豊島明重の武士の一分…江戸城刃傷事件
寛永五年(1628年)8月10日、江戸城内での殿中刃傷事件・豊島明重事件が起こりました。
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事件の名前にもなっている加害者の豊島明重(としまあきしげ・断家譜では明満)・・・
その家系は平安末期から続く武蔵国(東京都の一部)の名族でしたが、戦国の初めにあの大田道灌(どうかん)(4月13日参照>>)に敗れて没落・・・その後、明重の父と兄が、豊臣秀吉の小田原攻めにおける忍城攻防戦(6月16日参照>>)に参加して活躍し、北条滅亡後に関東にやって来た徳川家康に気に入られた明重が、その息子で2代将軍となった徳川秀忠の小姓となり大坂の陣で活躍・・・3代将軍・徳川家光のもとでは、目付という役職にありました。
一方、今回の事件で被害者となったのは井上正就(まさなり)・・・
正就の母が、秀忠の乳母であった事から、彼もまた早くから秀忠に仕え、大坂の陣で武功を挙げた事から、奉行を経て、元和八年(1622年)には老中となっていました。
そんな二人は、明重が天正七年(1579年)、正就が天正五年(1577年)生まれと、ほぼ同年代だった事もあり、いつしか、大のなかよしとなります。
お互いの屋敷を行き来しては、酒など酌み交わしながら、友情を深めていく二人・・・
ある時、いつものように正就の屋敷を訪ねた明重・・・そこに、正就の嫡男の正利が挨拶に来た事から、話題は、その正利の嫁取りの話に・・・
実は、明重には、正利にはちょうどお似会いの年頃の娘を持つ友人がおり、そちらの娘の縁談のほうも思案していたところだったのです。
それは、大坂町奉行の嶋田直時の娘・・・なかなかの美人でもあるし、身分的にもちょうどつり合いがとれます。
この話を持ちかけられた正就のほうも、大乗り気で、話はとんとん拍子に進み、明重は仲人を頼まれます。
ところが、この話が周囲に知れわたるようになると、そこに「待った!」をかけた人物が・・・
それは、今や大奥を牛耳る家光の乳母・春日局(かすがのつぼね・お福)でした。
彼女は、老中と大奥のつながりを強くするためにも、正就の息子の正室には、大奥派閥にドップリ浸かった者の身内から選びたいと常々思っており、しかも、もうすでに、年頃の娘をピックアップしていたのです。
それが、出羽山形藩主・鳥居忠政(ただまさ)の娘・・・
やがて、春日局から正就のもとに「上意」と称して、正式に縁談が持ち込まれると、さすがの正就も話を断わり切れず、明重との縁談の方を反故(ほご)にして、春日局の縁談の方を決めてしまったのです。
しかも、明重が、嶋田直時の後任として、大坂町奉行になるはずだった話もパァに・・・
明重の面目丸潰れです。
そもそも彼は、ものすご~く剛直な性格・・・いわゆる、武士のバイブル『葉隠』(10月10日参照>>)にある「武士道とは死ぬ事と見つけたり」を地で行くような人・・・
この事を、「しゃぁないな~」と受け流せる人ではなかったのです。
かくして寛永五年(1628年)8月10日、その前日の夜に、自らの決意を妻に語った明重は、いつもと変わらず登城し、正就の登城を待ちました。
そして、江戸城西の丸の廊下ですれ違う二人・・・
すれ違いざまに、「武士に二言はないはずやろ!」と叫んだ明重は、即座に刀を抜いて正就に斬りかかりました。
逃げる正就・・・追う明重・・・
2太刀目の斬り込みが、見事、正就をとらえ、彼はその場で息絶えました。
二人を止めようと、慌てて駆け寄った青木忠精に背後から組かかられた明重は、それを振り払うかのようにして脇差を取り出してその場で割腹・・・その忠精もろとも、自らの腹を貫いたのです。
明重の腹を貫いた脇差は、背中を抜け忠精の命も奪いました。
ただし、正史には、その場では取り抑えられ、翌・8月11日に改易の処分となった後に切腹した事になっています。
こうして、3名の死を以って幕を閉じたと豊島明重事件呼ばれる刃傷事件・・・いや、その3カ月後に、責任を感じた嶋田直時が自刃するので、亡くなったのは4人ですね。
とは言え、この後、何度か起こる江戸城内の刃傷事件とは、少々、その後の処分が違っています。
なんせ、処分されたのは、豊島家の嫡子・吉継のみが切腹となっただけで、一族にはお咎めなし・・・もちろん、被害者の井上家もお咎めなし・・・
・・・というのも、未だ寛永五年という年代は、まだまだ戦国の気質という物が色濃く残っていた時代で、老中・酒井忠勝も、
「遺恨をそのままにしないのも武士道の一つ・・・これを厳罰にしたならば、武士の意地が廃れて百姓町人と同じという事になってしまう」
と、むしろ明重の行為を賞賛して、寛大な処置をするように進言したという事ですから・・
後の元禄赤穂事件の発端となる刃傷・松の廊下(3月14日参照>>)とは、その武士の一分も、かなり違っていたわけですね。
江戸約300年という長い時代・・・武士道という物だけを見ても、ひとくくりにはできない様々な変化があったようです。
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コメント
茶々さん、こんばんは!
