日清戦争~平壌・陥落
明治二十七年(1894年)9月16日、日清戦争にて平壌の戦いが展開され、平壌が陥落しました。
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もはや国内の混乱を抑えきれない朝鮮に、日本と清国(中国)がそれぞれの思惑を以って介入する事から始まった日清戦争・・・これまでの経緯については、それぞれのリンクからご覧くださいo(_ _)oペコッ
- 明治二十七年(1894年)6月2日
【日清戦争への足音】参照>> - 明治二十七年(1894年)6月9日
【いよいよ日清戦争へ…】参照>> - 明治二十七年(1894年)7月25日
【豊島沖海戦】>> - 明治二十七年(1894年)7月29日
【成歓の戦い】>>
日本が各国の公使に『交戦通告書』を交付して、国際法上にも、日清戦争が成立したのが7月31日・・・
その後の日本軍の目標としては、まずは、陸軍が朝鮮半島の清国軍をけん制しながら、海軍が、海上に展開している清国海軍を撃破して黄海と渤海(ぼっかい)の制海権を握る事・・・
その後の更なる展開としては、その制海権争いの戦いで、海軍が制海権を握れた場合と握れなかった場合、そして、海軍がもはや戦闘不能の壊滅状態となった場合の3パターンを想定して、3つの案が出されました。
制海権を握れた場合は、
甲:陸軍は直隷(ちょくれい)平野(直隷省=北京周辺)で決戦する。
制海権を握れなかった場合は、
乙:陸軍を増発して朝鮮半島を制圧。
敗北して壊滅状態となった場合は、
丙:清国海軍の来航を想定して本土の防衛を重視する。
こうして、まずは、海軍が動きますが、レーダーも航空機もない当時では、広い海上で、敵艦隊を発見する事すら、なかなか困難だった事もあり、おおむね日本海軍が優位な展開を進めつつも、結局、制海権は握れずにいた8月30日・・・3つの案の内の二つ目=乙案を実行する事を決定し、第1軍の司令官に任命した山県有朋(やまがたありとも)に対して、朝鮮半島北部の要衡・平壌(ピョンヤン)への攻撃命令を下したのでした。
当時の平壌は、高さ10mの城壁に囲まれた城砦都市で、日本軍の北上を食い止めたい清国軍にとっては、最も重要な防衛拠点となっていましたから、すでに周辺には多くの堡塁(ほうるい=石やコンクリート造りの堅固な防塁)が構築されており、なかなかの守りでありました。
そこを攻撃する日本軍・・・
すでに平壌周辺に集結していた陸軍は、9月15日未明・・・4方向からの進軍を開始します。
しかし、正面攻撃を担当した部隊は、一旦は市街に迫ったものの、市街手前に築かれた堡塁に行く手をはばまれたうえ、清国軍の防衛隊の抵抗に苦戦を強いられます。
さらに、未明から、ずっと戦闘が続いていたために、午前8時頃には、すでに、すべての弾薬を使い果たしてしまい、しかも、さらに続く戦闘状態のため、兵士たちは朝食どころか、一口の水分も取れずじまいのままだったので、疲れはピークに達し、午後からは、もはや死傷者が増すばかりの状態・・・やむなく、午後2時過ぎ頃から撤退を開始します。
一方、北方や東方からの高台から市街に迫った部隊は、おおむね優位に戦闘を進めたものの、やはり堅固な城壁に阻まれて市街へ侵入する事はできず・・・結局、どの部隊も平壌の市街地に入る事すらできず、ただ、多くの死傷者を出しただけで戦闘は終了=初日の攻略作戦は失敗に終わってしまいました。
ところが・・・です。
なぜか、撤退から2時間ほど過ぎた午後4時半頃・・・清国軍が、突如として将旗を下ろして白幡を掲げたのです。
なぜ???
この清国軍の行動の意味がわからない日本軍は、使者の派遣を要請しますが、急に訪れた激しい雷雨のため、連絡がうまく行かず、ワケのわからないまま日づけは翌日へ・・・
かくして明治二十七年(1894年)9月16日午前2時・・・これは、何かの作戦で、未だ城内に主力の兵が潜んでいるのでは?と見た日本軍は、戦闘状態の警戒態勢のまま、城内への突入を開始します。
ところが、その時の城内・・・清国軍の兵士のほとんどが、すでに夜陰に紛れて逃走した後で、残っていたのは、病兵と負傷兵のみ・・・
よくわかりませんが、とにもかくにも、こうして平壌は陥落・・・
一方、未だ制海権を握れていない海軍の・・・と、このお話の続きは、明日=9月17日の【日清戦争~制海権を握った黄海海戦】でどうぞ>>
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