中山道で関ヶ原に向かった徳川秀忠…その任務は?
慶長五年(1600年)9月7日、関ヶ原へ向かう徳川秀忠軍が、真田昌幸・幸村父子の籠もる上田城への攻撃を断念しました。
・・・・・・・・・
関ヶ原の戦いの前哨戦の一つである第2次上田城の戦い・・・
そもそもは慶長五年(1600年)、上杉景勝に謀反の疑いあり(4月1日参照>>)として、大軍を率いて伏見城を後にし、一路、会津征伐に向かっていた徳川家康・・・
その時、信濃(長野県)の上田城を本拠とする真田昌幸(まさゆき)と、その長男の信幸(のぶゆき・後に信之に改名)・次男の幸村(信繁)も、その会津征伐軍に加わるべく移動しておりましたが、下野(しもつけ・栃木県)犬伏にて石田三成の挙兵を知り、父と弟は上田城へと戻り、兄のみが家康のもとへ・・・と袂を分かつ事になります。(7月21日参照>>)
一方、自分の留守中に三成が伏見城を攻撃した(8月1日参照>>)事を知った家康は、急きょ会津攻めを取りやめて西へとUターン(7月25日参照>>)・・・会津への防御として宇都宮城を次男の結城秀康(ゆうきひでやす)に守らせ、自らは豊臣恩顧の武将を先発隊に東海道を進み(8月11日参照>>)、三男の徳川秀忠には3万8000の兵をつけて中山道を進ませたのです。
・・・で、この先、西へ戻った家康と三成がぶつかる本チャンの関ヶ原では、東軍(家康)が約8万9000、西軍(三成)が8万2000(不戦の毛利&吉川・寝返りの小早川含む)と兵の数が拮抗していますが、この東軍の数は会津征伐にともに向かい、帰りは先発隊となって戻って来た豊臣恩顧の武将たち=福島正則やら細川忠興やら黒田長政やらを含めた数なので、正味の家康本隊の数は約3万チョイだったと言われています。
つまり、家康は自分より多い数の軍勢を秀忠につけたわけで、ゆえに、この秀忠の軍こそが、関ヶ原の合戦の本隊だったと考える専門家も少なくありません。
しかし、中山道を進んだ秀忠の前に立ちはだかったのが、かの昌幸の上田城・・・結局、この上田城の攻略に手間取った秀忠は、本チャンの関ヶ原に遅刻するという大失態をしでかしてしまうわけですが・・・
その戦いぶりについては、昨年=2010年の9月7日に書かせていただいているので、ソチラで見ていただくとして(2010年9月7日参照>>)、もし、本当に秀忠の軍が、関ヶ原の本隊だったのだとしたら、肝心の関ヶ原に間に合わないなんて本末転倒もいいとこ・・・
そこで歴史家の笠谷和比古(かさやかずひこ)氏が提唱していらっしゃるのが、「中山道を行った秀忠の任務は、はじめっから上田城攻略にあった」という説・・・
その根拠として一番に挙げておられるのが、出発前の8月23日に、秀忠が諸将に送った手紙・・・そこに、「信州真田表(おもて)の仕置きのために出陣する」という事が明記されているのだとか・・・
また、徳川方に残った長男の信幸にも、「自分は小県(ちいさがた・長野県長和町&青木村)を攻めるから、君もそのつもりで出馬してね」と、秀忠が言ったとも・・・
しかも、この時の西軍の動きには、三成に応呼した会津の上杉と常陸(茨城県)の佐竹が関東に進攻し、それに同調して真田が信州の制圧というシナリオがあったという噂もあるらしい・・・
そうなると、秀忠の最大の任務が上田城攻略であった可能性もなくはないわけですが・・・だとすると、関ヶ原という大戦が身近に迫るこの時点で、小さな城に過ぎない上田城の攻略に、最大の大軍をつけたのはなぜか?という疑問が出てきますね~
もちろん、結局は、智謀にすぐれた昌幸に翻弄されて、その小城を落とせなかったわけですから、その昌幸の智将ぶりを踏まえての大軍派遣とも思えますが、智将というなら、秀忠にだって、本多正信(9月5日参照>>)やら榊原康政(さかきばらやすまさ)(5月14日参照>>)やらのベテラン勢がそばについていたわけですから、実戦力未知数の若き秀忠を充分にサポートできると考えるのが普通で、結果的に攻略できなかったのは、まさに結果論ですから、出発の時点で大量の兵士というのは、やはり、関ヶ原が主要な目的だったからのような気もします。
また、この上田合戦の時の昌幸の動き・・・最初に講和すると見せかけて、やっぱりやめて押したり退いたりと、相手を蹴散らすというよりは、明らかに時間稼ぎをしてる感がありで、やはり昌幸側の最大の目的は、1日でも戦いを長引かせて、関ヶ原に遅刻させる事にあったように思います。
・・・だとしたら、昌幸も、秀忠は関ヶ原へ行くのが一番の目標だと思って阻止していたわけで、智将・昌幸がそう思ってるならやっぱりそうかな??と・・・(どっちやねん!)
