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2011年9月30日 (金)

時の権力者に帰依された夢窓疎石の夢のたわむれ

 

正平六年・観応二年(1351年)9月30日、鎌倉末期から南北朝にかけて活躍し、あの京都・天龍寺を開山した事でも知られる臨済宗の僧・夢窓疎石が77歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

夢窓疎石(むそうそせき・夢窗疎石)伊勢(三重県)の生まれで、あの近江源氏の末裔でしたが、彼が生まれてまもなく、母方の北条氏の内紛に巻き込まれ、一家とともに甲斐(山梨県)に移住・・・しかし、その母も疎石が3歳の時に亡くなってしまいます。

その母が言うには、
「あなたは、母が観世音菩薩に祈念して授かった子・・・しかも、13ヶ月もお腹の中に入っていて、その後、生まれてからは、お経を聞けば泣きやみ、誰に教えられたでもないのに仏像に礼拝する赤ん坊だった」と・・・

なので、
「おそらくは、仏に導かれし特別な子であろうから、母が死んだ後には仏門に入って、私を弔ってほしい」

Musososeki400 こうして、疎石は、母の遺言を守るべく、甲斐の天台宗寺院・平塩山寺(へいえんざんじ)空阿上人(くうあしょうにん)を訪ね、弟子入りしたのです・・・疎石、8歳の春でした。

その後、真言宗天台宗などの寺を巡り、密教僧としての道を歩み始めますが、やがて、人生の転換期が訪れます。

当時、師と仰ぎ、ともに修業をしていたある僧・・・元気な時は立派な人に見えたこの僧が、死に直面した際に、うろたえ、血迷い、とても見苦しい態度で亡くなっていったのです。

そんな師匠の死にざまを見た疎石・・・
「高僧となっていながら、死に臨んで悟りの境地に達する事もなく、ぶざまな醜態をさらすとは・・・俺が今まで学んで来た事は何やってん!」
と悩みはじめます。

そんな悩み続けていた時に見たのが、ある夢・・・
夢の中で、彼は、見知らぬ異人に導かれて、疎山石頭という禅寺に連れて行かれ、そこで達磨(だるま)大師(10月5日参照>>)の画像を得る事に・・・

こうして、禅宗に目覚めた彼は、その両寺から一字ずつもらって疎石と名乗り、京都は、建仁寺の門を叩きます。

以後の疎石・・・この建仁寺で1年間ほどの修行を積んだ後は、50歳を過ぎるまでの人生の半分ほどを、全国各寺への行脚の修業の旅に費やしますが、その中で徐々に頭角を現して来るのです。

・・・というのも、「洞察力が鋭い」と言うか、「よく見てる」と言うか・・・おそらくは全国行脚の中から導き出したであろう分析が、いかにも適格で的を射ているという感じ???

鎌倉幕府が傾き、やがて後醍醐(ごだいご)天皇足利尊氏が反目し南北朝へ・・・そんな動乱の時代ですから、誰もがこの先を見失い迷う・・・そこに適格なアドバイスをくれる疎石がもてはやされたという事なのでしょう。

かと言って、疎石は、ひとところに落ち着く人でもなく・・・

第14代鎌倉幕府執権・北条高時南禅寺に招かれても、一時を過ごせば、またぞろ伊勢へ行ったり熊野へ行ったり鎌倉へ行ったり・・・後醍醐天皇の相談に乗れば、尊氏にもアドバイスし、その弟の足利直義も教えを請いに来る・・・その兄弟が相対した観応の擾乱(じょうらん)(10月26日参照>>)では、その調停役もこなしています

さらに、暦応二年(1339年)に後醍醐天皇が亡くなった時には、その冥福を祈って京都・天龍寺を開山(10月5日参照>>)、今に残るあの美しい方丈前の庭園を設計するという作庭家の才能も垣間見せてくれます。

Tenryuuziniwaharu900a
天龍寺・方丈前庭(くわしい行きかたは本家HP:歴史散歩「嵐山・嵯峨野」でどうぞ…別窓で開きます>>

こうして、時の権力者に帰依され、厚遇を受けた疎石には1万人以上の門弟がいたと言われ、その中には、後の禅宗や仏教文化に貢献した人たちも名を連ねています。

やがて疎石は、観応二年(正平六年・1351年)9月30日77歳でこの世を去りますが、その生涯に渡って、七人の天皇(院)から国師(皇帝の師という意味の尊称)の号を授けられたことから、「七朝帝師(七朝国師)と称され、その死後も影響を与えつづけたと言われます。

最後に、そんな疎石の魅力を垣間見る事のできる逸話を一つ・・・

未だ鎌倉時代・・・時の執権・北条高時の母に招かれて、しばらく鎌倉に滞在していた疎石は、人里離れた草庵で、心静かに過ごしたいにも関わらず、次から次へと誰かが訪ねて来て、毎度毎度の相談の嵐・・・

嫌気がさして、チョイと弟子とともに信州への逃避行を企てます。

その旅の中・・・10人くらいが乗れる小さな舟で、天竜川を下ろうとしたところ、出発間際に、泥酔状態の武士が飛び乗って来ます。

すでに、かなりのお酒を召しあがったご様子で、やりたい放題&言いたい放題の騒ぎっぷりに、周囲の客も迷惑そう・・・

見兼ねた疎石が、やんわりとその武士をたしなめたのですが、
「何言うとんねん!このクソ坊主・・・俺が邪魔やっちゅーねんやったら、お前が舟下りろや!」
と言いながら、手に持った扇子で、疎石の眉間をピシャリ!

タラリと流れる一筋の血に、怒った弟子が武士に飛びかかろうとした時、疎石は弟子を制しながら、紙にサラサラ~と何か書き、それを弟子に見せて、その場を抑えました。

やがて、しばらくすると、どうやら、その武士も酔いが覚めはじめたらしく、先ほどの無礼を反省し、頭を下げながら、その名を訪ねます。

弟子が、疎石の名を告げると、武士はびっくりして、さらに平謝り・・・とは言え、気になるのは先ほどの紙・・・

いったい、疎石は何と書いたのか?

弟子に頼んで見せてもらうと・・・
うつ人も うたるる人も もろともに
  ただひとときの 夢のたわむれ 

その器の大きさを感じさせられるエピソードです。
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2011年9月29日 (木)

気はやさしくて力持ち…高崎藩主・安藤重長

 

明暦三年(1657年)9月29日、第2代上野高崎藩主・安藤重長が58歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・

安藤重長(しげなが)は、後に東照宮造営副奉行も務めた事でも知られる本多正盛の息子として慶長五年(1600年)に生まれますが、父は、同僚と口論の末、相手を自害に追い込んでしまい、その責任をとって、自らも自害してしまいます。

父を亡くした重長は、母親の実家に引き取られますが、この母親が、徳川家康秀忠父子2代に仕えて、最終的には老中にまで上り詰めた初代高崎藩(群馬県高崎市)安藤重信(しげのぶ)の娘だった事から、孫ながらその養子となって安藤家と藩主の席を継ぐ事になるのです。

・・・で、実際にはお祖父ちゃんで戸籍上はお父ちゃんのこの重信さんって人が、小牧長久手やら関ヶ原など連戦し、あの大坂の陣では、冬と夏の間の一時的な講和の際に、大坂城の堀の埋め立てを監督をしたなんていう経歴の持ち主なのですが、なんと言っても、語られるのは、その怪力伝説・・・

ちょっと腕を掴んだだけなのに、掴まれた相手には、くっきりとアザが残っていたとか、小姓に鎧や銃を目いっぱい持たせて、その小姓を担いで城内一周した(何のために?)とか・・・

Andousigenaga600as そんな義父のDNAが隔世遺伝したのか、この重長さんも、負けず劣らずの怪力伝説を持っています。

彼が、重信の後を継いで2代目藩主となった高崎には、信正(しんしょう)という一向宗の僧がいて、この僧の怪力ぶりは上州はおろか、近隣諸国に響き渡るほとだったのですが、この僧に興味を持った重長が、ある日、僧を城に呼び、力だめしをさせてみる事に・・・

「この青竹をつぶせるかい?」
と言って、竹を差し出す重長・・・

「それでは!」
と両手で掴んで力を入れる事3度・・・なんとか竹をひねり潰しましたが、さすがに竹の節を潰す事はできませんでした。

それを見た重長・・・おもむろに庭に下りて来たかと思うと、同じ太さの青竹を片手で掴み、「フン!」と力を込め、なんと、そのまま、竹の節ごと握り潰したのだとか・・・

いやはや、またもや「何のために?」と聞きたいところですが、ちょいと自慢したかったんでしょうね(^-^;

しかし、そんな重長さんですか、晩年にはカッコイイ逸話も残してくれています。

時は、明暦三年(1657年)1月・・・

ご存じ、明歴の大火=振袖火事が江戸を襲います(1月18日参照>>)

この時、いち早く江戸城に駆け付けた重長でしたが、その大手門がピシャリと閉められていて中に入る事ができません。

「何とかせねば!」
と、大声で怒鳴り散らし、門を叩きまくって開けさせたは良いが、彼に続いて大勢の旗本や大名も同時に乱入・・・しかし、皆、右往左往するばかりで、何の役にも立たず、ただ、騒ぐだけ・・・

それを見た重長・・・やにわに六尺棒2本を両手に持って横に広げて門に立ちふさがり、群がる彼らをグイグイと門の外へ押し返し、「役たたずはいらん!」とばかりに、閉めだしてしまったのだとか・・・

その後、火の手は江戸城本丸に燃え移り、やがて、時の将軍・徳川家綱のいた二の丸まで危なくなってきます。

議論を重ねた老中たちは、安全第一を考えて、「ここはひとまず、将軍を井伊直孝の屋敷に移そう」と決定しました。

ところが、重長・・・
(合戦や公式行事ではなく)天災のために、将軍を城外に出した”なんていう前例を作ってしまうのは良くない!!」
と、老中たちの意見に真っ向から反対します。

結局、将軍は、重長の勤務先である山里御殿に移っていただく事に・・・

果たして、その後、2日間燃え続けた江戸の町は、ようやく鎮火となるのですが、なんと!!!、かの井伊直孝の屋敷も全焼・・・つまり、もし、将軍がそっちへ逃げていたら、大変な事になっていたかも知れなかったのです。

間接的にではありますが、将軍の命を救った重長・・・残念ながら、その大火から9ヶ月後の明暦三年(1657年)9月29日58歳でこの世を去ってしまうのです。

ところで、高崎藩と聞いて、「あ…!」と気づかれた方もおられるでしょう。

そうです。
3代将軍・家光の弟で、父の秀忠と母の(ごう・今年の大河の主役です)に溺愛され、一時は兄・家光よりも将軍にふさわしいとも言われた徳川忠長・・・彼が、幽閉された場所が高崎で、預かっていた人が、本日の重長なのです。

その時の重長は、兄にうとまれて幽閉の身となった忠長にたいそう気を配っていたらしく、いつも、あれやこれやの機転をきかせて、便宜を取り計らっていたようです。

家光が出したとおぼしき「忠長に自害するように説得しろ」の命令を持った使者が高崎を訪れた時、重長は
「この身にとって、このような命を受けるのは、最も不幸な事ではあるが、御上の書状を拝見した以上、背くわけにはいかないので、しっかりとやるしかありません」
と静かに語ったと言います(12月6日参照>>)

忠長に謀反の気持ちがあるかないか?そばで世話をしていた重長が一番良く知っていたでしょうからね・・・

そんな気持ちを抑えながらの命令遂行・・・重長の忠長へのやさしき配慮は、自害するその日まで続けられたと言います。

怪力伝説を残しながらも、繊細なやさしさを持ち、将軍家への忠誠心も揺るがず・・・重長は、そんな人だったのかも知れません。
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2011年9月28日 (水)

厳島の戦い~運命を変えた能島・来島村上水軍の参戦

 

弘治元年(1555年)9月28日、厳島の戦いをひかえた毛利軍救援のため、村上水軍二百艘が安芸廿日市沖に現れました。

・・・・・・・・・

西国の名門・大内氏の傘下となり(1月13日参照>>)、徐々に頭角を現す安芸の国人領主・毛利元就(もうりもとなり)でしたが、その大内氏の重臣・陶晴賢(すえはるかた・当時は隆房)が謀反を起こして大内義隆(よしたか)を倒し、傀儡(かいらい・あやつりり人形)大内義長(よしなが・当時は大友晴房=大内義隆の甥で大友宗麟の弟)を当主に擁立して事実上の実権を握った(8月27日参照>>)事から、元就は反旗をひるがえします。

しかし、「まともに戦っては勝ち目が無い」と判断した元就は、様々な調略を仕掛けるとともに(4月8日参照>>)厳島(いつくしま・宮島)宮尾(みやのお)を築き、陶軍の大軍を小さな島へおびき出す事に成功・・・

しかし、相手は500艘の船に2万の大軍で、コチラは、直属の川内警固衆小早川水軍に援軍の因島(いんのしま)村上水軍を合わせても、わずか120余艘に2000・・・

草津城に入った元就は、かねてより声をかけていた能島(のしま)来島(くるしま)両村上水軍の援軍を待ちますが、9月21日・・・もはや宮尾城は落城寸前に陥っていましました(9月21日参照>>)

・‥…━━━☆・‥…

と、先日=9月21日は、ここまでお話させていただきました(くわしくは、上記のそれぞれのリンクへ…)

果たして9月26日・・・元就は、三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ)を通じて、能島・来島村上水軍に最後の援軍催促をします。

しかし、翌27日になっても、彼らが現われる気配はありません・・・いや、例え現われたとしても、彼らには晴賢も声をかけていますから、アチラにつく可能性だってあります。

このまま、宮尾城が落城すれば、おびき出し作戦もクソもなく、ただ、陶軍に厳島を制圧されただけの結果となってしまうワケですが、かと言って、少ない兵で勝てる見込みは少なく、万が一この合戦に勝てたとしても、少ない兵なら彼らを囲む事ができずに逃走を許してしまう事になり、何のためにおびき出してまで決戦を仕掛けたのやら・・・って事になります。

とは言え、もう後には退けません

やむなく、両村上水軍の参加をあきらめた元就は、全水軍120艘を厳島の対岸・地御前(じこぜん)に集結させ、渡海の準備に入ります。

一方、陶軍の先鋒を任された三浦房清(ふさきよ)は、宮尾城の堀を埋め立てて、更なる追い込みをかけます。

かくして一夜明けた弘治元年(1555年)9月28日・・・
もはや、一刻の猶予もならぬとばかりに、元就が出陣の準備を整えていたお昼過ぎ・・・突然周囲にいた兵から歓声があがります。

慌てて望楼に立ち、はるか向こうを眺めてみると、その彼方には200を越えるかの兵船が、帆に満杯の風をはらませて、コチラに近づいて来るではありませんか!

村上武吉(たけよし)らに率いられた能島・来島の村上水軍の登場です。

でも、まだ、わかりません。

両軍が見守る中、大船団は静かに・・・
しかし、厳島には目もくれず、「我らは毛利方!」と言わんばかりに、安芸廿日市沖にて停泊しました。

再び、大きな歓声を挙げる毛利軍・・・
一方で、静まりかえるは陶軍・・・

たのもしい援軍を受けて、新たに作戦を練りなおす元就・・・

Itukusima2cc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

まずは全軍を2隊に分けて、地御前を出港・・・うち1隊は、元就自身が指揮をとり、隆元(たかもと・元就の長男)吉川元春(きっかわもとはる・元就の次男)ら、毛利&吉川の精鋭が従う本隊とし、厳島の北東岸の包ヶ浦に上陸して、博奕尾(ばくちお)の尾根を越えて塔の岡背後の丘の上から晴賢本陣に突撃!

この間、児玉就方(こだまなりかた)飯田義武(よしたけ)が指揮する川内警固衆が警固船にて、本隊の兵員輸送と海上警備に当たる。

もう1隊の隆景が指揮する小早川水軍と村上水軍は、大野の海岸を大きく迂回して周防(すおう・山口県)との連絡路を断って陶軍を孤立させ、その後、一部は輸送と海上警備を行いつつ、一部は厳島正面に上陸して宮尾城に籠る城兵との連絡を取りながら晴賢の本陣に迫る。

お互いの味方の印として縄のタスキを二つ巻き、合言葉は「勝つ!」に対して「勝つ!勝つ!」と返す。

各人3日分の兵糧として、餅:1袋、焼飯:1袋、米:1袋を腰に巻き、柵用の木1本と、縄:1総を持つ事・・・

ホンマかいな?
と思うほどの事細かな指示ですが、もちろん、作戦を新たに練りなおしたと言えど、その大まかな物は、すでに元就の構想にあったプラでしょう。

なんせ、すでに、厳島上陸後の道筋には、周囲の木の枝を折って目印がつけてあったと言いますから・・・

あとは、この作戦を、いかにして理想に最も近づけて成功させるか?です。

こうして迎えた9月29日ですが、その夜から、ハンパない暴風雨・・・さらに、明けた9月30日も、海上は大荒れ・・・

この日の夜の出陣を予定していた元就に、隆景が進言します。
「さすがに、この天候では、延期した方がよいかと・・・」

しかし、元就・・・
「この暴風雨やからこそ、敵も油断してるというもの・・・むしろ絶好の機会である」
と断言!

