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2011年9月30日 (金)

時の権力者に帰依された夢窓疎石の夢のたわむれ

 

正平六年・観応二年(1351年)9月30日、鎌倉末期から南北朝にかけて活躍し、あの京都・天龍寺を開山した事でも知られる臨済宗の僧・夢窓疎石が77歳でこの世を去りました。

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夢窓疎石(むそうそせき・夢窗疎石)伊勢(三重県)の生まれで、あの近江源氏の末裔でしたが、彼が生まれてまもなく、母方の北条氏の内紛に巻き込まれ、一家とともに甲斐(山梨県)に移住・・・しかし、その母も疎石が3歳の時に亡くなってしまいます。

その母が言うには、
「あなたは、母が観世音菩薩に祈念して授かった子・・・しかも、13ヶ月もお腹の中に入っていて、その後、生まれてからは、お経を聞けば泣きやみ、誰に教えられたでもないのに仏像に礼拝する赤ん坊だった」と・・・

なので、
「おそらくは、仏に導かれし特別な子であろうから、母が死んだ後には仏門に入って、私を弔ってほしい」

Musososeki400 こうして、疎石は、母の遺言を守るべく、甲斐の天台宗寺院・平塩山寺(へいえんざんじ)空阿上人(くうあしょうにん)を訪ね、弟子入りしたのです・・・疎石、8歳の春でした。

その後、真言宗天台宗などの寺を巡り、密教僧としての道を歩み始めますが、やがて、人生の転換期が訪れます。

当時、師と仰ぎ、ともに修業をしていたある僧・・・元気な時は立派な人に見えたこの僧が、死に直面した際に、うろたえ、血迷い、とても見苦しい態度で亡くなっていったのです。

そんな師匠の死にざまを見た疎石・・・
「高僧となっていながら、死に臨んで悟りの境地に達する事もなく、ぶざまな醜態をさらすとは・・・俺が今まで学んで来た事は何やってん!」
と悩みはじめます。

そんな悩み続けていた時に見たのが、ある夢・・・
夢の中で、彼は、見知らぬ異人に導かれて、疎山石頭という禅寺に連れて行かれ、そこで達磨(だるま)大師(10月5日参照>>)の画像を得る事に・・・

こうして、禅宗に目覚めた彼は、その両寺から一字ずつもらって疎石と名乗り、京都は、建仁寺の門を叩きます。

以後の疎石・・・この建仁寺で1年間ほどの修行を積んだ後は、50歳を過ぎるまでの人生の半分ほどを、全国各寺への行脚の修業の旅に費やしますが、その中で徐々に頭角を現して来るのです。

・・・というのも、「洞察力が鋭い」と言うか、「よく見てる」と言うか・・・おそらくは全国行脚の中から導き出したであろう分析が、いかにも適格で的を射ているという感じ???

鎌倉幕府が傾き、やがて後醍醐(ごだいご)天皇足利尊氏が反目し南北朝へ・・・そんな動乱の時代ですから、誰もがこの先を見失い迷う・・・そこに適格なアドバイスをくれる疎石がもてはやされたという事なのでしょう。

かと言って、疎石は、ひとところに落ち着く人でもなく・・・

第14代鎌倉幕府執権・北条高時南禅寺に招かれても、一時を過ごせば、またぞろ伊勢へ行ったり熊野へ行ったり鎌倉へ行ったり・・・後醍醐天皇の相談に乗れば、尊氏にもアドバイスし、その弟の足利直義も教えを請いに来る・・・その兄弟が相対した観応の擾乱(じょうらん)(10月26日参照>>)では、その調停役もこなしています

さらに、暦応二年(1339年)に後醍醐天皇が亡くなった時には、その冥福を祈って京都・天龍寺を開山(10月5日参照>>)、今に残るあの美しい方丈前の庭園を設計するという作庭家の才能も垣間見せてくれます。

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天龍寺・方丈前庭(くわしい行きかたは本家HP:歴史散歩「嵐山・嵯峨野」でどうぞ…別窓で開きます>>

こうして、時の権力者に帰依され、厚遇を受けた疎石には1万人以上の門弟がいたと言われ、その中には、後の禅宗や仏教文化に貢献した人たちも名を連ねています。

やがて疎石は、観応二年(正平六年・1351年)9月30日77歳でこの世を去りますが、その生涯に渡って、七人の天皇(院)から国師(皇帝の師という意味の尊称)の号を授けられたことから、「七朝帝師(七朝国師)と称され、その死後も影響を与えつづけたと言われます。

最後に、そんな疎石の魅力を垣間見る事のできる逸話を一つ・・・

未だ鎌倉時代・・・時の執権・北条高時の母に招かれて、しばらく鎌倉に滞在していた疎石は、人里離れた草庵で、心静かに過ごしたいにも関わらず、次から次へと誰かが訪ねて来て、毎度毎度の相談の嵐・・・

嫌気がさして、チョイと弟子とともに信州への逃避行を企てます。

その旅の中・・・10人くらいが乗れる小さな舟で、天竜川を下ろうとしたところ、出発間際に、泥酔状態の武士が飛び乗って来ます。

すでに、かなりのお酒を召しあがったご様子で、やりたい放題&言いたい放題の騒ぎっぷりに、周囲の客も迷惑そう・・・

見兼ねた疎石が、やんわりとその武士をたしなめたのですが、
「何言うとんねん!このクソ坊主・・・俺が邪魔やっちゅーねんやったら、お前が舟下りろや!」
と言いながら、手に持った扇子で、疎石の眉間をピシャリ!

タラリと流れる一筋の血に、怒った弟子が武士に飛びかかろうとした時、疎石は弟子を制しながら、紙にサラサラ~と何か書き、それを弟子に見せて、その場を抑えました。

やがて、しばらくすると、どうやら、その武士も酔いが覚めはじめたらしく、先ほどの無礼を反省し、頭を下げながら、その名を訪ねます。

弟子が、疎石の名を告げると、武士はびっくりして、さらに平謝り・・・とは言え、気になるのは先ほどの紙・・・

いったい、疎石は何と書いたのか?

弟子に頼んで見せてもらうと・・・
うつ人も うたるる人も もろともに
  ただひとときの 夢のたわむれ 

その器の大きさを感じさせられるエピソードです。
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