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2011年10月31日 (月)

アンケート企画:「汚名を晴らしてあげたい歴史上の人物は?」

 

さて、アンケート企画といきましょう!

今回のテーマは・・・
「あなたが、汚名を晴らしてあげたい歴史上の人物は?」という事で、アンケート募集したいと思います。

実は、コレ、2007年に同じ内容のアンケートを実施させていただいています。
(当時の結果を見る>>)

しかし、あれから4年・・・おかげさまで、現在のこのブログは、当時とは比べ物にならないほどのたくさんの訪問者の方に来ていただけるブログになりました。

そこで、ひょっとして今再びアンケートをとってみると、また、新しいコメントや結果が得られ、新たな発見があるのでは???との期待から、今回、再度、同じテーマでのアンケートを実施させていただきたいと思う次第です。

とりあえずは、いつものように、個人的に「この人は?」と思う選択技を16個用意させていただきましたので、「この人の汚名を晴らしたい!」と思う方に清き1票を・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 恐怖の暴君
    武烈天皇

    継体天皇の引き立て役にされたのか?…(参照ページ:12月8日>>)
  2. 天皇をないがしろにした
    蘇我入鹿

    皇室正統化の犠牲に…彼こそが聖徳太子なのかも?…(参照ページ:10月11日>>)
  3. 貴族化して遊んでばかり
    今川氏真
    デキる父親の突然の死に、未だ準備が整わなかっただけなのでは?…(参照ページ:3月16日>>)
  4. 稀代の悪妻
    築山殿

    信長の命令って本当なのか?彼女を消したかったのは誰?…(参照ページ:8月29日>>)
  5. 偉大な父の残した愚将
    武田勝頼
    父を崇拝する家臣たちとの亀裂が大き過ぎた?…(参照ページ:4月16日>>)
  6. 計画なき三日天下
    明智光秀
    未だ謎多き本能寺、光秀に野望はあったのか?…(参照ページ:6月2日>>)
  7. 殺生関白
    三好(豊臣)秀次
    豊臣家の犠牲となった?地元では名君…(参照ページ:7月15日>>)
  8. キリシタン弾圧
    松倉重政
    幕府に従っただけなのに、その罪を一身に背負って?…(参照ページ:11月16日>>)
  9. 将軍家への謀反あり
    徳川忠長
    兄・家光との確執は生涯消えず?…(参照ページ:12月6日>>)
  10. 史上最悪の暴君
    松平忠直
    不名誉なエピソードはでっちあげなのでは?…(参照ページ:6月10日>>)
  11. 忠臣蔵・不忠の悪役
    大野九郎兵衛
    実は、第2弾の討ち入りを予定していた?…(参照ページ:12月14日>>)
  12. 賄賂政治家
    田沼意次
    本当は空前の好景気をもたらした?…(参照ページ:10月2日参照>>)
  13. その墓には罪人の証の金網
    徳川宗春
    暴れん坊・吉宗に逆らった尾張藩主…(参照ページ:10月8日>>)
  14. 安政の大獄の大悪人
    井伊直弼
    開国と攘夷に揺れる日本を一つにしたかった?…(参照ページ:10月7日>>)
  15. 賊軍の汚名を背負って…
    小栗忠順
    その優秀さゆえに新政府に恐れられたのでは?…(参照ページ:4月6日>>)
  16. その他
    「やっぱ、この人でしょう」「この人を忘れてるヨ!」っていう人がいたらお知らせください
      

・‥…━━━☆

勝手ながら、このアンケートは11月14日に締め切りとさせていただきました。

投票結果&いただいたコメントは、11月15日のページでどうぞ>>
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2011年10月29日 (土)

女好き?名君?後楽園を造った池田綱政

 

正徳四年(1714年)10月29日、岡山藩第2代藩主の池田綱政が、77歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

江戸初期の名君と言われる池田光政(みつまさ)を父に持ち、本多忠刻(ただとき)千姫の娘・勝姫を母に持つ、サラブレッド感バリバリ池田綱政(つなまさ)・・・

Ikedatsunamasa500 寛永十五年(1638年)に江戸藩邸で生まれた綱政は、寛文十二年(1672年)に家督を譲られますが、その時には隠居した父が実権を譲らず、いわゆる院政の状態・・・

天和二年(1682年)の光政の死を受けて、45歳にして、やっと藩政に腕を奮う事ができるようになりました。

ところが、そんな綱政さん・・・妙な噂があります。

元禄三年(1690年)に当時の大名家・234家を、隠密が調査した探索記録である『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)には、

「父の光政は名君だが、その子の綱政は無学のアホ・・・山積みしてある儒学の本や軍学書も1回も読んだ事がないので、頭は悪いし行いも良くない。
昼夜を問わず酒宴を開いて遊びまわって政道につく事もなく、しかも、異常なほど女好き」

とケチョンケチョンに書かれてます。

また、『池田家覆歴略記』という文献にも、

「綱政の子供は、今、ここにいるだけでも、男子21人、女子31人・・・世継ぎの継政公を入れると53人だけど、その他にも早世した人や養女を加えると70人に及ぶと言われている」
と・・・

いやはや、
もし本当に子供が70人もいたら、おそらく、それに伴う側室の数も、ものすンごい事になるんだろうなぁ・・・さすがは、女好き!

・・・と言いたいですが、どうも、納得がいきません。

それは、その後継ぎの継政さん・・・
確かに、彼は四男なので、その上に3人の兄がいた事になりますが、その兄たちが亡くなったり病気がちだったりして、継政に藩主の座が回って来た時には、まだ、13歳の少年・・

本来なら、もう少し大人になってから藩主になるのがベストでしょうが、正徳四年(1714年)10月29日綱政が亡くなってしまったために、未だ13歳の若さで家督を継いだのですよ。

もし、上記の文献にあるような「女好き&子だくさん」なら、「今、ここにいるだけでも、男子21人」男子は、どこでどうしていたのでしょうか?

しかも、綱政は、自らが政治に腕を奮えるようになった45歳から亡くなるまでの間に、様々な事業を行い、ことごとく成功に導いています。

それこそ、先代の光政が名君だったおかげで、岡山藩は安定した大藩に成長しましたが、藩が大きくなれば大きくなるだけ、その支出も膨大な金額になるもので、藩の財政そのものは、けして安泰と言える物ではなかったのですが、そこに、新田開発による農村の再生事業を決行・・・同時に、毎年のように見舞われていた大洪水を防ぐために治水も行った事で、見事、この農業政策を成功させています。

また、父の時代に建てられた藩校・閑谷(しずたに)学校・・・その時には、10数人しか収容できないような小さな造りの建物が点在していたのを統一し、現在に残る国宝の講堂に造りあげたのも綱政だと言われます。

さらに、日本三名園として有名な後楽園を造営したのも・・・

ちょいとここで・・・
お城に隣接した庭園の造営は、この元禄時代に盛んに行われますが、それを殿様の贅沢と考えるのは、ちと違うように思います。

お城というのは、今で言うところの会社=職場なわけで、今年の大河ドラマでは、お城で家臣が仕事の話をしに来ても、殿様がゴロ寝しながら聞くのが流行ってるみたいですが、実際には、今もそうであるように、職場で社長がゴロゴロしてる事はあり得ません

つまり、お城の中では緊張しっぱなしの状態なわけで、人間、やっぱり息抜きが必要・・・しかも、側室やお姫様だって、勝手にお城を出て行ける身分ではないので、彼女たちにも、ホッとする空間が必要なわけです。

戦国時代から江戸時代に変わり、ほぼ安定した時代となった元禄の頃に、その生活様式も変化していき、それに伴う大名の新しい生活空間として創設されたのが、大名の居住空間のための座敷や、外交の時の応接間としての座敷、家臣の控えの座敷などを点在させた城郭に隣接する庭園というわけです。

しかも、当時の日記によれば、
城内で火災が発生すれば、側室や姫など、女性を優先に後楽園に避難させるように」
という綱政の指示もあったとか・・・避難場所でもあったんですね。

また、完成した後楽園では、家臣や家臣の妻女のみならず、領民まで招待して、藩主自らが舞う能を披露した事もあったとの事ですから、庶民との交流の場としても利用されていたのかも知れません。

これらの事を踏まえると、とても暗愚な藩主とは思えない綱政さん・・・

なぜに、隠密の調査にボロカスに書かれなければならないのかは、まったく以ってわかりませんが、それこそ、名君なればこその、幕府より一枚上手の策略があったのかも知れませんね。

勝手ながら、
イチャモンつけられないように、アホのふりをしていた前田利常さん(10月12日参照>>)を思い出しました(*^-^)
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2011年10月28日 (金)

関ヶ原後の豊臣恩顧・最初の犠牲者?赤松広秀

 