と、私自身が右往左往の第2次上田合戦ですが、ここに、もう一つ説があります。
それは、上田城攻略・・・というよりは、そこにあった軍資金と兵糧を奪う事が目的だったというもの・・・
だからこそ、わずかに2500ほどしかいない上田城に大軍を送り込んだのだと・・・とてもじゃないが歯がたたない大軍で城を取り囲んで、さっさと開城させ、軍資金と兵糧を手土産に関ヶ原へ・・・これが本来のシナリオなのでは?というのです。
だからこそ、秀忠も、最初がら力づくで攻める事なく、開城勧告をしてから3日間も待っちゃった・・・と、
果たして、
秀忠は関ヶ原本戦の本隊だったのか?
最大の任務は上田城攻略だったのか?
上田城の軍資金目当てか?
おそらくは、この先、新たな発見がない限り答えが出ないのかも知れませんが、だからこそ推理がオモシロイわけで・・・
はてさて、大河ドラマ「江」では、いよいよ次週に迫った秀忠と真田の上田合戦・・・果たしてどのように描いてくださるのか?
スタッフさんのお手並み拝見o(゚ー゚*o)(o*゚ー゚)oワクワク♪
.
「 家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事
- 関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い(2024.08.20)
- 逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア(2023.11.25)
- 徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方(2023.08.22)
- 徳川家康の寵愛を受けて松平忠輝を産んだ側室~茶阿局(2023.06.12)
- 加賀百万石の基礎を築いた前田家家老・村井長頼(2022.10.26)
コメント
定期テストが終わりブログを開始したのですが、確認をしてからこちらのブログのURLをのせたいと思います。
「のせるなー」
というときは、どうぞご遠慮なくIkuyaにお伝えください。
投稿: Ikuya | 2011年9月 7日 (水) 21時37分
次回の大河ドラマもさることながら、次回の歴史秘話ヒストリアでは、真田家の乱世の奮闘の様子を取り上げます。
考えてみれば、関ヶ原の戦いの日は元「敬老の日」ですね。
投稿: えびすこ | 2011年9月 7日 (水) 22時34分
Ikuyaさん、こんばんは~
Ikuyaさんのブログでご紹介いただけるんですか?
うれしいです。
どんどんリンクして下さい!!
よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2011年9月 8日 (木) 02時30分
えびすこさん、こんばんは~
そう言えば、ハッピーマンデーで移動するので、「敬老の日」というのも、忘れてました~
>真田家…
ドラマなんかでは、いつもお兄さんがほとんど出て来ないので、ヒストリアでは、ぜひ、取りあげていただきたいですね~
投稿: 茶々 | 2011年9月 8日 (木) 02時34分
こんにちわ、茶々様。
>大量の軍資金と兵糧
えっ?
どうして真田家が大量の軍資金と兵糧をもっているんですかね?
なんか根拠となる伝説みたいのがあるんですか
ワクワク(*゚ー゚*)
投稿: DAI | 2011年9月 8日 (木) 11時01分
DAIさん、こんにちは~
ダハッ!
「大量」というのはちょっとオーバーだったかも知れません
(m(. ̄  ̄.)mスミマセン・あとで訂正しときます)
ただ、大量とまではいかなくとも、かなりの軍資金と兵糧米の蓄えがあって、それを奪うつもりだったという専門家の方(名前を失念しました)の見解は実際にあります。
秀吉から破格の厚遇を受けていた事や、現在も上田城から出土する荘厳な金箔瓦の多さなどがその出どころかと思われますが、ちゃんとお答えできるよう調べてみますね。
何かわかったら、報告させていただきます。
投稿: 茶々 | 2011年9月 8日 (木) 12時41分
ありがとうございますm(__)m
これからも頑張ってください!