さらに、上陸地の包ヶ浦と、その近くにある博奕尾にちなんで
「包(つつみ=鼓)も博奕(バクチ)も、ともに打つ物・・・敵を討つにつながり、コチラの勝利は間違いない!」
との強気発言には、もはや「ダジャレかよ!」のツッコミを入れる者もなく、むしろ将兵の士気は最大限に高まるのでした。

かくして、いよいよ出陣の午後6時・・・と、いきたいですが、このお話の続きは、やはり「その日」10月1日のページへどうぞ>>
 

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2011年9月27日 (火)

家康の大坂城入りと「大河ドラマ・江」

 

慶長四年(1599年)9月27日、剃髪して京都三本木に隠居した北政所(高台院)に代わって、徳川家康が大坂城西ノ丸に移りました。

・・・・・・・・・・

ちょうど、関ヶ原の1年前くらいの事ですね~

その前年=慶長三年(1598年)の8月18日に、あの豊臣秀吉が亡くなった事を受けて、それまで、大坂城の西の丸にいた奥さんのおねさん=北政所(高台院)が、剃髪して尼となり、かつて「秀頼卿御城」と呼ばれた京都三本木のお屋敷に移ったのが9月26日・・・

ほんでもって、それを受けた徳川家康が、翌日の慶長四年(1599年)9月27日に、当時拠点としていた伏見城から、おねのいなくなった大坂城西の丸に入ったというわけです。

・・・と、聞いて、
のちのちの歴史を知っている私たちは、ついつい、「いよいよ家康は、豊臣を滅ぼそうと、大坂城に乗り込んで来たな!」なんて思っちゃいますが、実は、そうではありません。

以前より度々言わせていただいていますが、死を予感した秀吉は「東西の事は家康(東・輝元(西)の二人に、北陸の事は前田利家に、畿内の事は5人の奉行に任せる」という遺言していて(8月9日参照>>)、彼らに、未だ幼き秀頼を盛りたててくれるように頼んでいます。

特に、自分と同世代の家康と利家には、秀頼を主君と仰ぎ、その両輪となって、自分亡き後の豊臣政権を運営してくれるよう頼んでいた事は、皆さまもよくご存じ・・・

さらに、亡くなる時には伏見城にいた秀頼淀殿(茶々・秀頼の生母)に、(自分が死んだ後は)大坂城に移るように」という事も遺言しています。

その遺言通りに、秀頼と淀殿が大坂城に移ったのが、慶長四年(1599年)の正月10日・・・これは、秀吉の死によって秀頼が豊臣家の長となり、大坂城で政務をとるという事・・・ただし、まだ幼いので、事実上は、その生母である淀殿が城主という立場ではありますが・・・

なので、その秀頼の両輪となってサポートする家康と利家が大坂城に入るのは、当然と言えば当然なワケで、家康が伏見城を拠点としながらも、大坂城にも居場所があるというのは、自然な事のような気がします。

残念ながら、利家は、この年の3月3日に亡くなってしまいますが・・・(当初は、息子の利長が秀頼の傅(もり)役として大坂城にいました)(8月8日前半部分参照>>)

もちろん、先日も書かせていただいたように(9月6日参照>>)おねさんが大坂城を出るのも、当然のなりゆき・・・政権は後継者に移ったわけですからね。

やがてその翌年・・・6月16日、家康は、主君・秀頼に暇(いとま)乞いをして、上洛拒否を続ける会津の上杉景勝(4月1日参照>>)討伐へと出陣します。

そう、これが、あの関ヶ原の発端となるわけです。

この家康の留守中に、かねてより、豊臣家中でモメにモメて(3月4日参照>>)、謹慎処分を喰らっていた石田三成伏見城を攻撃し(7月19日参照>>)、それを知った家康が、上杉討伐を取りやめて戻って来て(8月11日参照>>)関ヶ原で激突!・・・ってワケですね。

「天下分け目の関ヶ原」と言われますが、この時点での関ヶ原は、あくまで豊臣家内の内紛・・・豊臣家の中の東軍と西軍です。

・・・で、ご存じのように、慶長五年(1600年)9月15日、その関ヶ原は、わずか半日で決着がつき、家康の大勝利終わります(2008年9月15日参照>>)

大戦から12日後の9月27日には、家康は大坂城へと戻って来て、秀頼と淀殿に戦勝報告をするとともに、豊臣家への忠誠を誓い、そのまま、大坂城西の丸にて年を越し、翌年・慶長六年(1601年)の3月23日に伏見城へと戻っています。

うむむむ・・・???
ひょっとして??っと、先々週(9月18日)放送の大河ドラマの光景を思い出して、気づかれた方はいらっしゃいますか?

向井秀忠君が、なつという女性との間に子供(男子)を作っちゃった事で、ふてくされまくりの樹里=江ちゃんが、
「今度産む子が、また姫だったら離縁してくださいませ」と言いだした事・・・

まぁ、何度も言っております通り、ドラマは創作物なので、歴史に忠実である必要はないし、その歴史も、本当だったかどうだか、この目で確かめた人はいないワケですから、全然アリなわけですが・・・

ただ、「離縁してください」というのはイイが、本当に離縁したら樹里ちゃんは、どこに帰るんだろう?と妄想してしまいました。

目上でありながら敬語も使わず、「サル!サル!」と呼び捨てにされてもなお、3食のタダ飯を食べさせてくれて、綺麗な着物を着させてくれた秀吉は、もういないのに・・・

百歩譲って頼るとしたら、大坂城にいる姉の淀殿しか・・・って考えた時、

上記の「離縁して下さい」と言ったのは、後に松平忠直に嫁ぐ事になる勝姫がお腹にいる時ですから、勝姫の誕生日=慶長六年(1601年)5月12日から逆算しながら・・・しかも、未だ臨月でもなさそうな雰囲気でしたから、まさに・・・

「家康が西の丸にいる時に、
そんな事言ってんの?」!!(゚ロ゚屮)屮

もしかして、家康が、そのまま居座り続けてたら・・・

まぁ、大坂城は広いですから、そうそう顔を合わす事もないかとは思いますが、もしかして、江が大坂城に戻ったら、同じ敷地内に離縁した夫の父親がいるという状況になったのでは?と想像してしまい、いけない妄想がどんどん膨らみましたです( ´艸`)プププ

ちなみに、より妄想を膨らませるためにエッゲンベルグ城の豊臣期大坂図屏風(9月21日参照>>)で眺めてみると・・・
豊臣期大坂図屏風(エッゲンベルグ城)
左:青○が本丸で、右:ピンクが西の丸という位置関係になります・・・けっこう近っ!

てゆーか、秀忠と江は、はなから、豊臣と徳川の和睦がらみの政略結婚・・・江が何と言おうが、離縁を決めるのは、豊臣の当主と徳川の当主ですけどね。

そう言えば、ここのところの大河ドラマでは、「家康が豊臣を潰そうとしている」あるいは「いずれ家康によって豊臣が滅ぼされる」事を、全員が知ってるかのようなセリフ回しが多いんですけど、以前から言わせていただいている通り(5月10日参照>>)実際には、そんな事は無かったと思います。

無かったからこそ、
いつまでたっても
豊臣家の威光が消えなかったからこそ、
家康は豊臣家の存在そのもをぶっ潰さなければならなかったのだ
と思います。

PS:どうせ、ラブストーリー大河なら、是非とも、家康と淀殿の結婚を阻止すべく、淀殿とかけおちする大野治長(12月16日参照>>)をやってほしい~~~ヽ(´▽`)/と願う今日この頃
事実は小説よりも奇なり
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2011年9月26日 (月)

小泉八雲=ラフカディオ・ハーンの見たものは…

 

明治三十七年(1904年)9月26日、『怪談』の著者として知られる明治の文豪小泉八雲が狭心症により、東京の自宅で54歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・・

小泉八雲(やくも)・・・日本国籍を取得する以前の名前はラフカディオ・ハーンと言い、ギリシャフカダ島にて、アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれました。

その後、アイルランドダブリンという場所に移りますが、6歳の時に父と母が離婚・・・同じダブリンに住む大叔母に引き取られ、以降、両親に会う事は一度も無かったと言います。

やがてフランスの神学校へ進んだハーンは、16歳の時、遊びの最中の事故により、左目を失明するという重傷を負ったうえに別の女性と再婚していた父が病死・・・さらに不幸な出来事は続くもので、その翌年には、大叔母が破産して、やむなく学校も退学し、生活も困窮を極めます。

心機一転・・・19歳の時に、夢を抱いて移民船に乗り込んでアメリカに渡り、幸運にも24歳のとき新聞記者となりました。

その後、新聞記者としての紆余曲折もありましたが、そのかたわらで外国文学の翻訳や創作物を発表しているうち、その文才が認められるようになっていき、やがて、ハーンが尊敬する女性ジャーナリスト・エリザベス・ビスランドが話してくれた日本に興味を持った事から、明治23年(1890年)、39歳の時に記者として日本にやって来たのです。

Koizumiyakumo600 来日後まもなく、出版社との契約を破棄したハーンは、帝国大学(東大)チェンバレン教授文部省の紹介で、島根県尋常中学校及び師範学校の英語教師となり、翌年には松江の士族・小泉湊の娘・節子さんとの結婚も果たしました。

ただ、どうやら、松江の冬の寒さがかなり苦手だったようで、わずか1年3ヶ月で松江を去り、その後は、熊本第五高等中学校、さらに神戸クロニクル社帝国大学文科大学早稲田大学などに勤務しつつ、その間に日本国籍を取得して「小泉八雲」となり、ご存じのような様々な著作物を残す事になります。

日本の伝統的精神や文化に興味を持ち、その著書で、日本を広く世界に紹介した八雲ですが、その集大成と言える『怪談』は、死の直前に完成し、明治三十七年(1904年)に出版された作品です。

こうして八雲の生涯を見てみると、不遇な時代を送った少年期から一転、日本にやって来て運が開けた感がありますが、実は、その根底となる物は、あの両親の離婚の時から始まっていたようです。

そもそも、軍医として家を留守にする事が多かった父と、そのために夫婦のコミュニケーションをとれなかった母が、精神を病んでしまい、一人で故郷に帰ってしまった・・・

これで離婚となって大叔母に引き取られる事になるのですが、未だ幼い八雲にとっては、そこで両親から見捨てられたような不安とともに、父への憎悪が渦巻き、かなりのショックを受けて心を痛め、毎夜のように、幽霊や鬼に苦しめられる恐ろしい夢を見ていたと言います。

そんな八雲少年の心の支えとなってくれていたのが、大叔母の家に居候していたジェーンという女性・・・彼女は敬虔なカトリック教徒で、6歳の八雲にやさしく接し、いつも、神の思し召しについて語っていたのだとか・・・

そんなある日の夕暮れ時・・・八雲は、屋敷内のとある場所で、黒いドレスに身を包んだ彼女を見かけたので、「ジェーン姉さん!」と声をかけると、ふりかえったその顔は、目も鼻も口もないのっぺらぼう・・・「アッ!」と声をあげた瞬間、その姿はかき消され、一瞬にして見えなくなってしまいました。

腰をぬかして、しばらくは恐怖におののいていた八雲少年でしたが、果たして、その数ヶ月後、ジェーンは肺病で亡くなってしまったのだとか・・・

夢か幻か生霊か、はたまた、不幸な境遇に耐えかねた少年の心の叫びだったのか・・・

今となっては、本当の事かどうかもわからないエピソードですが、八雲が描くお化けや幽霊が、ただ怖いだけの存在ではないのは、そこに、やさしかったジェーン姉さんの面影を感じていたからなのかも知れません。
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2011年9月24日 (土)

西南戦争が変えたもの~戦い方と通信システム

 

明治十年(1877年)9月24日、城山での最終決戦にて西郷隆盛が死亡し、西南戦争が終結しました。

・・・・・・・・・・

明治維新後に起こった、日本最後の内戦とも言われる西南戦争…その戦況については、本日の城山での戦いも含め、いくつか書かせていただいておりますので、今回は、その西南戦争がその後の軍事をどう変えたか?についてお話させていただきたいと思います。

戦いの経緯についてはコチラから↓

・‥…━━━☆

大きな戦いという物は、時代の転換期でもあります。

それこそ、明治という新しい時代をもたらした戊辰戦争は、日本の歴史上、最も大きな転換期であり政変であったわけですが、それが、大きければ大きいほど、戦争一発ですべてが変わるというわけにはいかず、そのしわ寄せ的な物も残るわけで・・・

西南戦争は、その明治維新で、最も変化した士族と呼ばれた人たち・・・彼らは、それまで、それぞれの領地で政治を行い、治安を守るという仕事をして禄(ろく)という給料をもらっていたわけですが、それが、維新後は、政治は政府が行い、治安は軍隊と警察が行うようになり、その行き場が無くなると同時に収入もなくなる・・・かと言って、いきなり、やったことも無い商売を始めても、なかなかうまくいかず・・・

てな不平不満が、
明治七年(1874年)2月~4月の佐賀の乱>>
明治九年(1876年)10月24日の神風連の乱>>
同年10月27日の秋月の乱>>
同年10月28日~11月8日の萩の乱>>
と、立て続けに起こる士族による反乱なわけですが、その最後で最大の反乱が西南戦争・・・

このうち、神風連の乱は旧福岡藩士で、秋月の乱は旧熊本藩士ですが、佐賀の乱は肥前(佐賀県)で萩の乱は長州(山口県)、西南戦争は薩摩(鹿児島県)・・・しかも、事前に発覚したため失敗に終わってますが、この西南戦争には、旧土佐藩士も加わるはずだったわけで、やはり、「薩長土肥(さっちょうどひ)と称された、維新の立役者となった雄藩の藩士たちに、その不満も大きかったように思えますね。

なんせ、「新しい世の中になる!」と思って命がけで戦った結果が、武士という特権の廃止というわけですから・・・(もちろん、現実の維新には様々な改革や変化がありますが、彼ら士族にとって、最も大きな変化は、コレでしょうから)

しかし、西南戦争を含むこれらの戦いは、それこそ、士族から徴兵へと、時代が変わった事を如実に表す結果となりました。

そもそも、この西南戦争が始まった時、
「この軍隊が、薩摩の猛者たちを相手にできるのか?」という不安が、政府自身にもあったのです。

なんせ、この軍隊・・・明治六年(1873年)に国民皆兵(かいへい)の徴兵令を出して集めた者たちで、士族も含まれてはいますが、その多くは、戦いの経験などない農民や町民なのですから・・・

実は、その予想通り、田原坂などの白兵戦では、実際に刀を振りかざして突進して来る薩摩兵に対して、ただただ逃げ回ったり、震えて身動きできないなんていう国民兵がたくさんいたのだとか・・・

Tabaruzaka900
田原坂激戦之図(熊本市立熊本博物館蔵)

あの谷干城(たにたてき)が、熊本城で薩摩兵を相手にした時、撃って出る作戦に出ず、ただひたすら籠城したのも、「野戦になれば、徴兵の素人兵は、経験豊富な猛者である薩摩兵にかなわない」と思っていたからだとも・・・

しかし、ここで物を言ったのが、軍隊が揃えた最新兵器と、数の多さ・・・

刀を抜いての白兵では弱いものの、鉄砲を駆使した団体戦では、むしろ、薩摩兵を圧倒できたのです。

それは、勇敢な薩摩士族を相手にしていく中で、やがて、彼ら=国民兵の「俺らも、なかなかできるやん」という自信につながって行き、さらに、最終的に西南戦争で勝利した事で、士族でなくても戦えるんだ」という事の証明にもなったわけです。

しかも、この西南戦争では、上記のように抜刀隊などの白兵戦のような戦いもあった一方で、これまでの伝令や狼煙(のろし)に代わる有線電線や手旗信号や暗号といった新しい通信システムも大いに活躍しました。
戦いの近況が電信によって逐一報告されていた様子は
 【激戦!田原坂・陥落~薩摩の敗因は?】>>
 【西南戦争~熊本城・救出作戦】>> 等でどうぞ

この事が、徴兵された国民兵自身にも、管理する側にも大きな変革を与えます。

まずは、国民兵たちには、西南戦争で露呈した精神面の弱さや個人戦の弱さを克服するための精神訓練や銃剣訓練を徹底する事になります。

そして上部の方では、西南戦争で指揮命令系統がスムーズに運ばなかった事を反省し、作戦の立案と発令を担当する参謀本部を設置して、行政業務を担当する陸軍省から独立させ、いちいち陸軍省を通してから実務にこぎつけなくても、有事には、即、反応できるようにしました。

これらの変化は・・・

そうです。
この後、日本は、日清・日露という大きな戦争を体験します。

ご存じのように、その両方に日本は勝利するわけですが、この日清・日露の司令官の大半が西南戦争経験者なのです。

もし、彼らが、ここで旧薩摩藩士という強兵相手の大きな戦争を経験していなければ、果たして対外で優位に立てたかどうか・・・

西南戦争とは、日本の軍事を大きく変えた戦争でもあったのです。

もちろん、軍事の他にも、政治や経済に与えた影響もありますが、そのお話は、また別の機会に・・・

さらに、すでにご紹介させていただいてるコチラへの影響・・・ってのも
(こっちのその後もお楽しみくださいo(_ _)oペコッ)

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2011年9月22日 (木)

アンケート企画:歴史上で一番「いい夫婦だなぁ」と思うカップルは?

 

本日は、気分を変えてアンケート企画といきましょう!

