毛利隆元と尾崎局
永禄六年(1563年)8月4日、毛利元就の嫡男・毛利隆元が、安芸佐々部蓮華寺で急死しました。
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ご存じ、西国の雄・毛利元就(もとなり)の嫡男として大永三年(1523年)に生まれた毛利隆元・・・
10代の頃に、当時、毛利家が従属していた周防(すおう・山口県)の大内義隆のもとに人質に出され、多感な青春時代を過ごす事になりますが、彼にとっては、とても有意義かつ幸せな人質生活だったようで、後に、大内氏の家臣であった陶隆房(すえたかふさ・晴賢)が謀反を起こした時(8月27日参照>>)には、「時期を待て」という元就に対して、すぐさまの出兵を主張してきかなかったとか・・・。
この時の隆元の態度を見た父・元就が、「感情に先走る分別のなさ・・・このまま隆元に跡目を継がせて良いものか?」と悩んだという逸話から、何かと愚将呼ばわりされる隆元さんですが、決して愚将ではなく、むしろ内政などの事務的な事に長けていた人と思われます。
ただ、比べられる元就がスゴ過ぎて、「父に比べたら・・・」となるのですが、そもそも、一介の国人から西国の覇者へと成りあがった父と比べる事自体にムリがあるわけで、「俺ができたのに、なんでお前はできないんだ!」なんて事を、お父さんから言われ続けた事で、偉大すぎる父親を持ったプレッシャーを感じ、隆元自身は、なかなか自分に自信が持てない性格になっちゃったようです。
そんな隆元さん・・・正確な時期はわからないものの、おそらく天文十八年(1549年)前後に、大内氏の重臣・内藤興盛(おきもり)の娘で、大内義隆の養女となった女性と結婚します。
女性の実名はわかりませんが、結婚した隆元とともに暮らした場所の名をとって尾崎局(おざきのつぼね)と呼ばれます。
これまで、元就をはじめ毛利一族の結婚は、ほぼ同等の国人同志の婚姻だった中で、名門の大大名・大内氏の女性を娶る事は、言わば破格の婚姻でしたし、一方の大内氏にとっても、実力ある登り調子の毛利との関係を強くするという利点がありました。
こうして結婚した隆元と尾崎局・・・戦国の典型的な政略結婚ではありましたが、二人の関係はすこぶる良かったようです。
そもそも、隆元さんの書状の現存が少ないのですが、おそらくは、戦場から出したとおぼしき、
「(娘が元気だと聞いて)元気が何より・・・これかも油断なく育ててくれよ」
とか、
「(長男・輝元のワンパクぶりを聞いて、その輝元に対して)お母さんの言う事をちゃんと聞いて、あんまり遠くに遊びにいかないように・・・」
なんていう、ほのぼのとした書状がいくつか残ります。
どれも、尾崎局に直接宛てた手紙ではありませんが、夫婦の仲が良いからこそ、こんな言葉が出るのだなと感じさせてくれる書状・・・尾崎局とともに過ごした家庭は、「父に比べて劣る」と言われ続けて、自分の実力の無さに悩む隆元にとって、おそらくは、心慰められる癒しの家庭だった事でしょう。
しかし、そんな穏やかな結婚生活は、わずか10年ほど・・・
永禄六年(1563年)8月4日、隆元は、未だ41歳という若さで急死してしまうのです。
この年の5月、九州の大友氏を攻めるべく出陣した隆元でしたが、その途中で、第13代将軍・足利義輝(よしてる)の仲介で、大友氏と毛利氏の講和が成立したので、今は尼子氏の白鹿城を攻めるべく出雲(いずも・島根県東部)に出陣している父(8月13日参照>>)のもとへと引き返す事になったのですが、
その帰り道に、毛利の傘下となっている備後(広島県東部)の和智誠春(わちまさはる)の家に招かれて、酒宴でもてなしてもらった直後に体調を崩し、翌朝亡くなってしまったのです。
このあまりの急死は、当然のごとく、もてなした誠春に疑いがかかります。
直後から、出雲の尼子氏に通じた赤川元保が誠春と組んで隆元を毒殺したとの噂が流れ、結局、この二人は、後に元就によって死へ追い込まれる事になるのですが、この時の尾崎局の心境はいかばかりであったでしょうか?
