官のムダを省いて被災者優先…保科正之の英断
万治二年(1659年)9月1日、明暦の大火で焼失した江戸城の再建計画会議で、天守閣の再建中止を決定しました。
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すでにブログにも何度か登場していますように、豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅んだ後、その旧領を任される事になった徳川家康が本拠としたのが江戸城・・・(7月13日参照>>)
もともとは、未だ関東一円が群雄割拠していた時代に、大暴れする古河(こが)公方・足利成氏(しげうじ)から関東を守るために関東管領・扇谷(おうぎがやつ)上杉家の執事であった太田道灌(どうかん)が築いたのが江戸城の始まり(4月8日参照>>)なわけですが、もちろん、その頃には天守閣などなく、屋敷に毛の生えた程度の建物のみ・・・
しかも、長年放置され続けた事で、家康が入った頃には、そんな建物もほとんど使い物にならない状態でした。
それを、年月をかけてコツコツと、徐々に大きくしていった家康が、本格的に江戸城の造営に着手するのは、やはり、関ヶ原の合戦に勝利して、征夷大将軍(2月12日参照>>)になった頃から・・・
やがて、その将軍職も2代め秀忠に譲った慶長十一年(1606年)から、将軍の城にふさわしい物すべく、大がかりな造営工事に取り掛かり、以来、江戸城は壮大な天守を持つ近世城郭へと成長していきます。
当時、天守閣の普請を行った大工・中井家(9月21日参照>>)の図面によれば、1階平面が十八間(約38m)×十六間(約34m)に、高さは約48m・・・外観五重の内部6階(石垣内に地階)、壁は、これまでよくあった下半分板張りをやめて、白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりこめ)にし、屋根は木形を鉛板で覆った鉛瓦だったとか・・・
これは、あの大坂城の天守をしのぐ規模!
やはり、この頃の家康にとって、大坂にいる豊臣秀頼は意識せざるをえない存在・・・大坂城を見下ろすような天守閣に仕上げたかったのでしょう。
とは言え、そんな初代の天守閣は、家康亡き後に2代将軍・秀忠によって解体され、元和八年(1622年)から翌年の工事によって造りなおされます。
建て替えの理由は、御殿の拡張のためという事で、ほぼ初代と同じ場所に少し規模を小さくした形となりました。
しかし、そんな元和の天守閣も、秀忠の死後、3代将軍・家光の手によって建て替えられます。
その理由は、秀忠・家光の父子の確執とか、漆喰が見るも無残な状態となってたとか、仙台城の天守として下げ渡すため・・・とか言われますが、明確な理由は不明・・・
とにかく、これが、寛永十三年(1636年)から翌年にかけての工事で造られた寛永天守と呼ばれる3代めの天守閣で、その構造は、やはり五層6階(地階を含む)、独立式層塔型で、壁面は黒色になるように加工された銅板を張り、銅瓦葺の屋根となっています。
壁が黒色に見える『江戸図屏風』の天守は、おそらく、この3代めの寛永天守ではないか?と言われています。
ところが・・・です。
この寛永天守が、明暦三年(1657年)1月18日に起こった明暦の大火=通称:振袖火事(2007年1月18日参照>>)で焼失してしまうのです。
以前も書かせていただいたように、この振袖火事は謎多き火事(2010年1月18日参照>>)・・・ひょっしたら、もは満杯状態になってる江戸の町を、ちゃんとした都市計画のもとに建てなおそうと考えた計画的な放火かも知れないなんて話もチラホラ・・・
もちろん、計画的な放火はあくまで推論で、たぶんそうではなかったとは思いますが、とにもかくにも江戸城が、わずかに西の丸御殿を残した状態だけになってしまったのは一大事・・・
早速、様々な復興計画が立てられますが、その中心人物となったのが会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)・・・
以前書かせていただきましたが、この正之さんは、2代将軍秀忠とお静さんとの間に生まれた息子ですが、カカァ天下バリバリの奥さん=お江さん(大河の主役)に気をつかってか、江が亡くなるまで父子の対面しなかった・・・言わば隠し子的日陰の子として育てられた息子です(12月18日参照>>)。
しかし、後に異母兄弟として対面した3代将軍・家光が、才能溢れる正之を、一発で気に入り、亡くなる時には、「是非とも、息子・家綱の補佐役をやってくれ!」と頼んだほどの人物・・・この時は、その遺言通り、青年将軍・家綱の補佐をしていました。
実は、正之自身、この振袖火事で息子を亡くしていました。
しかし、その悲しみに耐えながら、復興計画を推進していく正之・・・先ほど書かせていただいたように、もはや満杯状態に密集した民家や武家屋敷の状況を、少しでも改善しようと、野山や林を切り開き、海岸を埋め立てて宅地とし、道路の幅を広くして、できるだけ火災に強い計画的な町づくりを進めていきます。
やがて万治二年(1659年)、町づくりとともに行っていた江戸城の修復工事も進み、8月には本丸御殿も完成・・・あとは天守閣のみとなり、加賀藩主の前田綱紀によって御影石の天守台が築かれ、計画図も作成され、まもなく工事に取り掛かるはずでした。
しかし、万治二年(1659年)9月1日、その日開かれた復興会議の席で、正之が、天守閣再建に「待った!」をかけたのです。
同席した皆は、驚きの声をあげます。
なんせ、当時は、どんな小さな城にでも天守閣があるのが当たり前の時代・・・これは、言わば、その領地を治める大名の権威の象徴であり、誇りでもあったのです。
「なのに、天下の将軍の居城に天守閣が無いでは、カッコつかんじゃないか!」
それが、多くの家臣の意見でした。
しかし、正之は続けます。
「天守(信長は天主)という物は、あの織田信長公の安土城にて誕生した物・・・けど、平和な今となっては、単に展望の場所というだけで、軍事的な意味なんてほとんどない。
自らの権威を示すだけのために、貴重な財源を使うべきではないのとちゃうか?」
と・・・
以来、江戸城の天守閣が再建される事は2度とありませんでした。
現在では、その時構築された天守台の石垣だけが残ります。
一旦進みだしたプロジェクトを途中でストップさせるのは大変勇気のいる事・・・しかし、この時、大きな災害に見舞われた江戸にとって、天守閣再建よりも、もっと先にすべき事が山とあり、正之としては、限られた財源を、そちらに回す事を優先すべきと考えたのでしょう。
皇居東御苑に残るあの石垣は、正之の勇気の証・・・見事な英断でした。
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コメント
今だったら「慣例に従わないとダメ」って事になりそう。本当に必要な事、そうでない事を見極める事は大切ですね。こんな人が今いたら・・・と、ここを拝見するたび思います。ただ、‘海岸を埋め立てて宅地にする’
ってこの時代からすごい技術があったんだな、って感心すると同時に、そのまま住み続けると地盤がズブズブなんだから大地震が起きた時怖い、と思ってしまったのは震災の影響大ですね。いえ、前からチラッと思ってましたが・・・まぁ、この時代まさか小さな木の家でなく重たいコンクリートの塊がたくさん建つとは思ってなかったでしょうからね。
投稿: Hiromin | 2011年9月 1日 (木) 20時10分
Hirominさん、こんばんは~
さすがに、埋立地が地震で液状化現象までは、予測はできなかったでしょう。
それよりも、日常茶飯事のように起こる火事の対策のほうが重要だったのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年9月 2日 (金) 00時02分