慶長五年(1600年)10月28日、但馬国竹田城城主・赤松広秀が、徳川家康の命により自刃しました。

・・・・・・・・・・・

雲海に浮かぶ美しい姿から、天空の城・日本のマチュピチュとして城好きの間では有名な但馬(たじま=兵庫県北部)竹田城・・・

かくいう私も、その姿に感動した一人ですが・・・(12月21日参照>>)

Dscn7521a800 竹田城跡(兵庫県朝来市)

この竹田城の最後の城主となった人が赤松広秀(あかまつひろひで)・・・と言っても、この方、書籍によって様々な名前で登場します。

この広秀は、村上源氏の流れを汲む赤松氏庶流の一族・龍野赤松家の人で、父の名も赤松政秀・・・彼もはじめは赤松広通と名乗っていたのですが、その後、広秀から広英、そして、最後に、父の死後、しばらくの間、身を置いていた才村(佐江村)にちなんで斎村政広(さいむらまさひろ)と名乗っていて、それこそ、ネット上でもいろんな名で登場するのですが・・・

本日はややこしいので、竹田城の案内板に書かれていた赤松広秀という名前で通させていただきます。

・・・で、もともとは、その先祖代々の播磨(はりま=兵庫県南西部)龍野城を居城としていた広秀ですが、ご存じ、織田信長の命をを受けた羽柴(後の豊臣)秀吉中国攻めの時に、織田方に降ります。

その後、やはり、その中国攻めで、この竹田城を秀吉が落とした(10月23日参照>>)事から、天正八年(1560年)、但馬竹田城2万2000石を与えられ、以後、秀吉の配下として、広秀は、九州攻めや小田原攻め、朝鮮出兵などでも活躍する事になります。

一方、それまで、砦と言っても過言ではないような簡素な城だった竹田城に、現在残る立派な石垣を構築し、戦国の山城として完成させたのも広秀でした。

そんな中、秀吉の死後に、ご存じの関ヶ原の戦いが勃発します。

この時、西軍として、細川幽斎(ゆうさい・藤孝)の籠る田辺城攻め(7月21日参照>>)に加わった広秀でしたが、結局、田辺城は落ちる事なく、本チャンの関ヶ原では西軍の敗北となってしまいました(9月15日参照>>)

この時、広秀に声をかけたのが因幡(いなば=鳥取県東部)鹿野城城主だった亀井茲矩(かめいこれのり)・・・実は、この茲矩も、広秀と同時期に、あの秀吉の中国攻めで、その傘下となって、その後、秀吉のもとでともに過ごした事から、親しい関係にあったと思われるのですが、この関ヶ原では東軍として参戦していました。

そう、茲矩は、広秀に寝返りを即したのです。

茲矩の声かけに応じて、東軍に転身した広秀・・・茲矩は、広秀が最初に西軍として参戦した事を帳消しにしてもらおうと、ともに、西軍の宮部長房(みやべながふさ)の居城・因幡鳥取城を攻めたてます。(10月5日参照>>) 

しかし、この時、鳥取城下を焼き討ちして落城させた事が、徳川家康の逆鱗に触れるのです。

家康の言い分は、
「もはや、勝敗は決しているのに焼き討ちとは…何て事をするんだ!!」
てな事らしいですが・・・

結局、平謝りの茲矩は助かり、広秀だけが、その責任をとった形で、切腹を申し渡されたのです。

慶長五年(1600年)10月28日、自刃して命を落とした赤松広秀は、未だ39歳の働き盛りでした。

この采配に関しては、
家康からの咎めを受けた茲矩が、本来は「ともにやろう!」と言った城下の焼き討ちを広秀一人のせいだと、その責任をなすりつけたとも、

もとから東軍として参戦していた茲矩を咎めるわけにいかないので、寝返り組の広秀だけを、家康が処分したのだとも言われますが・・・なんだか、腑に落ちませんねぇ。

「戦いは決した」って言っても、それは本チャンの関ヶ原の事・・・ご存じのように、この関ヶ原の戦いは、関ヶ原だけではありません。

東北では、上杉景勝の執政・直江兼続(かねつぐ)長谷堂でゴチャゴチャやってましたし(10月1日参照>>)、九州では、黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)大友義統(よしむね)石垣原(9月13日参照>>)の後も、10月20日の久留米城攻め(10月20日参照>>)や、柳川城の開城(11月3日参照>>)に至っては11月3日と・・・まだまだゴチャゴチャやってたわけで、これらだって関ヶ原関連の抗争なわけですから・・・

それに、城下の焼き討ちなんてのは、城攻めの常とう手段で・・・そりゃ、そんな事しないで、キレイに城を落とせればそれに越した事はありませんが、むしろ、そんなのが稀なわけで、戦国の世においては、それほど悪とは言い切れませんよね?

なのに、この戦国の世に、味方となって城を落とさせておきながら、その責任を負って切腹って・・・((・(ェ)・;))

実は、この赤松広秀さん・・・かなり頭の良い、優れた人物だったようです。

彼は、日頃から藤原惺窩(ふじわらせいか)という儒学者から、儒学をはじめ朱子学陽明学などの教えを受けていて、その関係から、朝鮮出兵の際に捕虜となって日本に連れて来られていた姜沆(きょうこう=강항(カン・ハン))とも親しくしていたのですが、当時の最高頭脳とも言えるこの二人から、彼は絶賛されています。

捕虜となった経緯から、「日本の将兵なんて、皆、盗賊や!」なんて毒舌をかましていた姜沆が、「広秀さんだけは違う…あの人には心がある」と言い、惺窩に至っては、「日本で孔孟の道を究める人物と期待できんのはあの人だけやったのに~」と、秀の死を聞いて、声をあげて泣いたと言います。

ここで死ななければ、おそらくは、これからも、かなりの活躍が期待できた人物・・・いや、ひょっとしたら、そんな人物だからこそ、家康は切腹させたのかも知れません。

そして、もう一つ、あの生野銀山が竹田城の管轄にあった事も忘れてはなりません。

家康は、この後、竹田城を廃城として、すぐさま、近くに篠山城を築いて譜代の松平康重を入れ、生野銀山には但馬金銀山奉行を配置して、佐渡金山石見(いわみ)銀山と並ぶ天領としているのです。

豊臣大好きの私・・・家康ファンの方には申し訳ないのですが・・・
つまりは、豊臣恩顧の頭脳を排除するとともに、金のなる木の銀山を手中に納めるがための赤松広秀の切腹ではなかったか?と思います。

ずいぶん前に、【加藤清正・疑惑の死】と題して書かせていただいたページ(6月24日参照>>)で、「ひょっとして、家康、ウラで何かやってんやないの?」と疑いたくなるくらい、関ヶ原から大坂の陣までに亡くなる豊臣方の武将が多いと書かせていただきましたが・・・

もし、本当に、家康が、豊臣恩顧の武将をターゲットに何かを企んでいたとしたら、最初の犠牲者となったのは、まぎれもなく、関ヶ原直後に切腹を言いわたされた赤松広秀という事になりますね~

切腹に際しては、亀井茲矩に対して恨み節を言う事もなく、何の弁解も無しに、ただ粛々をその命を受け入れ、何も語らず、静かに自刃に及んだという広秀・・・ひょっとしたら、この家康の思惑のすべてが、彼には見えていたのかも知れません。
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2011年10月27日 (木)

日本初のエレベーター…浅草・凌雲閣に誕生

 

明治二十三年(1890年)10月27日、浅草に建設中の12階建てビル・凌雲閣に日本初のエレベーターが設置されました。

・・・・・・・・・・

・・・と、その前に、ちょっとオモシロイので、エレベーターの歴史なんぞ・・・

世界初のエレベーターは、なんと!紀元前200年頃・・・あの「お風呂で大発見」で有名なアルキメデスが、人力による巻き上げ式の物を作ったのが最初なのだそうです。

その後、ローマ時代の暴君・ネロが、奴隷たちに、滑車を利用したロープを引っ張らせて箱を持ちあげさせて実用化・・・さらに、ナポレオンが、長いスカートの裾を引きずって、歩き難そうに階段を上がる王妃を見て、いす型のエレベーターを作ったり・・・

日本でも、幕末の水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)が建てた好文亭という図書館のような建物内に、本を運ぶためのリフトのようなエレベーターを設置していたそうです。

そんな人力の手まわしから、やがて水圧利用、蒸気利用となり、最終的に、電力による近代のエレベーターが誕生したのが1880年・・・ドイツマンハイム博覧会での試運転が世界初なのだとか・・・

そのわずか10年後に!!!(スゴイな( ̄◆ ̄;))

日本初となる電動式エレベーターは、写真家で東京市議会議員であった江崎礼二氏の発案で、それこそ、文明開化の明治維新以降、外国に追いつき追い越せと奮闘する日本・東京での高層建築物の先駆けとして浅草に建築された凌雲閣(りょううんかく)という12階建ての建物の中に、明治二十三年(1890年)10月27日設置されました。

Ryouunkaku600 高さは66m10階建ての赤レンガ造りの上に2階分の木造建てが建て増しされた形で、2階から8階までは世界各国の品々を売る店が入った、今で言うところのアミューズメントモール

9階は上等休憩室と呼ばれ、骨董から近代までの様々な美術品が陳列された、ちょっとセレブなスペース・・・

10階が関東一円を見渡せるという展望室で、11階には照明用のアーク灯が内と外に吊るされ、最上階には30倍の倍率を持つ望遠鏡が設置されていました。

拝観料は大人八銭子供は四銭、望遠鏡覗き料は1回:一銭・・・建物全体には176個もの窓が設置されているので、どこからでも眺望はバツグン!

