信長の上洛を阻む六角承禎…観音寺城の戦い
永禄十一年(1568年)9月13日、織田信長が近江の六角承禎・義治親子を攻め、観音寺城を奪取・・・六角父子は甲賀に逃れました。
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永禄十一年(1568年)9月と言えば・・・そう、あの足利義昭を奉じての、織田信長の上洛です。
もはや美濃(岐阜県)を制した(8月15日参照>>)織田信長にとって、上洛の際に最も大きな障害となるのが南近江(滋賀県南部)を制していた六角承禎(じょうてい・義賢)・・・
そこで信長は、承禎に、本領安堵などの好条件を提示して、味方になってくれるよう打診しますが、すでに三好三人衆(9月29日参照>>)らと結んでいた承禎は、これを拒否・・・当然の事ながら、信長ですから・・・そこは六角氏を倒しての強行突破という事になります。
ところで、この六角氏というのは、京都に設けられた館が六角東洞院だった事から六角氏と呼ばれるようになりますが、もともとの本姓を佐々木と言い、宇多天皇の流れを汲む名門で、近江源氏として知られた家柄・・・
承禎の時代の天文二十一年(1552年)には、対立していた浅井久政に勝利し、一時は、浅井家を配下にした事もありました(1月10日参照>>)。
治世においても、後に信長が行う城割(8月19日参照>>)を、文献上初めて行ったのは、この承禎・・・しかも、やはり、この後の信長の楽市楽座の見本とも言うべき楽市も行うなど、戦国大名の先駆者的存在の人なのです。
ただ、承禎が息子・義治(よしはる)に家督を譲った弘治三年(1557年)頃から、少々のほころびを見せはじめます。
もちろん、家督を譲っても承禎が実権を握っていたんですが、その当主交代劇の翌年には、反攻的態度を見せ始めた久政の長男・浅井長政に大敗し、さらに永禄六年(1563年)には、義治が有力な重臣を殺害する観音寺騒動が勃発・・・
なぜ殺害に至ったのかは不明ですが、その重臣が城内の家臣たちからの人望も篤く、忠臣として有名な人であった事から、家臣たちの間に主君への不信感が生まれ始め、それを修正すべく『義治式目(六角式目)』なる分国法を制定するのですが、それが、いわゆる重臣たちとの合議制で決められた法であったようで、もはや、主君としての威厳も危うくなっていた感がぬぐえませんね。
そして、そんなこんなの永禄十一年(1568年)、冒頭の信長の上洛です。
それこそ、兄の将軍・足利義輝を松永久秀と三好三人衆の殺され(5月19日参照>>)、自分の身も危うくなった足利義昭が(7月28日参照>>)、最初に頼ろうとしたのは、他ならぬ六角承禎であったというくらい頼りになる人物でしたし、先に書いたように、信長がこの先やろうと思っている治世を、すでにやっている先駆者でもありましたし、なんたって幕府公認の守護でもありますから、それはそれは、信長らしからぬ丁寧さで、味方へのお誘いをかけたようですが、承禎はこれを断固拒否・・・聞くところによれば、使者に会う事すら無かったとか・・・
かくして永禄十一年(1568年)9月7日、準備を整えた信長は1万5000の兵を率いて、岐阜を出立(9月7日参照>>)・・・ここに、三河の徳川家康軍、北近江の浅井長政軍などが加わり、総勢6万の大軍となった織田勢は、途中で3隊に分かれ、稲葉一鉄(いってつ・良通)らが率いる第1軍が和田山城、柴田勝家・森可成(よしなり)らが率いる第2軍が観音寺城、信長以下・丹羽長秀・滝川一益・木下(後の豊臣)秀吉らの第3軍が箕作城(みつくりじょう)へと向かいました。
9月12日早朝に現地の到着した信長軍は、休む事なく、まずは、箕作城への攻撃を開始しますが、箕作城は険しい山が天然の要害となった堅固な城・・・7時間かけても、その守りを破る事ができず、夕方の5時頃には一旦、戦闘が終了・・・
決着は、明日に持ち越されたかに見えましたが、そこに夜襲をかけたのが秀吉率いる精鋭部隊・・・デカイ松明を数百本用意して、麓に火をつけながら一気に攻め昇ります。
現地に到着し、そのまま7時間戦って、もはや、この日の戦闘が無いだろうと思っていた六角軍は、ふいをつかれた事で動揺・・・守りも乱れた城内は、その攻撃に持ちこたえる事ができず、翌・13日の夜明けを見る前に箕作城は落城します(さらにくわしく=2023年9月12日参照>>)。
この一報を聞いた和田山城では、守っていた城兵が戦わずして逃亡・・・
この両城の様子を、居城・観音寺城で聞いた六角承禎・義治父子は、やむなく観音寺城を無血開城・・・夜陰にまぎれて甲賀へと逃亡し、永禄十一年(1568年)9月13日・・・世に観音寺城の戦いと呼ばれる合戦は信長の勝利となりました。
当時、17ほどあったと言われる六角氏の支城も、もはや当主が逃亡した状態では何とできる物でもなく、残りの支城も次々に織田方へと降る事になり、上洛への最大の障害を排除した信長は、皆さまご存じのように、9月26日に京へと入ります(9月26日参照>>)。
ところで、以前、『あなたが思う 戦国の幕引きは?』というアンケート企画を実施させていただいた事がありました(募集ページを見る>>)が、確かに、関ヶ原や大坂の陣などが圧倒的に多い意見でしたが、「足利義昭を奉じての信長上洛」に投票してくださった方も2名おられました(投票結果を見る>>)。
