦いに敗れた本願寺門徒の多くが、越中(富山県)の井波(いなみ)・瑞泉寺(ずいせんじ・南砺市)に逃れたのだとか・・・
逃走した彼らが頼ったのは、やはり法主の蓮如・・・彼らは、蓮如に前面に立ってもらい、もう一度、富樫との和睦を結んでもらえるよう嘆願する使者を、吉崎の蓮如のもとに送りました。
ところが、この使者の応対したのが、下間蓮崇(しもつませんそう)という人物・・・
以前、後に石山本願寺の総大将として登場する下間頼総(しもま・しもつまよりふさ)のページ(12月9日参照>>)でも書かせていただきましたが、この下間という苗字は、親鸞の弟子となった蓮位房宗重(れんいぼうしゅうじゅう)を祖とする本願寺内衆(うちしゅう)の苗字・・・
しかし、実は蓮崇自身は、もともとは和田本覚寺の小僧で、途中から蓮如の教えを受けて側近になった人物なので、言わば新参者・・・なのに、その名前に蓮如の「蓮」の一字を賜り、内衆の姓である下間の苗字も与えられるくらいに才能を認められ、信頼されていたわけで、この吉崎御坊では蓮如の片腕となって活躍していたのでした。
ところが、この蓮崇が、何を思ったのか、彼らの願いを聞き入れるどころか、逆に
「上人さまは、“戦え!”と仰せです」
と、ウソの返事を伝えたのです。
そもそもは「過激な事はするな」と信者の行動をたしなめていた蓮如さんですから、この時、その使者に直接会っていれば、おそらく和睦への道へと進んで行ったのでしょうが、蓮崇を信頼しきっていた蓮如は、この時、使者に会う事なく、任せっきりにしてしまったのです。
結局、蓮崇の言葉に扇動された彼らは、3カ月後の6月に再び、政親軍と交戦するも、またしても鎮圧されてしまいます。
この一件で「蓮崇のウソ」の話を知った蓮如・・・「北陸の門徒たちを鎮静化させるためには、自分がここを出よう」
と、五男の実如(じつにょ)に本願寺を譲って隠居・・・そのまま吉崎を退去する決意をしたのです。
かくして文明七年(1475年)8月21日の早朝、船で旅立つ事になった蓮如が、海岸へ近づくと、船中に隠れるようにかがみこんでいる人影を発見・・・蓮崇でした。
「誰やねん!お前なんか、知らんなぁ」
と、キッツーイひと言とともに、蓮崇を引っ張りあげて、そのまま海へドボ~ンと投げ入れ、シカトしたまま、船は沖へ・・・蓮如さん、怒ってはります。
蓮崇は、海岸にひれ伏すように頭をつけ、ただひたすら泣いていたとか・・・
その後、畿内に戻った蓮如・・・明応五年(1496年)には、摂津・大坂に隠居所を建て、そこを住まいとしましたが、後に、その場所が、石山本願寺と呼ばれる一大拠点となる(8月2日参照>>)のは、皆さまご存じの通り・・・
一方、この一件で破門された蓮崇・・・時の実力者・細川政元(6月23日参照>>)を間に立てて、何度も詫びを入れますが、「俺が許しても、門徒が許さん」と、蓮如は、その詫びを拒否し続けました。
結局、蓮崇が許されたのは、明応八年(1499年)3月に蓮如が亡くなる(3月25日参照>>)直前だったのだとか・・・当の蓮崇は、その蓮如の死の3日後に、自殺をはかります。
ウソをついたために破門となり、何かと悪人呼ばわりされる蓮崇ですが、おそらく、彼の中には、蓮如を欺こうとか、裏切ろうなんて気持ちは毛頭なく、その時には、「これが、本願寺にとって最善だ」と思ってついたウソだったのでしょう。
3日後の自殺が、それを物語っているような気がします。
ところで、蓮如が何とか鎮静化させようとした北陸の一向一揆・・・皆さまご存じのように、それが鎮静化する事はなく、更なる第2幕が始まる事になるのですが、そのお話は、瑞泉寺に集まった宗徒が1戦交える2月18日のページでどうぞ>>
.
「 南北朝・室町時代」カテゴリの記事
- 戦国を渡り歩いて楠木正成の名誉を回復した楠正虎(2024.11.20)
- 生まれる前から家督争い~畠山政長の生涯(2024.04.25)
- 若君からの転落~足利義嗣の室町幕府転覆計画?(2024.01.24)
- くじ引き将軍を産んだ丸投げ後継者選び~足利義持の死(2024.01.18)
- 応仁の乱での六角氏の後継争い~清水鼻の戦い(2023.11.12)
コメント