慶長十九年(1614年)10月17日、この10月11日に駿府を出た徳川家康が名古屋に到着しました。
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これは、この慶長十九年(1614年)7月に、豊臣秀吉の遺児・秀頼が建立した方広寺の鐘銘にイチャモンつけた徳川家康が(7月21日参照>>)、8月20日に豊臣側の使者・片桐且元(かつもと)を通じて最後通告(これ聞けへんかったら攻めるゾ)を出した(8月20日参照>>)後、10月1日には諸大名に出陣の命令を出し、自らは10月11日駿府を出発し、途中で鷹狩りなんぞしながら、慶長十九年(1614年)10月17日に名古屋、19日には岐阜と進み、10月23日に二条城に入って、いよいよ、豊臣との最終決戦=大坂の陣へと向かう・・・という事なのですが、そのへんの戦いの経緯は【大坂の陣の年表】>>で、個々のページを見ていただくとして・・・
・・・と、お察しの通り、本日は、こんな感じで、無理やり大坂の陣に話をもって行こうとしております・・・(*´v゚*)ゞ
と言いますのも、このブログは、ここ2週間ほど、「豊臣秀頼の子(息子)」というキーワード検索でたくさんの方のご訪問をいただいております。
もちろん、それは、先週くらいから大河ドラマ「江~姫たちの戦国」に登場している、大坂城内で木馬で遊んだり、秀頼に肩車してもらったりしている小さな男の子=秀頼の息子の事が、皆さん気になっている・・・という事でしょう。
これまで、その史料の少なさから、ほとんどドラマには登場しなかった秀頼の子供たち・・・しかし、現在、専門家の方が「おそらく本物」とおっしゃるいくつかの1級史料には、秀頼の子供たちのたどった波乱の運命が記録されています。
それは、これまで描かれたどのドラマよりもドラマチックで、まさに「事実は小説(大河ドラマ)よりも奇なり」という内容で、是非とも、旬な、この時期にお話させていただきたい!と本日書かせていただきます。
と言いましても、後に、秀頼の正室・千姫に引き取られて尼となる女の子=天秀尼については、すでに書かせていただいております(2008年5月8日参照>>)ので、そちらでご覧いただくとして(実はこのページが検索にHITしてます(*゚ー゚*))、本日は、やはり気になる男の子のお話を・・・
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大河ドラマで、父・秀頼との親子団らんシーンを見せてくれている男の子は、幼名を国松と言います。
慶長十三年(1608年)生まれで、大坂の陣・勃発当時・8歳・・・その母は、天秀尼と同じ成田五兵衛の娘とも、伊勢より奉公に来た娘(大坂の陣で秀頼とともに自害する伊勢出身のわごの御方?)とも言われ、『武邊雑記』によれば、大坂の陣の時には、すでに元服を済ませており、秀勝と名乗っていたとか・・・
この秀勝という名は、ご存じのように、秀吉が長浜城主時代に側室の南殿との間に生まれた実子につけたのが初めとされ、その子が早世した後、織田信長から養子に入った子や、姉・ともからの養子(江の2番目の旦那さんです)につけた秀吉お気に入りの名ですから、その遺志を汲んで、豊臣のあと取りにつけられたというのは充分考えられますね。
とは言え、この国松(本日は国松と呼ばせていただきます)・・・実は、この大坂の陣が終わるまで、家康は、その存在を知らなかったようです。
以前のページ(再び2008年5月8日参照>>)で書かせていただいているように、大坂城の落城とともに脱出した天秀尼を発見したのは京極忠高・・・この忠高さんは、淀殿の妹で江の姉・初(常高院)の夫である京極高次と側室との間の子供で、父の死後に京極家を継いでいた人ですが、彼が天秀尼を発見した後、家康に男子の存在を伝え、家康は、慌てて諸大名に、男子の探索を促する命令書を発布していますので、やはり、それまで知らなかったのでしょう。
では、この国松は、それまでどこでどうしていたのか?