夫婦の記念日と言えば、毎年11月22日の「いい夫婦の日」が有名ですが、11月だけでなく、毎月22日も「夫婦の日」・・・良くも悪くも(?)「すべての夫婦の記念日」という事で、

Kokusaikekkoncc_1 今回のテーマは・・・
「あなたが、歴史上で一番『いい夫婦だなぁ』と思うカップルは?」という事で、アンケート募集したいと思います。

もちろん、昔々は、一夫多妻の時代もありましたので、今回の「夫婦の定義」は、正式な夫婦だけではなく、側室や事実婚のカップルも含まれますので、その点はご了承ください。

とりあえずは、いつものように、個人的に「これは?」と思う選択肢を16個用意させていただきましたので、「このカップルがイイ!」という二人に清き1票を・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 聖徳太子×膳部妃(かしわでのひ)
    伝承では自殺したと言われる聖徳太子…身分の高い妃が複数いたにも関わらず、その死出の道連れに選んだのは、三輪明神参拝の時に知り合った恋人=一般女性の膳部妃でした…(参照ページ:2月22日>>)
  2. 聖武天皇×光明皇后
    藤原氏にお膳立てされた完全なる政略結婚ではあったものの、二人の間のは愛があったと信じたい!…(参照ページ:8月10日>>)
  3. 源頼朝×北条政子
    この時代に大恋愛結婚!…政子が、父の反対を押し切って、暴風雨の中を頼朝のもとに走り、かけおち同然で一緒になったいきさつは有名ですね。
    キョーレツなヤキモチも愛の証…(参照ページ:8月17日>>)
  4. 源義経×郷御前(さとごぜん)
    義経のお相手は静御前が有名ですが、今回はあえて、正室の郷御前。
    全盛期の政略結婚でありながら、追われる身となっても夫とともにいて、最後の最後まで離れる事のなかったのは、やはり純愛?…(参照ページ:4月30日>>)
  5. 蓮如×如了(にょりょう)
    子供のオムツもその手で洗ったと言われる元祖イクメン・蓮如。
    最初の奥さんだった如了さんと死別してから、何人もの奥さんを娶る蓮如さんですが、その夫婦円満の原点は、やはりこの方から…(参照ページ:3月25日>>)
  6. 毛利隆元×尾崎局(おざきのつぼね)
    なんとなく手紙で伝わるイイ雰囲気…良きパパ&良きママは良い夫婦の証!
    夫亡き後の彼女の生き方にも愛を感じます…(参照ページ:8月4日>>)
  7. 武田勝頼×北条夫人
    夫婦として過ごした日々はわずか…しかし、愛の深さはその期間の長さだけでは測れないもの。
    実家へ戻る事を拒み、夫と死ぬ事を選んだ若き姫君は、そこに命がけの愛を知った事でしょう…(参照ページ:3月11日>>)
  8. 前田利家×まつ
    歌舞伎者の不良夫を見守りつ、その窮地にはケツを叩いて叱咤激励…「あの夫にしてこの妻あり」と思わせるお似合いのカップル…(参照ページ:3月3日>>)
  9. 山内一豊×見性院(けんしょういん・千代またはまつ)
    もはや仲間由紀恵さんのイメージがピッタリ張り付いてしまっている千代さんですが、なんだかんだで内助の功=妻のかがみ。
    実際には、どこまで真実かはわかりませんが、後世まで残るエピソードには、それなりの根拠があるはず…いい夫婦だったんだろうなぁ…(参照ページ:9月20日>>)
  10. 宇喜多秀家×豪姫
    若き日は、病弱の妻を夫がいたわり、夫が窮地に立てば妻が100%の力で支援する。
    離れた後も助け続けた豪姫の心意気に乾杯!…(参照ページ:5月23日>>)
  11. 徳川秀忠×
    実際には???な二人ですが、今年の大河ドラマでは、ラブラブ度上昇中。
    「お互いが幸せなら、戦も他人もどうでもイイ!」(←大河の場合)っていう姿勢も、ある意味、一つの愛の形なのかも…(参照ページ:6月19日参照>>)
  12. 上杉鷹山(ようざん)×幸姫
    婿に入ったばかりの頃、四面楚歌の鷹山を救ってくれたのは、純心無垢な幸姫の姿。
    「彼女は、神様が僕にくれた天使だ」←言われてみたいゾ~~…(参照ページ:3月12日>>)
  13. 坂本龍馬×楢崎龍(ならさきりょう)
    なんやかんやで、幕末の代表格として入れとかんとあけませんやろ。
    恋多き龍馬ですが、やっぱり、最後の人となったお龍さんは、あの寺田屋の全裸で階段疾走も含め、知名度も一番ってとこでしょうか…(参照ページ:11月15日>>)
  14. 大山巌×山川捨松
    戊辰戦争で会津若松城に砲弾を撃ち込んだ巌と、その若松城を守っていた家老の娘・捨松。
    時を経て知り合った二人は、過去の恨みを越えて結ばれ、愛を育みます…(参照ページ:2月18日>>)
  15. 愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)×嵯峨浩(さがひろ)
    関東軍の思惑によって進められた満州国皇帝・溥儀(ふぎ)の弟・溥傑と、侯爵・嵯峨実勝(さがさねとう)の娘・浩との結婚。
    戦争によって引き裂かれた愛は消える事なく、後に再会し、晩年は日中友好の架け懸け橋となったお二人…まだブログではご紹介していませんが、ずいぶん前に見た溥傑さんのインタビューのステキな雰囲気が忘れられません。
  16. その他
    「このカップルがイイ!」「この人たちを忘れてるヨ!」っていう人がいたらお知らせください
      

「あの二人も入れたい」「このカップルもイイ」と思いながらも、とにかく上記の16項目に絞ってみました。

なお、締め切りはいつものように2週間後・・・勝手ながら、10月6日締め切りとさせていただきました。

★追記:このアンケートを実施した後で、「このお二人こそ理想のカップルでは?」と思う方の記事をupしました~
よろしければ、【逃避行で初恋を実らせた里見義弘と青岳尼】のお話>>もどうぞm(_ _)m

・‥…━━━☆

このアンケートの投票結果&いただいたコメントは、コチラからどうぞ>>
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2011年9月21日 (水)

毛利元就VS陶晴賢~決戦の地・厳島へ…

 

弘治元年(1555年)9月21日、陶晴賢が大軍を率いて岩国から厳島に渡り、塔の岡に本陣を置いて毛利方の宮尾城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・

そもそも、大内氏尼子氏という中国地方の2大勢力に挟まれてひしめき合う小豪族の一つだった毛利氏(10月22日参照>>)・・・毛利元就(もうりもとなり)の代になって大内氏の傘下となった毛利でしたが、天文二十年(1551年)、その大内氏の重臣・陶晴賢(すえはるかた・当時は隆房)謀反を起こし、第31代の当主だった大内義隆(よしたか)を自害に追い込んで、自分の思い通りになる大内義長(よしなが・当時は大友晴房=大内義隆の甥で大友宗麟の弟)傀儡(かいらい・操り人形)の当主に迎えて、事実上大内氏の実権を握ったのです(8月27日参照>>)

このお家騒動に対して、初は、晴賢に同調して勢力拡大を謀っていた元就でしたが、天文二十三年(1554年)に、石見(いわみ・島根県)の国人領主・吉見正頼(よしみまさより)が反旗をひるがえしたのをきっかけに、元就も晴賢からの離反を決意・・・またたく間に銀山(かなやま)草津城など、安芸南西部の諸城を落としていき、さらに、厳島(いつくしま・宮島)も制圧しました。

Sueharukata600 しかし、当然の事ながら、この離反劇を晴賢が黙って見ているはずはないワケですが・・・

とは言え、相手は名門大内氏の勢力をそのまま掌握した重臣・晴賢・・・今の毛利がまともに戦えば、とても勝ち目はありませんから、謀略を貼りめぐらして内部分裂を起こさせたり、厳島に(おとり)の城を築いたり・・・(4月8日参照>>)

その囮の城が、今回の宮尾城だったわけです。

一方、弘治元年(1555年)9月2日に2万の軍勢を率いて拠点を発った晴賢は、岩国永興寺(えいこうじ)に諸将を集めて、今回の毛利攻めについての軍議を開きます。

その席で、勇将・弘中隆兼(ひろなかたかかね)ら何人かの武将は陸路を進言します。

「おそらく、今回の宮尾城は、陸路での野戦では勝ち目が無いと踏んだ元就の苦肉の作戦・・・厳島にこだわるのはやめましょう」
と・・・

おぉ、ちゃんと晴賢側にも、元就の作戦を見抜いていた人はいたんですね~~

以前の4月8日にupした記事の地図↓
Mourimotonarikankeizucc_2
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この地図の通り、このまま陸路にて毛利の本拠・郡山城まで攻め進んで行く事が、本来の道・・・しかし、それだと毛利の負けが見えているので、晴賢の大軍を、狭い厳島へとおびき出すために、元就は、これ見よがしの場所に城を築いたわけです。

しかし、晴賢は
「瀬戸内の制海権を握れば、海岸沿いの諸城は手に入れたも同然」
という考えを崩しません。

確かに、厳島を制圧すれば制海権を握れますが・・・

そこに同調して、晴賢に援護射撃するのが三浦房清(ふさきよ)・・・
「厳島を制圧してから本拠の吉田へ向かっても、さほど問題ないんじゃない?宮尾城なんか、この房清が3日で落としてみせまっさ!」
と・・・

確かに、なんだかんだで、わずかの期間で構築した囮の城ですから、その堅固さも、本格的な城にはかなわないわけですし、周囲を晴賢の軍で囲んでしまえば、兵糧の運搬も不可能ですから、それほど長くもつ城ではありません。

こうして軍議は「厳島渡海」という事に決まっのでした。

かくして弘治元年(1555年)9月21日、晴賢率いる2万の大軍は500艘の船に分乗し、岩国から一路、厳島へと渡り、大元浦近くから上陸・・・宮尾城の南にある塔の岡に本陣を構えたほか、大元浦近くの多宝塔や弥山にも兵を配置し、もちろん、海には兵船を並べて、毛利の到着に備えます。

こうして、完璧な布陣を行った後、軍議で息巻いた房清を先頭に宮尾城に攻撃を仕掛けます。

当時の最先端の兵器=鉄砲を駆使して攻める晴賢軍に、守る宮尾城は、わずかに600・・・そのワリには決死の抵抗を続けますが、やがては水の補給路も断たれ、落城は時間の問題となります。

一方、宮尾城への攻撃開始を24日に聞いた元就・・・早速、重臣に留守を任せて進発しますが、元就が厳島へ向かうには、もう一つ条件が・・・

島の周囲に船を配置して、城への攻撃を仕掛けている彼らを袋のネズミにするためには、コチラにも、それなりの水軍の力が必要です。

しかし、今のところ、毛利が有する水軍は、川内警固衆小早川の水軍と、援軍として駆けつけた因島村上水軍・・・これらを合わせても、わずかに120艘・・・晴賢の500艘には到底及びません。

そのために、元就は、能島(のしま)村上氏来島(くるしま)村上氏にも声をかけていたわけですが、彼らの水軍が現われる気配は、まだありません。

そうこうしているうちに、更なる宮尾城の知らせが・・・
「今や、城兵の着物を裂いて作った大縄で櫓を縛りつけて、倒壊を防いでいる状態です!
あと10日ももちません!」

と・・・

この厳島へのおびき出し作戦・・・宮尾城が落とされて厳島を制圧されてしまっては、ジ・エンドです。

何がなんでも、宮尾城が落ちる前に、元就本隊が駆けつけなければ意味がありません。

迫る落城・・・
来ぬ水軍・・・
むなしく時間だけが過ぎる中、元就は決断を迫られます。

・・・が、この続きのお話は、9月28日【厳島の戦い~運命を変えた能島・来島村上水軍の参戦】でどうぞ>>
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2011年9月20日 (火)

信長を支えた森可成・討死…宇佐山城の戦い

 

元亀元年(1570年)9月20日、近江宇佐山城に攻め寄せた浅井・朝倉勢が織田勢と激戦・・・この宇佐山城の戦いで城将の森可成が討死しました。

・・・・・・・・・

森可成(もりよしなり)森氏は、清和源氏の流れを汲み、あの八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)を先祖に持つ由緒正しきお家柄・・・やはり源氏の流れを汲む美濃(岐阜県)の守護・土岐(とき)に代々仕えていましたが、その土岐氏が、あの斉藤道三に滅ぼされた(12月4日参照>>)事から、尾張(愛知県西部)織田信長に仕えます。

天文十六年(1547年)頃に信長に仕えはじめたとされますが、可成が信長の良き参謀として頭角を現してくるのは、天文二十二年(1553年)に、信長の傅役(もりやく=教育係)であった重臣・平手政秀(ひらてまさひで)が亡くなって(1月13日参照>>)以降から・・・

重臣の死で、大きく穴の開いた信長の片翼を埋めるかのように、その才能を発揮していのです。

Moriyosinari400 と、ゴチャゴチャ説明するより、あの森蘭丸のお父さんと言ったほうがわかりやすいかも知れませんが・・・(*´v゚*)ゞ

女っぽい美少年・蘭丸ですので、お父さんも??とイメージしてしまいがちですが、コレがけっこうスゴイ人なのです。

弘治三年(1557年)には、織田と敵対する駿河(静岡県東部)今川配下の戸部政直(とべなおまさ)が、織田に寝返りを申し出ている」という内容のニセの手紙を作成し、自らが商人に化けて今川の領地に潜入し、自身の手で義元の側近に渡すという忍者顔負けのスゴ技をやってのけています。

もちろん、この作戦は見事成功し、その手紙を信じた義元によって政直は処刑されたのだとか・・・

また、ご存じ、永禄三年(1560年)に起きた桶狭間の戦い(5月19日参照>>)でも・・・

よく、ドラマや映画で描かれる桶狭間の戦いでは、雨の中を馬で突っ切って現場に到着した織田軍が、騎乗のまま義元の陣に襲いかかるシーンがありますよね。

普通、野っ原で行う互い戦ならともかく、奇襲をかける場合は、騎馬武者も馬を下りて、敵にできるだけ近づいてから攻撃を仕掛けます。

なんせ、大量の馬の音って、思ってる以上にスゴイですから、けっこう遠くからでも気づかれてしまいますので・・・現に、この桶狭間の時も、信長は、寸前まで、馬を下りて攻めようと考えていました。

それを、騎乗のまま突入するよう意見したのが、可成だと言われています。

降りだした雨によって、或る程度、その馬の音がかき消されるであろう事から、音のマイナス面よりも、スピードを優先するプラス面の方が大きい事を計算していたのかも知れませんね。

果たして信長は、可成の進言通り、騎乗のまま義元の陣に突入し、アッと言う間に、その首を挙げてしまったわけですから・・・

そんな可成さん・・・
永禄十一年(1568年)に信長が上洛する(9月7日参照>>)と、柴田勝家(かついえ)丹羽長秀(にわながひで)といったご存じの織田重臣たちとともに、洛中(京都市内)や、その周辺の治安維持に努めます。

この時代の文献には、可成を、いわゆる京都諸司代のような役職としている物もあり、その政治手腕も、なかなかのものだったのでしょう。

時期を同じくして近江宇佐山城(滋賀県大津市)城主に抜擢された可成・・・しかし、まもなく、信長と、その信長からの上洛要請に応じない越前(福井県)朝倉義景(よしかげ)との間で衝突が起こります

ご存じ、手筒山・金ヶ崎城の戦い(4月26日参照>>)ですが、この時、信長の妹・お市の方を娶って、すっかり信長の味方になっていたはずの北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)朝倉方につき、信長はあわや!の挟み撃ち・・・に、なりかけた所で決死の撤退に成功・・・(4月27日参照>>)

これが、その3カ月後の元亀元年(1570年)6月、浅井・朝倉を相手に戦う姉川の合戦(6月28日参照>>)に発展するわけですが、もちろん、可成は、その姉川の合戦にも出陣し、自陣を死守する働きを見せ、信長勝利の一翼を担うわけですが、この戦いで、織田軍が敵兵を深追いしなかった事で、浅井・朝倉はある程度の勢力を温存したままの撤退という形になりました。

果たして、その3カ月後の9月・・・浅井・朝倉軍は、態勢を立て直して、琵琶湖の西岸を南下して来ます。

この時、この8月に勃発した石山本願寺との戦い(9月12日参照>>)のため、信長自身とその主力部隊は摂津(大阪府北部)にて活動中・・・そうです、可成の任された近江宇佐山城は、まさに織田軍の北部最前線の城という事になります。

その命賭けても、この最前線を死守する決意を固める可成・・・そんな中、浅井・朝倉軍には、本願寺顕如(けんにょ)からの要請を受けた比叡山の僧兵をプラスして、約3万の大軍に膨れ上がります。

迎える可成は、当時、野府城(のぶじょう・愛知県一宮市)を任されていた信長の弟・織田信治(のぶはる)の加勢を合わせても約1000ほど・・・

かくして元亀元年(1570年)9月20日坂本に迫った浅井・朝倉連合軍に対し、城を下りて撃って出る可成・・・先鋒の朝倉景鏡(あさくらかげあきら・義景の従兄弟)の軍を押し返す健闘を見せますが、なんせ、多勢に無勢・・・正面の先鋒を押し返しても、左翼から右翼から、次々と新手が登場し、さらに、この情勢を見たのか?ここに来て、新たに朝倉軍に加わる武将も登場して、ついに崩れ始めた可成&信治らは、ここに、壮絶な討死を遂げのです。

勢いづいた浅井・朝倉軍は、そのまま宇佐山城へ・・・しかし、可成の命がけの決意を引き継いだ城兵たちは、強固に抵抗し、何とか落城を免れます

其の日に宇佐山城を落とせなかった浅井・朝倉軍は、翌日から大津や山科に火を放ち、焼き討ちにしますが、その頃には、この状況を知った信長が、即座に摂津の主力を撤退させて畿内の将兵をかき集め、標的を湖西の浅井朝倉に絞って進軍開始・・・

可成の強い遺志を受け継いだ宇佐山城は、家老の各務元正(かがみもとまさ)らによって、信長が坂本に到着するその日まで守り抜かれました。

さぁ、いよいよ、信長と浅井・朝倉の再びの合戦か?・・・と行きたいところですが、そこに関与するのは、あの比叡山延暦寺・・・続きのお話は(3年も前の記事ですが…)11月26日の【堅田の戦い】でどうぞ>>

ちなみに、この戦いで、弟の信治、寵臣の可成を失った信長の怒りが、やがて比叡山焼き討ちへと向かわせたとも言われます。
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2011年9月19日 (月)

若き義元を支えた今川の名参謀・朝比奈泰能

 

