道灌のDNAを受け継ぎ軍用犬を駆使した智将・太田資正
天正十九年(1591年)9月8日、太田三楽斎資正が70歳で没しました。
・・・・・・・・・
太田資正(すけまさ・三楽斎)は、稀代の軍略家と知られる大田道灌(どうかん)(8月16日参照>>)の曾孫・・・
関東管領職にあった扇谷(おうぎがやつ)上杉家に執事として仕えた道灌と同様に、彼もまた、父の太田資頼(おおたすけより)・兄の太田資顕(おおたすけあき)とともに上杉家に仕えておりました。
天文五年(1536年)に父が亡くなってからは、兄が家督を継ぎますが、どうやら資正さん、このお兄さんとは仲が悪かったようで、居城の岩付城(埼玉県岩槻市)を出て、同じ上杉の重臣で自分の嫁さんの父でもある難波田憲重(なんばだのりしげ)の松山城(埼玉県吉見町)に住んでいたとか・・・
そのうち、兄の資顕は、関東で力をつけ始めた相模(さがみ)の北条氏に従属するようになりますが、資正は舅の憲重とともに、上杉家を支え続ける道を選びます。
やがて起こったのが天文十五年(1546年)4月20日の河越夜戦・・・戦国屈指の奇襲戦と言われるこの河越夜戦は、古河(こが)公方の足利晴氏と管領家の山内上杉憲政と扇谷上杉朝定ら両上杉家がタッグを組んで、関東に拡大しつつあった北条氏康の娘婿・北条綱成(つなしげ)(5月6日参照>>)が守る河越城を包囲してぶっ潰そうとした戦いの最中に、逆に籠城している側の北条が夜襲をかけ、見事、勝利してしまったという戦い・・・(4月20日参照>>)
この戦いで資正の仕えていた扇谷上杉の当主・朝定は討たれ、公方の晴氏も、山内の憲政も追われる身となり、さらに資正にとっては舅の憲重も失ってしまう事になってしまい、その居城であった松山城も敵に奪われてしまいました(7月20日参照>>)。
しかし、さすがは資正・・・翌年の9月、夜襲には夜襲をとばかりに、北条の隙を突き、見事、松山城を奪回・・・続く10月に、兄の資顕が亡くなると、すぐさま、当主不在の岩付城を奇襲し、その実力で以って太田家の家督を継ぎました。
『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』によれば、この一連の奪回劇の時、資正は史上初の軍用犬を考案し、伝令に使用したと言います。
あらかじめ、岩村城や松山城などの諸城や砦の間を行き来させて道を覚えさせ、いざという時には、密書を入れた竹筒を首に結びつけた犬を野に放ち、伝令として使ったのだと・・・
城の攻防戦では、誰もが周囲に最大限の注意をはかるものですが、特に、北条は風魔一族という忍びを駆使して、警戒にあたっていたわけですが、さすがの彼らも、城を往来する人間には注意を向けても、城周辺を徘徊する犬にまでは目が行かないだろうという所に着眼しての軍用犬の登用・・・
おかげで、北条の動きが資正側に筒抜けだったとか・・・さすがは道灌のDNA!