実は、淀殿の妹で江の姉・初が、若狭で、こっそり育てていたのです。
(だから忠高は知ってました)
それは、秀頼の正室である千姫との間に子供でができていない事をはばかって・・・という事も言われますが、当時の政略結婚での正室とは、婚家と実家の架け橋になる和睦の使命をも帯びながら、一方では婚家の情報を実家に流すスパイ的な役割も担っていたわけで、ひょっとしたら、男子の存在を徳川家に隠すために初のもとで育てられた可能性もあります。
とにもかくにも『大坂陣山口休庵咄』によれば・・・
この国松は、一度も秀頼に会う事なく若狭で育ち、父親が秀頼である事も隠し通されていたようですが、この大坂の陣の勃発に当たって、「もし、見つかってはマズイ」となって、「小舟に磔(はりつけ)にして流してしまおう」となっていたのを、猛反対したのが初・・・
初は、自らが大坂城に入る時に、『京極殿御道具』と墨書した立て札を立てた長持(ながもち)の中に国松を隠して無事大坂城に入城したのです。
(なので、残念ながら、ドラマのような幼い頃の父子のふれあいは、それまで無かったという事になりますが、逆に初の心意気を感じます)
こうして、初めて秀頼の子供である事を知らされ、父との面会も果たした国松は、冬の陣の講和の後も大坂城に留り、淀殿の部屋で暮らしていたと言います。
ひとときの親子&孫らしい幸せな日々を送ったのでしょうね。
しかし、ご存じのように、再び勃発した夏の陣で大坂城は炎上・・・慶長二十年(1615年)5月8日、落城が迫った城内で、父・秀頼との別れの盃を交わし、乳母を含む側近4名とともに大坂城を脱出し、一路、京都方面へ向かって逃走します(側近の一人は大野治房(はるふさ=大野治長の弟)説が有力です)。

大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵)京橋付近…左上に見えるのが備前島橋で、右下の金雲の影に半壊状態となってるのが京橋です)
彼らが京橋口から外に出ようとした時、父・秀頼と祖母・淀殿が籠る櫓(やぐら)が炎上するのが見えたとの事・・・9歳の少年が、振り返って、その炎を見たかと思うと、胸が詰まりますね~
その後、側近の4名のうち乳母を含む2名が枚方で捕縛されつつも、国松は、まだ逃げますが、やがて5月21日、伏見に潜伏しているところを発見されてしまいます。
こうして捕縛された国松は、5月23日、京中引き回しの上、六条河原で斬首されてしまうのです。
その遺骸は、初の夫・高次の姉(もしくは妹)の京極龍子が引き取り、手厚く供養したという事です。
こうして豊臣家は滅亡・・・と言いたいところですが、話はまだ終わらない!
実は、慶長二十年(1615年)5月15日付けで、あの細川忠興(ただおき・ガラシャの旦那)が家臣に宛てた手紙で妙な事を書いています。
「急度申遺族、秀頼様御子様御一人ハ十、御一人ハ七ツに御成候、行方不知候ニ付、諸国御尋之事ニ候、又…」
これは、天秀尼が捕まって後、秀頼に男子がいた事を知った家康が、慌ててその探索の命を出した事を受けて、忠興が、家臣たちに、その命令を伝えている手紙なわけですが、上記の通り、「探す男児は、10歳と7歳の二人」となっています。
つまり、国松には弟がいたと・・・
(忠興の物だけでなく、同様の手紙は複数存在します)
結局、その弟の方は捕まる事が無かったので、本当に二人いたのか?
はたまた、落城時のドサクサの誤報だったのか?
ところが・・・
その後、江戸時代に書かれた『本朝高僧伝』や『続日本高僧伝』など、高僧とされる僧たちの事を書いたデータベースのような文献に、江戸の増上寺で長年修業して高僧の一人と讃えられ、晩年に移った山城・伏見の地で80歳の生涯を終えた求厭(きゅうえん・求猒)上人なる僧の話が出て来ます。
もはや、死を悟った求厭は、臨終の直前、それまで誰にも言わず隠していた自らの出自を語ったと・・・そう、彼が、その弟だと言うのです。
大坂城落城の時に脱出した彼は、灯台もと暗しのごとく江戸に潜伏し、長じて、増上寺に修業に入った・・・
増上寺と言えば、ご存じ、徳川家の菩提寺ですよ!
彼は、その徳川家の菩提寺にて、周囲を欺きつつ、心の中で、亡き父・秀頼以下、豊臣の人たちに対してのお経を詠む事で、その恨みのいく分かを晴らすつもりで、修業に励んでいたのだと・・・
しかし、死を前にして心落ち着けた時、
「天下は一人の天下に非ざるを省悟して胸間爽然たり…」
人生80年・・・ここに来て、やっと悟りを開き、恨む気持ちを捨てる事ができた・・・と、老僧は静かに、弟子たちに告白したというのです。
大河ドラマどころか、荒唐無稽に思える、あの「プリンセストヨトミ」をも連想させる歴史のおもしろさ・・・もちろん、これらはトンデモ説ではなく、ちゃんとした1級史料とされる文献に残されるエピソード
もう、ワクワクドキドキです!
これだから、歴史好きはやめられません\(;゚∇゚)/
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