パワハラで改易?不運続きの宇都宮国綱
慶長二年(1597年)10月13日、下野の戦国大名・宇都宮国綱が、羽柴秀吉から改易を言い渡されました。
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下野(しもつけ・栃木県)に生まれた宇都宮国綱(うつのみやくにつな)は、わずか9歳の時、父・広綱(ひろつな)を病で失いました。
父の死を受けて、その後、第22代の当主となった国綱でしたが、幼い当主の家督継承のドサクサに、家内が乱れて離反者は相次ぎ、外からは関東一円に領地拡大を図る北条氏からの進攻も受けました。
これに対抗すべく、国綱は、すぐ下の弟・朝勝(ともかつ)を下総(しもうさ・千葉県北部&茨城県西南部)の結城晴朝(ゆうきはるとも)の養子に出して同盟を結び、さらに常陸(ひたち・茨城県)の佐竹氏や甲斐(山梨県)の武田氏とも盟約を結ん周囲を固めました。
家内においては、一番下の弟・高武(たかたけ)を有力家臣の芳賀高継(はがたかつぐ)の養子として出し、兄弟、力を合わせて、家臣団の統率を図る事にしました。
しかし、それでも北条氏政(うじまさ)の進攻は止まず、やがては周辺の諸城が次々と北条に寝返ったため、やむなく国綱は、本拠である宇都宮城を捨てて、守りの堅固な山城・多気城(たげじょう・栃木県宇都宮市)に移る事を余儀なくされました。
北条の前に、もはや風前の灯となった宇都宮氏&国綱・・・(【宇都宮国綱~長きに渡る北条との戦い】参照>>)
・・・と、そこへ登場したのが羽柴(後の豊臣)秀吉・・・そう、天正十八年(1590年)の小田原征伐です(3月29日参照>>)。
当然の事ながら、早々に小田原に参陣し、秀吉の配下となって奮戦する国綱・・・石田三成の指揮した忍城(おしじょう)攻め(6月9日参照>>)にも参戦して活躍したおかげで、戦後は、秀吉から本領の下野18万石を安堵され、以後、秀吉の配下として文禄の役(4月13日参照>>)にも参戦して頑張る日々・・・
ところが、慶長二年(1597年)10月13日、秀吉から、突然、改易を言い渡され、備前(岡山県)の宇喜多秀家(うきたひでいえ)預かりの処分を受けます。
なぜに???
これには、ある噂が…
当時、豊臣政権の五奉行の一人であった浅野長政(あさのながまさ)が、未だ子供のいない国綱に、自分の息子を養嗣子(ようしし=将来、その家の後継ぎとなる養子)として迎えてくれないか?と頼んだのを、彼が断ったからだとか・・・
確かに、その時は、未だ国綱には、将来、後継ぎとなる息子はいませんでしたが、国綱はまだ30歳・・・現に、その翌年の慶長三年(1598年)には、嫡男・義綱(よしつな)が誕生しています。
まだまだ後継ぎが生まれる可能性大な中で、養子など・・・
第一、宇都宮家は、藤原北家の藤原道兼(ふじわらのみちかね)を祖に持つ名門・・・あの八幡太郎・源義家の前九年の役(9月17日参照>>)で武功を挙げて宇都宮一帯を賜ってから、鎌倉・南北朝・室町を生き抜いて来た由緒正しき家柄です。
悪いですが、当時の宇都宮家から見た浅野家は、どこの馬の骨・・・秀吉の配下としては上位にいる長政ですが、家柄としてはかなりの格下ですから、国綱はともかく、家臣たちによる「そんな息子を当主と仰ぐ事はできん!」との猛反対によって、丁重にお断りしたわけですが・・・
ところが、その後始まった太閤検地(7月8日参照>>)で、宇都宮家の領地の検地担当となったのが、かの長政・・・すると、とんでもない結果がはじき出されます。
先ほども書かせていただいた通り、宇都宮家の石高は18万石だったわけですが、検地を行って算出された石高は・・・なんと!その倍以上の39万余石が計上されたのです。
つまり、実際の石高の半分しかないと申告して、その差額を私的に隠していたとの疑いがかけられてしまったのです。
かくして、不正をした領主として改易に・・・主家を失った旧臣の多くは、農民になったと言います。
ひょっとして、
かの養子問題の恨み?・・・
これが噂のパワハラってヤツですか?