もちろん、歴史上、戦国時代という明確なくくりがないのですから、どれが正解なんて事はなく、それぞれに重きを置く出来事によって考え方が違うわけで、私としては、それぞれが「アリ」だと思います。
そんな中で、戦国時代の定義を、様々な武将が入り乱れる「群雄割拠の下剋上」とした場合、確かに、この信長の上洛以降は、そのような乱れはなくなるわけで、この後は、信長→秀吉→家康にバトンタッチされる中で、いかにして諸大名を傘下に入れるか(抵抗する場合は潰します)の戦闘という感じになり、戦国前半のそれとは、少し様相が違っています。
それを思えば、「信長上洛が戦国の終わり」というのも一理あるわけで・・・
となると、この観音寺城の戦いは、まさに戦国最後の群雄割拠&下剋上という事になりますね~。
ただし、ここで逃走した承禎父子・・・もちろん、また登場します。
それは、あの浅井長政が寝返る朝倉義景との戦い・・・くわしくは、6月4日【まさに背水の陣~瓶割柴田の野洲川の戦い】でどうぞ>>
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コメント
こんにちわ、茶々様。
ここで本日の記事とは少し違う質問にお付き合いくだされば嬉しいのですが・・・。
>足利義昭を奉じての、織田信長の上洛
の『上洛』の意味がよく分かりません。
まぁ、一般的に考えて武家の棟梁の将軍の下で一番勢力のある武将(信長)が大名に支持をする。従わなければ他大名に将軍名義で号令をかけ戦いになるわけですが。
信長・謙信・信玄・義元などは上洛にこだわったような感じがしますが、毛利や北条は上洛にこだわらなかったような感じがします。
まぁ、自国経営が大変だったと言うこともあるんでしょうが・・・。
逆に北条からしてみれば『勝手に言ってろよ!』感が強く感じてしまいます。
それで三好家や朝倉家、今日の主人公である六角家は京都に近いのでそのチャンスはいくらでもあったような気がするんですが・・・。
『上洛』にこだわる真意がわからないので、茶々様なりの解釈をよろしくお願いします。
m(_ _)m
投稿: DAI | 2011年9月13日 (火) 12時56分
DAIさん、こんばんは~
よく言われるのは「京を制する者は天下を制す」って言葉ですが、実際に戦国武将がそのように思っていたかはわかりませんね。
個人的には、やはり、「京都には天皇さんがいてはる」というのが大きいように思います。
なぜか(このなぜかの答えは、それこそ一生モンの研究だと思いますが)日本の戦国武将は、どれだけ武力があっても、誰ひとりとして「天皇を倒して国の王になろう」とはせず、皆、天皇から冠位をもらい、将軍宣下を受けるという形で天下を掌握しようとしましたから、それには上洛して天皇に謁見する事が重要という事ではないでしょうか?
それから…
私見ではありますが、北条は、全国制覇より関東の独立国家のような物を目指してたような気がします。
朝倉義景は天下よりも内政を重視していた人、毛利は、おっしゃる通り、「大友や尼子にかまってる間に信長が西まで来ちゃった」って感じがします。
あと、謙信は2度上洛してますが、これは天下取りというよりは、自分の戦闘を正統化するために、天皇と将軍の承認を得に来のだと思います。
三好長慶は、将軍を追放して畿内を制圧してますので、その時点で天下を取った形になってますが、謝って来た将軍を即座に許して、もとの地位に戻してあげるくらいの人ですので、もともとの上下関係を重視する古風な人だったんじゃないかと思います。
投稿: 茶々 | 2011年9月13日 (火) 21時27分
な、なるほどぉぉぉぉ~
゚.+:。(・ω・)b゚.+:
また今日も茶々様に感謝です!
投稿: DAI | 2011年9月14日 (水) 17時58分
DAIさん、
こちらこそ、いつも感謝ですo(_ _)o
投稿: 茶々 | 2011年9月14日 (水) 23時58分
コメントでも勉強になって、お得。
そう言えば、天下を狙っていたのは信長だけと言う説もあるようですね。
長慶さんなどは、戦国という意識が無かったのかも。
投稿: ことかね | 2011年9月15日 (木) 12時13分
ことかねさん、こんにちは~
おっしゃる通り、
ルール無用の戦国時代でありながら、結局は、そのルールを大事にしてる気がします。
松永久秀や三好三人衆なんかも、将軍を暗殺しておきながら、天皇から将軍宣下を受けれるような人(足利家の人)を擁立して、その側で権力を握る…
古い体制を根本がらくつがえすような事はしないんですよね。
そういう意味でも信長は革新的だったんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年9月15日 (木) 17時19分
信玄も晩年は、東国での小競り合いが、役にはたたないと、気が付いたんでしょうかね。それとも、義昭の信長包囲網の要請により、渋々、腰を上げた。
信長が、一枚、上手であったと言うことでしょうかね。
浅井、朝倉、武田、北条、遅かれ早かれ、手を打つのが遅すぎて、滅亡してしまったと。
投稿: おいらん淵 | 2012年10月28日 (日) 17時41分
おいらん淵さん、こんばんは~
信玄も、なんだかんだで上下関係を重んじる古風な人だったような気がします。
やはり、「信長が革新的だった」の一語に尽きるかも知れませんね。
そんな人物が登場して来る事に、周囲が気づくのが遅すぎたという感じに思えます。
投稿: 茶々 | 2012年10月29日 (月) 02時39分