大化の改新の影の立役者・南淵請安
舒明天皇十二年(640年)10月11日、遣隋使として大陸に渡っていた学問僧・南淵請安が唐から帰国しました。
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高市郡(たかいちのこおり・高取町&明日香村)にて、漢人系帰化人として生まれた南淵請安(みなぶちのしょうあん)は、7世紀頃の人というだけで、その生没年も不明です。
推古天皇十六年(608年)に遣隋使・小野妹子(おののいもこ)に従って、学者の高向玄理(たかむこのくろまろ)や学僧の旻(みん)ら、8人の留学生の一員として隋(ずい・中国)へと渡りました。
そこで、32年間の留学生生活を送る事になりますが、ご存じのように、その間に、隋が滅んで唐が建国されるという中国の一大転機を目の当たりにし、舒明天皇十二年(640年)10月11日、玄理らとともに帰国しました。
ちなみに、旻は舒明天皇四年(632年)に、彼らより一足先に帰国しています。
この時代、隋や唐から帰国した彼らに求められた物は、もちろん、先進的な海外の知識や文化を、この日本に広める事・・・朝廷にて政治に従事する者もいたでしょうが、一方では、豪族の子弟たちを相手に私塾を開設し、次世代を担う後継者の育成に力を注いだ人も多くいました。
請安より先に帰国した旻の私塾に通っていたのが、今をときめく大臣(おおおみ)・蘇我蝦夷(そがのえみし)の息子・蘇我入鹿(いるか)・・・
彼は、旻をして
「我が堂にあって蘇我太郎(入鹿の事)に及ぶ者なし」
と言わせたほどの優秀な生徒だったと言われます。
一方、帰国後、飛鳥川の上流にある南淵の朝風(あさかぜ)という場所に居を構えて私塾を開いたのが請安で、ここに通っていたのが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)・・・
一説によれば、法興寺(ほうこうじ)で行われた蹴鞠(けまり)の会で、勢い余って沓(くつ)を飛ばしてしまった中大兄皇子に、その沓をササ~ッと拾って差し出したのが鎌足で、それが二人の出会いだったとされています。
法興寺は、入鹿のお祖父ちゃんである蘇我馬子(そがのうまこ)が、敵対していた物部(もののべ)氏を倒して、実権を掌握した時に建てた日本初の本格的な僧寺で、まさに、蘇我氏の全盛の権力の象徴とも言える蘇我氏の氏寺・・・現在の奈良県明日香村の飛鳥寺の場所にありました(4月8日参照>>)。
ちなみに、法興寺そのものは都が明日香から藤原京→平城京と遷るのと同時に都に移転していて、現在、奈良市のならまちにある元興寺が、その法興寺です。
そんな蘇我氏の権力の象徴であり、蘇我氏を守るべく願いを込めて建てられた寺で、中大兄皇子と鎌足が出会う・・・ドラマですね~~~
そう、こうして出会った二人が、親しくなった後に、ともに請安の私塾に通い、周孔の学=儒教などを学びながら、敵に悟られぬよう、この請安の邸宅で、あるいは通学途中の道すがらに、入鹿の暗殺=乙巳(いっし)の変(6月12日参照>>)の計画を練ったと言われているのです。
もちろん、蘇我氏滅亡後に行われる大化の改新の青写真も話し合った事でしょう。
そうなれば、まさに請安が持ち帰った最新の知識が、後の歴史をリードしたとも言えるわけですから、請安は大化の改新の影の立役者と言ったところでしょうか・・・
んん・・・影の???