というのも、実は、彼女の姉か妹が、誠春の息子・元郷(もとさと)に嫁いでいたのです。
戦国の世のならいとは言え、心はりさける思いであった事でしょうが、この時の尾崎局の動向については、残念ながら、記録はありません。
ただ、幸いな事に、まだ夫の父の元就が健在で、未だ幼い輝元の後見してくれる事に、少しの安心感はあったかも知れません。
ただ、その元就も、その8年後の元亀二年(1571年)に亡くなってしまいます。
すでに、毛利一門衆の宍戸隆家(ししどたかいえ)の娘との婚姻を済ませているとは言え、輝元は、未だ二十歳に満たない若さ・・・ここで、尾崎局は動きます。
元就の死の直後、吉川元春(元就の次男)と小早川隆景(元就の三男)へ宛てて、元就の死を悼みつつも「残された輝元にとっては、あなた方二人の叔父が唯一の頼り」と、亡き夫の二人の弟に対して、息子への支援を求めるしっかりした手紙を書いています。
この手紙の一件は、わんぱく小僧の子育てに奮闘していた若き妻が、夫の死を乗り越え、義父の死を受けて、いつしか、ただ悲しむだけの女ではない、強き母に成長していた事を物語ってくれています。
女は弱し、されど、母は強し・・・
尾崎局は、その翌年、元就の後を追うように45歳の生涯を閉じますが、ご存じのように、彼女の思いを受けた二人の叔父は、この後、「毛利の両川(りょうせん)」と称されるほどに、輝元をサポートする事となります。
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コメント
隆元が長生きしていたら毛利は「西の覇者」のまま、江戸時代に入ったかもしれないですね。
毛利家は元就と輝元以外の当主は早死が多い家なので、家督継承の直後は危い事が多いですね。
投稿: えびすこ | 2011年8月 4日 (木) 16時49分
えびすこさん、こんにちは~
>毛利家は元就と輝元以外の当主は早死が多い家…
確かにそうですね。
ただ、そのおかげで元就が当主になれたっていうのも確かですが…
投稿: 茶々 | 2011年8月 4日 (木) 16時58分
こんにちは~
かなり前の大河の毛利元就では上川隆也と大塚寧々がやってましたよね。
隆元は、ドラマでも偉大な父や優秀な兄弟にコンプレックスを抱きつつ、結構親父とぶつかってました。それと、2人はドラマでは恋愛結婚みたいになってましたが、書状から案外ほんとにそうなのかもと思いました。
赤川はメリットもないし、冤罪じゃないかと今でも思ってますが…。元就も錯乱してたんでしょうね。
ちなみに赤川は名前が元春になってますが元保だったと思います、確か。
投稿: おみ | 2011年8月 6日 (土) 13時14分
おみさん、こんにちは~
ぎょぇΣ(゚д゚;)
そうです…元保です~(汗)
早速、訂正させていただきました~
赤川さんに関しては、元就も反省しきりだったようですね。
投稿: 茶々 | 2011年8月 6日 (土) 13時54分
>第15代将軍・足利義昭(よしあき)の仲介で、
在任1568年 - 1588年
?
投稿: ことかね | 2011年8月 7日 (日) 14時45分
ことかねさん、よくぞ気がつかれた!!
13代の義輝ですがな(゚ー゚;
訂正しときました~
投稿: 茶々 | 2011年8月 7日 (日) 17時07分
東京六本木にて、
毛利家の至宝 大名文化の精粋
という展示会があり行って来ました。
隆元さんは絵が得意だったそうです。
元就さんの肖像画が飾られているお隣に、自画像の下書きが展示されていました。絵の良し悪しはわからないですが、上手いと思いました。(私より絶対上手です)(>_<)
ちなみに、雪舟の絵もありました。毛利家のものだったそうです。
東京近辺に住んでる方にはオススメです。
数年前まで元就さんの次は輝元さんだと勘違いしてました(((^_^;)
隆元さんもやはり毛利家には欠かせない人だったのだと。
あと10~20年長生きしていたら、戦いの少ない時代で立派な政治が出来たのに、と思いました。
投稿: ティッキー | 2012年4月29日 (日) 16時36分
ティッキーさん、こんばんは~
そうですね、
隆元さんが、もう少し長生きしてたら、きっと、すばらしい功績をたくさん残していたでしょうね。
投稿: 茶々 | 2012年4月29日 (日) 18時56分