夜になれば、例のアーク灯が灯され、たくさんの江戸っ子を幻想の世界へと誘いました。

当時は「昇降機」と呼ばれていたエレベーターは、この建物の1階と8階を結ぶ物で、定員は20名・・・中には座布団を敷いたイスも設置されていて、外を眺める事もできたと言います。

開業されたのは、設置されたこの日から半月後の11月11日・・・ちなみに、現在「エレベーターの日」という記念日が11月10日に制定されていますが、これは、当初の開業予定が11月10日だったためで、実際には、来賓者の都合により、1日延期されて、11日の開業となりました。

当然、開業と同時に大評判となった凌雲閣・・・モダンでハイカラでナウいスポットは、またたく間に浅草のシンボルとなり、連日のように人が押し寄せ、大変な賑わいを見せたのはもちろん、当時の詩歌や小説にも取り上げられる名所となりました。

ところが・・・です。

そもそも、この建物の設計者は、内部にエレベーターを設置するとは思っておらずに設計・・・そこに、無理やりエレベーターを設置したうえに、警視庁の調べで、落下防止の設備が不十分だった事が判明して、わずか7カ月後に、エレベーターは撤去されてしまいました。

しかも、人の興味という物はコクな物で、その客足も徐々に減っていく事に・・・まぁ、例の「とりあえず1回昇ったら、もう、ええか~」って感じ??

それでも、さすがに明治のランドマークタワー・・・拝観者がゼロになるという事はありませんでしたが、そんな凌雲閣を襲ったのが、大正十二年(1923年)9月1日関東大震災(9月1日参照>>)・・・

この地震によって8階より上が崩壊し、その時展望台にいた12~13名が犠牲となりました。

無残に壊れた凌雲閣・・・しかも、すでに経営難に陥っていた事から、もはや復旧が困難であるとして、間もなく、陸軍によって爆破解体され、浅草のシンボルは、町から姿を消したのです。
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2011年10月26日 (水)

見事な財政立て直し~肥後の鳳凰・細川重賢

 

天明五年(1785年)10月26日、肥後熊本藩の中興の祖と言われる細川重賢が66歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

肥後熊本藩の第4代藩主・細川宣紀(ほそかわのぶのり)五男として、享保五年(1721年)に生まれた細川重賢(ほそかわしげかた)

父の死後は、兄の細川宗孝(ほそかわむねたか)5代目藩主を継いだので、重賢は部屋住みの身分・・・

Hosokawasigekata500 この部屋住みというのは・・・
当時は、家を継ぐのは長男ですから、当然、その下の次男三男以下は、家を継ぐ事ができないわけで、分家を造って独立するか、どこかにの養子になるかしないと家を出る事は無い・・・そんな風に親または兄の家にとどまっている人の事を部屋住みと呼び、言わば半人前という意味でした。

しかし、分家なんてよほどハブリの良い家しか造る事はできませんし、婿養子の口だって早々あるわけではありませんし、当然ながら、部屋住みの間は無職・・・かと言って、武士の身分の者が、フリーターでアルバイトするわけにもいきませんから、イイ歳になっても嫁を娶る事もできないのが現状でした。

しかも、この頃の熊本藩の財政は、とんでもない火の車の状態・・・第3代の藩主・細川綱利(つなとし)に少々の浪費グセがあって藩の経営がうまく行っていなかったというのもありますが、それより何より、その頃から毎年のように、イナゴの発生やら洪水やら疫病の流行やらで、万年大飢饉の農地荒れ放題が続いていたのです。

部屋住みの重賢も、質屋に通って喰いつなぐのが精いっぱいだったとか・・・

そんな中、事件が起こります。

5代藩主を継いでいた兄の宗孝が、江戸城内の刃傷事件で命を落としてしまうのです。

以前書かせていただいた板倉勝該・刃傷事件(8月15日参照>>)・・・

下総(栃木県)芳賀(はが)郡6千石の旗本・板倉勝該(かつかね)が、恨みを持つ相手と間違えて宗孝に斬りかかり・・・つまり、人違いで起こしてしまった殺人事件です。

この時、未だ31歳の若さだった宗孝に世継ぎもいなかった事から、お取り潰しも免れない危機に立たされた細川家でしたが、そばにいた仙台藩主・伊達宗村(むねむら)の機転により、未だ息のある間に宗孝を藩邸で連れ帰り、その間に弟を養子に迎えて家督をと譲る手配をしたと書かせていただきましたが、その弟が、今回の重賢です。

時に重賢28歳・・・万年部屋住みの青年に突然訪れた第6代熊本藩主の座でした。

とは言え、安心はできません。

なんせ、上記の通り、藩の財政は切羽詰まった状態・・・すでに江戸の商人からの借金は37万両にも膨れ上がり、その費用の捻出が出来ないために、重賢は参勤交代も延期しなければならないほどでした。

しかし、貧乏はすでに部屋住みで経験済みの重賢さん・・・将来の後継ぎとして優遇を受けて育つ長男とは、その精神の鍛え方が違います。

早速、藩の財政改革=宝暦の改革に乗り出します。

まずは、門閥(もんばつ・家柄の良さ)世襲(親族の縁のある)役人を登用せず、五百取り用人・堀平太左衛門勝名(かつな)総奉行に大抜擢し、彼の下に6人の奉行をつけて、12種の職種に分けて財政再建に当たらせました。

勝名が、わざわざ大坂にまで出向いて借金の交渉に奔走すれば、その間に重賢は、質素倹約を打ち出して、藩邸の費用を最低限に抑える努力を・・・

さらに、米に依存する収入減を見直して、櫨蝋(はぜろう=ろうそくの原料)の製造や紙漉(かみすき)などの殖産興業にも着手し、それらを藩の専売にすべく努力します。

次に、行政と司法を分離して『刑法叢(草)書』を制定・・・これは、それまでの江戸時代の刑罰が死刑追放刑かに分類されていたうちの追放刑を笞刑(ちけい=ムチ打ち刑)徒刑(とけい=懲役刑)に分けた形の物で、再犯を防ぐ効果があるうえに、懲役刑の罪人を無償で働かせる事ができるという一石二鳥の画期的刑法で、後に明治憲法下での刑法の手本にされたとも言われています。

また、長年をかけて『地引合』という検地を実施した事で、700町余りの陰田も摘発し、税の徴収もクリーンに・・・

さらに、人材育成を重視した重賢は、熊本城内に藩校・時習館(じしゅうかん)を設けます。

この時習館は、許可(入学試験みたいなものか?)さえ出れば、身分の上下に関係なく、家臣や一般庶民や藩外へも広く門戸を開いたもので、しかも、現在で言う奨学金制度まで設けられていました。

藩が無くなる明治まで続いたこの学校からは、後に、横井小楠(よこいしょうなん)(1月5日参照>>)井上毅(こわし)(10月30日参照>>)などを輩出しています。

さらにさらに、藩校だけでなく、日本初の公立医学校再春館も創設し、こちらは、あの北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)を輩出し、後に熊本大学医学部になります。

こうして重賢+勝名の強力タッグで、見事、藩の財政を立てなおしたのです。

断絶した加藤家の代わりに肥後に入った初代熊本藩主(細川家2代)細川忠利(ほそかわただとし)以来、ずっと54万石だった熊本藩ですが、この中興の改革のおかげで、実質的には100万石に匹敵するほどであったとか・・・

そんなこんなで熊本藩の中興の祖、あるいは肥後の鳳凰と称される名君となった細川重賢は、天明五年(1785年)10月26日静かに66歳の生涯を閉じます。

そのそばには、若き日の部屋住みの頃に借金した時の質札が・・・彼は、その質札を、豊かな藩主となった後も、肌身離さず、生涯に渡って手元に置いていたのだとか・・・

どこかにいませんか?
平成の細川重賢さん・・・
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2011年10月25日 (火)

「君が代」の誕生

 

