世界と平等に…カミソリ外相・陸奥宗光
明治三十年(1897年)8月24日、幕末には海援隊の一員として活躍し、維新後は、政治家・外交官として腕を奮った陸奥宗光が、自宅にて54歳の生涯を終えました。
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天保十五年(1844年)に紀州藩士・伊達千広(ちひろ)の6男として生まれた陸奥宗光(むつむねみつ・伊達小次郎)・・・安政五年(1858年)に江戸へ出て以降、多くの勤王の志士と交わりながらも、文久三年(1863年)に勝海舟(かつかいしゅう)の神戸海軍操練所に入ります。
小生意気で口が悪く、何事も理詰めで相手を言い負かす性格は、周囲との衝突も多かったようですが、エラそうにのたまうぶん、覚えも早く、何をやらせてもテキパキとこなす若者だったのだとか・・・
そんな彼の才能に惚れ込んだのが、同じ海軍操練所で知り合った坂本龍馬・・・いつしか宗光も、自分を認めてくれる龍馬を慕うようになり、慶応三年(1867年)には龍馬の海援隊(亀山社中)にも加わります。
海援隊では商務担当として腕を奮っていたようで、龍馬も「刀を2本差さなくても食っていけるのは俺と陸奥だけ」と、その働きぶりを絶賛していたようです。
そんな宗光ですから、龍馬が近江屋で暗殺された時も、いち早く駆けつけ、独自の調査による復讐劇=天満屋事件も引き起こしています(12月7日参照>>)。
明治維新後は外国事務局御用係、兵庫県知事神奈川県令、地租改正局長などを歴任しますが、いわゆる藩閥(はんばつ・維新に貢献した藩=薩摩・長州・土佐・肥前)の出身者でない彼は、とても順風満帆とは言い難いものでした。
特に薩長出身者のよる専横政治には嫌気がさしていたようで、やがて、同じ思いを抱く土佐出身の板垣退助(たいすけ)と親密になっていきます。
ご存じのように、退助は自由民権運動(10月18日参照>>)の政治結社=立志社を立ちあげた人物・・・そして、そこに起こったのが、あの西郷隆盛の西南戦争(1月30日参照>>)でした。
その時の明治政府の中心人物である大久保利通(としみち)は、西郷とは幕末からの同志・・・おそらく、西郷の討伐には、ためらいを覚えるであろうから、その機に乗じて、退助の立志社を蜂起させて、さらに、自らは、その隙をつき、内部から政府を転覆させてしまおうと計画したのです。
しかし、利通は、その予想を遥かに超えたスピードで西郷を討伐を決意・・・結局、土佐蜂起計画も、実行する前に発覚してしまい、そこに深く関わっていた宗光も、禁獄5年の刑を受ける事に・・・
明治十六年(1883年)、伊藤博文や井上馨(かおる)の奔走によって特赦(とくしゃ)となった宗光は、その伊藤の勧めもあってヨーロッパに留学・・・明治十九年(1868年)まで滞在して、この間に民主政治の先進国=イギリスから、西洋近代社会の仕組みや内閣制度、議会運営のノウハウなど、様々な物を吸収する事になります。
帰国後まもなく外務省に出仕する宗光・・・そのヨーロッパ留学の成果が見事発揮されるのが、明治二十一年(1888年)に駐米公使兼駐メキシコ公使として行った日墨修好通商条約(にちぼくしゅうこうつうしょうじょうやく)に始まる平等条約の締結でした。
しかし、そんな宗光さん・・・明治天皇にはかなり嫌われていたようで、明治二十三年(1890年)に第1次山形有朋内閣で農商務大臣となる時、「人となり、にわかに信じがたし」と言われ猛反対されたのだとか・・・
というのも、明治天皇が好まれる人物は、侍従を務めた山岡鉄舟(てっしゅう)(7月30日参照>>)や、後に天皇に殉死する乃木希典(まれすけ)(9月13日参照>>)といったような、無骨ながらも誠実でまっすぐな人・・・実は、宗光は、その対極にいるようなタイプで、一歩間違えばケガをしそうな過激さから「カミソリ陸奥」の異名を持っていたのです。
結局は、周囲の説得によって大臣就任に至るわけですが、この明治天皇の宗光への不信感は、その後も消える事はなかったのだとか・・・
しかし、幕末の龍馬同様・・・そんなカミソリを見い出して、切れる刃物だからこそ、うまく使いこなそうとしたのが伊藤博文でした。