天文十一年(1542年)9月19日、今川の支援を受けた松平広忠と、尾張から進攻して来た織田信秀がぶつかった小豆坂の戦いがありました。

・・・・・・・・・

この小豆坂(あずきざか)の戦いと呼ばれる戦いは、歴史上2度あります。

1度目は、冒頭に書かせていただいた天文十一年(1542年)9月19日・・・

そもそもは、この戦いが起こる少し前・・・
岡崎城主として西三河(愛知県東部)を支配していた松平清康(徳川家康の祖父)の時代に、ほぼ三河全域を平定した感にあった松平氏でしたが、その清康が天文4年(1535年)に家臣に暗殺された(12月5日参照>>)事で家内に内紛が起こり、その後、息子・松平広忠(当然ですが家康の父)が後を継いだ頃には、もはや、その存続も危ういという状態でした。

そこに狙いを定めたのが尾張(愛知県西部)の織田家の中でも徐々に力をつけて来ていた織田信秀(信長の父)・・・天文九年(1540年)には、松平の西のの重要拠点である安祥城(愛知県安城市)を落とし、松平の本拠地・岡崎城(愛知県岡崎市)すぐそばまで迫る勢いとなります。

Imagawyosimoto600a そこで広忠は、隣国の駿河遠江(静岡県西部)を支配する大名・今川義元ヘルプを依頼・・・義元としても、松平の領地が織田に奪われてしまっては、敵国と国境を接する事になりますから、ここは、自分とこを頼ってくれている松平が治めてくれているほうが何かと安心・・・

って事で、今川の支援を受けた広忠と、進攻して来た信秀が、岡崎城東南の小豆坂で激突したのが第1次・小豆坂の戦いです。

とは言え、この戦い・・・「信秀が負けた」とも、「いや、この激突後に織田の勢力が強くなるのだから織田が勝ったのでは?」とも、はたまた、「戦い自体があったのか?」「なかったのか?」といった微妙な戦いです。

なので、般に小豆坂の戦いと言う時は、この6年後に、ほぼ同じ状況の同じ場所で戦った天文十七年(1548年)3月19日第2次の合戦の事を指しますが、その第2次の戦いについては、その3月19日の日づけで書かせていただきましたのでコチラ→【織田信秀VS今川義元&松平広忠~第2次小豆坂の戦い】>>でご覧いただくとして、

本日のところは、この2度の小豆坂を含め、その後の安祥城の攻防戦でも大活躍する今川の軍師・朝比奈泰能についてお話させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

今川義元を支えた軍師・参謀と言えば、ご存じ太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚=そうふ)(10月10日参照>>)が超有名ですが、実はもう一人、朝比奈泰能(あさひなやすよし)という優秀な参謀がいたのです。

泰能は、遠江浜松城(静岡県浜松市)主を務める朝比奈泰煕(やすひろ)の息子として生まれますが、未だ幼い永正九年(1512年)に父が病死・・・その後、叔父の朝比奈泰以(やすもち)が後見人となりますが、その泰以も永正十五年(1518年)に病死してしまいます。

心強い後見を失った泰能ですが、その8年後の大永六年(1526年)に制定された分国法『今川仮名目録(いまがわかなもくろく)の条文には、三浦氏満とともに、二人の重臣として名前を連ねている事から、おそらくは、埋もれている間に、その実力で華麗なる成長を遂げ、主君の信頼を得るような武将に育っていたものと思われます。

しかも、この泰能さん・・・公家の中御門宣胤(なかみかどのぶたね)娘を妻に娶っています。

この宣胤さんは、義元の母=寿桂尼(じゅけいに)さん(3月14日参照>>)のお父さんですから、つまりは、主君の母の妹を嫁にした・・・という事で、どれだけ信頼が篤かったかがわかります。

ご存じのように、この寿桂尼さんは、未だ義元が若かりし頃、病気になった夫=氏親に代わって政務をとり、実質的な女大名として君臨した人ですが、それこそ、女一人(しかも公家出身)では、勇猛な家臣たちを束ねるのは至難の技であったわけで、そこには、雪斎&泰能という名コンビがいたからこそ、彼女が腕を奮えたし、その3人のトロイカ体制があったからこそ、義元が海道一の弓取りと称されるほどの武将になれたと言えるのです。

やがて、広忠の要請を受けた義元が三河に進出する今回の小豆坂の戦いの頃には、軍事面でも表舞台に立つ事が多くなり、誰もが、何事においても、泰能を頼る・・・という、今川には無くてはならない存在となっていきます。

天文十八年(1549年)の安祥城の攻防戦(11月6日参照>>)では、敵城主の織田信広(信長の兄)を捕縛し、奪った後は、その地に留まって治世を行ったとか・・・

しかし、その領地支配が軌道に乗りかけた弘治三年(1557年)・・・おそらく60歳くらいの年齢で病死してしまうのです。

ただ、一説には、あの永禄三年(1560年)の桶狭間の戦い(5月19日参照>>)の時に、主君・義元とともに討死したと書かれていたり、いや、あの永禄十一年(1568年)の武田信玄今川館攻め(12月13日参照>>)の時まで生きていて、義元の息子=今川氏真(うじざね)が無事に逃げるまで、武田勢を食い止め、その後に自害したなんて、生存説も、複数登場します。

これは、単に、誰かの逸話を泰能の事と勘違いしたとも考えられますが、研究者の中には、単なる勘違いではなく、今川家臣の動揺を防ぐため、その喪が伏せられていた可能性が高いと指摘する声も少なくありません。

それだけ、泰能が、今川にとっての重要人物であり、義元が亡くなっても、「彼が氏真をサポートすれば今川は安泰」・・・と思えるほどの人物だったという事なのでしょうね。
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2011年9月17日 (土)

日清戦争~制海権を握った黄海海戦

 

明治二十七年(1894年)9月17日、日清戦争において、日本海軍が黄海から渤海までの制海権を掌握する事になった黄海海戦がありました。

・・・・・・・・・

まずは、これまでの日清戦争の経緯については、コチラのリンクから↓

・‥…━━━☆

昨日の平壌陥落のページにも書かせていただきましたが・・・

明治二十七年(1894年)7月30日に正式な開戦とあいなった日清戦争において、まずは、陸軍が朝鮮半島の清国軍をけん制しながら、海軍が、海上に展開している清国海軍を撃破して黄海と渤海(ぼっかい)の制海権を握る事を目標としていた日本軍でしたが、この9月になっても清国艦隊を発見できない事に、連合艦隊と海軍司令部は、徐々に焦りを見せ始めていました。

なんせ、清国側は、この日清戦争は、「長い持久戦を続けて、最後には西洋列強の介入で講和に持ち込みたい」という考えていて、ここのところの自国の艦隊に対しては、近海の防御をするのみで、現在の戦力を温存させるよう指示していたのですから、レーダーも航空機もない当時は、広い海上で、あまり動きの無い敵艦隊を発見する事はなかなか難しかったわけです。

そんなこんなの9月10日・・・
それまで、内地にいた海軍軍令部長の樺山資紀(かばやますけのり)が渡海して、連合艦隊の本拠地であった金羅道(チョルラド)南岸にて、連合艦隊司令長官の伊東祐亨(ゆうこう)中将、第1軍司令官の山県有朋(やまがたありとも)大将、第3師団長の桂太郎中将らと協議・・・来たる9月17日に、連合艦隊が渤海(ぼっかい)湾沿岸を巡航する事を決定しました。

かくして明治二十七年(1894年)9月17日・・・その日は、見事な快晴であったと言います。

♪煙も見えず 雲もなく
 風も起こらず 波立たず
 鏡のごとき黄海は
 曇りそめたり 時の間に♪
 (軍歌「勇敢なる水平」より)

12隻で編成された連合艦隊が、鴨緑江(おくりょくこう)沖を巡回していた10時23分・・・第1遊撃隊旗艦・吉野が、北東方向の水平線上に1筋の煤煙(ばいえん)を発見!

その煙の筋は、またたく間に10本増えます・・・待ちに待った清国艦隊の出現でした。

11時30分・・・縦1列の陣形となって、一路、敵艦隊へと発進して1時間後には戦闘配備につきます。

一方、スピードで劣る清国艦隊は、戦艦の定遠(えいえん)鎮遠(ちんえん)を中央に置いて横1列に並んで戦闘態勢に入ります。

午後0時50分・・・定遠の主砲が火を吹いた事をきっかけに、戦闘が開始されます。

そこで、スピードをあげて敵艦に近づいた連合艦隊は、小型の速射砲で多量の砲弾を浴びせます。

この最初の攻撃により、清国艦隊の旗艦であった定遠の操縦室や信号機が破損・・・艦隊の指揮が取れなくなった事から、陣形を崩した清国艦隊は、それぞれが単独で戦うしかなくなり、次々と撃破されていったのです。

とは言え、実を言うと、今回の黄海開戦は、日本が初めて経験する本格的海戦・・・当時の日本には、まだ巨大戦艦を建造する余裕が無かったのです。

未だ日清戦争が始まる以前、清国の戦艦・定遠鎮遠が日本に来航した事があったのですが、当時、世界有数の攻撃力と防御力を誇り、30.5cm口径の主砲を持つ巨大戦艦だった2隻を目の当たりにした日本海軍関係者が、そのスゴさに驚き、対抗できる船として慌てて建造したのが、松島厳島橋立の三景艦だったのですが、もちろん、大きさは、清国のそれには到底及びませんでした。

ならば主砲だけでも・・・と、定遠の主砲を上回る32.5cm口径の主砲を無理やり搭載した事で、今回の黄海海戦では、1発撃つ度に船体がバランスを崩すわ故障はするわ、しかも、肝心の砲弾は、ほとんど命中せずという散々な結果でした。

逆に、鎮遠の主砲弾1発が命中した松島は、沈没こそ免れたものの、大きく破損し、100名近い死傷者を出したと言います。

♪戦(たたかい) 今か たけなわに
 つとめつくせる ますらおの
 尊
(とうと)き血もて 甲板は
 から紅
(くれない)に かざられつ♪

この松島に乗船していて重傷を負い、「定遠はまだ沈みませんか?」と、敵艦の様子を気にしながら戦死したという三浦虎次郎三等水兵の事を歌ったのが、先の「勇敢なる水平(作詞:佐々木信綱 作曲:奥好義)という軍歌です。

♪「まだ沈まずや定遠は」
 此
(こ)の言(こと)の葉(は)は短きも
 み国を思う 国民
(くにたみ)
 胸にぞ長く しるされん♪

と、歌は締めくくります。

Nissinkoukai1000
黄海海戦(日本大学蔵

ところで、戦況ですが・・・
確かに、期待した主砲はあまり役に立たず、そのぶん防御力も犠牲にしていたために、多大な犠牲を払った連合艦隊ではありましたが、そのスピードによる機動力は抜群で、結局、連合艦隊の砲撃で清国艦の超勇(ちょうゆう)致遠(ちえん)沈没し、揚威(ようい)座礁・・・さらに、経遠(けいえん)来遠(らいえん)平遠(へいえん)の3隻に火災が発生しました。

やがて午後3時頃・・・耐えかねた清国艦・済遠(さいえん)戦線離脱したのを皮切りに、次々と逃走をはかる清国艦隊・・・さすがの定遠鎮遠は、それでも応戦していましたが、日没を迎える頃には、船体はすっかり破損し、もはや戦闘能力も無くなってしまいます

こうして、この日の戦闘を終えた連合艦隊・・・翌朝には逃走艦を求めて、山東半島威海衛(いかいえい)に展開しますが、もはや敵艦はすべて帰還し、その姿はありませんでした。

ここに、東洋一と謳われた清国艦隊は壊滅し、日本軍は、黄海から渤海湾に至るまでの制海権を獲得したのです。

*文中の♪と♪に囲まれた歌詞の部分は、「日本唱歌集(岩波文庫)」から引用させていただきました。
 

更なる日清戦争の展開2011年11月21日【日清戦争~旅順口攻略】のページでどうぞ>>
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2011年9月16日 (金)

日清戦争~平壌・陥落

 

明治二十七年(1894年)9月16日、日清戦争にて平壌の戦いが展開され、平壌が陥落しました。

・・・・・・・・・・

もはや国内の混乱を抑えきれない朝鮮に、日本清国(中国)がそれぞれの思惑を以って介入する事から始まった日清戦争・・・これまでの経緯については、それぞれのリンクからご覧くださいo(_ _)oペコッ

日本が各国の公使に『交戦通告書』を交付して、国際法上にも、日清戦争が成立したのが7月31日・・・

その後の日本軍の目標としては、まずは、陸軍が朝鮮半島の清国軍をけん制しながら、海軍が、海上に展開している清国海軍を撃破して黄海と渤海(ぼっかい)の制海権を握る事・・・

その後の更なる展開としては、その制海権争いの戦いで、海軍が制海権を握れた場合と握れなかった場合、そして、海軍がもはや戦闘不能の壊滅状態となった場合の3パターンを想定して、3つの案が出されました。

制海権を握れた場合は、
:陸軍は直隷
(ちょくれい)平野(直隷省=北京周辺)で決戦する。

制海権を握れなかった場合は、
:陸軍を増発して朝鮮半島を制圧。

敗北して壊滅状態となった場合は、
:清国海軍の来航を想定して本土の防衛を重視する。

こうして、まずは、海軍が動きますが、レーダーも航空機もない当時では、広い海上で、敵艦隊を発見する事すら、なかなか困難だった事もあり、おおむね日本海軍が優位な展開を進めつつも、結局、制海権は握れずにいた8月30日・・・3つの案の内の二つ目=乙案を実行する事を決定し、第1軍の司令官に任命した山県有朋(やまがたありとも)に対して、朝鮮半島北部の要衡・平壌(ピョンヤン)への攻撃命令を下したのでした。

Pyonyan600
平壌・古写真(国立国会図書館蔵)

当時の平壌は、高さ10mの城壁に囲まれた城砦都市で、日本軍の北上を食い止めたい清国軍にとっては、最も重要な防衛拠点となっていましたから、すでに周辺には多くの堡塁(ほうるい=石やコンクリート造りの堅固な防塁)が構築されており、なかなかの守りでありました。

そこを攻撃する日本軍・・・
すでに平壌周辺に集結していた陸軍は、9月15日未明・・・4方向からの進軍を開始します。

しかし、正面攻撃を担当した部隊は、一旦は市街に迫ったものの、市街手前に築かれた堡塁に行く手をはばまれたうえ、清国軍の防衛隊の抵抗に苦戦を強いられます。

さらに、未明から、ずっと戦闘が続いていたために、午前8時頃には、すでに、すべての弾薬を使い果たしてしまい、しかも、さらに続く戦闘状態のため、兵士たちは朝食どころか、一口の水分も取れずじまいのままだったので、疲れはピークに達し、午後からは、もはや死傷者が増すばかりの状態・・・やむなく、午後2時過ぎ頃から撤退を開始します。

一方、北方や東方からの高台から市街に迫った部隊は、おおむね優位に戦闘を進めたものの、やはり堅固な城壁に阻まれて市街へ侵入する事はできず・・・結局、どの部隊も平壌の市街地に入る事すらできず、ただ、多くの死傷者を出しただけで戦闘は終了=初日の攻略作戦は失敗に終わってしまいました。

ところが・・・です。

なぜか、撤退から2時間ほど過ぎた午後4時半頃・・・清国軍が、突如として将旗を下ろして白幡を掲げたのです。

なぜ???
この清国軍の行動の意味がわからない日本軍は、使者の派遣を要請しますが、急に訪れた激しい雷雨のため、連絡がうまく行かず、ワケのわからないまま日づけは翌日へ・・・

かくして明治二十七年(1894年)9月16日午前2時・・・これは、何かの作戦で、未だ城内に主力の兵が潜んでいるのでは?と見た日本軍は、戦闘状態の警戒態勢のまま、城内への突入を開始します。

ところが、その時の城内・・・清国軍の兵士のほとんどが、すでに夜陰に紛れて逃走した後で、残っていたのは、病兵と負傷兵のみ・・・

よくわかりませんが、とにもかくにも、こうして平壌は陥落・・・

一方、未だ制海権を握れていない海軍の・・・と、このお話の続きは、明日=9月17日【日清戦争~制海権を握った黄海海戦】でどうぞ>>
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2011年9月15日 (木)

大河ドラマ主役の「江」~謎多き最期

 

寛永三年(1626年)9月15日、本年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の主役でお馴染の江が54歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・

ご存じ、今年の大河の主役=お江(ごう)さん・・・このブログでは、彼女が大河の主役に決まった2009年の6月に、【2011年・大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」への期待】(2009年6月19日参照>>)と題して、その生涯についておおまかにご紹介させていただきましたが・・・

Gou600 彼女の晩年は・・・
江戸幕府の第2代将軍=徳川秀忠の正室で、第3代将軍=徳川家光の生母、娘=和子を天皇家に嫁がせたので第109代明正天皇の祖母でもあり・・・まさに、血で血を洗う戦国の世の最後の最後に、最も高位を勝ち取った女性です。

しかし、先のページでも書かせていただいたように、華やかな地位についた重要な女性でありながら、その人となりの史料がほとんどない謎の人でもあります。

ちなみに、大河ドラマでの江の場合、「誰々と結婚した」「誰々を産んだ」という以外のエピソードは、ほぼすべて、脚本家さんの創作です。

一説には、かなりのカカァ天下で、年下の夫・秀忠を尻に敷き、次期将軍となるべき家光を嫌って弟の国松(忠長)(12月6日参照>>)を溺愛し、家光の乳母の春日局(かすがのつぼね)とヒテリックなバトルを展開した・・・なんて言われますが、これらは巷の噂話のような確度の低いエピソードで、そこには、お江さん自身の言い分など含まれていません。

そんな彼女の生涯を物語るかのように、その死も、静かに、そして突然に訪れます。

寛永三年(1626年)・・・この年の秋、すでに将軍職を息子に譲って大御所となっていた秀忠、そして息子で将軍の家光、さらに、その弟の忠長をはじめとする徳川一門や、名だたる有力大名たちが、こぞって上洛し、皆、京都に滞在しておりました。