さて、信満の嫡子・吉継が切腹となり、信満の家系のみが断絶となる一方で、他の一族は連座を免れ、信満と親交のあった徳川頼宣に仕えたようですね。
その後、徳川頼宣が紀州藩主になる共に紀州に同行し、そして紀州藩主・徳川吉宗が徳川宗家&将軍職を襲封した際に江戸行きに同道し、以後幕臣となるようです。以下、子孫たちの動向をまとめてみましたよ!
土岐頼芸-治頼-治英-胤倫=豊島朝房-朝清-土岐朝治-朝澄…朝利=朝義
・美濃の守護大名だった土岐頼芸の弟・治頼
・その治頼の子・治英は土岐家の惣領
・その治英の次男・胤倫の養子に朝房が入り、徳川頼宣の家臣となる
・その朝房の曾孫・朝治(豊島半之丞、土岐信濃守)は徳川吉宗が将軍食を継ぎ、江戸に下向するのに従い幕臣となり、土岐朝治と名乗る
・その朝治の子・朝澄は吉宗の長子・長福丸(のちの家重)の養育係となる
・幕末期の朝利と養子・朝義は一橋徳川家の家老を務めている
…ある意味、大復活&大出世ですね!!
投稿: 御堂 | 2011年8月10日 (水) 23時56分
御堂さん、こんばんは~
情報ありがとうございます。
紀州の吉宗のあたりまでは知っていましたが、その先は知りませんでした。
ホントに、大復活&大出世ですね。
投稿: 茶々 | 2011年8月11日 (木) 00時11分
こんな時代もあったのですね。事件のことも、全く知りませんでした~(ToT)
上意=しゃーない、
と思えなかったところに、ムカシ気質が窺えるような気がします。
そして、自らの意志で切腹したとはいえ?嶋田さんは気の毒だと思いました。
現代とは死に対する考え方が違っていたと、理解しているつもりなんですけどね…p(´⌒`q)
投稿: 千 | 2011年8月11日 (木) 13時41分
千さん、こんにちは~
>現代とは死に対する考え方が違っていた
そうですね~
なかなか理解できないですね。
でも、「名誉の死」みたいな考え方は、戦前までありましたから、今の私たちも環境が違えば、そのようになるのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2011年8月11日 (木) 15時36分
文中に出た「井上正就の母親」は、21日から大河ドラマに登場します。加賀まり子さんです。徳川秀忠と井上正就は乳兄弟(秀忠の方が2歳下)ですね。事件を聞いて秀忠も驚いたでしょうね。乳母の息子が「重役」になる事が多いので、乳兄弟は主従の絆が強いんですね。
投稿: えびすこ | 2011年8月16日 (火) 10時32分
えびすこさん、こんにちは~
なんだかんだで絆は大切ですからね。
投稿: 茶々 | 2011年8月16日 (火) 12時02分
どうもこの事件が春日局が原因とするという通説には疑問を持つ人もいるようですね。
そもそも家光の父秀忠が健在のこの時期に、秀忠の乳兄弟である井上正就の婚姻を左右するほどの権勢があったのかが疑問というわけです。
もしかしたらこの婚姻は秀忠が主導であり、刃傷事件という大事になったため後世に春日局に原因を押し付けられたなんて可能性もあるかもしれませんね。
投稿: ベルトラン | 2024年10月22日 (火) 22時02分
ベルトランさん、こんばんは~
刃傷事件は、大抵の場合は、当事者複数がその場で亡くなってる事が多いので、疑問は残りますよね~
死人の口無しで不可解な事が多いです。
投稿: 茶々 | 2024年10月23日 (水) 02時48分