気はやさしくて力持ち…高崎藩主・安藤重長
明暦三年(1657年)9月29日、第2代上野高崎藩主・安藤重長が58歳の生涯を閉じました。
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安藤重長(しげなが)は、後に東照宮造営副奉行も務めた事でも知られる本多正盛の息子として慶長五年(1600年)に生まれますが、父は、同僚と口論の末、相手を自害に追い込んでしまい、その責任をとって、自らも自害してしまいます。
父を亡くした重長は、母親の実家に引き取られますが、この母親が、徳川家康・秀忠父子2代に仕えて、最終的には老中にまで上り詰めた初代高崎藩(群馬県高崎市)主・安藤重信(しげのぶ)の娘だった事から、孫ながらその養子となって安藤家と藩主の席を継ぐ事になるのです。
・・・で、実際にはお祖父ちゃんで戸籍上はお父ちゃんのこの重信さんって人が、小牧長久手やら関ヶ原など連戦し、あの大坂の陣では、冬と夏の間の一時的な講和の際に、大坂城の堀の埋め立てを監督をしたなんていう経歴の持ち主なのですが、なんと言っても、語られるのは、その怪力伝説・・・
ちょっと腕を掴んだだけなのに、掴まれた相手には、くっきりとアザが残っていたとか、小姓に鎧や銃を目いっぱい持たせて、その小姓を担いで城内一周した(何のために?)とか・・・
そんな義父のDNAが隔世遺伝したのか、この重長さんも、負けず劣らずの怪力伝説を持っています。
彼が、重信の後を継いで2代目藩主となった高崎には、信正(しんしょう)という一向宗の僧がいて、この僧の怪力ぶりは上州はおろか、近隣諸国に響き渡るほとだったのですが、この僧に興味を持った重長が、ある日、僧を城に呼び、力だめしをさせてみる事に・・・
「この青竹をつぶせるかい?」
と言って、竹を差し出す重長・・・
「それでは!」
と両手で掴んで力を入れる事3度・・・なんとか竹をひねり潰しましたが、さすがに竹の節を潰す事はできませんでした。
それを見た重長・・・おもむろに庭に下りて来たかと思うと、同じ太さの青竹を片手で掴み、「フン!」と力を込め、なんと、そのまま、竹の節ごと握り潰したのだとか・・・
いやはや、またもや「何のために?」と聞きたいところですが、ちょいと自慢したかったんでしょうね(^-^;
しかし、そんな重長さんですか、晩年にはカッコイイ逸話も残してくれています。
時は、明暦三年(1657年)1月・・・
ご存じ、明歴の大火=振袖火事が江戸を襲います(1月18日参照>>)。
この時、いち早く江戸城に駆け付けた重長でしたが、その大手門がピシャリと閉められていて中に入る事ができません。
「何とかせねば!」
と、大声で怒鳴り散らし、門を叩きまくって開けさせたは良いが、彼に続いて大勢の旗本や大名も同時に乱入・・・しかし、皆、右往左往するばかりで、何の役にも立たず、ただ、騒ぐだけ・・・
それを見た重長・・・やにわに六尺棒2本を両手に持って横に広げて門に立ちふさがり、群がる彼らをグイグイと門の外へ押し返し、「役たたずはいらん!」とばかりに、閉めだしてしまったのだとか・・・
その後、火の手は江戸城本丸に燃え移り、やがて、時の将軍・徳川家綱のいた二の丸まで危なくなってきます。
議論を重ねた老中たちは、安全第一を考えて、「ここはひとまず、将軍を井伊直孝の屋敷に移そう」と決定しました。
ところが、重長・・・
「“(合戦や公式行事ではなく)天災のために、将軍を城外に出した”なんていう前例を作ってしまうのは良くない!!」
と、老中たちの意見に真っ向から反対します。
結局、将軍は、重長の勤務先である山里御殿に移っていただく事に・・・
果たして、その後、2日間燃え続けた江戸の町は、ようやく鎮火となるのですが、なんと!!!、かの井伊直孝の屋敷も全焼・・・つまり、もし、将軍がそっちへ逃げていたら、大変な事になっていたかも知れなかったのです。
間接的にではありますが、将軍の命を救った重長・・・残念ながら、その大火から9ヶ月後の明暦三年(1657年)9月29日、58歳でこの世を去ってしまうのです。
ところで、高崎藩と聞いて、「あ…!」と気づかれた方もおられるでしょう。
そうです。
3代将軍・家光の弟で、父の秀忠と母の江(ごう・今年の大河の主役です)に溺愛され、一時は兄・家光よりも将軍にふさわしいとも言われた徳川忠長・・・彼が、幽閉された場所が高崎で、預かっていた人が、本日の重長なのです。
その時の重長は、兄にうとまれて幽閉の身となった忠長にたいそう気を配っていたらしく、いつも、あれやこれやの機転をきかせて、便宜を取り計らっていたようです。
家光が出したとおぼしき「忠長に自害するように説得しろ」の命令を持った使者が高崎を訪れた時、重長は
「この身にとって、このような命を受けるのは、最も不幸な事ではあるが、御上の書状を拝見した以上、背くわけにはいかないので、しっかりとやるしかありません」
と静かに語ったと言います(12月6日参照>>)。
忠長に謀反の気持ちがあるかないか?そばで世話をしていた重長が一番良く知っていたでしょうからね・・・
そんな気持ちを抑えながらの命令遂行・・・重長の忠長へのやさしき配慮は、自害するその日まで続けられたと言います。
怪力伝説を残しながらも、繊細なやさしさを持ち、将軍家への忠誠心も揺るがず・・・重長は、そんな人だったのかも知れません。
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コメント
茶々さま good evening
安藤重長さん、なるほど気は優しくて力持の大名ですね。
怪力もさることながら、ここぞという時の胆力がありますよね。封建の世の上品な殿様というより、自分で決断し、率先垂範する戦国武将のタイプでしょうか。頼りがいがありそうです。
秋の夜長、茶々様の御文を拝し、かつての日本には、存在自体が悪魔払いのような(オリジナルは関羽かもしれません?)こういう統治者がいたのだよな、と懐かしく思いました。
投稿: レッドバロン | 2011年9月29日 (木) 19時48分
レッドバロンさん、こんばんは~
そうですね。
この時代は、まだ戦国のなごりが少しは残っていたじだいでしょうね。
やがては、官僚型の武士が多くなるんででしょうが…
投稿: 茶々 | 2011年9月29日 (木) 20時17分