秀吉を支えた高台院=おねが貫いた妻の役割
寛永元年(1624年)9月6日、正室として豊臣秀吉を支えた高台院=おねが、この世を去りました。
・・・・・・・・・・・
複数の呼び方があるので、今日は何て呼ばせていただきましょうか?
やっぱり、今年の大河ドラマでのお名前=「おね」でいきますね。
そのお名前の事や逸話についても含め、すでに2007年の今日・9月6日に【秀吉の妻・ねねさんのご命日なので】>>というページを書かせていただいてますし、つい1ヶ月前の豊臣秀吉と結婚したとされる8月3日にも【秀吉の結婚+おまけクイズ「妻・おねの本名は?」】>>と題して書かせていただいていますので、本日は、その捕捉といった感じで、秀吉亡き後のおねさんを中心に書かせていただきたいと思います。
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上記のページでも、そして、これまでも折に触れて書かせていただいていますが、男性が戦乱にあけくれて留守がちだった戦国の世では、留守を守る女性の役割がものすごく大事だったわけですが、中でもおねさんは、そのトップクラスを行く女性だと思います。
以前、今年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の感想にからめて書かせていただいた【大河ドラマ「江」に思う政略結婚と女性の役割】>>でもお話させていただきましたように、
天正二十年(1591年)8月付けの秀次朱印状には、
大坂よりなこや(名護屋)へ次(継)舟
一、大坂よりハ 北政所殿 御印
一、 関白殿 御朱印
一、なこやよりハ 太閤様 御朱印とあり、
つまりは、名護屋にいる秀吉、聚楽第にいる秀次と並んで、周辺を航行するに船は、大坂城にいるおねさんの許可証が必要だったというほどに、おねさんの役割は重要だったわけです。
また、朝廷の女官の日記である『お湯殿の上の日記』には、天正十八年(1590年)8月18日の条に、
「くわんはく(関白)殿ちん(陣)の御るすみまいとて、なかはし(長橋局)御つかゐにて…」
と、あの小田原征伐(4月3日参照>>)で長期に渡って秀吉が留守にしているお見舞いと称して、朝廷からおねさんに、大量の着物や帯、香や紙などがプレゼントされた事が書かれています。
これこそ、殿方が合戦に出ている間は、奥さまが政務を仕切っている事を、朝廷も知っていたし、認めてもいた証拠と言えます。
留守を守る・・・と言えば、あの本能寺の変(6月12日参照>>)の時もそうです。
ご存じのように、この時の秀吉が中国大返し(6月6日参照>>)の離れ業で戻って来るという事は、当然、事件が起きた時には、おねが長浜城にて留守を守っていたわけで、一同は、家臣の妻子ともども、命の危険を感じて、伊吹山の山麓に身を隠しますが、この時、生まれたばかりの甥っ子・秀俊(ひでとし=後の小早川秀秋)だけを総持寺に預けています。
この時点で、おね自身には子供がいないわけですから、後に羽柴家の後継者になるかも知れない幼子を、羽柴の家中を束ねる役として守ったという事です。
もちろん、旦那さんが家にいるいないに関わらず、家臣への配慮や、子育てなど家内の事を仕切るのもおねの役目・・・
有名な醍醐の花見(4月7日参照>>)の時には、その盃を受ける順番をめぐって淀殿(茶々)と松丸殿(まつのまるどの=京極龍子)がモメた時にも、彼女がピシャリと納めたと言います。
しかし、慶長三年(1598年)8月18日、秀吉の死を境に彼女の立場は逆転します・・・と言っても、「おちぶれた」あるいは「権威がなくなった」という事ではありません。
よく、ここで、おねが剃髪して京都の三本木の屋敷へ移り、その後の大坂城が、秀吉の遺児=秀頼の後見として、その生母である淀殿が中心となっていく事で、なにやら、二人の間に確執があったような、あるいは、おねが徳川家康の味方になったような印象を受け、そのように描かれるドラマ等も多くありますが、決してそうでは無かったように思います。