しかし、残念ながら、かの岩付城を奪って力づくで家督を継いだ際に、それまで兄の家臣であった多くの者が北条へと走っていた事もあってか、資正が松山城を任せていた上田朝直(うえだともなお)が北条へと寝返り、続いて岩付城も、北条に包囲され、資正も降伏せざるをえなくなりました。
こうして、いち時は、北条の配下となった資正でしたが、やはり、曽祖父・道灌から受け継いだ管領の執事魂がおさまる事は無かったのです。
そうです。
ご存じのように、かの河越夜戦以来、名ばかりの管領になってしまっていた上杉憲政が長尾景虎こと後の上杉謙信を頼って越後(新潟県)へ逃れ、その謙信に関東管領職を譲った(6月26日参照>>)事で、永禄三年(1560年)、謙信は大軍を率いて小田原にやって来るのですが、資正はバッチリ、その謙信に密着します。
この時、鶴岡八幡宮で行われた関東管領就任式で、武蔵忍城(むさしおしじょう・埼玉県行田市)主の成田長泰(ながやす)が、謙信の前でも下馬しなかった事から、謙信の持っていた扇で烏帽子を打ち落とされるという一件がありました。
長泰の言い分によれば、成田氏は藤原家の流れを汲む名門で、古くは、あの八幡太郎源義家にさえ下馬する事なく挨拶したという名誉ある一門だったわけで、その古式にのっとり、今回の謙信にも下馬しなかった・・・との事ですが、関東武士が居並ぶ中、公衆の面前で起こったこの出来事に、そこにいた関東武士たちは、皆、謙信に不信感を抱いたのです。
つい先日の9月3日の葛西清重(きよしげ)さんのお話でもチョコッと触れましたが(9月3日参照>>)、ここらへんの反北条の関東武士たちは、皆、なかなかの名門の人たちで、だからこそ、どこの馬の骨かワカラン北条氏が関東を牛耳る事に反発していたわけで、彼らから見たら、もともと上杉配下の守護代だった長尾家(8月7日参照>>)の謙信も、どちらかと言えば、どこの馬の骨なわけで、そんな謙信が、我等関東武士に対して!!!との怒りを感じたのも無理はありません。
中には、この一件をきっかけに、陣営から離脱してしまう者も多数・・・(かの成田長泰は、この一件で北条に寝返ったと言われています)
そんな彼らを説得して回ったのが資正だったのだとか・・・資正が、彼ら関東武士の間を奔走してなんとか事態を好転させる事ができ、その後、毎年のように行われる謙信の関東出兵がスムーズにできたと言われています。
こうして反北条をあらわにした資正は、永禄七年(1564年)1月に起こった第二次国府台(こうのだい・千葉県市川市)の戦い(1月8日参照>>)では、もちろん、里見義弘と組んで北条相手に戦い、まずは勝利します。
しかし、その夜・・・昼間の合戦に勝利してホッとしていた所を、夜襲をかけられた里見軍が一気に総崩れ・・・なんたって、反北条として結集したものの、そもそもが彼らは別々の部隊ですから、一旦崩れ始めると、もう、ブレーキが効かない!
やがて激戦となった戦場で、さすがの資正も「もはやこれまで」という状態になってしまいます。
ただ、観念した資正が抗戦を止めた、その態度が、メチャメチャ潔くカッコ良かった事から、討死を免れ、その隙を突いて岩付城へと逃げ帰りますが、当然の事ながら、戦いに勝利したのは北条・・・
結局、北条側に寝返った自らの嫡子・太田氏資(おおたうじすけ)によって岩付城を追放されてしまうのです。
その後は、下野(しもつけ・栃木県)の宇都宮氏や、常陸(ひたち・茨城県)の佐竹氏などを頼って各地を転々としつつ、それでも岩付城奪回を目指して北条と戦い続けましたが、天正十九年(1591年)9月8日、ついに岩付に戻ることなく、常陸にて、その生涯を終えました。
思えば、主君・上杉を思いながら戦いにあけくれた日々・・・やがて、室町幕府が派遣した関東管領も鎌倉公方も名ばかりの物となり、果ては、将軍までもが追放されて、時代は織田から豊臣へ・・・
最後の最後・・・亡くなる前年には、あの小田原征伐(4月3日参照>>)真っ最中の豊臣秀吉のもとに参陣して、秀吉に謁見したという資正・・・
同じように、小田原に参陣して秀吉に謁見した未だ若き伊達政宗(だてまさむね)は、この時、秀吉のいる高台から見下ろした小田原城の周りに、アリがはい回るように群がる軍勢を見て、全国ネットとの差を痛感し、秀吉の配下に入る事を決意・・・「もしもの時は刺し殺してやる!」と思って懐にしのばせていた短刀をすぐさま投げ捨て、「もう10年、早く生まれていたら…」と思ったと言います(6月5日参照>>)
おそらくは参陣した時に、同様の光景を見たに違いない資正・・・あのにっくき北条の城が、もはやどうしようもないほどの22万もの軍勢に囲まれた様を見て、もはや70歳を迎えようという老将・資正は、何を思ったでしょうか?
