石山合戦・終結~石山本願寺炎上
天正八年(1580年)8月2日、本願寺・顕如が退去した後も籠城を続けていた教如が石山本願寺を退去・・・10年に及ぶ石山合戦が終結しました。
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第15代室町幕府将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛するも、その義昭に制限を加えて、むしろ自らがトップに立たんが勢いの織田信長・・・(1月23日参照>>)
不満を持った義昭の呼びかけによって、越前(福井県)の朝倉、北近江(滋賀県北部)の浅井、さらに越後(新潟県)の上杉謙信と甲斐(山梨県)の武田信玄という大物を加えて信長包囲網が形成されます。
そんな中、すでに京都・山科から、大坂・石山(現在の大阪城公園付近)へと本拠地を移し、城のごとき堀をめぐらして土塁を築き、大阪湾のデルタ地帯に、一大自由都市を築きあげていたのが第11代法主・顕如(けんにょ)の大坂・石山本願寺です。
御影堂(ごえいどう)を中心とする本願寺の伽藍を、コの字型に6つの寺内町が囲み、それぞれの町は本願寺に年貢を納める以外は、町内による自由な自治制度によって運営されていて、当時、その住民は1万人を超える数になっていたのだとか・・・
天下を狙う信長にとって、その支配下に納まらない本願寺とその宗徒は目の上のタンコブ・・・しかも、本願寺宗徒による一向一揆と言っても、それは、農民がクワや竹ヤリでゴチャゴチャやってるような集団ではなく、武将が指揮を取る、れっきとした武装集団(12月9日参照>>)なわけで、当然の事ながら、そのまま野放しにしておくわけにはいきません。
やがて、ことごとく対立する信長を仏敵とみなした顕如は、元亀元年(1570年)8月、「打倒!信長」を、諸国の信徒に呼びかけて挙兵・・・10年渡って繰り広げられる石山合戦が勃発します。
その間にも信長は、顕如の呼びかけに応じた長島一向一揆を相手にし(5月16日参照>>)、浅井&朝倉を倒し(8月27日参照>>)、信玄という柱を失った武田に一発カマして(5月21日参照>>)、一つ一つ、その包囲網を崩していくのです。
やがて天正四年(1576年)から、最も激しい攻防戦が繰り広げられます。
5月には天王寺合戦(5月3日参照>>)・・・
7月には第1次木津川口海戦(7月13日参照>>)・・・
この第1次の海戦で、本願寺に味方する村上水軍にしてやられた信長は、年が明けた天正五年(1577年)、やはり本願寺に同調する雑賀(さいが・さいか)衆を叩きながら(3月15日参照>>)、噂の鉄甲船を完成させ(9月30日参照>>)、天正六年(1578年)に起こった第2次木津川口海戦では、見事、勝利します(11月6日参照>>)。
これにて、大坂湾の制海権を信長に奪われた本願寺は、海上からの兵糧の補給が思うようにできなくなり、しだいに、その勢いは衰えていきます。
天正七年(1579年)10月には、途中で本願寺側に寝返った荒木村重の有岡城が開城され(12月16日参照>>)、一族の女・子供までが処刑された事で、本願寺に籠城する皆々の間にも、「来年には信長が総攻撃をかけて来て、皆殺しにされるゾ!」なんていう噂も飛び交い始めます。
しかし、信長のとった行動は・・・
なんと、時の天皇・正親町(おおぎまち)天皇に仲介に入ってもらって、本願寺と和睦する・・・だったのです。
このブログで、かねがね叫んでおりますが、信長さんは、何でもカンでも根絶やしにやってしまう人ではありません(個人的好みも入ってますが…(゚ー゚;)。
政治や経済に介入しなければ信仰は自由というのが、信長さんのモットーでして、おそらくは、もはや、最初の頃の勢いを本願寺に感じなくなっていたのでしょう。
また、そんな本願寺に振り上げた拳を下ろさせるには、そもそも将軍・義昭の声かけで始まったこの戦いを、将軍よりも権威のある天皇の勅命(ちょくめい・天皇の命令)で幕を閉じさせる事が必要だと考えたからではないかとも・・・。