というのは、秀忠と江の娘である和子が女御(にょうご)となった(結婚したという意味です)後水尾(ごみずのお)天皇(4月12日参照>>)が、この9月に、二条城への行幸を予定していからで、その予定の日づけは9月6日から10日・・・

その準備やら、お迎えやらで、皆の注意が京都に集中する中、無事、5日間の滞在を終え、「ああ、一大行事が終わった~」と、ホッとした直後の11日・・・江戸から、江の危篤を知らせる早馬が、秀忠たちのもとに届くのです。

知らせを聞いて、次男の忠長は、その日のうちに江戸へと向かい、家光も、側近の稲葉正勝(春日局の息子)を江戸へ向かわせ、自らも、9月19日に京都を発とうと急ぎ準備をします。

しかし、寛永三年(1626年)9月15日・・・未だ、誰の到着も待たないまま、お江は、あの世へと旅立ってしまったのです。

すぐに江戸へ向かった次男の忠長でさえ、彼女のもとへ到着したのは、亡くなった2時間後だったと言われています。

出立を明日に控えた18日の夜に、母の訃報を聞いた家光は、諦めて出立を延期し、仕事を片づけてから江戸へ戻る事に・・・つまり、それだけ、急な死だったという事です。

江戸城西の丸で亡くなったお江の遺骸は、18日に増上寺へ送られ、麻布我善坊(あざぶがれんぼう)に設けられた荼毘所にて荼毘(だび)に付される事になり、10月18日に葬儀が行われました。

その頃には、すでに、秀忠も家光も江戸に戻っており、その葬儀は、前将軍の御台所で現将軍の母という、彼女の肩書にふさわしい盛大な物だったようです。

増上寺から麻布の荼毘所までの約1.8kmもの道すべてに筵(むしろ)を敷いて、その上に白い布を置き、その道筋の両側には1間(約1.8m)ごとに警備の武士が配置され、そこを葬儀の行列が進みます。

増上寺から荼毘所へと到着したところで香が焚かれ、その香りが周囲を満たす中、僧侶の読経が始まり、やがて、お江の遺骸を包み込むように積み重ねられた香木に、一斉に火が放たれ、その香りと煙は、約1km先まで漂ったのだとか・・・

・・・んん??火が放たれ???
そう、実は、江は火葬だったのです。

当時としては異例の火葬・・・現に、徳川家の歴代将軍と他の御台所のすべてが土葬なのに、彼女ただ一人が火葬・・・しかも、先ほど書かせていただいたように、身内の留守中の急死で、彼らが江戸を発つときには元気に見送った人なのに、その死因についての記録も無し・・

さらに、母の急変を知った家光が、京都から派遣した幕府の主治医が箱根で急死するというオマケつき・・・

この事が憶測を呼んで、対立していた春日局の毒殺説も囁かれますが、それはあくまで、後世に話をおもしろくしようとした時代劇の世界でのお話で、実際には何の根拠もありません。

また、疫病が原因だったので火葬にしたのでは?とも言われますが、当時、疫病が流行っていたという記録もありません。

ただ、火葬も、確かに異例ではありますが、あの織田信長が最愛の側室である吉乃(きつの・生駒の方)(9月13日参照>>)を火葬にしていますし、武田信玄の正室の三条の方(7月28日参照>>)も火葬なので、まったく無いというわけでもなく、当時としては、土葬よりはるかにお金がかかりかつ派手な演出のできる火葬が、むしろ、死した人への愛情と、送る者の権力の大きさの現われであった可能性も高く、「例外なので怪しい」とは決めつけられないのも確かです。

しかし・・・
それでも、まだ、謎があるのです。

実は、石造りだった事で東京空襲で無事だった増上寺のお江の宝塔墓が、昭和三十三年(1958年)に発掘調査されたのですが、その時、宝塔と台座を取り除いても、その下にあるはずの石室が無かった事から、不思議に思った調査隊が、さらに土を掘り進んだところ、なんと、その下には、バラバラになった宝篋印塔(ほうきょういんとう・五輪塔とともに石造りの代表的な墓塔)が埋められていて、その塔身部分のくりぬきから、木炭や鉄釘とともに、お江の遺骨が見つかったのだとか・・・

確かに、家光の晩年に当たる慶安年間(1648年~1651年)に、「お江のお墓を新しくした」という話があるので、おそらくは、この宝篋印塔は以前の墓石で、新しく作り変えたためにいらなくなったという事なのでしょうが、その古い方に遺骨を入れたまま埋めちゃうかい???って話ですよ。

もっかい言いますが、2代将軍の正室で、3代将軍の生母で、109代天皇の祖母ですよ!!!そんなスゴイ人の遺骨を・・・

大河ドラマでは、
良く言えば天真爛漫・・・
悪く言えば空気の読めないワガママ姫のキャラでブッ飛ばし中のお江ちゃんですが、ひょっとしたら、ものスンゴイ謎を秘めた最期だったのかも・・・ですね。
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2011年9月14日 (水)

保身か?英断か?菅原道真の遣唐使・廃止

 

寛平六年(894年)9月14日、菅原道真が遣唐使の廃止を建議しました。

・・・・・・・・・

大昔に習ったわが身としては懐かしい響き・・・
「白紙(894年)に戻そう遣唐使」と覚えましたね~

Mitizane600 寛平六年(894年)9月14日菅原道真は時の天皇・第59代宇多天皇提案書を提出します。

それは・・・
『現在、唐に留学中の僧・中瓘(ちゅうかんが去年商人に託した報告書によりますと、あれほど繁栄していて唐が今は衰えてきている事がよくわかります。
古来の記録を調べてみますと、度々の遣唐使の中には、うまく航海できなかったり、賊に襲われたりしてしまった者もおります。
ただ、唐に着いてからは今のところ、大変な苦しみを味わった者がいないのは幸いですが、しかし、唐の状況が中瓘の知らせのとおりであるならば、今後はそれも保証できなくなるでしょう・・・・』

てな内容でした。

要は、もはや昔の繁栄を失った唐(中国)に学ぶ物もないワリには、航海が危険・・・こんなハイリスク⇔ロウリターンな制度はやめちまえ!って事です。

さすがは学問の神様!なかなかの英断です・・・と言いたいところですが、はっきり言って、コレ、次回の遣唐大使に道真が任命されてから、言い出した話です。

散々他人にやらしておいて、いざ自分が当たったら「廃止しちゃいましょ」って言った感がぬぐえないズルイ感じがするのですが、上記の言い分は、確かに的を射ていますし、以前書かせていただいたように、もともと、この道真の遣唐大使任命自体が、あまりに道真に信頼を寄せる宇多天皇と道真の仲を切り離そうとした藤原氏の策略(1月25日参照>>)みたいなところもありますので、とりあえずは、その切り離し作戦の防御という事で、ヨシとしましょう。

ところで、以前の教科書では、この道真の提案を受けた宇多天皇が、この半月後の9月30日に「正式に廃止を決定した」とされ、冒頭の「白紙(894年)に戻そう遣唐使」は、この9月30日の日づけで・・・という事になってました。

まだ、開設してまもない時のこのブログでも、2006年9月30日の日づけで遣唐使廃止について書かせていただいたりもしてましたが、実は、ここ最近は、少し違った傾向になって来ているようです。

それは、本日=9月14日の日づけで、道真が「廃止の提案」をしたのはしたけれど、実は、その後、正式に廃止が決定されてはいなかったというのです。

この意見を提唱されているのは、中央大学石井正敏教授・・・本日は、その石井教授の説をご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

そもそも、この遣唐使の廃止決定が9月30日という話の出どころは『日本紀略(きりゃく)という書物の中に、「其(その)日、遣唐使を停(とど)む」とだけ書かれている事にあるのですが、教授によれば、この『日本紀略』の中では、この「其日」という単語は、特定の日を指す言葉ではなく、「とある日」という意味で使われているのだそうです。

20年前に、その事に気づいた教授が、その後、丹念に、当時の文献を調べ直したところ、なんと!この寛平六年(894年)から後も、数年間に渡って、道真が「遣唐大使」の肩書を使い続けていた事を発見されたのだそうです。

そう、もし、遣唐使の廃止が寛平六年(894年)9月30日に決定されてしまっていたのなら、当然、道真が任命された遣唐大使というポストも廃止されていなければならないわけで、それを、そのまま使い続けていたという事は、おそらく「廃止の決定はなされていなかったのだろう」という事なのです。

つまりは、上記の道真の提案によって、遣唐使という物の旅路が危険極まりない事がわかった事で、次の派遣がのびのびになったままになってたところに、延喜七年(907年)、肝心の唐という国そのものが滅びて、中国が分裂時代に入ってしまった事で、永遠に派遣されなくなったという事・・・

・・・で、このなりゆきを「いつかわからないけど、とりあえず、廃止された」と解釈した人が、『日本紀略』に「其日」と称して、書き加えたのではないか?との見解・・・

確かに、一国が滅びるくらいですから、おそらくは、その頃の唐の治安は最悪だったはず・・・保身のためかどうかはともかく、未だ滅ぶ前に、その国の政情を調べて、的確な判断を下した事は確かですから、やはり、本日=9月14日の道真の提案は、英断と言えるのかも知れませんね。
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2011年9月13日 (火)

信長の上洛を阻む六角承禎…観音寺城の戦い

 

永禄十一年(1568年)9月13日、織田信長が近江の六角承禎義治親子を攻め、観音寺城を奪取・・・六角父子は甲賀に逃れました。

・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月と言えば・・・そう、あの足利義昭を奉じての、織田信長の上洛です。

もはや美濃(岐阜県)を制した(8月15日参照>>)織田信長にとって、上洛の際に最も大きな障害となるのが南近江(滋賀県南部)を制していた六角承禎(じょうてい・義賢)・・・

そこで信長は、承禎に、本領安堵などの好条件を提示して、味方になってくれるよう打診しますが、すでに三好三人衆(9月29日参照>>)らと結んでいた承禎は、これを拒否・・・当然の事ながら、信長ですから・・・そこは六角氏を倒しての強行突破という事になります。

ところで、この六角氏というのは、京都に設けられた館が六角東洞院だった事から六角氏と呼ばれるようになりますが、もともとの本姓を佐々木と言い、宇多天皇の流れを汲む名門で、近江源氏として知られた家柄・・・

承禎の時代の天文二十一年(1552年)には、対立していた浅井久政に勝利し、一時は、浅井家を配下にした事もありました(1月10日参照>>)

Rokkakuyosikata500 治世においても、後に信長が行う城割(8月19日参照>>)を、文献上初めて行ったのは、この承禎・・・しかも、やはり、この後の信長の楽市楽座の見本とも言うべき楽市も行うなど、戦国大名の先駆者的存在の人なのです。

ただ、承禎が息子・義治(よしはる)に家督を譲った弘治三年(1557年)頃から、少々のほころびを見せはじめます。

もちろん、家督を譲っても承禎が実権を握っていたんですが、その当主交代劇の翌年には、反攻的態度を見せ始めた久政の長男・浅井長政に大敗し、さらに永禄六年(1563年)には、義治が有力な重臣を殺害する観音寺騒動が勃発・・・

なぜ殺害に至ったのかは不明ですが、その重臣が城内の家臣たちからの人望も篤く、忠臣として有名な人であった事から、家臣たちの間に主君への不信感が生まれ始め、それを修正すべく『義治式目(六角式目)なる分国法を制定するのですが、それが、いわゆる重臣たちとの合議制で決められた法であったようで、もはや、主君としての威厳も危うくなっていた感がぬぐえませんね。

そして、そんなこんなの永禄十一年(1568年)、冒頭の信長の上洛です。

それこそ、兄の将軍・足利義輝松永久秀と三好三人衆の殺され(5月19日参照>>)、自分の身も危うくなった足利義昭(7月28日参照>>)、最初に頼ろうとしたのは、他ならぬ六角承禎であったというくらい頼りになる人物でしたし、先に書いたように、信長がこの先やろうと思っている治世を、すでにやっている先駆者でもありましたし、なんたって幕府公認の守護でもありますから、それはそれは、信長らしからぬ丁寧さで、味方へのお誘いをかけたようですが、承禎はこれを断固拒否・・・聞くところによれば、使者に会う事すら無かったとか・・・

かくして永禄十一年(1568年)9月7日、準備を整えた信長は1万5000の兵を率いて、岐阜を出立(9月7日参照>>)・・・ここに、三河徳川家康軍、北近江浅井長政軍などが加わり、総勢6万の大軍となった織田勢は、途中で3隊に分かれ、稲葉一鉄(いってつ・良通)らが率いる第1軍が和田山城柴田勝家森可成(よしなり)らが率いる第2軍が観音寺城、信長以下・丹羽長秀滝川一益木下(後の豊臣)秀吉らの第3軍が箕作城(みつくりじょう)へと向かいました。

9月12日早朝に現地の到着した信長軍は、休む事なく、まずは、箕作城への攻撃を開始しますが、箕作城は険しい山が天然の要害となった堅固な城・・・7時間かけても、その守りを破る事ができず、夕方の5時頃には一旦、戦闘が終了・・・

決着は、明日に持ち越されたかに見えましたが、そこに夜襲をかけたのが秀吉率いる精鋭部隊・・・デカイ松明を数百本用意して、麓に火をつけながら一気に攻め昇ります。

現地に到着し、そのまま7時間戦って、もはや、この日の戦闘が無いだろうと思っていた六角軍は、ふいをつかれた事で動揺・・・守りも乱れた城内は、その攻撃に持ちこたえる事ができず、翌・13日の夜明けを見る前に箕作城は落城します(さらにくわしく=2023年9月12日参照>>)

この一報を聞いた和田山城では、守っていた城兵が戦わずして逃亡・・・

この両城の様子を、居城・観音寺城で聞いた六角承禎・義治父子は、やむなく観音寺城を無血開城・・・夜陰にまぎれて甲賀へと逃亡し永禄十一年(1568年)9月13日・・・世に観音寺城の戦いと呼ばれる合戦は信長の勝利となりました。

当時、17ほどあったと言われる六角氏の支城も、もはや当主が逃亡した状態では何とできる物でもなく、残りの支城も次々に織田方へと降る事になり、上洛への最大の障害を排除した信長は、皆さまご存じのように、9月26日に京へと入ります(9月26日参照>>)

Dscn8603a800 観音寺城跡

ところで、以前、『あなたが思う 戦国の幕引きは?』というアンケート企画を実施させていただいた事がありました(募集ページを見る>>)が、確かに、関ヶ原や大坂の陣などが圧倒的に多い意見でしたが、「足利義昭を奉じての信長上洛」に投票してくださった方も2名おられました(投票結果を見る>>)

もちろん、歴史上、戦国時代という明確なくくりがないのですから、どれが正解なんて事はなく、それぞれに重きを置く出来事によって考え方が違うわけで、私としては、それぞれが「アリ」だと思います。

そんな中で、戦国時代の定義を、様々な武将が入り乱れる「群雄割拠の下剋上」とした場合、確かに、この信長の上洛以降は、そのような乱れはなくなるわけで、この後は、信長→秀吉→家康にバトンタッチされる中で、いかにして諸大名を傘下に入れるか(抵抗する場合は潰します)の戦闘という感じになり、戦国前半のそれとは、少し様相が違っています。

それを思えば、「信長上洛が戦国の終わり」というのも一理あるわけで・・・

となると、この観音寺城の戦いは、まさに戦国最後の群雄割拠&下剋上という事になりますね~。

ただし、ここで逃走した承禎父子・・・もちろん、また登場します。

それは、あの浅井長政が寝返る朝倉義景との戦い・・・くわしくは、6月4日【まさに背水の陣~瓶割柴田の野洲川の戦い】でどうぞ>>
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2011年9月12日 (月)

蒙古襲来を予言して流罪となった日蓮

 

文永八年(1271年)9月12日、幕府や他の宗教を批判したとして、日蓮が佐渡島に流されました。

・・・・・・・・・・

日蓮(にちれん)は貞応元年(1222年)に現在の千葉県鴨川市(旧安房小湊)で生まれました。

以前、書かせていただいたように、第83代土御門(つちみかど)天皇ご落胤?という話もありますが(10月11日参照>>)、日蓮さんご本人が、「海辺の施陀羅が子なり」とか「片海の石中の賎民が子なり」とか「貧道の身と生まれて」など、一般の貧しい生まれだとおっしゃっているので、真実のほどはわかりません。

Nichiren400 12歳の時に、郷里の清澄山(きよすみさん)にあった山寺・清澄寺(せいちょうじ)に入門・・・16歳で出家しました。

やがて19歳の時に、一念発起してお堂に籠り、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)に祈願の修行を試みますが、その満願の日に霊夢を見た事により、今後の進む道を決定・・・決意を固めて山を降りました。

その後は、20歳で比叡山に遊学、24歳で三井寺に遊学、26歳で薬師寺高野山仁和寺へ・・・さらに、28歳で四天王寺東寺に・・・と、各宗派を学び、究め・・・

いつしか、『法華経』こそが経典の中の王・・・釈尊の意にかなう経典であるとの信念にたどりつきます。

こうして、建長五年(1253年)に古巣の清澄寺へと戻った日蓮は、4月28日の朝、山内の旭の森に立って海上を望みながら、立ち上る朝日に向かって「南無妙法蓮華経」と題目を10回唱えて、立教を宣言したのです。

ここに、日蓮宗が誕生しました。

翌年には、幕府のある鎌倉に出て布教活動を開始した日蓮・・・

しかし、それは法華経を宣伝すると同時に、他の宗派を否定する活動でもありました。

ちょうど、その頃、地震や暴風雨、飢饉や疫病などの災害が相次いだ事もあって、それを憂いた日蓮は、『立正安国論(りっしょうあんこくろん)なる書物を記し、政治・宗教がどうあるべきかなどを、当時、事実上の最高権力者であった5代執権・北条時頼(ときより)に提出したりなんぞします。

その中で日蓮は、相次ぐ災害の原因として
「人々が正しい法である法華経を信じずに、浄土宗などの邪法を信じていることにある」
と対立している宗派を非難し、
「このまま邪教を放置すれば、国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けるゾ」
なんていう過激発言・・・