明治十三年(1880)10月25日、「君が代」が完成し、試奏が行われました。

・・・・・・・・・・

何かと物議をかもし出している「君が代」ですが、本日は、あくまで私見を挟まず、その誕生の経緯をご紹介させていただきたいと思います。

この原曲が出来たのは明治二年(1869年)・・・

鹿児島藩の軍楽隊長として来日していたイギリス人フェイトン「国歌もしくは儀礼音楽の制定をすべき」と進言し、当時の砲兵隊長大山巌(いわお)御親兵隊長国津鎮雄(しずお)らとともに、国歌を制定しようとしたのがはじまりです。

歌詞は、大山が愛唱していた薩摩琵琶「蓬莱山」の中から「君が代は 千代に八千代に…」の歌が選ばれましたが、おおもとは、『古今和歌集』の巻七賀歌巻頭歌にある、題しらず、読人しらずの
♪我が君は 千代にやちよに 
 さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで♪

であるとされます。

Kokinwakasyusyunzei400 「古今和歌集」
俊成本
(国立歴史民俗博物館蔵)

ちなみに、『古今和歌集』の写本によっては、「我が君」「君が代」になっていたり「千代にやちよに」「千代にや ちよに」になっていたりと、その成立年代で少し異なるそうです。

「君が代」「君」の解釈も、上記の『古今和歌集』で「読人しらず」となっており、どの時代の歌かも記録されていないところから、特定の人物を指すものではなく、その時代々々によって変動しながらも、その治世の長寿を祝う賛歌として歌集に納められたと考えられます。

・・・で、歌詞が選ばれた後、そのフェイトンによって曲がつけられたわけですが、これが、洋風の曲で、なかなか日本人には唱和が難しい曲だったそうで・・・

そこで、明治九年(1876年)に、海軍軍楽隊長中村祐庸(すけつね)「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀上申」という建白書を提出して、フェイトンや中村らが委員となって検討・・・宮内省式部寮雅楽部に作曲を依頼したのです。

それを受けて、宮内省の伶人(れいじん・雅楽を奏する人)奥好義(おくよしいさ)が作ったメロディを委員たちが選び、同じく伶人の林廣守(はやし ひろもり)が曲に起こし、さらに、これに、海軍省教師ドイツ人エッケトルが編曲をつけて、現在の「君が代」という歌が完成・・・。

かくして明治十三年(1880)10月25日試奏が行われたのでした。

なお、初めて明治天皇の御前で演奏されたのは、9日後の11月3日・・・天長節(明治天皇誕生日)の日だったという事です。

そして、ご存じのように、法律で正式な国歌と制定されたのは平成十一年(1999年)という事になります。
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2011年10月24日 (月)

大河ドラマ「江」と大坂の陣直前の徳川秀忠の手紙

 

またまた大河ドラマ関連のお話で恐縮ですが・・・

失礼ながら・・・
前半の、秀吉と茶々(淀殿)が、くっつくのくっつかないの(5月30日参照>>)で45分間の放送時間を費やした脚本家先生とは、同じ人物とは思えないほどのスピード展開を見せている今日この頃の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」・・・おもしろくなって来ました(゚ー゚)

ただ、個人的(あくまで個人的です)には「なぜに???」と思うところが・・・

これまで何度もお話させていただいております通り、ドラマは創作物なので、史実に忠実である必要はありませんし、その史実も、誰もその目で本物を見た事が無い以上、専門家さんによっては少々のズレもあり、結局のところは、作家さんのお好きな方向に持って行っていただいて良いと思うのです。

なので私としては、とっくに死んでる人が生きている事になっていたって、会うはずのない人が出会っていたって、それはそれで、ドラマがおもしろくなるのであれば、いっこうにかまわないと思っている派なのですが、

今回の「江」の脚本家先生は、そこまで逸脱したストーリー展開には持っていかれない・・・どんなに恨んで嫌っていても、茶々は秀吉の側室になって秀頼を産むし、主人公がどんなに「戦いは嫌じゃ!」と言っても合戦は始まるし、もはや来週は大坂冬の陣だし・・・

って事は、おそらく、この先も、大坂夏の陣で大坂城が炎上し、炎の中で秀頼と淀殿が亡くなるという史実も、そのまま描かれるものと思われます。

それなのに、なぜ?
この作家さんは、できもしない約束を主人公たちにさせるのでしょう?

「関白となった秀頼様を(秀忠が)将軍として支えたい」とか、
「豊臣と徳川が並び立つ天下太平の世を造りたい」とかいう手紙を秀忠に書かせたり・・・

その手法は、今回だけではありません。

主人公の江は、何かある度に手紙を書いたり、直接会いに行って直訴したりして、その場では、その約束が叶えられるが如く話は納められますが、それが現実化したためしがありません。

古くは、本能寺の変を起こした明智光秀に会って、
「あなたの手で戦のない世の中にして下さい」
と言ってみたり、

若き日の茶々に色目を使っている秀吉に対して、
「姉上に手を出さない事を約束してくれるなら、言うとおりに嫁に行く」
と言って、秀吉に誓約書まで書かせで佐治一成(さじかずなり)と結婚した事もありました。

でも、結局は、一般的な歴史通りにストーリーは展開します。

もちろん、光秀の場合は、二人っきりのその約束とは関係の無いところにいた秀吉によって光秀は討たれて約束が実現できないわけですし、茶々が側室になるのも、その約束から何年か経ってからの出来事なので女心と秋の空・・・その間に人の気持ちも変わると言えばそうなのでしょうが、

どうも、このドラマを見終わった後に、なんだかスッキリしないドヨ~ンとした物が残り、スカッと爽やかになれない原因は、その「できもしない約束を主人公(その夫も含む)にさせる」ところにあるような気がしてなりません(この感想は、あくまで個人の感想です)

しかし、やはり昨日の放送でも・・・もはや放送の最後のほうでは冬の陣が始まっている状況なのに、まだ「父(家康)も、豊臣を一大名に(格下げ)したいだけで、秀頼や淀殿を葬り去ろうとは思っていないだろう」(だったかな?)なんて事を、秀忠が言ってました。

未だにこんな事を言っていて、この先、どういう手法で、豊臣家末梢の方向へと持って行かれるのか?
まさしく展開が読めないので、逆に楽しみかも知れません。

ところで、日づけ的には一日遅れで申し訳ありませんが、慶長十九年(1614年)10月23日は、徳川秀忠が、大坂の陣に向けて江戸を出陣した日なわけですが、その出立において、秀忠は、父=家康の側近の本多正純(まさずみ)に、当日=10月23日付けの手紙を書いております。

「留守居の仕置等、丈夫に申しつけ候間、今日廿三日、神奈川まで出馬仕り候…」
と続くのですが、要約しますと・・・(大阪弁でスンマセン(*_ _)人 )
「留守の間の(江戸城の)事は、イロイロ指示して来たんで、今日23日に神奈川まで来ましたが、もうすぐ上洛しますよって、大坂城への攻撃開始は、僕が到着するまで待ってもらうよう(父=家康に)お願いしといてもらえませんやろか?
ホンマ、勝手なお願いですけど、この時やからこそ、しっかりとお願いしておいてほしい。
使者の小沢瀬兵衛が口頭でもお願いするやろけど、ヨロシクね!」

てな感じです。

秀忠は、同様の手紙を同時期に藤堂高虎(たかとら)にも送っていて、そこでは、
「大軍を率いてるんで、ちょっとペースが遅れてます。
自分だけでも早く行きたいと急いでおりますんで、それまで大坂攻めを待つように大御所
(家康)様に伝えておいてね」
と、コチラも、やはり、「自分が行くまで開戦しないでくれ」とのお願い・・・

そう、実は、途中の真田の上田城攻めに手こずって、あの関ヶ原に遅れた事(9月7日参照>>)を、秀忠はかなり引きずっていたんですねぇ。

そのために、今回は遅れまいと、必死のパッチで西へと進んだようで、最後には、3日前に先鋒として出発した伊達政宗隊を追い越してしまいそうになるくらいな勢いで進軍し、逆に、家康に「隊列を乱すな!」と怒られたのだとか・・・

この手紙を見る限りでは、「豊臣&徳川並び立つ」どころか、大坂攻めに、かなりヤル気満々に見える秀忠・・・

んん?
しかし、そう言えば、昨日の放送の中で、あの真田幸村(信繁)が大坂城に入った事に、秀忠が「あの幸村が?」喰いついてた描写がありましたが、ひょっとしてドラマでは、
「真田のせいで関ヶ原に遅れた=真田への恨みを晴らしたい」
って事で、秀忠が大坂の陣に、いそいそと出陣するという方向に持っていくのかしら?

でもソレだと
両雄並び立つ天下太平(より)真田への怨みの方がデカイという個人的動機満載のセコイ考えになってるような???