その後、第2次伊藤博文内閣のもとで外務大臣となった宗光は、明治二十七年(1894年)、イギリスやアメリカをはじめとする合計15カ国と、それまで結ばれていた不平等な条約を改正して、新たに平等な条約を締結・・・幕末以来の悲願を達成させたのです。
同時に起こった日清戦争(6月9日参照>>)では、翌年の下関条約によって、日本に有利な条件での終結を導きました。
しかし、この頃、すでに肺結核という病に冒されていた宗光・・・明治二十九年(1896年)に外務大臣を辞職し、ハワイで療養するも快復せず、東京西ヶ原の自宅に戻っていた明治三十年(1897年)8月24日、54歳でこの世を去りました。
現在、大阪の夕陽ヶ丘(天王寺区)には、清地蔵(さやじぞう)と呼ばれるお地蔵様があります。
ここは、宗光の父・千広が、鎌倉時代の歌人・藤原家隆のそばで眠りたいとの遺言した事で、その家隆の墓所・家隆塚の近くに埋葬された千広の墓所で、実は、宗光も、「父のそばで眠りたい」との遺言を残し、昭和二十八年(1953年)に鎌倉の寿福寺に移転されるまでは、宗光の墓所でもありました。
(くわしい行きかたは本家HP「歴史散歩:上町台地」でどうぞ>>)
龍馬とともに激動の時代を生きたカミソリ宗光は、伊藤博文によって研ぎ澄まされ、世界の表舞台に平等に立てる日本へと導いてくれたのですね。
・・・と、ちょっと持ちあげすぎかな???
でも、まぁ本日の主役なので(人><。)
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コメント
美人薄命と言われますが、英雄は短命ですね。強い意志でストイックな性格で生活しているばかりでもないでしょうが・・
逆に長く生きれば生きるほど、醜態をされしてしまう。英雄らしいイメージが傷ついてしまうのは残念です。今の感覚で、過去を見てはダメなことはわかっているんですが・・
投稿: syunchan | 2011年8月25日 (木) 08時39分
追 ここは、英雄の素晴らしいところと人間的面の双方を強調してくださるので、大好きです。
投稿: syunchan | 2011年8月25日 (木) 08時44分
クーデターを計画して刑務所に入ったとは知らなかったです。年齢が若い事情もありますが、「薩長土肥」出身でない人なので、人事では冷や飯だったんですね。
アクセス数400万件達成おめでとうございます。(v^ー゜)ヤッタネ!!
投稿: えびすこ | 2011年8月25日 (木) 09時23分
syunchanさん、こんにちは~
なんとなく、幕末維新の英雄は短命の方が多いような印象がありますね。
時代という者もあるかも知れませんが…
元気の出るコメントをありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2011年8月25日 (木) 11時00分
えびすこさん、お祝いコメントありがとうございます。
朝起きたら400万アクセスを越えていました。
最近は、日々のアクセスも5000~6000を超える事が多く、うれしい限りです。
これからも、よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2011年8月25日 (木) 11時04分
外務大臣という職務は、国と国を結ぶことが重要なわけですから、陸奥宗光は、坂本龍馬の弟子にして、海援隊の一員として活躍したことで、外務大臣としての能力が備わっていったのだと思います。残念なのは、伊藤博文や大隈重信らと違って、長生きできなかったことですね。もし、宗光が長生きしていたら、日本の外交の歴史に、新たな変化をもたらしたかもしれませんね。そして、龍馬の政治的思想や遺志を確実に継いだのは、宗光だったのではないかと思ってます。
投稿: トト | 2015年10月15日 (木) 07時20分
トトさん、こんにちは~
維新後に酢屋を訪れた宗光が感無量で…という話を聞きました。
龍馬さんへの思いも篤かったのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2015年10月15日 (木) 17時12分