当然、他の宗派からは非難の嵐で、文応元年(1260年)の日蓮・39歳の時には、松葉ヶ谷(まつばがやつ・神奈川県鎌倉市大町)草庵を焼き打ちされ、弘長元年(1261年)には、その内容が「幕府への批判である(当時の幕府は禅宗推し)として、伊豆への流罪を申し渡されます。

さらに文永元年(1264年)には、安房国小松原(千葉県鴨川市)にて、他宗派の信者であった地頭の東条景信(とうじょうかげのぶ)襲撃され、左腕と額を負傷し、二人の弟子も失ってしまいました。

ところが・・・です。

その6年後の文永四年(1267年)、モンゴル帝国のフビライ国書を持った高麗の使者が日本にやって来る(10月5日参照>>)・・・ご存じのように、これが、文永十一年(1274年)10月の文永の役(10月19日参照>>)と弘安四年(1281年)6月の弘安の役(6月6日参照>>)という2度の蒙古襲来につながるのですが・・・

もちろん、この時点では、まだ国書が送られたばかりですが、外国からの侵略の兆しを感じるには充分・・・この事実は、日蓮に、大いなる自信をもたらす事となり、その後、何度となく、迫害覚悟の過激発言をする事になります。

しかも、他宗派と、公の場での対決を促する手紙を時の執権・北条時宗(ときむね)に提出したりなんぞする強気姿勢・・・まさに「果し状」ですが、自論を展開する宗教家としては、それくらい強気でないとやっていけない事も確かですが・・・

そんなこんなの文永八年(1271年)9月・・・日頃からの幕府批判プラス他の宗派から連名で訴えられた事で幕府に捕えられ、腰越龍ノ口刑場(神奈川県藤沢市片瀬・龍口寺)にて処刑されかけますが、なぜか、処刑は執行されず・・・

伝説によれば、この時、
「日蓮の首を斬ろうと刀を振り下ろすと、次々と、その刀が折れた」とか、
「江の島の方角から、光の固まりが飛んで来て、処刑人の目をくらませた」

とか・・・

とにかく、ここで日蓮が死ぬ事はなく、後の評定で佐渡への流罪となる事が決定・・・文永八年(1271年)9月12日佐渡島に流されたのでした。

その後、文永十一年(1274年)に53歳で赦免となった日蓮は、幕府から、「外国からの侵略」についての意見を聞かれ、「よも今年はすごし候はじ」「今年、来まっせ」と答えたとか・・・

果たして、その5ヶ月後に文永の役・・・

その後、身延山(みのぶさん)に草庵を建て、弟子の育成と執筆活動の日々を送った日蓮は、そのまま9年間、身延山を出る事はありませんでしたが、弘安五年(1282年)、病となり、湯治療養のために常陸国(ひたち・茨城県)へ・・・

しかし、10月13日・・・その途中の武蔵国(むさし・東京&埼玉&神奈川の一部)池上宗仲(いけがみむねなか)館跡(東京都大田区)にて61歳の生涯を終えました。

その死に際して、日昭(にっしょう)日朗(にちろう)日興(にっこう)日向(にっこう)日頂(にっちょう)日持(にちじ)の6人の弟子=六老僧を指名して後の事を託した事から、現在の日蓮系には、多くの流派・分派があるという事です。

日蓮の開いた日蓮宗は、
法然の浄土宗(2月18日参照>>)
親鸞の浄土真宗(11月28日参照>>)
一遍の時宗(8月23日参照>>)とともに、純粋に日本で成立した新しい鎌倉仏教の一つです。
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2011年9月10日 (土)

何となく腑に落ちない松下長綱の改易

 

万治元年(1658年)9月10日、陸奥二本松藩の第2代藩主で、後に陸奥三春藩主となり、その後改易処分となった松下長綱が、49歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

松下長綱(まつしたながつな)の生まれた松下氏は、近江源氏・六角氏の流れを汲む家柄・・・鎌倉時代の末期に三河国碧海郡(あおみのこおり・へきかいぐん)松下郷(愛知県豊田市)に住みついた事から松下姓を名乗るようになりました。

Matusitayukituna600atk 長綱のお祖父さんに当たる松下之綱(ゆきつな)という人は、遠江(とおとうみ・静岡県西部)頭陀寺城(ずだじじょう・静岡県浜松市)として、今川義元に仕えていた人なのですが・・・

「んん??なんか聞いた事ある名前…」
と、思ったあなた・・・スルドいですね~

そう、この之綱さんは、浜松の曳馬川(ひくまがわ)で、ホコリまみれでたむろするサルのような同世代の少年に声をかけた・・・その人。。。そうです!その少年が、後の豊臣秀吉・・・お互いが15歳の時でした。

その後しばらく之綱に仕えた(之綱の父・長則に仕えた説もあり)秀吉は、まもなく、ここを去りますが、おそらくは、百姓だったか商人だったか職人の卵だったかわからないけれど、少なくとも武士ではなかった秀吉に、兵法や武芸のたしなみを伝授したのは、この之綱さんだったのかも知れませんね。

なぜなら・・・義元亡き後に徳川家康に仕えていた之綱を、長浜城主となった秀吉が、家臣として召し出すわけで・・・ひょっとしたら、恩返しだったのかも

その後、秀吉とともに生きた之綱は、小田原征伐の後に遠江久野(静岡県袋井市)1万6,000石の久野城主となり、まもなく死去・・・之綱の息子の松下重綱(しげつな)が後を継ぎ、その重綱が、あの賤ヶ岳の七本槍(4月21日参照>>)の一人として有名な加藤嘉明(かとう よしあき)の娘を娶って、二人の間に生まれたのが、本日主役の長綱・・・というワケです。

その後、常陸小張(こばり・茨城県つくばみらい市)を経て、徳川の時代となった寛永四年(1627年)3月には、嫁さんの実家の加藤家が会津40万石に加増移封となった事にともなって、父・重綱も陸奥二本松藩(福島県)5万石に加増移封されました。

しかし、そのわずか7ヶ月後の10月に父・重綱が死去・・・で、長男の長綱が後を継いで、3ヶ月後の寛永五年(1628年)の1月に第2代藩主となったのですが・・・

その直後・・・「藩主が、まだ幼い」という理由で、陸奥三春藩(福島県三春町)3万石に移封されてしまったのです。

「幼い」って・・・( ̄○ ̄;)!

長綱は、慶長十五年(1610年)の生まれですから、この時、すでに19歳・・・「幼いか??」
という疑問は、当然の事ながら、長綱さん自身の疑問でもあります。

なにやら、策略の臭いプンプンしますね~

祖父の死後、父が、関ヶ原大坂の陣で家康について頑張ったとは言え、所詮は、今川&豊臣恩顧の外様・・・「ヤラれたかもね」と思いつつも、転封命令には従わねばなりません。

ここは、男・長綱・・・こらえて黙して、すなおにお引っ越しをしますが、三春に移ってからは、以前の元気もなく、何かと、一人で考え込むような人になってしまいます。

やがて、転封から9年後の寛永十三年(1636年)頃から、その挙動におかしなところが見え始め・・・

目がうつろになり、家臣と話していても落ち着きが無く、いつも何かにイライラしている・・・やがて、天井を見て急に笑い出したり、空に向かって怒ってみたり・・・

さらに、最終的に刀を抜いて、家臣や女中に斬りかかるようになり、「これはイカン!」とばかりに、寛永十九年(1642年)に幕府が監視役を派遣して調査。

その結果報告が「正気にあらず」だった事から、「藩主の能力なし」として寛永二十一年(1644年)4月10日に改易・・・奥さんの実家だった土佐高知藩主・山内忠義(ただよし)に預けられる事になります。

その後は、土佐の久万村という所で静かに余生を過ごし、万治元年(1658年)9月10日49歳でこの世を去ったのでした。

お気の毒に・・・やっぱり、理不尽な減封への不満をガマンし続けた事で、心が病んでしまったのでしょうね~~~

と、思いきや、実は、これも怪しいのです。

死人・・・いや、負け組に口無し、負けた側には弁解の余地も与えられない時代ですから、徳川の記録では「ご乱心の改易」って事になってますが・・・

実は、その前年、長綱さんのお母さんの実家である加藤家が改易になっているのです。

確かに、この加藤家には、家臣同志の争いが、藩主VS家老の対立に発展し、藩主の加藤明成(あきなり・嘉明の長男)が、その家老の堀主水(ほりもんど)と一族を処刑するという『会津騒動』という事件があっての改易なのですが・・・(1月21日参照>>)

なんとなく、ついでに潰された感のぬぐえない長綱さんの改易・・・

本当にご乱心の改易だったとしてもお気の毒なのに、もし、それも幕府の創作だとしたら、さらにお気の毒・・・いつか、汚名を晴らせる日が来る事を願って・・・
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2011年9月 9日 (金)

『甲陽軍鑑』の真と偽

 

永禄四年(1561年)9月9日、来たるべき川中島の戦いに際して武田信玄が軍議を開いた席上で、山本勘助が「啄木鳥の戦法」を献策・・・これが採用される事になりました。

・・・・・・・・・

ご存じ、有名な第4次川中島の合戦を明日にひかえた日・・・上杉謙信の軍・1万3000は妻女山(さいじょざん)に陣取り、武田信玄率いる2万は、その東の海津城を控えた位置に陣取って、お互いの動きを探っていました。

山本勘助が提案した「啄木鳥(きつつき)戦法」が実施されたのは、軍議のあった永禄四年(1561年)9月9日の深夜・・・

「啄木鳥が木の穴にいる虫を捕まえる時、穴にくちばしを突っ込むのではなく、木その物をつついて、驚いて飛び出して来た虫を捕まえる」という習性にならって、隊を2隊に分け、別働隊が夜のうちに妻女山の背後へと回り、早朝から襲撃を開始し、その襲撃から逃れようと山から下りて来た上杉軍を、川中島で本隊が待ちうける・・・という作戦。

謙信&信玄&勘助の登場するドラマや小説では、最も盛り上がりを見せるカッコイイシーンですが、ご存じのように、この「啄木鳥戦法」『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)にしか登場しません。

Kouyougunkan なので、冒頭に書かせていただいた「9月9日うんぬん」というのも、当然『甲陽軍鑑』でのお話という事になります。

戦いのその後の流れとしては、この「啄木鳥戦法」を見抜いた謙信が、夜のうちに妻女山を下山し、朝が白々を明ける頃には、信玄本隊の目の前にいて、その後、謙信による「車がかりの戦法」で両者激突!・・・となるのですが、くわしくは2006年9月10日【鞭声粛々・川中島の戦い】>>で見ていただくとして・・・

ブログでは、その翌年の2007年9月10日【川中島の合戦は無かった?】>>に書かせていただいたように、ここに登場する「啄木鳥戦法」「車がかりの戦法」も、現実には不可能な作戦であろう事から、「川中島は無かった?」というのは少々オーバーなれど、少なくとも『甲陽軍鑑』に書かれているような物では無かった可能性大と思われます。

こんな話があります。

後に、京都に隠居していた畠山義春(よしはる・七尾城主・畠山義統の息子で謙信の養子になり上条上杉家を継ぐ)『甲陽軍鑑』を見せ、その感想を聞いたところ、
「事実と違うとこだらけ・・・作者のはずの高坂が死んだ後の事も書いてあるし、河越夜戦の年月も間違ってるし、人の名前が違えば、実在しない人も登場する。
謙信の時代の事はよく覚えてるけど、こんだけ間違ってたら信用できる書物とは言えない」

と言って2度と読む事はなかったのだとか・・・

実際に、その活躍に100年以上の差がある人物を、互いに影響し合った同世代のように書いてあったり、極めて困難な夜の行軍をサラッとやってのけさせたり・・・

以前、江戸時代に『常山紀談(じょうざんきだん)を記した湯浅常山(ゆあさじょうざん)(1月9日参照>>)も、「ウソ八百」として「あまり信用しないように…」なんて言ってる事をご紹介しましたが、そのページでも書かせていただいたように、そもそも『甲陽軍鑑』は軍記物・・・

『平家物語』しかり、『太平記』しかり、およそ軍記物という物は、今で言うところの歴史小説で、「事実に基づいたフィクション」なのです。

その作者も、信玄・勝頼の2代に仕えた武田の家臣・春日虎綱(かすがとらつな・高坂昌信)が語った話を、甥の春日惣次郎と家臣の大蔵彦十郎らが書き継いだとされていますが、それも実際には不明で、最近では多くの人物が関与した共同作業のように考える人も多いようです。

歴史の・・・というよりは、武田流の兵法を後世に伝えるための書物と解釈したほうが良いでしょう。

が、しかし・・・かと言って、まったく信用できないか?と言えば、そうではありません。

それこそ湯浅常山も言ってますが、
「戦国の時代をよく研究して、武士の魂も気質も心得たとおぼしき人が書いているようなので、ウソが多いからと軽くみないで、学ぶべき所は大いに学ぶべき」
というのが本当のところだと思います。

たとえば、今回の第4次川中島・・・上杉側の伝承には、この9月10日の合戦の話は、まったく伝えられていないと言いますが、別の所では、謙信による感状(武功を挙げた者を評価・賞賛する文書)が発見されており、何かしらの戦いがあった事は事実と思われます。

このように、細かな事は別として、その内容は、なんだかんだで史実に基づいている事が多くあると考えられるところから、現在のところ「甲陽軍鑑にも、ある程度の信憑性がある」というのが専門家の皆様の定説となっており、このブログでも、時々、『甲陽軍鑑』に書かれている事を、歴史の逸話としてご紹介させていただいたりしてます。

ただ、あまりにもうまくできた歴史小説がそうであるように、やはり『甲陽軍鑑』も、どこまでが史実に基づいていて、どこからが筆者の創作なのかが非常に見つけづらい・・・よく、専門家の間でも、「逐一検討が必要」なんて事も言われる通り、一つ一つに、「あーだ」「こーだ」と探って行く必要がありそうですが、それこそが、『甲陽軍鑑』の一番ワクワクするところでもあるわけです。

とかく人は、「どれが本当なの?」「史実はどうなの?」と、早急に答えを知りたがるものですが、そんなに急がずゆっくりと・・・歴史のおもしろさは一生モンですから

とにもかくにも、ドラマや映画の場合は、史実とは別に、信玄VS謙信の一騎打ちがあったほうがオモシロイ事は確かです。
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2011年9月 8日 (木)

道灌のDNAを受け継ぎ軍用犬を駆使した智将・太田資正

 

天正十九年(1591年)9月8日、太田三楽斎資正が70歳で没しました

・・・・・・・・・

太田資正(すけまさ・三楽斎)は、稀代の軍略家と知られる大田道灌(どうかん)(8月16日参照>>)曾孫・・・

Ootasukemasa650a 関東管領職にあった扇谷(おうぎがやつ)上杉家執事として仕えた道灌と同様に、彼もまた、父の太田資頼(おおたすけより)・兄の太田資顕(おおたすけあき)とともに上杉家に仕えておりました。

天文五年(1536年)に父が亡くなってからは、兄が家督を継ぎますが、どうやら資正さん、このお兄さんとは仲が悪かったようで、居城の岩付城(埼玉県岩槻市)を出て、同じ上杉の重臣で自分の嫁さんの父でもある難波田憲(なんばだのりしげ)松山城(埼玉県吉見町)に住んでいたとか・・・

そのうち、兄の資顕は、関東で力をつけ始めた相模(さがみ)北条氏に従属するようになりますが、資正は舅の憲重とともに、上杉家を支え続ける道を選びます。

やがて起こったのが天文十五年(1546年)4月20日の河越夜戦・・・戦国屈指の奇襲戦と言われるこの河越夜戦は、古河(こが)公方足利晴氏と管領家の山内上杉憲政扇谷上杉朝定両上杉家がタッグを組んで、関東に拡大しつつあった北条氏康の娘婿・北条綱成(つなしげ)(5月6日参照>>)が守る河越城を包囲してぶっ潰そうとした戦いの最中に、逆に籠城している側の北条が夜襲をかけ、見事、勝利してしまったという戦い・・・(4月20日参照>>)

この戦いで資正の仕えていた扇谷上杉の当主・朝定は討たれ、公方の晴氏も、山内の憲政も追われる身となり、さらに資正にとっては舅の憲重も失ってしまう事になってしまい、その居城であった松山城も敵に奪われてしまいました(7月20日参照>>)

しかし、さすがは資正・・・翌年の9月、夜襲には夜襲をとばかりに、北条の隙を突き、見事、松山城を奪回・・・続く10月に、兄の資顕が亡くなると、すぐさま、当主不在の岩付城を奇襲し、その実力で以って太田家の家督を継ぎました。

『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)によれば、この一連の奪回劇の時、資正は史上初の軍用犬を考案し、伝令に使用したと言います。

あらかじめ、岩村城や松山城などの諸城や砦の間を行き来させて道を覚えさせ、いざという時には、密書を入れた竹筒を首に結びつけた犬を野に放ち、伝令として使ったのだと・・・

城の攻防戦では、誰もが周囲に最大限の注意をはかるものですが、特に、北条は風魔一族という忍びを駆使して、警戒にあたっていたわけですが、さすがの彼らも、城を往来する人間には注意を向けても、城周辺を徘徊する犬にまでは目が行かないだろうという所に着眼しての軍用犬の登用・・・

おかげで、北条の動きが資正側に筒抜けだっとか・・・さすがは道灌のDNA!

