名将・氏郷から3代…断絶となった蒲生忠知の怖い話
寛永十一年(1634年)8月18日、伊予松山藩主で、蒲生家最後の人となった蒲生忠知が31歳でこの世を去りました。
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蒲生忠知(がもうただとも)は、陸奥会津藩主・蒲生秀行の次男として慶長九年(1604年)に生まれました。
そう、あの織田信長にも豊臣秀吉にも愛され、戦国の世にありながらも悪い噂などついぞ聞いた事の無い「戦国一のイイ人」としてご紹介した蒲生氏郷(うじさと)(2月7日参照>>)の孫にあたります。
そんなイイ人でありながらも武勇の誉れ高き名将であり、もし、氏郷が、秀吉よりも長く生きていたら、あの関ヶ原も無かったし、その後の豊臣の滅亡もなかったかも知れないとまで言われる人です。
その氏郷さんのページにも書かせていただきましたが、氏郷の父である蒲生賢秀(かたひで)も織田家に忠誠を尽くしたイイ人(6月2日参照>>)・・・おそらく、この「イイ人」というのは蒲生家代々のDNAに組み込まれている物ではないかと・・・
って事で、個人的には、おそらく、この忠知さんもイイ人だったと想像するわけですが・・・ドッコイ、忠知さんには、奇妙な噂がつきまといます。
ただ、これらのお話は、それこそ噂の域を出ない物で、戦国から江戸を通じての、お決まりの暴君パターンの内容の物・・・冒頭に書かせていただいたように、蒲生家がこの忠知さんで終わっちゃう以上、もはや「死人に口なし」で、ある事ない事書かれていそうですので、あくまで、それを踏まえて、お話をお聞きくださいませ~
・‥…━━━☆
・・・と、先に書かせていただいたように、忠知さんは次男・・・なので蒲生家当主として会津藩を継いだのは、兄の蒲生忠郷(たださと)だったのですが、この兄が、わずか26歳で後継ぎもいないまま亡くなってしまい、蒲生家が断絶の危機に・・・
ただ、幸いな事に、この二人の兄弟の母が、あの徳川家康の三女・振姫(ふりひめ)だった事から、幕府からの特別の計らいを受けて、弟の忠知が後を継ぐ事を許されたのです。
ただし、他の大名家ならお取り潰しのところを、さすがに、家康の孫と言えど、そのままというわけにはいかず、会津60万石から伊予松山藩24万石へと、半分以下の減封にともなうお引っ越しとなってしまいました。
こうして忠知が入った松山城(愛媛県松山市)・・・現在の松山城は、もともとはあの賤ヶ岳七本槍(4月21日参照>>)の一人・加藤嘉明(よしあき)が構築した城に、忠知が整備を加えた姿となっています。
この松山城の整備の手腕でもわかるように忠知は、聡明で善政をしく、なかなかの名君であったと言われます。
しかし、一方では、彼が造ったと言われる二の丸跡の庭園には、今も俎石(まないたいし)なる石が残っており、妊娠中の女性がこの石に触れると流産し、出産経験のない女性が触れると不妊になってしまう・・・などと言われ、しかも、夜になると、この石から妊婦や胎児のすすり泣く声が聞こえるとも・・・
それには、こんな逸話があります。
上記の通り、伊予に転封された後も、なかなかの名君と誉れ高かった忠知でしたが、なぜか世継ぎに恵まれない事が悩みの種でした。
ある時、配下にいた一人の笛の名人が、月明かりの下で笛を吹いていると、そこに天狗が現われ、
「ええ曲聞かせてもろて、ありがとうo(_ _)oペコッ
お礼にこれを授けるけど、絶対に中を見たらアカンで」
と、小さな箱を置いていったとの事・・・
笛の名手の家臣が、その話を忠知にすると、当然ですが、
「見たい!」
とのご所望・・・
しかし、天狗から「開けてはいけない」と言われている箱・・・
家臣がしぶっていると、イラついた忠知が
「貸さんかい!」と・・・
ゴチャゴチャもみ合っているうちに、箱が壊れてしまい、中からは1つの巻物・・・
それを開いてみると、そこには
「蒲生家 断絶」
の文字が・・・