いやいや、主人公の旦那さんなんですから、きっと、すばらしい大義名分を抱えてのご出陣となる事を、1ファンとして期待しておりますです。
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2011年10月22日 (土)

ヤルからには徹底的に…長連龍の復讐劇

 

天正六年(1578年)10月22日、危険を感じた長連龍が、越中の神保氏張のもとに逃れました。

・・・・・・・・・・

幼名は萬松、次男だった事から出家して宗先と称し、その後、一族でただ一人生き残った事から還俗(げんぞく・僧となっていた人が一般人に戻る事)して好連となり、最終的に長連龍(ちょうつらたつ)と名乗るのは、織田信長の傘下となる天正八年(1580年)からなのですが、ややこしいので、今日は、連龍さんで通させていただきます。

連龍の父・続連(つぐつら)は、能登畠山氏に仕える重臣=畠山七人衆の一人でした。

この能登畠山氏というのは、あの桓武平氏から続く坂東八平氏から枝分かれた一族で、足利義満の時代から能登の守護を任されていたお家柄ですが、7代目の畠山義総(はたけやまよしふさ)の頃をピークに、その後の当主に短命な人が続いた事も手伝って、いつしか、傀儡(かいらい=あやつり人形)の当主となり、政務は、七人衆と呼ばれる重臣たちの合議制によって進めていく形となっていました。

しかし、そうなると、その7人の中にも、派閥やら対立やらが生まれて来るわけで・・・

お互いの意見の食い違いによる、追放&迎え入れを繰り返していた中、第15代室町幕府将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たした織田信長が、越前(福井県)朝倉近江(滋賀県)浅井を倒して(8月27日参照>>)北へと進んでくる事態に・・・

一方、それまで武田信玄との川中島の合戦(武田信玄と勝頼の年表を参照>>)を繰り広げていた越後(えちご・新潟県)上杉謙信も、新たな敵=信長の出現に、長年敵対関係にあった石山本願寺と同盟を結び、すでに越前までやって来た信長に相対する事になります。

そう、越前まで来た信長、越後の謙信・・・と、まさに、ここ能登は、その間に入っちゃう事になります。

この時の畠山氏の当主は、10代目の畠山春王丸(はるおうまる)・・・その年齢は不確かですが、まだ(いみな・本名)も無い事を考えると、おそらく10歳に満たない幼児だったと思われますが、この幼き当主を擁立したのが、七人衆のうちの一人だった続連で、その続連が信長派だった事から、ここ能登七尾(ななお)は、謙信の攻撃対象となり、天正四年(1576年)10月から、謙信による七尾城への包囲が開始されます。

とは言え、上記の通り、一枚岩では無い畠山七人衆・・・幼き当主を擁立した事で、城内の実権を握っていたのは続連と、その長男・綱連(つなつら)ですが、彼らと敵対していた遊佐続光(ゆさつぐみつ)温井景隆(ぬくいかげたか)らは、戦況が悪くなるにつれ、密かに謙信に内通していくのです。

そんな中、天正五年(1577年)夏・・・七尾城内にも疫病が発生し、いよいよ籠城も限界と感じた続連は、次男・連龍を七尾城から脱出させ、信長への援軍要請の使者として派遣したのです。

Tyouturatatu700 落城寸前の七尾城から危険を犯して脱出し、一路、上方へ向かった連龍・・・しかし、何とか、援軍出陣の約束を取り付けて七尾城へ戻って来た彼が見た物は・・・

すでに落城して、一族郎党散り散りになった無残な光景・・・そうです、謙信に内通した続光と景隆によって父と兄は殺害されていたのです(9月13日参照>>)

このままでは終われない連龍・・・僧を捨て、還俗した連龍は、生き残った旧臣や浪人たちなど、自ら500の兵を率いて、彼らに対抗し、天正六年(1578年)8月14日には、上杉勢を破って能登穴水城を奪回しました。(8月14日参照>>)

さらに、復讐の念に燃える連龍は、続光らを相手に能登にて転戦を繰り返すのですが、そんな中の天正六年(1578年)10月22日、もはや少数では叶わぬと判断した連龍は、能登を脱出し、織田方の神保氏張の治める越中へと逃走・・・以後、氏張と結んだ連龍は、その支援を受けて続光らに対抗する事になります。

しかし、そんなこんなしているうちに起こったのが、あの謙信の死・・・(3月13日参照>>)

大黒柱の死によって後継者争い御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)となった上杉家は、もはや、能登・越中どころではなくなり、逆に越中の上杉派の諸将が、御館の乱に駆り出されるに至り、能登・越中の情勢は一気に変わります。

上杉の支援をアテにできなくなった続光と景隆は、信長への降伏を申し出ますが、これを「ダメです!」と、ピシャリ反対する連龍・・・

その後も、何度も何度も降伏を申し出る二人に対して、反対し続ける連龍に、さすがの信長も
「もう、許したったら?」
と説得しますが、それでも聞きません。

とうとう、信長は、連龍から献上された脇差を本人に突き返して
「ええ加減にせぇよ!」
と、たしなめますが、それでも反発する連龍・・・そこには、それほどの怨みがあったのでしょうが・・・

やがて続光と景隆は、織田傘下に入るだけでなく、
「今いる七尾城を開け渡して、そっくりそのままお渡ししますんで、どうか降伏を認めてチョーダイ」
と、まるで命乞いのような恭順姿勢です。

「もはや、これ以上は・・・」
と判断した信長は、この申し出を受け入れて、すぐに配下の者を城代として七尾城に送り込み、連龍に対しては
「これまでの武功を認めるよって、鹿島半群を与えよう」
と説得・・・

さすがの連龍も、信長には、これまでの恩もある事だし、あまりに反発しても良くないと思ったのか、ここに来てやっと受け入れ、続光と景隆の降伏を承諾しました。

しかし、連龍の執念は、ここで終わりません。

七尾城をを退いて後、行方をくらませていた続光ら遊佐一族を見つけ出し、彼ら一族を皆殺しにしたのです。

さらに、その事に危険を感じて越後に逃走していた温井景隆を、佐久間盛政前田利家の協力を得て攻めて敗死に追い込んだのです(6月26日参照>>)

父と兄を失ってから、約5年間の復讐劇でした。

・・・と、この復讐劇に関しては、ちょっとコワイ連龍さんですが、その後は利家の与力として、賤ヶ岳の戦い(4月23日参照>>)では殿(しんがり)を務め、あの末森城の戦い(8月28日参照>>)では、決戦には間に合わなかったものの、救援に駆け付けたその心意気を利家に買われ、利家が亡くなる際には、その息子・前田利長への遺言として
高山右近長連龍は、役に立つ人材やから大事にせぇよ」
との言葉を残したとか・・・

その期待通り、北陸の関ヶ原と言われる浅井畷(あさいなわて)の戦い(8月8日参照>>)にも、自軍に多大な犠牲を出しながらも利長に従い、果ては、大坂の陣でも、第2代藩主・前田利常(10月12日参照>>)に従いました。

その後、連龍の長氏は、3万3000石を賜って加賀藩最上級の八家(はっけ)と呼ばれる重臣の家柄の一つとなり、前田家の家老なれど、独立した大名のごとき権限を持ち、明治維新を迎えるまで存続する事になります。

風前の灯となったお家を再興させるためには、時として鬼にならねばならない・・・それが戦国というものかも知れません。
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2011年10月21日 (金)

江戸をおもしろくした天才・司馬江漢

 

文政元年(1818年)10月21日、江戸時代に活躍した絵師蘭学者司馬江漢が、72歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

長く平和が続いた江戸時代は、ちょっと変わったオモシロイ人が多く登場した時代でもありましたが、
「チョット変わった困ったちゃん」
で思い出すのが、有名な平賀源内(ひらがげんない)・・・(11月21日参照>>)

エレキテルなど、様々な突飛な発明をして人々を驚かせたと思えば、「土用の丑」でウナギのCMを考えたり、自作の浄瑠璃『神霊・矢口渡』では、破魔(はまや)というコラボ作品をヒットさせたり・・・(10月23日後半部分参照>>)

そんな源内さんのお友達でもあったのが、本日主役の司馬江漢(しば こうかん)さん・・・まさに「類は友を呼ぶ」と申しましょうかww

江戸時代の寛政十一年(1799年)に発行された『蘭学者相撲見立番付』では、前頭六枚目・高慢うそ八として、見事ランクインした変わり者でありました。

とは言え、その才能はスゴイもの・・・

蘭学者としては、
天文・地学・植物学に精通し、彼が書き残した世界地図天文図は見事な物・・・

絵師としては、
狩野派に入門して浮世絵の基礎を学んだ後、有名な鈴木春信の弟子となり、鈴木春重(はるしげ)の名で師匠の偽絵を描いていた時代もあったようですが、まもなく、自らの新しい技法を開拓していきます。