しかし、残念ながら、かの岩付城を奪って力づくで家督を継いだ際に、それまで兄の家臣であった多くの者が北条へと走っていた事もあってか、資正が松山城を任せていた上田朝直(うえだともなお)が北条へと寝返り、続いて岩付城も、北条に包囲され、資正も降伏せざるをえなくなりました。

こうして、いち時は、北条の配下となった資正でしたが、やはり、曽祖父・道灌から受け継いだ管領の執事魂がおさまる事は無かったのです。

そうです。
ご存じのように、かの河越夜戦以来、名ばかりの管領になってしまっていた上杉憲政が長尾景虎こと後の上杉謙信を頼って越後(新潟県)へ逃れ、その謙信に関東管領職を譲った(6月26日参照>>)事で、永禄三年(1560年)、謙信は大軍を率いて小田原にやって来るのですが、資正はバッチリ、その謙信に密着します。

この時、鶴岡八幡宮で行われた関東管領就任式で、武蔵忍城(むさしおしじょう・埼玉県行田市)主の成田長泰(ながやす)が、謙信の前でも下馬しなかった事から、謙信の持っていた扇で烏帽子を打ち落とされるという一件がありました。

長泰の言い分によれば、成田氏は藤原家の流れを汲む名門で、古くは、あの八幡太郎源義家にさえ下馬する事なく挨拶したという名誉ある一門だったわけで、その古式にのっとり、今回の謙信にも下馬しなかった・・・との事ですが、関東武士が居並ぶ中、公衆の面前で起こったこの出来事に、そこにいた関東武士たちは、皆、謙信に不信感を抱いたのです。

つい先日の9月3日の葛西清重(きよしげ)さんのお話でもチョコッと触れましたが(9月3日参照>>)ここらへんの反北条の関東武士たちは、皆、なかなかの名門の人たちで、だからこそ、どこの馬の骨かワカラン北条氏が関東を牛耳る事に反発していたわけで、彼らから見たら、もともと上杉配下の守護代だった長尾家(8月7日参照>>)の謙信も、どちらかと言えば、どこの馬の骨なわけで、そんな謙信が、我等関東武士に対して!!!との怒りを感じたのも無理はありません。

中には、この一件をきっかけに、陣営から離脱してしまう者も多数・・・(かの成田長泰は、この一件で北条に寝返ったと言われています)

そんな彼らを説得して回ったのが資正だったのだとか・・・資正が、彼ら関東武士の間を奔走してなんとか事態を好転させる事ができ、その後、毎年のように行われる謙信の関東出兵がスムーズにできたと言われています。

こうして反北条をあらわにした資正は、永禄七年(1564年)1月に起こった第二次国府台(こうのだい・千葉県市川市)の戦い(1月8日参照>>)では、もちろん、里見義弘と組んで北条相手に戦い、まずは勝利します。

しかし、その夜・・・昼間の合戦に勝利してホッとしていた所を、夜襲をかけられた里見軍が一気に総崩れ・・・なんたって、反北条として結集したものの、そもそもが彼らは別々の部隊ですから、一旦崩れ始めると、もう、ブレーキが効かない!

やがて激戦となった戦場で、さすがの資正も「もはやこれまで」という状態になってしまいます。

ただ、観念した資正が抗戦を止めた、その態度が、メチャメチャ潔くカッコ良かった事から、討死を免れ、その隙を突いて岩付城へと逃げ帰りますが、当然の事ながら、戦いに勝利したのは北条・・・

結局、北条側に寝返った自らの嫡子・太田氏資(おおたうじすけ)によって岩付城を追放されてしまうのです。

その後は、下野(しもつけ・栃木県)宇都宮氏や、常陸(ひたち・茨城県)佐竹氏などを頼って各地を転々としつつ、それでも岩付城奪回を目指して北条と戦い続けましたが、天正十九年(1591年)9月8日ついに岩付に戻ることなく、常陸にて、その生涯を終えました。

思えば、主君・上杉を思いながら戦いにあけくれた日々・・・やがて、室町幕府が派遣した関東管領も鎌倉公方も名ばかりの物となり、果ては、将軍までもが追放されて、時代は織田から豊臣へ・・・

最後の最後・・・亡くなる前年には、あの小田原征伐(4月3日参照>>)真っ最中の豊臣秀吉のもとに参陣して、秀吉に謁見したという資正・・

同じように、小田原に参陣して秀吉に謁見した未だ若き伊達政宗(だてまさむね)は、この時、秀吉のいる高台から見下ろした小田原城の周りに、アリがはい回るように群がる軍勢を見て、全国ネットとの差を痛感し、秀吉の配下に入る事を決意・・・「もしもの時は刺し殺してやる!」と思って懐にしのばせていた短刀をすぐさま投げ捨て、「もう10年、早く生まれていたら…」と思ったと言います(6月5日参照>>)

おそらくは参陣した時に、同様の光景を見たに違いない資正・・・あのにっくき北条の城が、もはやどうしようもないほどの22万もの軍勢に囲まれた様を見て、もはや70歳を迎えようという老将・資正は、何を思ったでしょうか?

政宗が「10年早く生まれていたら…」なら、
資正は「10年遅く…」でしょうか???

歴史の女神は、時々、罪な事をしてくれます。
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2011年9月 7日 (水)

中山道で関ヶ原に向かった徳川秀忠…その任務は?

 

慶長五年(1600年)9月7日、関ヶ原へ向かう徳川秀忠軍が、真田昌幸幸村父子の籠もる上田城への攻撃を断念しました。

・・・・・・・・・

関ヶ原の戦いの前哨戦の一つである第2次上田城の戦い・・・

そもそもは慶長五年(1600年)、上杉景勝に謀反の疑いあり(4月1日参照>>)として、大軍を率いて伏見城を後にし、一路、会津征伐に向かっていた徳川家康・・・

その時、信濃(長野県)上田城を本拠とする真田昌幸(まさゆき)と、その長男の信幸(のぶゆき・後に信之に改名)・次男の幸村(信繁)も、その会津征伐軍に加わるべく移動しておりましたが、下野(しもつけ・栃木県)犬伏にて石田三成の挙兵を知り、父と弟は上田城へと戻り、兄のみが家康のもとへ・・・と袂を分かつ事になります。(7月21日参照>>)

一方、自分の留守中に三成が伏見城を攻撃した(8月1日参照>>)事を知った家康は、急きょ会津攻めを取りやめて西へとUターン(7月25日参照>>)・・会津への防御として宇都宮城を次男の結城秀康(ゆうきひでやす)に守らせ、自らは豊臣恩顧の武将を先発隊に東海道を進み(8月11日参照>>)、三男の徳川秀忠には3万8000の兵をつけて中山道を進ませたのです。

・・・で、この先、西へ戻った家康と三成がぶつかる本チャンの関ヶ原では、東軍(家康)が約8万9000西軍(三成)が8万2000(不戦の毛利&吉川・寝返りの小早川含む)と兵の数が拮抗していますが、この東軍の数は会津征伐にともに向かい、帰りは先発隊となって戻って来た豊臣恩顧の武将たち=福島正則やら細川忠興やら黒田長政やらを含めた数なので、正味の家康本隊の数は約3万チョイだったと言われています。

Tokugawahidetada600 つまり、家康は自分より多い数の軍勢を秀忠につけたわけで、ゆえに、この秀忠の軍こそが、関ヶ原の合戦の本隊だったと考える専門家も少なくありません。

しかし、中山道を進んだ秀忠の前に立ちはだかったのが、かの昌幸の上田城・・・結局、この上田城の攻略に手間取った秀忠は、本チャンの関ヶ原に遅刻するという大失態をしでかしてしまうわけですが・・・

その戦いぶりについては、昨年=2010年の9月7日に書かせていただいているので、ソチラで見ていただくとして(2010年9月7日参照>>)、もし、本当に秀忠の軍が、関ヶ原の本隊だったのだとしたら、肝心の関ヶ原に間に合わないなんて本末転倒もいいとこ・・・

そこで歴史家の笠谷和比古(かさやかずひこ)氏が提唱していらっしゃるのが、「中山道を行った秀忠の任務は、はじめっから上田城攻略にあった」という説・・・

その根拠として一番に挙げておられるのが、出発前の8月23日に、秀忠が諸将に送った手紙・・・そこに、「信州真田表(おもて)の仕置きのために出陣する」という事が明記されているのだとか・・・

また、徳川方に残った長男の信幸にも、「自分は小県(ちいさがた・長野県長和町&青木村)を攻めるから、君もそのつもりで出馬してね」と、秀忠が言ったとも・・・

しかも、この時の西軍の動きには、三成に応呼した会津の上杉と常陸(茨城県)の佐竹が関東に進攻し、それに同調して真田が信州の制圧というシナリオがあったという噂もあるらしい・・・

そうなると、秀忠の最大の任務が上田城攻略であった可能性もなくはないわけですが・・・だとすると、関ヶ原という大戦が身近に迫るこの時点で、小さな城に過ぎない上田城の攻略に、最大の大軍をつけたのはなぜか?という疑問が出てきますね~

もちろん、結局は、智謀にすぐれた昌幸に翻弄されて、その小城を落とせなかったわけですから、その昌幸の智将ぶりを踏まえての大軍派遣とも思えますが、智将というなら、秀忠にだって、本多正信(9月5日参照>>)やら榊原康政(さかきばらやすまさ)(5月14日参照>>)やらのベテラン勢がそばについていたわけですから、実戦力未知数の若き秀忠を充分にサポートできると考えるのが普通で、結果的に攻略できなかったのは、まさに結果論ですから、出発の時点で大量の兵士というのは、やはり、関ヶ原が主要な目的だったからのような気もします。

また、この上田合戦の時の昌幸の動き・・・最初に講和すると見せかけて、やっぱりやめて押したり退いたりと、相手を蹴散らすというよりは、明らかに時間稼ぎをしてる感がありで、やはり昌幸側の最大の目的は、1日でも戦いを長引かせて、関ヶ原に遅刻させる事にあったように思います。

・・・だとしたら、昌幸も、秀忠は関ヶ原へ行くのが一番の目標だと思って阻止していたわけで、智将・昌幸がそう思ってるならやっぱりそうかな??と・・・(どっちやねん!)

と、私自身が右往左往の第2次上田合戦ですが、ここに、もう一つ説があります。

それは、上田城攻略・・・というよりは、そこにあった軍資金と兵糧を奪う事が目的だったというもの・・・

だからこそ、わずかに2500ほどしかいない上田城に大軍を送り込んだのだと・・・とてもじゃないが歯がたたない大軍で城を取り囲んで、さっさと開城させ、軍資金と兵糧を手土産に関ヶ原へ・・・これが本来のシナリオなのでは?というのです。

だからこそ、秀忠も、最初がら力づくで攻める事なく、開城勧告をしてから3日間も待っちゃった・・・と、

果たして、
秀忠は関ヶ原本戦の本隊だったのか?
最大の任務は上田城攻略だったのか?
上田城の軍資金目当てか?

おそらくは、この先、新たな発見がない限り答えが出ないのかも知れませんが、だからこそ推理がオモシロイわけで・・・

はてさて、大河ドラマ「江」では、いよいよ次週に迫った秀忠と真田の上田合戦・・・果たしてどのように描いてくださるのか?

スタッフさんのお手並み拝見o(゚ー゚*o)(o*゚ー゚)oワクワク♪
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2011年9月 6日 (火)

秀吉を支えた高台院=おねが貫いた妻の役割

 

寛永元年(1624年)9月6日、正室として豊臣秀吉を支えた高台院=おねが、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・

複数の呼び方があるので、今日は何て呼ばせていただきましょうか?
やっぱり、今年の大河ドラマでのお名前=「おね」でいきますね。

そのお名前の事や逸話についても含め、すでに2007年の今日・9月6日【秀吉の妻・ねねさんのご命日なので】>>というページを書かせていただいてますし、つい1ヶ月前の豊臣秀吉と結婚したとされる8月3日にも【秀吉の結婚+おまけクイズ「妻・おねの本名は?」】>>と題して書かせていただいていますので、本日は、その捕捉といった感じで、秀吉亡き後のおねさんを中心に書かせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

Koudaiin600 上記のページでも、そして、これまでも折に触れて書かせていただいていますが、男性が戦乱にあけくれて留守がちだった戦国の世では、留守を守る女性の役割がものすごく大事だったわけですが、中でもおねさんは、そのトップクラスを行く女性だと思います。

以前、今年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の感想にからめて書かせていただいた【大河ドラマ「江」に思う政略結婚と女性の役割】>>でもお話させていただきましたように、

天正二十年(1591年)8月付けの秀次朱印状には、
大坂よりなこや(名護屋)へ次(継)
一、大坂よりハ   北政所殿 御印
一、          関白殿  御朱印
一、なこやよりハ  太閤様  御朱印
とあり、
つまりは、名護屋にいる秀吉、聚楽第にいる秀次と並んで、周辺を航行するに船は、大坂城にいるおねさんの許可証が必要だったというほどに、おねさんの役割は重要だったわけです。

また、朝廷の女官の日記である『お湯殿の上の日記』には、天正十八年(1590年)8月18日の条に、
「くわんはく(関白)殿ちん(陣)の御るすみまいとて、なかはし(長橋局)御つかゐにて…」
と、あの小田原征伐(4月3日参照>>)長期に渡って秀吉が留守にしているお見舞いと称して、朝廷からおねさんに、大量の着物や帯、香や紙などがプレゼントされた事が書かれています。

これこそ、殿方が合戦に出ている間は、奥さまが政務を仕切っている事を、朝廷も知っていたし、認めてもいた証拠と言えます。

留守を守る・・・と言えば、あの本能寺の変(6月12日参照>>)の時もそうです。

ご存じのように、この時の秀吉が中国大返し(6月6日参照>>)の離れ業で戻って来るという事は、当然、事件が起きた時には、おねが長浜城にて留守を守っていたわけで、一同は、家臣の妻子ともども、命の危険を感じて、伊吹山の山麓に身を隠しますが、この時、生まれたばかりの甥っ子・秀俊(ひでとし=後の小早川秀秋)だけを総持寺に預けています。

この時点で、おね自身には子供がいないわけですから、後に羽柴家の後継者になるかも知れない幼子を、羽柴の家中を束ねる役として守ったという事です。

もちろん、旦那さんが家にいるいないに関わらず、家臣への配慮や、子育てなど家内の事を仕切るのもおねの役目・・・

有名な醍醐の花見(4月7日参照>>)の時には、その盃を受ける順番をめぐって淀殿(茶々)松丸殿(まつのまるどの=京極龍子)がモメた時にも、彼女がピシャリと納めたと言います。

しかし、慶長三年(1598年)8月18日、秀吉の死を境に彼女の立場は逆転します・・・と言っても、「おちぶれた」あるいは「権威がなくなった」という事ではありません。

よく、ここで、おねが剃髪して京都の三本木の屋敷へ移り、その後の大坂城が、秀吉の遺児=秀頼の後見として、その生母である淀殿が中心となっていく事で、なにやら、二人の間に確執があったような、あるいは、おねが徳川家康の味方になったような印象を受け、そのように描かれるドラマ等も多くありますが、決してそうでは無かったように思います。

確かに、この先行われる豊国社(秀吉を祀る神社)の創建などでの様子を見ても、彼女は淀殿より下がった立場にあります(寄進の金額が淀殿より低い)が、これは、それこそ、当主が亡くなった以上、その後継者の生母である淀殿がトップに来るのは当たり前であって、おねが自らの意思で一歩下がった位置に退いたという事以外の何物でもありません。

たとえば、慶長十一年(1606年)に京都の北野社「社殿を造営したいので」との希望を京都所司代の板倉勝重に申し出たところ、板倉は、その話をおねに話し、おねが大坂城に行って秀頼に伝え、そこから造営費用が寄進されるという経緯をたどります。

つまり、未だ幼き当主の生母として大坂城を離れられない淀殿のために、自由に動ける立場のおねが、外部との連絡係として動いていた・・・お互いに、豊臣家のために、それぞれの役割を果たしていたという事です。

話は前後しますが、慶長五年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦(【関ヶ原の合戦の年表】参照>>)の時も・・・

この時、大津城主だった京極高次(きょうごくたかつぐ)は、はじめは西軍に属して北国口を警備していましたが、途中から東軍に寝返って大津城に籠城します(9月7日参照>>)

おかげで、西軍の立花宗茂(むねしげ)らに包囲されてしまっていたわけですが、そこに・・・
「政所(まんどころ)様、秀頼御袋様より御使候・・・松丸殿いだし申候にとの儀に付・・・」
と、城主・高次の姉(もしくは妹)である松丸殿=龍子を救い出すための使者がおねと淀殿の連名で派遣されて来たのです。

しかも、そこには、龍子救出だでけでなく、「大津城を開城せよ」との意味も込められていたとか・・・(高次の奥さんは淀殿の妹・初ですから)

連名ではあるものの、この使者を送る事に実際に動いたのは、もちろんおね・・・先ほども言いましたように淀殿は大坂城を離れられませんから、その意を汲んで、おねが動いたという事です。

さらに、その後も、おねが豊臣のために生きていた事がわかる出来事があります。

それは、あの大坂の陣・・・慶長十九年(1614年)7月に、家康が、あの方広寺の鐘にイチャモンつけて(7月21日参照>>)何やら不穏な空気になり、双方に合戦の準備をしはじめた10月・・・

『時慶卿記(ときよしきょうき)の10月2日の条に
「高台院殿、昨日大坂へ下向、但(ただ)シ鳥羽(とば)ヨリ帰ラル」
とあります。

もちろん、大坂へ行こうとしたのは、「何とか戦争を回避できないものか!」と、秀頼や淀殿を説得するためでしょう。

「だったら、やっぱり、この頃のおねさんは家康の味方だったんじゃないの?」
と、お思いかも知れませんが、そのあとの「但シ鳥羽ヨリ帰ラル」・・・

つまり、彼女は大坂城へは行けなかったわけで、この時、鳥羽で彼女の行く手を阻んだのは、誰あろう家康軍の兵士だったのです。

それは、戦争回避にために大坂に行こうとしたのはおね自身の意思で、それを阻止したのが家康という事・・・もし、彼女が家康の味方として動いていたなら、止められる事なく、すんなりと大坂へ行けたはずです。

ご存じのように、結局、合戦は行われ、豊臣家は滅亡・・・おねは、生前の秀吉が与えてくれていた摂津(大阪東南部)の所領が、そのまま安堵された事で、経済的に苦労する事はありませんでしが、気になるのは、この所領の目録や、秀吉の関白任官関係の文書を保管していたのが、彼女自身であるという事・・・

度々書かせていただいてますが、私、個人的には、関ヶ原から大坂の陣までの歴史は、家康によって、かなり書きかえられていると睨んでおります(7月15日参照>>)

ひょっとしたら、これらの文書の数々も、木下家の子孫の方に残されなければ、末梢されていたかも知れないわけで、現代まで残ったのは、やはり、彼女が持っていてくれたおかげ・・・

まぁ、彼女としては、豊臣家の記録を残すうんぬんよりも、秀吉の妻としての意地だったのかも知れませんが・・・

大河ドラマも、もうすぐ関ヶ原・・・大津城の開城やおねさんのくだりをどのように描いてくださるのか??
楽しみですね~
くれぐれも、納得いく創作でお願いしますm(_ _)m
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2011年9月 5日 (月)

戦国真っただ中に生きた後奈良天皇

 

弘治三年(1557年)9月5日、第105代・後奈良天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・・

第104代天皇・後柏原天皇の第2皇子として生まれた知仁(ともひと)親王が、父の死を受けて第105代天皇・後奈良天皇として践祚(せんそ)したのは大永六年(1526年)・・・31歳の時でした。

ちなみに、この践祚というのは「前天皇から天子の位を受け継ぐ事」・・・でも、それって「即位(そくい)って言うんじゃ?