この事件以来、気を病んでしまった忠知は、暴君へと変貌・・・妊娠中の女性を見ると嫉妬心が押さえきれない人となり、城下から臨月の妊婦を連れて来ては、かの俎石の上に縛りつけ、腹を裂いては胎児を取り出して殺したのだそうです。
そんな事をくりかえしながらも、やがて、一人の男の子を授かったと言われますが、その男の子も生まれつきの病気のせいで早世し、結局は、世継ぎがいないままの寛永十一年(1634年)8月18日に、忠知は31歳の若さで永眠・・・
死因は疱瘡であったとも言われますが、実際には不明・・・名将・蒲生氏郷の家系は、わずか3代で断絶し、終わりを迎える事になったのです。
ただ、先ほどもお話したように、この「妊婦の腹を裂いて…」という行為は、あの日本書紀の時代からある暴君ぶりを表現する話の定番(12月8日:武烈天皇参照>>)となっていますので、そのまま信じるには至りません。
思うに、彼が整備したとされる二の丸に、なんとなく俎のように見える平らな石があった事から、それにまつわる逸話として、後に創作された物でしょうね。
後の寛永十二年(1635年)に松平定行(家康の甥)が藩主となって松山城に入って以降、四国の親藩として明治維新を迎えるので、この松山藩へのヨイショの可能性大な逸話だと思います。
なので、たぶん、夜にすすり泣く声は聞こえないと思いますので、ご安心を・・・
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コメント
「三代目が家をつぶしてしまう」の典型的な人になってしまいましたね。祖父・氏郷は40歳で死んでいて、父は30歳。兄が26歳。そして本人は31歳で死ぬ。「蒲生家は短命の家系」と言う点も、記事の話の怖さの一因かもしれないですね。
投稿: えびすこ | 2011年8月18日 (木) 21時21分
えびすこさん、こんばんは~
短命が続く事への因縁話として創作されたんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年8月18日 (木) 23時55分
蒲生さんとこでもこんな話あったのですね。
茶々さんもご指摘のように、この手の妊婦の腹を引き裂き…という話はそれこそかなりよく聞く話なので(例えば松平忠直とか、とすぐ出てくるくらい)信じるのも馬鹿らしい話ですが…。毎回もう少し捻れよ、じゃないと信憑性ないやろ、と思います。
まあ、だから開けてはならぬ箱なんでしょうが…これもそ浦島さんから続く由緒正しいテンプレ…だいたい、開けてはならない箱なんて貰っても嬉しくないし、御礼にあげないと思うし、家臣も(もめるのはわかりきってながら)主君にわざわざ言うかなぁ?と思います。
数ある創作因縁話の中でもあまりデキが良くないような…(笑)
投稿: おみ | 2011年8月19日 (金) 07時43分
おみさん、こんにちは~
>数ある創作因縁話の中でもあまりデキが良くないような…
ホントですね~
もっといろんなパターンを用意してもらわないと…
思うに、今ほどメディアが発達していない世の中では、一般庶民が遠い地方の話を耳にする事が少なかったので、こんな定番の話でも、城下の一般庶民は信じちゃったんでしょうね~
おっしゃる通り忠直さんもそうですし、信玄の父の信虎も…
現在のように、世界中のニュースがその日のうちに津々浦々に伝わる世の中じゃ、誰も信じる人はいませんね~
投稿: 茶々 | 2011年8月19日 (金) 12時17分
和歌山県に住む三好と言います、
松山に住む本家の先祖が忠知の家来だった事が最近判りました、
蒲生の事が知りたくて色々インターネットで探してます、
只今は何処から松山に来たのか調べてます、
同じ忠知が家来で有った人が、
松山城二の丸御殿に来たとき、
君主は噂の様な人では無かったと聞いてると、
言ってたそうです。
投稿: 蒲生忠知の家来の三好忠敏 | 2014年9月21日 (日) 22時31分
蒲生忠知の家来の三好忠敏さん、こんばんは~
そうですね。
やはり、この手のお話は、実際にはそうでない事が多いです。
投稿: 茶々 | 2014年9月21日 (日) 23時45分