それは、浮世絵に、西洋の遠近法や陰影法を取り入れただけでなく、それまでの絵の具と墨に荏胡麻(えごま)油を混ぜて描く・・・つまり、日本初の油彩画を描いたのが彼なわけです。

また、天明三年(1783年)には、日本初の銅版画(エッチング)も制作・・・これらの独特の技法で、『不忍池図』『江ノ島富士遠覧図』などの名作を残しています。

Koukansinobazunoikezu500 司馬江漢「不忍池図」(東京国立博物館蔵)

また、杉田玄白(げんぱく)らが著した『解体新書』(3月4日参照>>)の解体図を描いた小田野直武(なおたけ)(6月1日参照>>)を通じて、前野良沢(りょうたく)知識人との交流も盛んあったという江漢・・・

しかし、そんなマルチな天才も、寄る年波には勝てず・・・

文化十年(1813年)・・・江漢の友人たちに、悲しい知らせが届きます。

「江漢先生は老衰して、絵を買いたいという人が現われても絵筆を取らず、友人の招きにも応じません。

蘭学や天文学、珍しい機器を考えるのも飽きてしまい、ただ、老子や壮子のように、あるがままの自然に任せる生活を楽しんでおられました。

昨年は、吉野の桜を見物してから、1年間、京に滞在した後、春には江戸に戻り、再び上方に向かおうとしたところで、相模・円覚寺の誠摂禅師の弟子となり、ついに悟りを開いてからのち、病を得て亡くなられました。

・・・
それ天地は無始に起こり、無終に至る。
人は小にして、天は大なり。
万歳をもって一瞬のごとし。
小慮なるかな。 嗚呼。

文化癸酉八月 七十六翁司馬無言辞世の語 」

そう、江漢の死亡通知が届いたのです。

知らせを受けた友人たちは、皆、驚き、中には香典を送った人も少なくなかったと言いますが・・・

実は、コレ、江漢本人が書いてます。
・・・なので、死んでません。

年号が文化十年(1813年)なら、江漢は、まだ67歳のはずですが、数字を反対にして76歳と、年齢も9歳サバ読んでますねぇ。

もちろん、いただいた香典は、ご本人がありがたく受け取っています。

いったい何がしたかったのでしょうか?

俗世間での友人関係をシャットアウトして、本当にゆっくりと余生を楽しみたかったのか?
「自分が死んだらどうなるんだろ?」と周囲の反応を見たかったのか?

天才のやる事は、よくわかりませんなぁ。

とにかく、こうして、死んだふりをして、自宅で引き籠る生活を送っていた江漢ですが、さすがに、一歩も外へ出ずに生活するわけにはいかず、ある日、どうしても外せない用事があって外に出た時、見事に知り合いに遭遇します。

「ありゃ?江漢先生、生きておいででしたか!」
と、当然の事ながら驚くその人・・・

もちろん、江漢は無視して、知らん顔で通り過ぎようとするのですが、相手は、
「ねぇ、江漢先生ですよね?」
「そうなんでしょ?江漢先生」

と、しつこい・・・(死亡通知を受け取ってる身としては当たり前ですが…)

すると江漢は、彼を振り切るように逃げながら、ハタと、振り返り
「死人豈(あに)言吐かんや!」
と、ひと言・・・

「死人がしゃべるかい!」
という捨てゼリフを残して、その場を立ち去ったとか・・・

そんな生活を5年ほど続けていた江漢でしたが、文政元年(1818年)10月21日、とうとう彼は、本当に亡くなってしまいました。

享年72歳・・・
♪喰うてひる つるんで迷う 世界虫
  上天子より 下庶民まで ♪ by Koukan

「喰っちゃぁ出す 恋すりゃ迷う・・・エライ人もそうでない者も、みんな、同じやん」

100年先を見る事のできる天才は、江戸という封建社会の中で、自分を思うように出せずにもがいていたのでしょうか?

それとも、もっと広い心で、おもしろおかしく時代を風刺していたのでしょうか?

いろんな想像をかきたてられる人物ですね。
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2011年10月20日 (木)

耳川への序章~大友宗麟・日向高城攻撃へ…

 

天正六年(1578年)10月20日、豊後の戦国大名・大友宗麟が、田原紹忍を総大将に任じて、日向高城攻めを開始しました。

・・・・・・・・・・・

天正五年(1577年)の12月、木崎原の合戦での奇襲で薩摩(鹿児島県)島津義弘(義久の弟)に大敗を喫し、日向(ひゅうが=宮崎県)の南半分を奪われた伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)が救援を求めた事から、島津との抗戦を決意した豊後(大分県)の戦国大名・大友宗麟(そうりん)・・・

あのフランシスコ・ザビエルに会って以来、キリスト教にどっぷりハマっていた宗麟は、かねてより造りたいと思っていたキリシタンの理想郷を、日向の地に建設する事を夢見て出陣します。

以前からキリスト教に反対していた正室(奈多鑑基の娘)と離縁して、洗礼名・ジュリアと名乗る新しい奥さんを迎え(若いのに乗り換えただけかも知れん)、自らも洗礼を受けてドン・シマンとなり、家督を息子に譲っての覚悟の出陣・・・

宗麟自身は、3万5千の大軍を率いて海路にて南下を開始し、天正六年(1578年)の8月12日には日向無鹿(むしか・宮崎県延岡市)に着陣して、その場所にキリシタン王国建設を着々と進めていく一方で、別働隊の重臣・田原紹忍(しょうにん・親賢)の率いる2万の軍勢が、伊東氏を道案内に陸路で南下し、島津との勢力境界線である耳川を渡り、島津配下の高城(宮崎県木城町)へと迫ったのでした(8月12日参照>>)

Ootomosinromimikawacc ↑画像をクリックすると、大きな画像が開きます。
このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。

かくして天正六年(1578年)10月20日近隣の民家に放火した後、高城を包囲した大友軍・・・

しかし、ここで徹底的なミスが・・・

この高城を任されていた島津の家老・山田有信の手もとの兵は、わずかに500・・・確かに、高城は北・東・南を天然の要害に囲まれ、たった一つの攻めるべき西側にも、何重もの空堀を設置した防御に優れた堅城でしたが、ここまでの多勢に無勢なら、本来は、すぐにでも陥落してしまうはず・・・

ところが、有信の放った使者から、この急変を聞いた佐土原城島津家久(義久の末弟)が、急きょ兵を率いて高城に入城・・・さらに、島津配下の諸城からの救援も受け、高城の城兵は、またたく間に3000に膨れ上がったのです。

そう、すでに包囲を完了していたにも関わらず、大友方は、これらの援軍の入城をやすやすと許してしまったのです。

続く小競り合いでも、大友方はおおむね勝利しますが、城兵の抵抗はなかなかの物で、どれも、城を陥落させるだけの痛手は与えられなかったうえ、この時、大友方最大の武器として導入した大砲=国崩(くにくずし)は、距離が遠すぎて高城には届かず、あまり効果が発揮できませんでした。

そこで、大友方は長期戦を視野に入れ、包囲を強化・・・そうなると、籠城する側に襲ってくるのは兵糧不足です。

やはり、しばらくすると高城内では水不足となり、川に汲みに行こうとしても、強化された包囲網により不可能な状態・・・

もはや開城も時間の問題かと思われたその時、土塀の下に水がしみ出ているのを一人の城兵が発見し、その場を掘ってみると、なんと、こんこんと水が湧き出て来て、「神は我々に味方している!」(キリシタンじゃないけど…)と、城内の士気も高まったのだとか・・・

そんなこんなしているうちに鹿児島にいた島津の当主・島津義久3万の軍勢を率いて出陣します。

その行軍の途中、義久はとある夢を見ます。

その夢の中で霧島神社の神の使いと称する老人から、
♪討つ敵は 龍田(たつた)の河の 紅葉(もみじ)かな♪
という句が書かれた短冊を受け取る義久・・・

「これは吉兆に違いない!」
と大いに盛り上がり、義久は、その句を起請文に添えて霧島神社に奉納し、現地へ向かったのだとか・・・まぁ、これは将兵の士気を高めるための方便なのかも知れませんが・・・

やがて11月1日、義久は、佐土原城へと入りますが、その頃には、各地からの援軍を含めて、総勢5万に膨れ上がった島津軍は、もはや小さな城には納まりきらないほどになっていたようです。

しかし、一方の大友軍も、ただ包囲していたわけではありません。

そこに集結した軍勢は6万・・・

さぁ、ほぼ互角となったところで、運命の決戦=耳川の戦いとなりますが、そのお話は、決戦の始まる11月11日のページ【耳川の戦い初日~大友の大砲と島津の奇襲】でどうぞ>>
(前半部分が本日の内容とかぶり気味ですが、お許しを…m(_ _)m)
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2011年10月19日 (水)