もちろん、身に覚えのない国綱は、「何とかお家再興を・・・」と訴えますが、秀吉は
「戻して欲しかったら、朝鮮で武功を挙げなはれ~」
と・・・
そう、この時、ちょうど、2度目の朝鮮出兵=慶長の役(11月20日参照>>)の真っ最中でした。
「ならば…!」と、宇都宮氏の再興を賭けて張り切って渡海し、その大活躍で、朝鮮でも武功を挙げた国綱・・・しかし、ご存じのように、秀吉は、この慶長の役の途中で亡くなってしまうわけで、戦い終わって日本に帰ってみれば、もはや、お家再興の話はウヤムヤに・・・
結局、その後は諸国を流浪し、慶長十二年(1607年)、江戸は浅草にて、失意のまま病死したとの事です。
ただ一つの救いは、あの時生まれた国綱の遺児・義綱が、成人した後に水戸藩に召し抱えられ、その後、家臣として明治維新に至るまでの間、見事に宇都宮家の家名が守られたという事・・・
不運の連続とも言える人生の中、わずか40歳で旅立った国綱さんも、子孫たちが紡いだ糸に、きっとあの世で安堵されている事でしょう。
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コメント
何だかなぁ…。国綱さん、ホントにお気の毒です。踏んだり、けったり、報われない人生で、若死しちゃって。
ぎりぎりお家が残って 良かったです。関東の名族にして、ショウバイ下手の実直キャラ。徳川家の好みのタイプかもしれませんね。
投稿: レッドバロン | 2011年10月14日 (金) 15時42分
レッドバロンさん、こんばんは~
外様が次々消されていく中で、血脈が存続し続けただけでも、めっけもん…でしょうか
投稿: 茶々 | 2011年10月14日 (金) 19時25分
こんにちは~
理不尽ですねぇ~。経緯が事実としたら長政も大人げないなぁ(秀吉も相当ボケですが)。ちょっと悪い印象持ちそう。
まあ、確かに私も下手やなあと思いますが。秀吉の親類で権力に近い長政に逆らったら、そりゃあかんよなあと。小早川隆景みたいな頭が良くて柔軟で忠義に溢れた家臣が、家中の有力なポジションにいたらまた違ったのでしょうか…。
投稿: おみ | 2011年10月15日 (土) 18時04分
おみさん、こんばんは~
そうですね。
事実なのか?
ねつ造なのか?
もちろん改易となったのは事実でしょうが、太閤さんのお膝元で育った私としては、その理由についてはねつ造であってほしいと願いますが…
投稿: 茶々 | 2011年10月16日 (日) 02時22分
こんにちは~!
興味深く読ませて頂きました!
宇都宮氏は室町~戦国あたり悲惨ですよね・・・
ところで読んでいて気づいたのですが
広綱は戦死じゃなくて病死だった気がします
戦死は広綱のお父さんじゃないかと・・・。
投稿: 名無しな末裔 | 2011年10月27日 (木) 00時44分
名無しな末裔さん、こんばんは~
ご指摘ありがとうございます。
以前読んだ本で戦死となっていたと記憶していて、そう書かせていただきましたが、ご指摘を受けて調べなおしてみますと、確かに病死となってますね。
おっしゃる通り、祖父の尚綱さんの戦死とゴッチャになっていたのかも知れません。
本文を訂正させていただきました。
今後も、何か、間違いにお気づきになりましたら、お知らせいただければ幸いです。
投稿: 茶々 | 2011年10月27日 (木) 02時13分
私は辿れば宇都宮一族です。5代頼綱の次男・横田頼業が祖になっています。
宇都宮が改易になったことで下野国には「諏訪流」「宇都宮流の鷹狩」がありましたが、その後者がなくなりました。宇都宮流の方が優美だと言われていました。復活運動もあるようです。
宇都宮は奥が深いです。特に「頼綱」周辺が歴史として大きく残っています。また横田は天狗党に親子で参加して二人とも命を落としております。
「宇都宮」は機会ある時にお調べ下さい。
応援しております。
投稿: Ramey | 2016年10月12日 (水) 07時15分
Rameyさん、こんばんは~
宇都宮家は歴史が古いですから、このブログでも様々な時代で度々登場してます。
歴史が古い=奥が深いって事ですね。
投稿: 茶々 | 2016年10月12日 (水) 19時34分
多気城は、たぶん「たげじょう」です。
地元の私たちはそう呼んでます。お山が多気山(たげやま)なので…。
投稿: | 2017年12月12日 (火) 13時56分
多気城は…
ありがとうございます。
調べてみたら、様々な読み方があるみたいでしすが、「多気城=たきじょう」と読むのは茨城県の多気城で、コチラ栃木県の多気城は「多気城=たげじょう」と読むとの事…
早速、訂正させていただいときますm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2017年12月12日 (火) 16時01分