投稿: Ikuya | 2011年9月 8日 (木) 21時21分
Ikuyaさん、こんばんは~
>これからも頑張ってください!
ハイ!ありがとうございます(゚▽゚*)
投稿: 茶々 | 2011年9月 9日 (金) 02時08分
>軍資金と兵糧米
長期戦を想定していたのでしょうか?
秀忠勢に従軍した真田信之は、当然ながら「交渉役要員」でしたが、金銭と米が城内のどこにあるかを知ってた事情もあるんですね。
そうなると九州にいる黒田如水が、近畿へ攻めこんだ可能性もなくはない…?
投稿: えびすこ | 2011年9月 9日 (金) 13時17分
えびすこさん、こんにちは~
黒田如水の行動を見る限り、関ヶ原が一日で決着するとは、如水も思っていなかったように思えます。
名軍師と言われる彼が思っていなかったのですから、多分、多くの武将が長期戦になると考えていたんじゃないでしょうか?
投稿: 茶々 | 2011年9月 9日 (金) 18時11分
お茶々様、こんにちは!
1.秀忠は関ヶ原本戦の本隊だったのか?
西軍の主力が美濃より東側には進めなかったのは後世の自分たちが結果を知っているからであって、当時対戦している東軍方は、江戸から西に向かうにあたって、逆に西軍が江戸に向かって進軍してくることも想定したとしても不思議ではないと思います。そして、秀忠の軍は、西軍の一部が中山道を通って江戸を攻め下ったり、上杉や真田(佐竹も?)と合流するのを防止する目的があったとは考えられないでしょうか?そして、中山道側の部隊は徳川軍だけになるので、サポートにベテランの家臣を付けたのではないでしょうか?
2.最大の任務は上田城攻略だったのか?
秀忠の軍には、美濃や近江辺りで東海道側の軍を合流する計画はあったとして、道中の西軍勢力(実際には真田ぐらいかもしれませんが)をけん制したり攻め落としたりする役割があったとは考えられないでしょうか。また、真田をしばらく攻めた後にあきらめて西に向かっているので、それほど上田城攻めに固執してはいなかったのではと思いますが、いかがでしょうか?
投稿: 真田幸成 | 2011年9月17日 (土) 14時02分
真田幸成さん、こんばんは~
やはり、東海道同様に、西軍勢力を潰しながらの西上というのが、一番妥当かも知れませんね。
おっしゃる通り、上杉討伐に向かった豊臣恩顧の武将が東海道に行ったぶん、秀忠に多くつけたという事かも知れません。
投稿: 茶々 | 2011年9月17日 (土) 18時38分
茶々様、こんにちは。
出演者がしばしば主人公への入れ込みすぎを見せるNHK「BS歴史館」の真田幸村の回で、磯田道史さんは「秀忠が遅刻したせいで、徳川政権のかたちが変わってしまった」と述べていました。
秀忠軍が参加していれば家康が自分の力で勝ったことになるのですが、実際には豊臣恩顧の大名たちの力を借りることになり、恩賞として彼らに広大な領地を与えなくてはならなかったからです。茶々様が別の記事でご指摘された「大名連続怪死事件」と考え合わせるとなるほどと思いますが、実際に家康が一日で勝利を収めてしまったこととつき合わせると何かおかしいです。
家康としては東軍の中から寝返る者が出ないように勝利を急いだのであり、秀忠を最初からあてにしていなかったのかも。兵力の温存とも思えませんから、真田幸成様のおっしゃるとおり、上田城攻めを口実にした東方の敵のけん制ではないでしょうか。
それにしても、家康は本気で一日で勝つつもりだったのでしょうか。本人に聞いてみたくありませんか。
投稿: りくにす | 2012年9月 7日 (金) 18時04分
りくにすさん、こんばんは~
本気で一日で勝つつもりだったかどうかは、おっしゃる通り、本人に聞くしかありませんが、少なくとも、速戦即決を望んでいた事は確かでしょう。
今年は、関ヶ原関連では大津城の攻防戦を書きましたが、それを書いてて思ったのは、この大津城に裂いた兵が関ヶ原に間にあっていたら…という事です。
もう一つ田辺城の開城も9月13日ですね。
もし、少しでも長引けば、彼らが加わる事は明白ですからね。
やはり、家康としては速戦即決するしか無かったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2012年9月 7日 (金) 20時47分