日清戦争~制海権を握った黄海海戦
明治二十七年(1894年)9月17日、日清戦争において、日本海軍が黄海から渤海までの制海権を掌握する事になった黄海海戦がありました。
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まずは、これまでの日清戦争の経緯については、コチラのリンクから↓
- 明治二十七年(1894年)6月2日
【日清戦争への足音】参照>> - 明治二十七年(1894年)6月9日
【いよいよ日清戦争へ…】参照>> - 明治二十七年(1894年)7月25日
【豊島沖海戦】>> - 明治二十七年(1894年)7月29日
【成歓の戦い】>> - 明治二十七年(1894年)9月16日
【日清戦争~平壌・陥落】>>
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昨日の平壌陥落のページにも書かせていただきましたが・・・
明治二十七年(1894年)7月30日に正式な開戦とあいなった日清戦争において、まずは、陸軍が朝鮮半島の清国軍をけん制しながら、海軍が、海上に展開している清国海軍を撃破して黄海と渤海(ぼっかい)の制海権を握る事を目標としていた日本軍でしたが、この9月になっても清国艦隊を発見できない事に、連合艦隊と海軍司令部は、徐々に焦りを見せ始めていました。
なんせ、清国側は、この日清戦争は、「長い持久戦を続けて、最後には西洋列強の介入で講和に持ち込みたい」という考えていて、ここのところの自国の艦隊に対しては、近海の防御をするのみで、現在の戦力を温存させるよう指示していたのですから、レーダーも航空機もない当時は、広い海上で、あまり動きの無い敵艦隊を発見する事はなかなか難しかったわけです。
そんなこんなの9月10日・・・
それまで、内地にいた海軍軍令部長の樺山資紀(かばやますけのり)が渡海して、連合艦隊の本拠地であった金羅道(チョルラド)南岸にて、連合艦隊司令長官の伊東祐亨(ゆうこう)中将、第1軍司令官の山県有朋(やまがたありとも)大将、第3師団長の桂太郎中将らと協議・・・来たる9月17日に、連合艦隊が渤海(ぼっかい)湾沿岸を巡航する事を決定しました。
かくして明治二十七年(1894年)9月17日・・・その日は、見事な快晴であったと言います。
♪煙も見えず 雲もなく
風も起こらず 波立たず
鏡のごとき黄海は
曇りそめたり 時の間に♪ (軍歌「勇敢なる水平」より)
12隻で編成された連合艦隊が、鴨緑江(おくりょくこう)沖を巡回していた10時23分・・・第1遊撃隊旗艦・吉野が、北東方向の水平線上に1筋の煤煙(ばいえん)を発見!
その煙の筋は、またたく間に10本増えます・・・待ちに待った清国艦隊の出現でした。
11時30分・・・縦1列の陣形となって、一路、敵艦隊へと発進して1時間後には戦闘配備につきます。
一方、スピードで劣る清国艦隊は、戦艦の定遠(えいえん)と鎮遠(ちんえん)を中央に置いて横1列に並んで戦闘態勢に入ります。
午後0時50分・・・定遠の主砲が火を吹いた事をきっかけに、戦闘が開始されます。
そこで、スピードをあげて敵艦に近づいた連合艦隊は、小型の速射砲で多量の砲弾を浴びせます。
この最初の攻撃により、清国艦隊の旗艦であった定遠の操縦室や信号機が破損・・・艦隊の指揮が取れなくなった事から、陣形を崩した清国艦隊は、それぞれが単独で戦うしかなくなり、次々と撃破されていったのです。
とは言え、実を言うと、今回の黄海開戦は、日本が初めて経験する本格的海戦・・・当時の日本には、まだ巨大戦艦を建造する余裕が無かったのです。
未だ日清戦争が始まる以前、清国の戦艦・定遠と鎮遠が日本に来航した事があったのですが、当時、世界有数の攻撃力と防御力を誇り、30.5cm口径の主砲を持つ巨大戦艦だった2隻を目の当たりにした日本海軍関係者が、そのスゴさに驚き、対抗できる船として慌てて建造したのが、松島・厳島・橋立の三景艦だったのですが、もちろん、大きさは、清国のそれには到底及びませんでした。
ならば主砲だけでも・・・と、定遠の主砲を上回る32.5cm口径の主砲を無理やり搭載した事で、今回の黄海海戦では、1発撃つ度に船体がバランスを崩すわ故障はするわ、しかも、肝心の砲弾は、ほとんど命中せずという散々な結果でした。
逆に、鎮遠の主砲弾1発が命中した松島は、沈没こそ免れたものの、大きく破損し、100名近い死傷者を出したと言います。
♪戦(たたかい) 今か たけなわに
つとめつくせる ますらおの
尊(とうと)き血もて 甲板は
から紅(くれない)に かざられつ♪
この松島に乗船していて重傷を負い、「定遠はまだ沈みませんか?」と、敵艦の様子を気にしながら戦死したという三浦虎次郎三等水兵の事を歌ったのが、先の「勇敢なる水平」(作詞:佐々木信綱 作曲:奥好義)という軍歌です。
♪「まだ沈まずや定遠は」
此(こ)の言(こと)の葉(は)は短きも
み国を思う 国民(くにたみ)の
胸にぞ長く しるされん♪
と、歌は締めくくります。
ところで、戦況ですが・・・
確かに、期待した主砲はあまり役に立たず、そのぶん防御力も犠牲にしていたために、多大な犠牲を払った連合艦隊ではありましたが、そのスピードによる機動力は抜群で、結局、連合艦隊の砲撃で清国艦の超勇(ちょうゆう)と致遠(ちえん)が沈没し、揚威(ようい)が座礁・・・さらに、経遠(けいえん)・来遠(らいえん)・平遠(へいえん)の3隻に火災が発生しました。
やがて午後3時頃・・・耐えかねた清国艦・済遠(さいえん)が戦線離脱したのを皮切りに、次々と逃走をはかる清国艦隊・・・さすがの定遠と鎮遠は、それでも応戦していましたが、日没を迎える頃には、船体はすっかり破損し、もはや戦闘能力も無くなってしまいます。
こうして、この日の戦闘を終えた連合艦隊・・・翌朝には逃走艦を求めて、山東半島の威海衛(いかいえい)沖に展開しますが、もはや敵艦はすべて帰還し、その姿はありませんでした。
ここに、東洋一と謳われた清国艦隊は壊滅し、日本軍は、黄海から渤海湾に至るまでの制海権を獲得したのです。
*文中の♪と♪に囲まれた歌詞の部分は、「日本唱歌集(岩波文庫)」から引用させていただきました。
更なる日清戦争の展開は2011年11月21日【日清戦争~旅順口攻略】のページでどうぞ>>
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コメント
はじめまして
亡き父は戦前、軍港の町(宇和島)で育ったものですから、艦隊が入ると水兵さん達がミルクホールだかビヤガーデン?に陣取り、この歌を高らかに歌うのを聞いたと言います。
要所にアクセントのついた海軍さん独特の節回し、そういうどうでもいい事を父は良く覚えていて…。
日清・日露の軍歌は 叙事詩ですね。この後には抒情詩の時代がやってきますが、さて今は?
ふと、考えさせられます。
投稿: レッドバロン | 2011年9月21日 (水) 13時27分
レッドバロンさん、こんばんは~
今流行ってる歌で、果たして20年後、30年後にも歌われる歌は、何曲あるんでしょうね?
考えさせられます。
投稿: 茶々 | 2011年9月21日 (水) 17時55分