確かに、この先行われる豊国社(秀吉を祀る神社)の創建などでの様子を見ても、彼女は淀殿より下がった立場にあります(寄進の金額が淀殿より低い)が、これは、それこそ、当主が亡くなった以上、その後継者の生母である淀殿がトップに来るのは当たり前であって、おねが自らの意思で一歩下がった位置に退いたという事以外の何物でもありません。
たとえば、慶長十一年(1606年)に京都の北野社が「社殿を造営したいので」との希望を京都所司代の板倉勝重に申し出たところ、板倉は、その話をおねに話し、おねが大坂城に行って秀頼に伝え、そこから造営費用が寄進されるという経緯をたどります。
つまり、未だ幼き当主の生母として大坂城を離れられない淀殿のために、自由に動ける立場のおねが、外部との連絡係として動いていた・・・お互いに、豊臣家のために、それぞれの役割を果たしていたという事です。
話は前後しますが、慶長五年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦(【関ヶ原の合戦の年表】参照>>)の時も・・・
この時、大津城主だった京極高次(きょうごくたかつぐ)は、はじめは西軍に属して北国口を警備していましたが、途中から東軍に寝返って大津城に籠城します(9月7日参照>>)。
おかげで、西軍の立花宗茂(むねしげ)らに包囲されてしまっていたわけですが、そこに・・・
「政所(まんどころ)様、秀頼御袋様より御使候・・・松丸殿いだし申候にとの儀に付・・・」
と、城主・高次の姉(もしくは妹)である松丸殿=龍子を救い出すための使者がおねと淀殿の連名で派遣されて来たのです。
しかも、そこには、龍子救出だでけでなく、「大津城を開城せよ」との意味も込められていたとか・・・(高次の奥さんは淀殿の妹・初ですから)
連名ではあるものの、この使者を送る事に実際に動いたのは、もちろんおね・・・先ほども言いましたように淀殿は大坂城を離れられませんから、その意を汲んで、おねが動いたという事です。
さらに、その後も、おねが豊臣のために生きていた事がわかる出来事があります。
それは、あの大坂の陣・・・慶長十九年(1614年)7月に、家康が、あの方広寺の鐘にイチャモンつけて(7月21日参照>>)何やら不穏な空気になり、双方に合戦の準備をしはじめた10月・・・
『時慶卿記(ときよしきょうき)』の10月2日の条に
「高台院殿、昨日大坂へ下向、但(ただ)シ鳥羽(とば)ヨリ帰ラル」
とあります。
もちろん、大坂へ行こうとしたのは、「何とか戦争を回避できないものか!」と、秀頼や淀殿を説得するためでしょう。
「だったら、やっぱり、この頃のおねさんは家康の味方だったんじゃないの?」
と、お思いかも知れませんが、そのあとの「但シ鳥羽ヨリ帰ラル」・・・
つまり、彼女は大坂城へは行けなかったわけで、この時、鳥羽で彼女の行く手を阻んだのは、誰あろう家康軍の兵士だったのです。
それは、戦争回避にために大坂に行こうとしたのはおね自身の意思で、それを阻止したのが家康という事・・・もし、彼女が家康の味方として動いていたなら、止められる事なく、すんなりと大坂へ行けたはずです。
ご存じのように、結局、合戦は行われ、豊臣家は滅亡・・・おねは、生前の秀吉が与えてくれていた摂津(大阪東南部)の所領が、そのまま安堵された事で、経済的に苦労する事はありませんでしたが、気になるのは、この所領の目録や、秀吉の関白任官関係の文書を保管していたのが、彼女自身であるという事・・・
度々書かせていただいてますが、私、個人的には、関ヶ原から大坂の陣までの歴史は、家康によって、かなり書きかえられていると睨んでおります(7月15日参照>>)。
ひょっとしたら、これらの文書の数々も、木下家の子孫の方に残されなければ、末梢されていたかも知れないわけで、現代まで残ったのは、やはり、彼女が持っていてくれたおかげ・・・
まぁ、彼女としては、豊臣家の記録を残すうんぬんよりも、秀吉の妻としての意地だったのかも知れませんが・・・
大河ドラマも、もうすぐ関ヶ原・・・大津城の開城やおねさんのくだりをどのように描いてくださるのか??
