厳島の戦い~運命を変えた能島・来島村上水軍の参戦
弘治元年(1555年)9月28日、厳島の戦いをひかえた毛利軍救援のため、村上水軍二百艘が安芸廿日市沖に現れました。
・・・・・・・・・
西国の名門・大内氏の傘下となり(1月13日参照>>)、徐々に頭角を現す安芸の国人領主・毛利元就(もうりもとなり)でしたが、その大内氏の重臣・陶晴賢(すえはるかた・当時は隆房)が謀反を起こして大内義隆(よしたか)を倒し、傀儡(かいらい・あやつりり人形)の大内義長(よしなが・当時は大友晴房=大内義隆の甥で大友宗麟の弟)を当主に擁立して事実上の実権を握った(8月27日参照>>)事から、元就は反旗をひるがえします。
しかし、「まともに戦っては勝ち目が無い」と判断した元就は、様々な調略を仕掛けるとともに(4月8日参照>>)、厳島(いつくしま・宮島)に宮尾(みやのお)城を築き、陶軍の大軍を小さな島へおびき出す事に成功・・・
しかし、相手は500艘の船に2万の大軍で、コチラは、直属の川内警固衆と小早川水軍に援軍の因島(いんのしま)村上水軍を合わせても、わずか120余艘に2000・・・
草津城に入った元就は、かねてより声をかけていた能島(のしま)・来島(くるしま)の両村上水軍の援軍を待ちますが、9月21日・・・もはや宮尾城は落城寸前に陥っていましました(9月21日参照>>)。
・‥…━━━☆・‥…
と、先日=9月21日は、ここまでお話させていただきました(くわしくは、上記のそれぞれのリンクへ…)
果たして9月26日・・・元就は、三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ)を通じて、能島・来島村上水軍に最後の援軍催促をします。
しかし、翌27日になっても、彼らが現われる気配はありません・・・いや、例え現われたとしても、彼らには晴賢も声をかけていますから、アチラにつく可能性だってあります。
このまま、宮尾城が落城すれば、おびき出し作戦もクソもなく、ただ、陶軍に厳島を制圧されただけの結果となってしまうワケですが、かと言って、少ない兵で勝てる見込みは少なく、万が一この合戦に勝てたとしても、少ない兵なら彼らを囲む事ができずに逃走を許してしまう事になり、何のためにおびき出してまで決戦を仕掛けたのやら・・・って事になります。
とは言え、もう後には退けません。
やむなく、両村上水軍の参加をあきらめた元就は、全水軍120艘を厳島の対岸・地御前(じこぜん)に集結させ、渡海の準備に入ります。
一方、陶軍の先鋒を任された三浦房清(ふさきよ)は、宮尾城の堀を埋め立てて、更なる追い込みをかけます。
かくして一夜明けた弘治元年(1555年)9月28日・・・
もはや、一刻の猶予もならぬとばかりに、元就が出陣の準備を整えていたお昼過ぎ・・・突然周囲にいた兵から歓声があがります。
慌てて望楼に立ち、はるか向こうを眺めてみると、その彼方には200を越えるかの兵船が、帆に満杯の風をはらませて、コチラに近づいて来るではありませんか!
村上武吉(たけよし)らに率いられた能島・来島の村上水軍の登場です。
でも、まだ、わかりません。
両軍が見守る中、大船団は静かに・・・
しかし、厳島には目もくれず、「我らは毛利方!」と言わんばかりに、安芸廿日市沖にて停泊しました。
再び、大きな歓声を挙げる毛利軍・・・
一方で、静まりかえるは陶軍・・・
たのもしい援軍を受けて、新たに作戦を練りなおす元就・・・
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
まずは全軍を2隊に分けて、地御前を出港・・・うち1隊は、元就自身が指揮をとり、隆元(たかもと・元就の長男)・吉川元春(きっかわもとはる・元就の次男)ら、毛利&吉川の精鋭が従う本隊とし、厳島の北東岸の包ヶ浦に上陸して、博奕尾(ばくちお)の尾根を越えて塔の岡背後の丘の上から晴賢本陣に突撃!
この間、児玉就方(こだまなりかた)・飯田義武(よしたけ)が指揮する川内警固衆が警固船にて、本隊の兵員輸送と海上警備に当たる。
もう1隊の隆景が指揮する小早川水軍と村上水軍は、大野の海岸を大きく迂回して、周防(すおう・山口県)との連絡路を断って陶軍を孤立させ、その後、一部は輸送と海上警備を行いつつ、一部は厳島正面に上陸して宮尾城に籠る城兵との連絡を取りながら晴賢の本陣に迫る。
お互いの味方の印として縄のタスキを二つ巻き、合言葉は「勝つ!」に対して「勝つ!勝つ!」と返す。
各人3日分の兵糧として、餅:1袋、焼飯:1袋、米:1袋を腰に巻き、柵用の木1本と、縄:1総を持つ事・・・
ホンマかいな?
と思うほどの事細かな指示ですが、もちろん、作戦を新たに練りなおしたと言えど、その大まかな物は、すでに元就の構想にあったプランでしょう。
なんせ、すでに、厳島上陸後の道筋には、周囲の木の枝を折って目印がつけてあったと言いますから・・・
あとは、この作戦を、いかにして理想に最も近づけて成功させるか?です。
こうして迎えた9月29日ですが、その夜から、ハンパない暴風雨・・・さらに、明けた9月30日も、海上は大荒れ・・・
この日の夜の出陣を予定していた元就に、隆景が進言します。
「さすがに、この天候では、延期した方がよいかと・・・」
しかし、元就・・・
「この暴風雨やからこそ、敵も油断してるというもの・・・むしろ絶好の機会である」
と断言!
さらに、上陸地の包ヶ浦と、その近くにある博奕尾にちなんで
「包(つつみ=鼓)も博奕(バクチ)も、ともに打つ物・・・敵を討つにつながり、コチラの勝利は間違いない!」
との強気発言には、もはや「ダジャレかよ!」のツッコミを入れる者もなく、むしろ将兵の士気は最大限に高まるのでした。
かくして、いよいよ出陣の午後6時・・・と、いきたいですが、このお話の続きは、やはり「その日」=10月1日のページへどうぞ>>
「 戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事
- 斎藤道三の美濃取り最終段階~相羽城&揖斐城の戦い(2024.12.11)
- 斎藤道三VS織田信秀の狭間で鷹司が滅びる~大桑城牧野合戦(2024.12.04)
- 松山城奪取戦~上杉謙信と北条氏康の生山の戦い(2024.11.27)
- 戦国を渡り歩いて楠木正成の名誉を回復した楠正虎(2024.11.20)
- 奈良の戦国~筒井順賢と古市澄胤の白毫寺の戦い(2024.11.14)
コメント