そう、実は、上記のように、中大兄皇子&中臣鎌足という政変の両主役の師匠でありながら、請安自身は、政変後の新政権には加わっていないのです。
ともに大陸に渡った玄理や旻は国博士(くにはかせ=唐の律令制度を実際に運営する左右大臣や内臣をサポートする知識人)として新政権に入っているのに・・・
そのために、請安は、大化の改新以前に、すでに亡くなっていたのではないか?とも言われています。
しかし、一方では、請安は王仁(わに)博士(12月15日中ほどを参照>>)に次ぐ大儒学者として新政権は大いに欲しがり、好条件を提示して、何度も官人を使いに出したものの、ついに彼が朝廷に入る事はなく、その後は、南淵にて農業に従事したと伝える史書もあるのだとか・・・
これには、これまでの東アジアの状況を見た入鹿が、百済(くだら)との関係と同等の国交を高句麗(こうくり)や新羅(しらぎ)にまで広げた聖徳太子と同じ視野を持って、広く、外国との交流を推進しようとしていたのに対し、乙巳の変で政権を握った中大兄皇子らの外交は、それを再び、百済オンリーの外交に戻そうとする物だったので、請安は、それに反対して袂を分かつ事になったのでは?とも・・・
漢人系帰化人で外国を見て来た請安なのですから、おそらくは外交の門を広く開ける事を望んでいたでしょうからね。
ところで、これまでは、何かと悪人呼ばわりされていた入鹿・・・
しかし、橿原市の入鹿神社近くの入鹿の旧跡に建つ江戸時代の石碑には、「蘇我入鹿公御旧跡」と、入鹿に敬語が使われていますし、室町時代に書かれた『元亨釈書(けんこうしゃくしょ)』という文献にも、「蘇我氏が初期仏教に果たした役割は大きい」として、その貢献を評価しています。
実を言うと、現在のように、蘇我氏が悪人呼ばわりされるようになったのは、明治の初め頃から・・・と、なかなかに歴史が浅い・・・
それは、徳川幕府に代わる新しい政権を担う天皇を中心に集権体制を構築しようとした明治政府による『日本書紀』重視の政策が行われたためです。
なんせ、日本書紀の中での蘇我氏は、その権力を振りかざして横暴の限りを尽くし、天皇家に弓を引く大悪党で、偉大なる聖徳太子の息子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)をも殺害したとされ、中大兄皇子と中臣鎌足は、太子一族の仇を討つべく、蘇我氏を退治した英雄なのですから・・・
しかし、ここ最近は、再び、明治以前のように蘇我氏の名誉が回復されつつあります。
上記の通り、聖徳太子の政策を継承していたのは、むしろ蘇我入鹿のほうで、蘇我氏滅亡後に行われた大化の改新は、それに逆行するような形であった事から、中には、「聖徳太子=蘇我入鹿」と考える専門家さんも登場しているくらいです(11月1日参照>>)。
もしかしたら、請安は、そんな逆行する政治体制に参加する事を拒んだという事なのかも知れません。
何も語らず、突然に歴史の表舞台から去った謎多き南淵請安・・・現在、彼のお墓は、邸宅があったとされる朝風から、飛鳥川を挟んだ対岸の明日香村稲渕に鎮座します。
稲淵・竜福寺境内にある南淵請安の墓(向こう側が邸宅があったとされる朝風)
今もあの頃と変わりなく流れる飛鳥川を見下ろす高台から、請安先生は、大化の改新後の日本を見守り続けているのかも知れません。
*南淵請安の墓へのくわしい行き方は、本家HP【奈良歴史散歩:奥明日香・飛鳥川をさかのぼる】でどうぞ>>
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コメント
>豪族の子弟たちを相手に私塾を開設し~
遣隋使のこうした活動を、はじめて知りました。
幕末の私塾を連想して感慨深いです。
投稿: ことかね | 2011年10月11日 (火) 12時12分
>請安先生は、大化の改新後の日本を見守り続けているのかも知れません。
請安先生のみならず、幾多の今は亡き先人がこれまでも、これからも、日本の行く末を見守ってくれてる・・そんな気がします。だからきっと日本は大丈夫だ、と信じたいです。
投稿: Hiromin | 2011年10月11日 (火) 13時51分
ことかねさん、こんばんは~
>幕末の私塾を連想して
私も、ふと同じ事を考えました。
政変の主役となった人物を育てながら、自らは、その政変を見ずにこの世を去る、あるいは、新政権に参加しない…
というところから、吉田松陰や緒方洪庵を思いだしてしまいました。
投稿: 茶々 | 2011年10月11日 (火) 18時53分
Hirominさん、こんばんは~
>だからきっと日本は…
ホントに…
私も信じたいです。
投稿: 茶々 | 2011年10月11日 (火) 18時54分
ご先祖と言われる人の記事はめっちゃうれしいです。
サウス エッジ でした。
投稿: サウスエッジ | 2016年1月 4日 (月) 13時15分
サウスエッジさん、こんにちは~
そうですね。
ご先祖様に関してはテンションあがりますね。
投稿: 茶々 | 2016年1月 4日 (月) 15時54分