楽しみですね~
くれぐれも、納得いく創作でお願いしますm(_ _)m
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コメント
享年(生年)については諸説ありますが、80歳前後の長寿だったんですね。大坂の陣の後に豊臣関係者の供養を、京極龍子がしたと聞いたので、おねさんも協力したんでしょうね。
今年の大河ドラマでの小早川秀秋は誰なのか気になります。今回は1回か2回きり?の出番なので、まだまだ一昨年の上地さんのイメージがありますが、慣例に乗っ取り若手になるかな?有名な人ならもう認知してますが、まだわかりません。
記事にも出ている大津城の様子ですが、予告を見ると初の奮闘はまちがいないです。
投稿: えびすこ | 2011年9月 6日 (火) 13時16分
元治元年(1864)武市半平太の赦免を嘆願すべく、室戸岬奥の野根山岩佐に集結した清岡道之助以下二十三士は思いかなわず、逃避した阿波でつかまり9月5日一回の調べもなく奈半利河原で斬首されます。このなかに岩佐関番の木下嘉久次21歳、鎮之助16歳兄弟がいます。岩佐は土佐藩三関の一の重要な関所で、代々関番だった木下氏は山内氏に従って土佐に入ったと推測されます。木下家の墓は関址の近くに二十数基あるようですが、兄弟から墓はありません(兄弟は二十三士一同に田野福田寺に眠っています)。岩佐の墓を子孫(兄の)の方が終戦前訪ねられたことがあると伝わります。この木下家は秀吉、高台院にかかわりのあるのではないかと想像されるのですが。弟の辞世をご高覧ください。斯くなりて捨つる命は惜しまねど 過ぎ行くあとの御世は如何にぞ
投稿: 植松樹美 | 2011年9月 6日 (火) 15時15分
茶々さん、こんにちは!
確かに高台院が秀吉の遺物を遺してくれたおかげで、歴史の勝者である徳川家によって改ざんされた本当の史実が発見されましたもんね。
高台院死後の備中足守藩木下家もその意味ではよく大切に遺してくれたもんだと感じます。
実を言うと、私は国文学で“白樺派”の代表的歌人である木下利玄の作風が好きなのですが、この人って最後の備中足守藩主の甥っ子で、養子に入って木下子爵家を嗣いだ人なんですよね。
こうした文才家がいた事も豊臣の歴史を大切に遺せた1つの要因だったかもしれないな?と思ったりします。
投稿: 御堂 | 2011年9月 6日 (火) 16時43分
ついこの間、ほんの数十年前までは、「夫が外で働いている間、妻は家庭内・外において常に気を配り、夫や子供が居心地良くいられるようにするのが大切な務め」でしたよね?
戦国の世なら、どれほどやりがいのあるポジションだったか。これ、男にはなかなか務まらないと思いますよ~。男と女の役割がわかりやすく、きちっと分かれていた時代だったんですよね。 今とは、本当に世の中の空気も、男女の気質も違います。あたりまえですが。 決して男尊女卑だったわけではないですね。家康もおねさんには頭が上がらなかったんでは。
投稿: Hiromin | 2011年9月 6日 (火) 21時45分
えびすこさん、こんばんは~
>予告を見ると…
確かに…
水川さんが、ハチマキ巻いて奮闘してましたね。
次週が楽しみです。
投稿: 茶々 | 2011年9月 6日 (火) 22時06分
植松樹美さん、こんばんは~
歴史はつながっている…
もっと、くわしく知りたい、興味深い内容ですね。
教えていただいてありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2011年9月 6日 (火) 22時11分
御堂さん、こんばんは~
文学が苦手なもので、木下利玄さんもよくわからない私ですが、秀吉の血脈亡き後は、おねさんの実家あればこそ、徳川に末梢されずすんだ歴史があるように思います。
それこそ、未だ出世前の秀吉に目を付けたおねさんの才覚を受け継いだご子孫たちなのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年9月 6日 (火) 22時19分
Hirominさん、こんばんは~
>どれほどやりがいのあるポジションだったか。
私もそう思います。
決して男尊女卑などではなく、むしろ殿方のほうも、女性の役割のスゴさを理解していた気がします。
今では、よくテレビなどで「主婦の仕事を時給に換算すると…」なんてやってますが、換算なんてできるわけありません。
主婦は、交代制のない24時間営業、しかも定年無しなんですから!…(と主婦の代表のように言ってみるc(>ω<)ゞ)
投稿: 茶々 | 2011年9月 6日 (火) 22時26分