何となく腑に落ちない松下長綱の改易
万治元年(1658年)9月10日、陸奥二本松藩の第2代藩主で、後に陸奥三春藩主となり、その後改易処分となった松下長綱が、49歳でこの世を去りました。
・・・・・・・・・
松下長綱(まつしたながつな)の生まれた松下氏は、近江源氏・六角氏の流れを汲む家柄・・・鎌倉時代の末期に三河国碧海郡(あおみのこおり・へきかいぐん)松下郷(愛知県豊田市)に住みついた事から松下姓を名乗るようになりました。
長綱のお祖父さんに当たる松下之綱(ゆきつな)という人は、遠江(とおとうみ・静岡県西部)頭陀寺城(ずだじじょう・静岡県浜松市)主として、今川義元に仕えていた人なのですが・・・
「んん??なんか聞いた事ある名前…」
と、思ったあなた・・・スルドいですね~
そう、この之綱さんは、浜松の曳馬川(ひくまがわ)で、ホコリまみれでたむろするサルのような同世代の少年に声をかけた・・・その人。。。そうです!その少年が、後の豊臣秀吉・・・お互いが15歳の時でした。
その後しばらく之綱に仕えた(之綱の父・長則に仕えた説もあり)秀吉は、まもなく、ここを去りますが、おそらくは、百姓だったか商人だったか職人の卵だったかわからないけれど、少なくとも武士ではなかった秀吉に、兵法や武芸のたしなみを伝授したのは、この之綱さんだったのかも知れませんね。
なぜなら・・・義元亡き後に徳川家康に仕えていた之綱を、長浜城主となった秀吉が、家臣として召し出すわけで・・・ひょっとしたら、恩返しだったのかも
その後、秀吉とともに生きた之綱は、小田原征伐の後に遠江久野(静岡県袋井市)1万6,000石の久野城主となり、まもなく死去・・・之綱の息子の松下重綱(しげつな)が後を継ぎ、その重綱が、あの賤ヶ岳の七本槍(4月21日参照>>)の一人として有名な加藤嘉明(かとう よしあき)の娘を娶って、二人の間に生まれたのが、本日主役の長綱・・・というワケです。
その後、常陸小張(こばり・茨城県つくばみらい市)を経て、徳川の時代となった寛永四年(1627年)3月には、嫁さんの実家の加藤家が会津40万石に加増移封となった事にともなって、父・重綱も陸奥二本松藩(福島県)5万石に加増移封されました。
しかし、そのわずか7ヶ月後の10月に父・重綱が死去・・・で、長男の長綱が後を継いで、3ヶ月後の寛永五年(1628年)の1月に第2代藩主となったのですが・・・
その直後・・・「藩主が、まだ幼い」という理由で、陸奥三春藩(福島県三春町)3万石に移封されてしまったのです。
「幼い」って・・・( ̄○ ̄;)!
長綱は、慶長十五年(1610年)の生まれですから、この時、すでに19歳・・・「幼いか??」
という疑問は、当然の事ながら、長綱さん自身の疑問でもあります。
なにやら、策略の臭いプンプンしますね~
祖父の死後、父が、関ヶ原&大坂の陣で家康について頑張ったとは言え、所詮は、今川&豊臣恩顧の外様・・・「ヤラれたかもね」と思いつつも、転封命令には従わねばなりません。
ここは、男・長綱・・・こらえて黙して、すなおにお引っ越しをしますが、三春に移ってからは、以前の元気もなく、何かと、一人で考え込むような人になってしまいます。
やがて、転封から9年後の寛永十三年(1636年)頃から、その挙動におかしなところが見え始め・・・
目がうつろになり、家臣と話していても落ち着きが無く、いつも何かにイライラしている・・・やがて、天井を見て急に笑い出したり、空に向かって怒ってみたり・・・
さらに、最終的に刀を抜いて、家臣や女中に斬りかかるようになり、「これはイカン!」とばかりに、寛永十九年(1642年)に幕府が監視役を派遣して調査。
その結果報告が「正気にあらず」だった事から、「藩主の能力なし」として寛永二十一年(1644年)4月10日に改易・・・奥さんの実家だった土佐高知藩主・山内忠義(ただよし)に預けられる事になります。
その後は、土佐の久万村という所で静かに余生を過ごし、万治元年(1658年)9月10日、49歳でこの世を去ったのでした。
お気の毒に・・・やっぱり、理不尽な減封への不満をガマンし続けた事で、心が病んでしまったのでしょうね~~~
と、思いきや、実は、これも怪しいのです。
死人・・・いや、負け組に口無し、負けた側には弁解の余地も与えられない時代ですから、徳川の記録では「ご乱心の改易」って事になってますが・・・
実は、その前年、長綱さんのお母さんの実家である加藤家が改易になっているのです。
確かに、この加藤家には、家臣同志の争いが、藩主VS家老の対立に発展し、藩主の加藤明成(あきなり・嘉明の長男)が、その家老の堀主水(ほりもんど)と一族を処刑するという『会津騒動』という事件があっての改易なのですが・・・(1月21日参照>>)
なんとなく、ついでに潰された感のぬぐえない長綱さんの改易・・・
本当にご乱心の改易だったとしてもお気の毒なのに、もし、それも幕府の創作だとしたら、さらにお気の毒・・・いつか、汚名を晴らせる日が来る事を願って・・・
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コメント
保科正之が骨を埋めるまでの「(周辺も含めて)会津の殿様」は、なぜかみんな不幸に見舞われますね。この間出た蒲生家もそうですが。山内忠義の伯父は山内一豊なので、長綱は一豊の縁者でもありますね。
投稿: えびすこ | 2011年9月11日 (日) 08時21分
えびすこさん、こんにちは~
外様で生き残った人は、要領よくたち廻ったという感じなんでしょうかねぇ…
投稿: 茶々 | 2011年9月11日 (日) 12時24分
>その後、秀吉とともに生きた之綱は、小田原征伐の後に遠江久野(浜松市)・1万6,000石の久野城主となり、まもなく死去
久野は後の浜松市ではなく、袋井市ですね。
同時代の浜松は、長年に渡って秀吉の部下を務めてきた堀尾吉晴が統治しています。
投稿: | 2015年10月18日 (日) 19時15分
アッほんとだ!!(゚ロ゚屮)屮
遠江久野城の住所は静岡県袋井市鷲巣ですね。
見つけていただいてありがとうございます。
訂正させていただいときます。
投稿: 茶々 | 2015年10月19日 (月) 01時10分