こうして天正八年(1580年)3月、信長の起請文が天皇を介して本願寺に渡され、顕如が大坂を退去して紀州(和歌山県)雑賀に退き籠る事を条件に、宗徒たちの命が保証され、顕如は石山本願寺を出たのです。
しかし講和に反対して、その後も籠城したのが、長男の教如(きょうにょ)・・・
しかし、そんな教如も、天正八年(1580年)8月2日、とうとう本願寺を退去し、やっとこさ和睦が成立・・・ここに石山合戦は終結しました。
この父・顕如と長男・教如の退去日の差が、後々、東西二つの本願寺に分かれる基となるのですが(1月19日参照>>)、一説には、この教如の籠城は、父親と意見が対立したわけではなく、命の保証という最大の和睦の条件を、本当に信長が守ってくれるかどうかを見極めるために、あえて、退去の時をズラしたのだとも言われます。
とは言え、本願寺を出た後は、淡路・雑賀衆の数百艘の迎えの船に守られて、教如は、雑賀へと移るのですが、その教如の退去直後に寺内から出火・・・三日三晩燃え続けた本願寺の伽藍は、全て焼失してしまったのです。
ご存じのように、この後、本願寺の跡地に、あの豊臣秀吉が、難攻不落の大坂城を築く事になりますが、今となっては、大阪城のどのあたりに石山本願寺があったのか・・・その全容は謎となっています。
おもしろいのは、現在の大阪城内にも残る『蓮如上人袈裟懸の松』(浄土真宗の開祖・蓮如が袈裟をかけたとされる松の木)が、江戸時代の大阪城の絵図では内堀の内側の天守台のすぐ東にあるにも関わらず、現在では内掘の外になちゃってます。
それだけ、石山本願寺の遺構が見つかっていない・・・という事で、歴史好きとしては更なる発見に期待したいところです。
大阪城にある『蓮如上人袈裟懸の松』
碑の後ろにある元気な松の隣に初代?の松の根元だけが残ります。
(『蓮如上人袈裟懸の松』の詳しい場所は本家ホームページの【歴史散歩:大阪城公園・パーフェクトコース】でどうぞ>>)
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コメント
たまたまたどり着きましたが、とっても面白いです!
日本史興味はあるのに記憶力はないし、調べても難しいし…で学生時代以来、遠ざかっていて、京都や奈良に遊びに行くたび、
『今、ほとんど知識がない状態でいいようのないなにか感じるものがあるのは、たくさんの歴史が刻まれてきたからだ!知識のある人にガイドしてほしー!』
といつも思っていました。
歴史ってたくさんの人たちの精一杯の人生が幾重にも重なって残るもんですもんねー深いー!
頭はよくありませんが、そんな私でも楽しい!!と思えるブログです!!
これからもちょくちょく読ませていただきます!!
投稿: コマ | 2011年8月 3日 (水) 01時52分
コマ さん、こんばんは~
管理人の羽柴茶々です。
そもそもは、歴史に興味のない方に「歴史ってオモシロイ」って思っていただけるようなブログを造りたいと思って始めたブログ…
何よりの褒め言葉をいただき、うれしい限りです。
また、遊びに来てくださいね。
投稿: 茶々 | 2011年8月 3日 (水) 02時36分
その後に本願寺が二つになるのですね。
教如が家康に願って、東本願寺が
出来ます。京都の東本願寺に行った事があります。東京なら、築地本願寺にも。
投稿: やぶひび | 2022年11月 6日 (日) 20時08分
やぶひびさん、こんばんは~
>教如が家康に願って…
そうです、そうです、、
この後に天下を取った秀吉が顕如に寺地を寄進し、顕如は、自身の後継に次男の准如を指名しますが、
秀吉の死後に天下を取った家康が、この時父に反発して、なかなか退去しなかった長男の教如の方に寺地を寄進したので、二つに分かれました。
京都では、東と西の場所の近さにびっくりしますよね~
投稿: 茶々 | 2022年11月 7日 (月) 03時29分