伊予平定で実現!長宗我部元親の四国統一

 

天正十二年(1584年)10月19日、長宗我部元親の配下・久武親直西園寺公広黒瀬城を落とした後、元親が南伊予を平定しました。

・・・・・・・・・・

色白で仕草も女っぽく、22歳まで合戦にも出た事が無かったおかげで「姫若子(ひめわこ)と呼ばれていた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、永禄三年(1560年)、初陣を飾った長浜表(ながはまおもて)の戦いでの活躍で、一気に汚名返上・・・そのニックネームも「土佐の出来人(できひと)と変化しますが、戦いからまもなく、父の国親(くにちか)は、息子・元親に土佐(高知県)統一の夢を託して亡くなります(5月26日参照>>)

Tyousokabemototika60yosyou600 こうして家督を継いだ元親は、永禄十一年(1568年)にライバルだった本山氏を配下に組み込んで土佐中央部を平定(4月7日参照>>)した後、土佐東部を治める安芸国虎(あきくにとら)をも倒して(8月11日参照>>)、天正三年(1575年)7月、父の代からの念願だった土佐統一を成し遂げたのです(7月16日参照>>)

しかし、勢いに乗る元親にとって、土佐統一はまだまだ序章・・・その先にある阿波(徳島県)讃岐(香川県)へ・・・いや、さらに四国統一へと夢は広がります。

そんな時、元親は、阿波と讃岐の国境に近く、讃岐平野を見下ろす事のできる雲辺寺(うんぺんじ)にある雲辺寺を訪ねます。

ふとした事から、その寺の住職に、四国統一の野望を語る元親・・・

すると住職は、
「そらムリやろな。
おまはんは、土佐に蓋をする器量しか持ってないさかいに、四国に蓋をするのは難しい・・・茶釜の蓋で水桶に蓋するようなモンや。
ヘタしたら、隣国どころか、今持ってる土佐も手放す事になるで~」

しかし、元親は反論します。
「俺の持ってる蓋は、名人の作った蓋なんや。
土佐の小さい領主から十何年で土佐全土にまで蓋をデカくした・・・あと2~3年で四国全土に蓋ができる大きさにしてみせる!

と・・・

果たして、その言葉通り、天正十年(1582年)には、本能寺のドサクサで阿波の平定を果たし(9月21日参照>>)、続く天正十一年(1583年)には、羽柴(後の豊臣)秀吉の気持ちが賤ヶ岳に向いてる間に引田表(ひけたおもて)の戦仙石秀久(せんごくひでひさ)を破り讃岐をも手に入れたのです(4月21日参照>>)

いよいよ、残る四国は伊予(愛媛県)のみ・・・この頃の伊予では、北伊予河野(こうの)中伊予宇都宮氏南伊予西園寺氏東伊予金子氏が、それぞれの領地の小豪族を束ねる形で治めていました。

これまでも、阿波や讃岐への進攻と並行して、伊予にも度々兵を進めていたものの、河野氏が毛利元就を頼っていた事から、その毛利の援軍に悩まされて続けていた元親でしたが、ここに来て、伊予に全力を注ぎこめるようになり、やや有利な展開となって来ました。

そこで元親は、東伊予を治める金子元宅(もといえ)と結んで河野氏をけん制する一方で、配下の久武親直(ひさたけちかなお)軍代に任命して南伊予を攻撃させ西園寺公広(きんひろ)ビビらせます。

この公広という人は、かつて、元親が織田信長との友好関係を持ち、信長から「四国は切り取り次第(四国にて元親が実力で勝ち取った領地は元親の物)」のお墨付きをもらっていた時に、「アイツ、きっと将来信長さんに反発しまっせ!」とチクリ、信長に「ちょっと待った!」切り取り次第を撤回させた人物(再び4月21日前半部分参照>>)・・・自然とリキも入ります。

かくして、天正十二年(1584年)10月19日、親直は、すでに次々と南伊予の諸城を落とされてしまっていた公広が拠る居城・黒瀬城(愛媛県西伊予市)猛攻撃を仕掛け、黒瀬城を陥落させたのです。

Mototikasikokutouitucc ↑画像をクリックすると大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

さらに勢い乗る元親は、約1万6000の兵を率いて北へと進攻し、河野氏の湯築城(ゆづきじょう・松山市)へと迫ります。

この時、元親の更なる強大化を恐れる毛利は、河野氏への援軍派遣を強化しようと考えますが、肝心の河野氏が、ここに来て、あまりの元親の勢いにビビリはじめ、一転して恭順な態度に変わり、それを知った伊予の諸将も、次々と元親の軍門に下ったのでした。

こうして元親は、翌・天正十三年(1858年)春に悲願の四国統一を成し遂げたのです。

実に、父の遺志を継いでから25年・・・元親47歳。

土佐を統一したあの時、雲辺寺の住職に「ムリだ」と言われた四国の蓋・・・見事、元親は、その蓋を閉じてみせたのです。

しかし、間もなく、その蓋を力づくでこじ開けようという大物が登場します。

ご存じ、秀吉の四国征伐・・・果たして、長宗我部の運命は???

と、そのお話は、すでに2008年7月25日に書かせていただいている【一宮城・攻防戦~長宗我部元親の降伏】でどうぞ>>
(タイトルで結果、言っちゃったけど…(゚ー゚;)
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2011年10月18日 (火)

小早川秀秋を苦しめた恐怖~岡山城・開かずの間

 

慶長七年(1602年)10月18日、豊臣秀吉の甥で小早川隆景の養子となった小早川秀秋が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

豊臣秀吉の奥さん・おねさんの兄・木下家定の五男として天正十年(1582年)に生まれた小早川秀秋(こばやかわひであき)は、3歳で秀吉の養子となり、その4年後には、丹波亀山に10万石の領地を与えられ、一時は秀吉の後継者とも考えられていたものの、文禄二年(1593年)に秀吉の側室・淀殿秀頼を生んだ関係からか、その翌年には、秀吉の命により、小早川隆養子となって小早川家に入りました。

秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦いでは、東軍の徳川家康と西軍の石田三成の両方からのお誘いを受け、とりあえずは西軍として参加したものの、合戦の最中に東軍に寝返り、それが、東軍の勝利に大きく貢献したと言われています(9月15日参照>>)

そこンところは、2009年の10月18日に書かせていただいた【関ヶ原後わずか2年で早死~小早川秀秋の苦悩】>>で読んでいただくとして、本日は、その関ヶ原後に秀秋さんが城主となった岡山城に関するウワサ・・・(あくまで噂です(゚ー゚;)

・‥…━━━☆

関ヶ原でキーマンとなった小早川秀秋・・・彼の行動を高く評価した徳川家康により、戦後、石高50万余石の岡山城主に栄進します。

海運上の要地にあるこの岡山城は、もともと、謀略の将・宇喜多直家(うきたなおいえ)(10月30日参照>>)が、金光宗高(かねみつむねたか)謀殺して奪い取った城・・・

その直家が亡くなった時、未だ幼かった息子の宇喜多秀家(うきたひでいえ)を、養子並みの扱いで可愛がった秀吉の支援のおかげもあって、やがて岡山城は秀吉縁者の城にふさわしい大城郭に生まれ変わりました。

しかし、ご存じのように、その秀家は、かの関ヶ原で、西軍の副将軍として活躍したため、負け組の将として戦後は八丈島への流罪第1号となってしまいました(8月6日参照>>)

そして、そのあとに岡山城に入ったのが秀秋です。

岡山に入った秀秋は、領内に残っていた宇喜多時代の遺構を潰して、それらを資材に、さらに岡山城を大きくしたと言いますが、そんな秀秋を悩ませていたのが、やはり、関ヶ原における自らの行動でした。

もちろん、後から考えれば、どっちについたにとしても、そこには後悔が残っただろうし、それによって得られた結果も、戦国の常と言えば常・・・過ぎ去った事にいちいちこだわっていては、戦国武将なんて商売はやってけないわけですが、それが、秀秋にはできなかった・・・

彼は、いつしか、西軍の将・大谷吉継(よしつぐ)(2008年9月15日・後半部分参照>>)亡霊に悩まされるようになるのです。

吉継の亡霊が、病に冒された風貌で、それも物ズゴイ形相で秀秋を睨みつけている・・・

「おのれ!」と、その亡霊に斬りつけると、それは、いつも見慣れた家臣だった・・・と、こんな事が毎夜のように続きます。

それは、側近や小姓だけにとどまらず、果ては、ちょっと見かけた農民まで、吉継に見間違えて斬り殺す・・・なんて事に・・・

もちろん、それらの殺された人物が吉継の亡霊に見えるのは秀秋だけですから、周囲から見れば、ただのご乱行・・・まもなく、何か気に入らない事があれば、すぐに家臣を斬り殺す恐怖の殿さまという噂が急激に広まります。

