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2011年9月19日 (月)

若き義元を支えた今川の名参謀・朝比奈泰能

 

天文十一年(1542年)9月19日、今川の支援を受けた松平広忠と、尾張から進攻して来た織田信秀がぶつかった小豆坂の戦いがありました。

・・・・・・・・・

この小豆坂(あずきざか)の戦いと呼ばれる戦いは、歴史上2度あります。

1度目は、冒頭に書かせていただいた天文十一年(1542年)9月19日・・・

そもそもは、この戦いが起こる少し前・・・
岡崎城主として西三河(愛知県東部)を支配していた松平清康(徳川家康の祖父)の時代に、ほぼ三河全域を平定した感にあった松平氏でしたが、その清康が天文4年(1535年)に家臣に暗殺された(12月5日参照>>)事で家内に内紛が起こり、その後、息子・松平広忠(当然ですが家康の父)が後を継いだ頃には、もはや、その存続も危ういという状態でした。

そこに狙いを定めたのが尾張(愛知県西部)の織田家の中でも徐々に力をつけて来ていた織田信秀(信長の父)・・・天文九年(1540年)には、松平の西のの重要拠点である安祥城(愛知県安城市)を落とし、松平の本拠地・岡崎城(愛知県岡崎市)すぐそばまで迫る勢いとなります。

Imagawyosimoto600a そこで広忠は、隣国の駿河遠江(静岡県西部)を支配する大名・今川義元ヘルプを依頼・・・義元としても、松平の領地が織田に奪われてしまっては、敵国と国境を接する事になりますから、ここは、自分とこを頼ってくれている松平が治めてくれているほうが何かと安心・・・

って事で、今川の支援を受けた広忠と、進攻して来た信秀が、岡崎城東南の小豆坂で激突したのが第1次・小豆坂の戦いです。

とは言え、この戦い・・・「信秀が負けた」とも、「いや、この激突後に織田の勢力が強くなるのだから織田が勝ったのでは?」とも、はたまた、「戦い自体があったのか?」「なかったのか?」といった微妙な戦いです。

なので、般に小豆坂の戦いと言う時は、この6年後に、ほぼ同じ状況の同じ場所で戦った天文十七年(1548年)3月19日第2次の合戦の事を指しますが、その第2次の戦いについては、その3月19日の日づけで書かせていただきましたのでコチラ→【織田信秀VS今川義元&松平広忠~第2次小豆坂の戦い】>>でご覧いただくとして、

本日のところは、この2度の小豆坂を含め、その後の安祥城の攻防戦でも大活躍する今川の軍師・朝比奈泰能についてお話させていただきたいと思います。

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今川義元を支えた軍師・参謀と言えば、ご存じ太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚=そうふ)(10月10日参照>>)が超有名ですが、実はもう一人、朝比奈泰能(あさひなやすよし)という優秀な参謀がいたのです。

泰能は、遠江浜松城(静岡県浜松市)主を務める朝比奈泰煕(やすひろ)の息子として生まれますが、未だ幼い永正九年(1512年)に父が病死・・・その後、叔父の朝比奈泰以(やすもち)が後見人となりますが、その泰以も永正十五年(1518年)に病死してしまいます。

心強い後見を失った泰能ですが、その8年後の大永六年(1526年)に制定された分国法『今川仮名目録(いまがわかなもくろく)の条文には、三浦氏満とともに、二人の重臣として名前を連ねている事から、おそらくは、埋もれている間に、その実力で華麗なる成長を遂げ、主君の信頼を得るような武将に育っていたものと思われます。

しかも、この泰能さん・・・公家の中御門宣胤(なかみかどのぶたね)娘を妻に娶っています。

この宣胤さんは、義元の母=寿桂尼(じゅけいに)さん(3月14日参照>>)のお父さんですから、つまりは、主君の母の妹を嫁にした・・・という事で、どれだけ信頼が篤かったかがわかります。

ご存じのように、この寿桂尼さんは、未だ義元が若かりし頃、病気になった夫=氏親に代わって政務をとり、実質的な女大名として君臨した人ですが、それこそ、女一人(しかも公家出身)では、勇猛な家臣たちを束ねるのは至難の技であったわけで、そこには、雪斎&泰能という名コンビがいたからこそ、彼女が腕を奮えたし、その3人のトロイカ体制があったからこそ、義元が海道一の弓取りと称されるほどの武将になれたと言えるのです。

やがて、広忠の要請を受けた義元が三河に進出する今回の小豆坂の戦いの頃には、軍事面でも表舞台に立つ事が多くなり、誰もが、何事においても、泰能を頼る・・・という、今川には無くてはならない存在となっていきます。

天文十八年(1549年)の安祥城の攻防戦(11月6日参照>>)では、敵城主の織田信広(信長の兄)を捕縛し、奪った後は、その地に留まって治世を行ったとか・・・

しかし、その領地支配が軌道に乗りかけた弘治三年(1557年)・・・おそらく60歳くらいの年齢で病死してしまうのです。

ただ、一説には、あの永禄三年(1560年)の桶狭間の戦い(5月19日参照>>)の時に、主君・義元とともに討死したと書かれていたり、いや、あの永禄十一年(1568年)の武田信玄今川館攻め(12月13日参照>>)の時まで生きていて、義元の息子=今川氏真(うじざね)が無事に逃げるまで、武田勢を食い止め、その後に自害したなんて、生存説も、複数登場します。

これは、単に、誰かの逸話を泰能の事と勘違いしたとも考えられますが、研究者の中には、単なる勘違いではなく、今川家臣の動揺を防ぐため、その喪が伏せられていた可能性が高いと指摘する声も少なくありません。

それだけ、泰能が、今川にとっての重要人物であり、義元が亡くなっても、「彼が氏真をサポートすれば今川は安泰」・・・と思えるほどの人物だったという事なのでしょうね。
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