保身か?英断か?菅原道真の遣唐使・廃止
寛平六年(894年)9月14日、菅原道真が遣唐使の廃止を建議しました。
・・・・・・・・・
大昔に習ったわが身としては懐かしい響き・・・
「白紙(894年)に戻そう遣唐使」と覚えましたね~
寛平六年(894年)9月14日、菅原道真は時の天皇・第59代宇多天皇に提案書を提出します。
それは・・・
『現在、唐に留学中の僧・中瓘(ちゅうかん)が去年商人に託した報告書によりますと、あれほど繁栄していて唐が今は衰えてきている事がよくわかります。
古来の記録を調べてみますと、度々の遣唐使の中には、うまく航海できなかったり、賊に襲われたりしてしまった者もおります。
ただ、唐に着いてからは今のところ、大変な苦しみを味わった者がいないのは幸いですが、しかし、唐の状況が中瓘の知らせのとおりであるならば、今後はそれも保証できなくなるでしょう・・・・』
てな内容でした。
要は、もはや昔の繁栄を失った唐(中国)に学ぶ物もないワリには、航海が危険・・・こんなハイリスク⇔ロウリターンな制度はやめちまえ!って事です。
さすがは学問の神様!なかなかの英断です・・・と言いたいところですが、はっきり言って、コレ、次回の遣唐大使に道真が任命されてから、言い出した話です。
散々他人にやらしておいて、いざ自分が当たったら「廃止しちゃいましょ」って言った感がぬぐえないズルイ感じがするのですが、上記の言い分は、確かに的を射ていますし、以前書かせていただいたように、もともと、この道真の遣唐大使任命自体が、あまりに道真に信頼を寄せる宇多天皇と道真の仲を切り離そうとした藤原氏の策略(1月25日参照>>)みたいなところもありますので、とりあえずは、その切り離し作戦の防御という事で、ヨシとしましょう。
ところで、以前の教科書では、この道真の提案を受けた宇多天皇が、この半月後の9月30日に「正式に廃止を決定した」とされ、冒頭の「白紙(894年)に戻そう遣唐使」は、この9月30日の日づけで・・・という事になってました。
まだ、開設してまもない時のこのブログでも、2006年9月30日の日づけで遣唐使廃止について書かせていただいたりもしてましたが、実は、ここ最近は、少し違った傾向になって来ているようです。
それは、本日=9月14日の日づけで、道真が「廃止の提案」をしたのはしたけれど、実は、その後、正式に廃止が決定されてはいなかったというのです。
この意見を提唱されているのは、中央大学の石井正敏教授・・・本日は、その石井教授の説をご紹介させていただきます。
・‥…━━━☆
そもそも、この遣唐使の廃止決定が9月30日という話の出どころは『日本紀略(きりゃく)』という書物の中に、「其(その)日、遣唐使を停(とど)む」とだけ書かれている事にあるのですが、教授によれば、この『日本紀略』の中では、この「其日」という単語は、特定の日を指す言葉ではなく、「とある日」という意味で使われているのだそうです。
20年前に、その事に気づいた教授が、その後、丹念に、当時の文献を調べ直したところ、なんと!この寛平六年(894年)から後も、数年間に渡って、道真が「遣唐大使」の肩書を使い続けていた事を発見されたのだそうです。
そう、もし、遣唐使の廃止が寛平六年(894年)9月30日に決定されてしまっていたのなら、当然、道真が任命された遣唐大使というポストも廃止されていなければならないわけで、それを、そのまま使い続けていたという事は、おそらく、「廃止の決定はなされていなかったのだろう」という事なのです。
つまりは、上記の道真の提案によって、遣唐使という物の旅路が危険極まりない事がわかった事で、次の派遣がのびのびになったままになってたところに、延喜七年(907年)、肝心の唐という国そのものが滅びて、中国が分裂時代に入ってしまった事で、永遠に派遣されなくなったという事・・・
・・・で、このなりゆきを「いつかわからないけど、とりあえず、廃止された」と解釈した人が、『日本紀略』に「其日」と称して、書き加えたのではないか?との見解・・・
確かに、一国が滅びるくらいですから、おそらくは、その頃の唐の治安は最悪だったはず・・・保身のためかどうかはともかく、未だ滅ぶ前に、その国の政情を調べて、的確な判断を下した事は確かですから、やはり、本日=9月14日の道真の提案は、英断と言えるのかも知れませんね。
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コメント
茶々さん、こんばんは!
確かに、菅原道真にとっては大英断だった事でしょう。昔から唱えられている説では、道真自身が行くのが嫌だから廃止の建議をしたという説。遣唐使自体が藤原氏の威信をかけた事業だったので、それにのせられる事は道真の政治生命が絶たれる危険性もありますね。(しかも、生命の危険性をも伴う航海では尚更…)
別な理由を考えた時、上記のように生命の危険性を伴う航海である事も有力な説。この時代、九州=大宰府と朝鮮=新羅との密貿易による文化の伝播や朝鮮=高句麗の移民たちが建国した渤海との間で遣渤海使の往来があり、双方共に安全性を伴った航海だし、こちらから出向かなくても、向こうの使節団から文物をもたらしてくれる、という東アジアの不安定な情勢がからんでいたとも考えられます。
実際、唐の国の中では安史の乱が起こっており、正規のルートでの往来は困難だったはずで、この当時に唐にいた遣唐使節団は渤海経由で日本に帰国している事実があります。
故に、道真の情報収集の的確さが遣唐使の廃止に導けたのかもしれませんね!
投稿: 御堂 | 2011年9月14日 (水) 22時05分
御堂さん、こんばんは~
>道真の情報収集の的確さが…
確かに…
実際に、まもなく唐が滅んでしまうのですから、見事な情報収集だったと思います。
投稿: 茶々 | 2011年9月15日 (木) 00時04分
茶々さん 初めまして^^
面白く拝見させて頂きました。
ここのところ道真公と空海の関係に必死でしたが、流石に道真公は学者筋であっただけに見事な采配ですね。
面白いのは自分が遣唐使に選ばれているのに廃止しようと提案するこのギャップ。
宇多天皇は道真公を高く評価していただけに「うん」と言わざるを得なかったのかな?
また遊びに来ますね!
投稿: coomi | 2011年9月18日 (日) 11時07分
coomiさん、こんにちは~
道真公としては、「藤原氏の追い落とし作戦に乗ってなるものか!」って感じだったでしょうね。
天皇を納得させる理由づけは、さすがは学者さんデス!
投稿: 茶々 | 2011年9月18日 (日) 16時13分