実は、即位というのは、「践祚した事を内外に明らかにする事」で、古くは、天皇の位を継いだ事を示す『践祚の儀』があって、それに続く『即位の礼』で継いだ事を公表するって事だったわけですが、それこそ、貴族全盛の奈良時代後半や平安時代初めの頃は、ほぼ同時に行っていたので、践祚と即位というのは、ほぼ同じ意味でした。

また、現在の『皇室典範』でも
「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」
「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」

とあり、践祚と即位を区別する事はされていません。

なので、「践祚と即位は同じ」と考えても支障は無いと思うのですが、あえて今回「践祚」とさせていただいたのは、実は、後奈良天皇の即位の礼が行われたのが、践祚してから10年後・・・ここに10年のブランクがある事で「践祚」という言葉を使わせていただきました。

そうです。
この後奈良天皇が天皇の位を受け継いだ大永六年(1526年)頃は、まさに戦国・群雄割拠の真っただ中・・・朝廷の財政はひっ迫し、幕府の権威も地に落ちて、とてもじゃないが「内外に公表する儀式」なんて、やれる状況じゃなかったわけです。

践祚した後、あっちこっちに寄付を頼みまくって、やっと10年後に『即位の礼』・・・この時、天皇家に多くの寄付をしたのは、大内氏今川氏北条氏朝倉氏などの地方の戦国大名たちだったという事ですが、それでも、本当なら『即位の礼』とともに『大嘗祭(おおにえのまつり)をやってこそ正式な即位となるのですが、それも行えなかったようで・・・

天文十四年(1545年)には、
「大嘗祭を行わないのは、私の怠慢ではなく国力の衰退による物・・・今、この国では徳のある賢者もおらず、私利私欲にとらわれた下剋上ばかりが盛んです。
このうえは神のご加護にすがり、上下和睦して民の豊穣を願うばかりです」

と、お詫びとも願いともとれる文を伊勢神宮に託しておられます。

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伊勢神宮にて…

天文八年(1539年)には諸国が大洪水に見舞われて大凶作となり、翌年には飢餓と疫病がまん延し、無数の餓死者や病死者が出た時には、般若心経を書写して供養し、それを25ヶ国の一宮に奉納して災厄の終息を願ったのだとか・・・

日頃は、清原宣堅(のぶかた)らに漢詩を学び、三条西実隆(さなたか)らから日本の古典を学ぶという学問好きだった後奈良天皇・・・時おり、宸翰(しんかん・天皇の直筆)の書を売って生計の足しにせねばならないほどの困窮を味わいながらも、決して、「献金と引き換えに官位を授ける事はしない」というまっすぐな性格だったと言います。

そんな後奈良天皇が62歳で崩御されたのが弘治三年(1557年)9月5日・・・その在位は、大永六年(1526年)~ 弘治三年(1557年)という事になりますから、あの斉藤道三の美濃乗っ取りに始まり、織田信長がやっと尾張を統一する頃くらいまで・・・

まさに、戦国動乱の真っただ中の時代を生きた天皇という事になります。

しかしそんな動乱の中にも、般若心経を写して奉納した際には
「朕(ちん、民の父母として、徳覆うこと能(あた)はず。
(はなは)だ自ら痛む。
こひねがはくは、疾病の妙薬たらんか」

という言葉を付け加えていたのだとか・・・

自らの力のなさ故に国民を救えない歯がゆさに心痛めつつ、それでも、ただひたすら、国民の平穏を願われていたのでしょう。

こんな天皇家の衰退を救ってくれるのは、後奈良天皇・崩御の11年後に足利義昭(よしあき)を奉じて上洛する織田信長・・・それは、後奈良天皇の崩御を受けて、第106代の天皇になった第2皇子・正親町(おおぎまち)天皇(10月27日参照>>)の時代です。

そら、
「蘭奢待(らんじゃたい)削ってもええで」って言うてまうわ!
(↑あくまで個人的意見です…くわしくは3月28日のページで>>
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2011年9月 3日 (土)

頼朝に味方した秩父平氏・葛西清重

 

治承四年(1180年)9月3日、伊豆で挙兵した源頼朝が、葛西清重に参陣要請の手紙を送りました。

・・・・・・・・・・・・

つい先日・・・9月1日の江戸城再建のおでも触れましたように、東京=江戸を領地とした人物として思い浮かぶのは、やはり徳川家康か、それ以前の北条5代・・・さらに、室町時代の関東管領がらみの大田道灌(どうかん)といったところですが・・・(9月1日を見てみる>>)

もちろん、それ以前の平安後期にも関東一円に拠点を構えて繁栄していた人たちがいわけで、彼らは「秩父平氏」と呼ばれた平家の一族です。

桓武天皇の曾孫・高望王(たかもちおう)に始まる桓武平氏(5月13日参照>>)・・・以前、平将門(まさかど)のページ(11月21日参照>>)でも触れさせていただきましたが、上総介(かずさのすけ)に任じられて関東へと赴任した彼らは、しっかりと関東に根をおろし、任期が過ぎても帰京する事なく、むしろ、常陸や下総にまで勢力を伸ばし、関東地方に一大武士団を形成・・・その子孫たちが各地に散らばって、『平家物語』に登場する千葉氏畠山氏三浦氏などの武家となっていったわけです。

その中の一つが、現在の「東京都豊島区」にその名を残す豊島(としま)・・・もちろん本拠地は、そのあたりで、前九年の役(9月17日参照>>)保元の乱(7月11日参照>>)などでも、その活躍ぶりが描かれていますが、長元元年(1028年)に起こった平忠常(ただつね)の乱をきっかけに、その乱を鎮圧した源頼信(よりのぶ)の配下となり、保元の乱では源義朝(よしとも=頼朝の父)配下として参戦していました。

そんな豊島氏で、今回の源平の争乱が始まる頃に当主となっていたのが豊島清元(きよもと)・・・その清元の三男で、葛西(かさい)三郎と称していたのが葛西清重(きよしげ)でした。

お察しの通り、現在の「葛飾区」あたりを本拠とし、後に奥州総奉行を命じられた事で奥州の大族となり、あの豊臣秀吉に屈する事を拒んで葛西・大崎一揆(11月24日参照>>)で抵抗する葛西氏の祖となった人物です。

とは言え、先の保元の乱で味方した義朝は、次の平治の乱(12月26日参照>>)平清盛に敗れ、世はまさに平家一色・・・今回の治承四年(1180年)の頃は、その清盛の配下として「秩父平氏」の道を全うしていたわけですが・・・

しかし、そんな治承四年(1180年)4月、清盛の威勢のために、後白河法皇の息子でありながら不遇の生活を送っていた以仁王(もちひとおう)が、『平家追討の令旨(りょうじ・天皇家の人の命令書)を発して挙兵したのです(4月9日参照>>)

実際の挙兵は、わずか2ヶ月足らずで鎮圧され(5月26日参照>>)、大勢が動く事は無かったのですが、一旦、反清盛勢力に発せられた令旨が、徐々に徐々にと影響を及ぼし始めます。

そして8月17日・・・保元の乱の後に伊豆で流人生活を送っていた(2月9日参照>>)亡き義朝の息子=源頼朝が挙兵したのです(8月17日参照>>)

当然の事ながら、諸国に散らばる源氏は、即刻、ともに戦う決意をしますが、「秩父平氏」としては微妙・・・血筋は平氏ですが、関東に根を下ろした源氏の配下となり、清盛が力を持つまでは、ともに仲良くやってたわけですから・・・

結局、彼らの中でも、このまま清盛に従う者と、挙兵した頼朝に味方する者とに分かれる事になります。

そんな中の8月23日・・・頼朝は、石橋山にて大敗を喫してしまいます(8月23日参照>>)

「もはや頼朝も終わったか?」と思われるほどの負けっぷりでしたが、命からがら船で房総半島に逃げた頼朝は、何とか態勢を立て直します。

そして治承四年(1180年)9月3日葛西清重とその父に対して、味方になってくれるよう、参陣を促す手紙を送ったのです。

もちろん、同様の手紙は清重らだけではなく、小山朝政(おやまともまさ)庄司行平(ゆきひら)など、他の東関東の武将たちにも送られていたのですが、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』には、この時の清重への手紙にだけ、わざわざ「忠節に抽(ぬき)んでている者なので…」てな事が書かれていたようで、頼朝が清重の参戦に、特別に期待をしていた事がうかがえます。

専門家の方の研究によれば、「御所の警備を担当していた事もある清重は、度々京都を訪れていて、その行き帰りに伊豆へと寄り、すでに、頼朝の信頼を得ていたのであろう」との事・・・

Kasaikiyosige600a もちろん、そんな清重ですから、すぐに頼朝側について参戦する事を決意しますが、なかなか本隊と合流できず・・・頼朝が千葉常胤(つねたね)の300余騎の援軍を得て、武蔵の国境・隅田川のほとりに到着した(10月6日参照>>)10月3日に、やっと合流する事ができました。

以来、まさに頼朝の期待通り、主君に忠節を尽くした清重・・・同じ年の11月に、頼朝が、未だ味方になっていなかった常陸佐竹秀義(ひでよし)を討った時には、その帰り道に自宅に招いてもてなし、一泊したその夜には、奥さんを差し出して夜のお相手をさせ(←ええんかい!w(゚o゚)w)、頼朝を大いに喜ばせた(←喜ぶんかい!( ̄Д ̄;;)のだとか・・・

その信頼の厚さからか、同時期に頼朝のもとに馳せ参じた上総介広常(かずさのすけひろつね)(12月20日参照>>)畠山重忠(しげただ)(6月22日参照>>)など、鎌倉時代に入ってから次々と粛清されていく御家人たちの中でも、清重だけは北条氏から重用され、宿老としての人生を全うし、80歳くらいまで長生きしたという事です。

やがて、多くの所領を持っていた奥州に拠点を移した葛西氏は、上記の通り、秀吉が奥州仕置きを行うその時まで、奥州の覇者として君臨する事になるのです。
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2011年9月 1日 (木)

官のムダを省いて被災者優先…保科正之の英断

 

万治二年(1659年)9月1日、明暦の大火で焼失した江戸城の再建計画会議で、天守閣の再建中止を決定しました。

・・・・・・・・・

すでにブログにも何度か登場していますように、豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅んだ後、その旧領を任される事になった徳川家康が本拠としたのが江戸城・・・(7月13日参照>>)

もともとは、未だ関東一円が群雄割拠していた時代に、大暴れする古河(こが)公方足利成氏(しげうじ)から関東を守るために関東管領扇谷(おうぎがやつ)上杉家執事であった太田道灌(どうかん)が築いたのが江戸城の始まり(4月8日参照>>)なわけですが、もちろん、その頃には天守閣などなく、屋敷に毛の生えた程度の建物のみ・・・

しかも、長年放置され続けた事で、家康が入った頃には、そんな建物もほとんど使い物にならない状態でした。

それを、年月をかけてコツコツと、徐々に大きくしていった家康が、本格的に江戸城の造営に着手するのは、やはり、関ヶ原の合戦に勝利して、征夷大将軍(2月12日参照>>)になった頃から・・・

やがて、その将軍職も2代め秀忠に譲った慶長十一年(1606年)から、将軍の城にふさわしい物すべく、大がかりな造営工事に取り掛かり、以来、江戸城は壮大な天守を持つ近世城郭へと成長していきます。

当時、天守閣の普請を行った大工・中井家(9月21日参照>>)の図面によれば、1階平面が十八間(約38m)×十六間(約34m)に、高さは約48m・・・外観五重の内部6階(石垣内に地階)、壁は、これまでよくあった下半分板張りをやめて、白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりこめ)にし、屋根は木形を鉛板で覆った鉛瓦だったとか・・・

これは、あの大坂城の天守をしのぐ規模!
やはり、この頃の家康にとって、大坂にいる豊臣秀頼は意識せざるをえない存在・・・大坂城を見下ろすような天守閣に仕上げたかったのでしょう。

とは言え、そんな初代の天守閣は、家康亡き後に2代将軍・秀忠によって解体され、元和八年(1622年)から翌年の工事によって造りなおされます。

建て替えの理由は、御殿の拡張のためという事で、ほぼ初代と同じ場所に少し規模を小さくした形となりました。

しかし、そんな元和の天守閣も、秀忠の死後、3代将軍・家光の手によって建て替えられます。

その理由は、秀忠・家光の父子の確執とか、漆喰が見るも無残な状態となってたとか、仙台城の天守として下げ渡すため・・・とか言われますが、明確な理由は不明・・・

とにかく、これが、寛永十三年(1636年)から翌年にかけての工事で造られた寛永天守と呼ばれる3代めの天守閣で、その構造は、やはり五層6階(地階を含む)独立式層塔型で、壁面は黒色になるように加工された銅板を張り、銅瓦葺の屋根となっています。

壁が黒色に見える『江戸図屏風』の天守は、おそらく、この3代めの寛永天守ではないか?と言われています。

Edozyouzu1000 「江戸城図屏風(部分)(国立歴史民族博物館蔵)

ところが・・・です。

この寛永天守が、明暦三年(1657年)1月18日に起こった明暦の大火=通称:振袖火事(2007年1月18日参照>>)で焼失してしまうのです。

以前も書かせていただいたように、この振袖火事は謎多き火事(2010年1月18日参照>>)・・・ひょっしたら、もは満杯状態になってる江戸の町を、ちゃんとした都市計画のもとに建てなおそうと考えた計画的な放火かも知れないなんて話もチラホラ・・・

もちろん、計画的な放火はあくまで推論で、たぶんそうではなかったとは思いますが、とにもかくにも江戸城が、わずかに西の丸御殿を残した状態だけになってしまったのは一大事・・・

早速、様々な復興計画が立てられますが、その中心人物となったのが会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)・・・

以前書かせていただきましたが、この正之さんは、2代将軍秀忠とお静さんとの間に生まれた息子ですが、カカァ天下バリバリの奥さん=お江さん(大河の主役)に気をつかってか、江が亡くなるまで父子の対面しなかった・・・言わば隠し子的日陰の子として育てられた息子です(12月18日参照>>)

しかし、後に異母兄弟として対面した3代将軍・家光が、才能溢れる正之を、一発で気に入り、亡くなる時には、「是非とも、息子・家綱の補佐役をやってくれ!」と頼んだほどの人物・・・この時は、その遺言通り、青年将軍・家綱の補佐をしていました。

実は、正之自身、この振袖火事で息子を亡くしていました。

しかし、その悲しみに耐えながら、復興計画を推進していく正之・・・先ほど書かせていただいたように、もはや満杯状態に密集した民家や武家屋敷の状況を、少しでも改善しよと、野山や林を切り開き、海岸を埋め立てて宅地とし、道路の幅を広くして、できるだけ火災に強い計画的な町づくりを進めていきます。

やがて万治二年(1659年)、町づくりとともに行っていた江戸城の修復工事も進み、8月には本丸御殿も完成・・・あとは天守閣のみとなり、加賀藩主の前田綱紀によって御影石の天守台が築かれ、計画図も作成され、まもなく工事に取り掛かるはずでした。

しかし、万治二年(1659年)9月1日、その日開かれた復興会議の席で、正之が、天守閣再建に「待った!」をかけたのです。

同席した皆は、驚きの声をあげます。

なんせ、当時は、どんな小さな城にでも天守閣があるのが当たり前の時代・・・これは、言わば、その領地を治める大名の権威の象徴であり、誇りでもあったのです。

「なのに、天下の将軍の居城に天守閣が無いでは、カッコつかんじゃないか!」
それが、多くの家臣の意見でした。

しかし、正之は続けます。

天守(信長は天主)という物は、あの織田信長公の安土城にて誕生した物・・・けど、平和な今となっては、単に展望の場所というだけで、軍事的な意味なんてほとんどない。
自らの権威を示すだけのために、貴重な財源を使うべきではないのとちゃうか?」

と・・・

以来、江戸城の天守閣が再建される事は2度とありませんでした。

現在では、その時構築された天守台の石垣だけが残ります。

一旦進みだしたプロジェクトを途中でストップさせるのは大変勇気のいる事・・・しかし、この時、大きな災害に見舞われた江戸にとって、天守閣再建よりも、もっと先にすべき事が山とあり、正之としては、限られた財源を、そちらに回す事を優先すべきと考えたのでしょう。

皇居東御苑に残るあの石垣は、正之の勇気の証・・・見事な英断でした。
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