政宗が「10年早く生まれていたら…」なら、
資正は「10年遅く…」でしょうか???
歴史の女神は、時々、罪な事をしてくれます。
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コメント
こんにちは、初めてコメントさせていただきます。
太田三楽斎資正のことは、私は最近になって知りました。こういうちょっとマイナーだけど味のある武将を取り上げてもらえるのは嬉しいです(・∀・)イイ!。
彼の生年なのですが、wikiその他を見たところによりますと大永2年(1522年)となっていますので、彼の享年は70歳になるのではないでしょうか?
1522年生まれで正しければ、あの武田信玄より1つ年下・・・ちなみに資正の主君の上杉朝定は大永5年(1525年)生まれでこちらは信玄の弟・信繁と同い年ですね。
上杉朝定の姉上様が、信玄の最初の正室として嫁いでいるので、もしこの姫様が長生きしていれば、武田家と扇谷上杉家との交流は続いて上の4人も結構仲良くなっちゃってたかも?なーんて歴オタな想像をするのも楽しいです(笑)。
投稿: ZAIRU | 2012年1月 8日 (日) 18時01分
ZAIRUさん、こんばんは~
はい、1522年生まれで合ってます。
たぶん、タイプミスですね。
(今となってはよくわかりませんです(゚ー゚;)
見つけていただいてありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2012年1月 9日 (月) 04時27分
茶々さん、こんばんは。お忙しい中早速返事をいただいて恐縮です。私もタイプミスなんてよくやりますので気にしないで(笑)。
信玄と資正って、生まれた年もほぼ同じなら嫡男と仲違いしたのも同時期・・・しかもその嫡男は両方とも同じ年(1567年)に亡くなってます(資正の嫡男の方は戦死だけど)こういう偶然もあるのですね。
最近は信玄や謙信や信長みたいな英雄的な武将より、結果としては旧領を回復できなかったけど、何度負けてもあきらめず立ち向かい続けた太田資正や小田氏治のような武将のほうに魅力を感じるようになりました(゚ー゚)茶々さんは小田(天庵)氏治のことはご存知でしょうか?
投稿: ZAIRU | 2012年1月 9日 (月) 23時08分
ZAIRUさん、こんばんは~
小田氏治さんは…
「手這坂でイイ味出してる」くらいしかわかりませんね~
負けるワリには地元人気が衰えない点は浅井亮政に似てる気もします。
そういう武将は魅力的ですよね。
投稿: 茶々 | 2012年1月10日 (火) 02時27分
茶々さん、こんばんは。
小田氏治(出家して天庵)常陸の名門の家の出身で、佐竹氏に身を寄せていた時代の太田資正とも何度か戦った事があります。
この方、とにかく戦下手だったようで・・・wikiの経歴を見ても連戦連敗(;´д`)トホホ…2ちゃんねるのまとめサイト「戦国ちょっといい話・悪い話スレ」にこの方の逸話がたくさん出てるのだけど笑わずにはおれません( ´艸`)本人にとっては笑い事ではなかったでしょうが。
でもなぜか人望だけはあったのか、母性本能をくすぐるタイプだったのか、忠実な家臣の菅谷親子や彼を慕う?領民に助けられて何度か本拠の小田城を奪い返す事に成功しています(紆余曲折あって最後は奪われたままになってしまいましたが)。
去年の日本は震災や台風でほんとに大変でした。私も台風の被害にあった県に住んでいるのだけど、資正や氏治の経歴を見てたらあきらめず何度でも立ち上がらなければ!という気持ちにさせられますね。誰かこの偉大な?お2人を小説か漫画化してほしいな~。
ではでは、これからも無理のない程度に書いていただけるのを楽しみにしています。
投稿: ZAIRU | 2012年1月10日 (火) 22時38分
ZAIRUさん、イロイロな情報、ありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2012年1月10日 (火) 23時02分