それを心配したのが、秀秋とともに岡山城に入り、財政の補佐役をこなしていた杉原重政(しげまさ)・・・

彼は、小早川家の行く末を案じて、度々、こうしたご乱行を諫めていたわけですが、それが気に入らない秀秋は、家臣の村山越中に、上意討ちと称して、重政を殺すように命じます。

何も知らない重政は、秀秋の命を受けた彼ら数名に呼び出された天守の一角で、無残にもメッタ斬りにされ、命を落としたのでした。

それからというもの、重政が殺されたその部屋では、いくら清めても血の跡が消える事なく、何度新しい畳に敷き変えても、またシミが浮き出て来るという怪現象が起こります。

しかも、部屋の中に入った者が何人も変死したとか・・・

やがて、そこの扉が開けられる事はなくなり、厳重に釘を打って、開かずの間となったという事です。

そして、ご存じのように、秀秋自身も、関ヶ原から2年後の慶長七年(1602年)10月18日わずか21歳の若さで狂死したと言われます。

Okayamazyoumeizi800 明治初期に撮影された岡山城(岡山城事務所蔵)

秀秋の死によって小早川家は断絶しましたが、廃城される事はありませんでしたので、その後も、かの開かずの間が残ったまま、岡山城は明治維新を迎えますが、あの太平洋戦争の戦災で城ごと焼失・・・

その後、昭和四十一年(1966年)に再建された現在の岡山城には、当然、開かずの間はありませんので、ご安心を・・・

ま・・・豊臣大好きの私としては、秀秋の死は吉継の呪いというよりは、家康の策略のような気がしないでもないですが・・・
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2011年10月17日 (月)

事実は大河ドラマよりも奇なり~豊臣秀頼の子供たち

 

慶長十九年(1614年)10月17日、この10月11日に駿府を出た徳川家康が名古屋に到着しました。

・・・・・・・・・

これは、この慶長十九年(1614年)7月に、豊臣秀吉の遺児・秀頼が建立した方広寺の鐘銘にイチャモンつけた徳川家康(7月21日参照>>)、8月20日に豊臣側の使者・片桐且元(かつもと)を通じて最後通告(これ聞けへんかったら攻めるゾ)を出した(8月20日参照>>)後、10月1日には諸大名に出陣の命令を出し、自らは10月11日駿府を出発し、途中で鷹狩りなんぞしながら、慶長十九年(1614年)10月17日名古屋、19日には岐阜と進み、10月23日に二条城に入って、いよいよ、豊臣との最終決戦=大坂の陣へと向かう・・・という事なのですが、そのへんの戦いの経緯は【大坂の陣の年表】>>で、個々のページを見ていただくとして・・・

・・・と、お察しの通り、本日は、こんな感じで、無理やり大坂の陣に話をもって行こうとしております・・・(*´v゚*)ゞ

と言いますのも、このブログは、ここ2週間ほど、「豊臣秀頼の子(息子)というキーワード検索でたくさんの方のご訪問をいただいております。

もちろん、それは、先週くらいから大河ドラマ「江~姫たちの戦国」に登場している、大坂城内で木馬で遊んだり、秀頼に肩車してもらったりしている小さな男の子=秀頼の息子の事が、皆さん気になっている・・・という事でしょう。

これまで、その史料の少なさから、ほとんどドラマには登場しなかった秀頼の子供たち・・・しかし、現在、専門家の方が「おそらく本物」とおっしゃるいくつかの1級史料には、秀頼の子供たちのたどった波乱の運命が記録されています。

それは、これまで描かれたどのドラマよりもドラマチックで、まさに「事実は小説(大河ドラマ)よりも奇なり」という内容で、是非とも、旬な、この時期にお話させていただきたい!と本日書かせていただきます。

と言いましても、後に、秀頼の正室・千姫に引き取られて尼となる女の子=天秀尼については、すでに書かせていただいております(2008年5月8日参照>>)ので、そちらでご覧いただくとして(実はこのページが検索にHITしてます(*゚ー゚*))、本日は、やはり気になる男の子のお話を・・・

・‥…━━━☆

大河ドラマで、父・秀頼との親子団らんシーンを見せてくれている男の子は、幼名を国松と言います。

慶長十三年(1608年)生まれで、大坂の陣・勃発当時・8歳・・・その母は、天秀尼と同じ成田五兵衛の娘とも、伊勢より奉公に来た娘(大坂の陣で秀頼とともに自害する伊勢出身のわごの御方?)とも言われ、『武邊雑記』によれば、大坂の陣の時には、すでに元服を済ませており、秀勝と名乗っていたとか・・・

この秀勝という名は、ご存じのように、秀吉が長浜城主時代に側室の南殿との間に生まれた実子につけたのが初めとされ、その子が早世した後、織田信長から養子に入った子や、姉・ともからの養子(江の2番目の旦那さんです)につけた秀吉お気に入りの名ですから、その遺志を汲んで、豊臣のあと取りにつけられたというのは充分考えられますね。

とは言え、この国松(本日は国松と呼ばせていただきます)・・・実は、この大坂の陣が終わるまで、家康は、その存在を知らなかったようです。

以前のページ(再び2008年5月8日参照>>)で書かせていただいているように、大坂城の落城とともに脱出した天秀尼を発見したのは京極忠高・・・この忠高さんは、淀殿の妹で江の姉(常高院)の夫である京極高次と側室との間の子供で、父の死後に京極家を継いでいた人ですが、彼が天秀尼を発見した後、家康に男子の存在を伝え、家康は、慌てて諸大名に、男子の探索を促する命令書を発布していますので、やはり、それまで知らなかったのでしょう。

では、この国松は、それまでどこでどうしていたのか?

実は、淀殿の妹で江の姉・初が、若狭で、こっそり育てていたのです。
(だから忠高は知ってました)

それは、秀頼の正室である千姫との間に子供でができていない事をはばかって・・・という事も言われますが、当時の政略結婚での正室とは、婚家と実家の架け橋になる和睦の使命をも帯びながら、一方では婚家の情報を実家に流すスパイ的な役割も担っていたわけで、ひょっとしたら、男子の存在を徳川家に隠すために初のもとで育てられた可能性もあります。

とにもかくにも『大坂陣山口休庵咄』によれば・・・

この国松は、一度も秀頼に会う事なく若狭で育ち、父親が秀頼である事も隠し通されていたようですが、この大坂の陣の勃発に当たって、「もし、見つかってはマズイ」となって、「小舟に磔(はりつけ)にして流してしまおう」となっていたのを、猛反対したのが初・・・

初は、自らが大坂城に入る時に、『京極殿御道具』と墨書した立て札を立てた長持(ながもち)の中に国松を隠して無事大坂城に入城したのです。
(なので、残念ながら、ドラマのような幼い頃の父子のふれあいは、それまで無かったという事になりますが、逆に初の心意気を感じます)

こうして、初めて秀頼の子供である事を知らされ、父との面会も果たした国松は、冬の陣の講和の後も大坂城に留り、淀殿の部屋で暮らしていたと言います。

ひとときの親子&孫らしい幸せな日々を送ったのでしょうね。

しかし、ご存じのように、再び勃発した夏の陣で大坂城は炎上・・・慶長二十年(1615年)5月8日、落城が迫った城内で、父・秀頼との別れの盃を交わし、乳母を含む側近4名とともに大坂城を脱出し、一路、京都方面へ向かって逃走します(側近の一人は大野治房(はるふさ=大野治長の弟)説が有力です)。

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大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵)京橋付近…左上に見えるのが備前島橋で、右下の金雲の影に半壊状態となってるのが京橋です)

彼らが京橋口から外に出ようとした時、父・秀頼と祖母・淀殿が籠る櫓(やぐら)が炎上するのが見えたとの事・・・9歳の少年が、振り返って、その炎を見たかと思うと、胸が詰まりますね~

その後、側近の4名のうち乳母を含む2名が枚方で捕縛されつつも、国松は、まだ逃げますが、やがて5月21日、伏見に潜伏しているところを発見されてしまいます。

こうして捕縛された国松は、5月23日、京中引き回しの上、六条河原で斬首されてしまうのです。

その遺骸は、初の夫・高次の姉(もしくは妹)京極龍子が引き取り、手厚く供養したという事です。

こうして豊臣家は滅亡・・・と言いたいところですが、話はまだ終わらない!

実は、慶長二十年(1615年)5月15日付けで、あの細川忠興(ただおき・ガラシャの旦那)家臣に宛てた手紙で妙な事を書いています

「急度申遺族、秀頼様御子様御一人ハ十、御一人ハ七ツに御成候、行方不知候ニ付、諸国御尋之事ニ候、又…」

これは、天秀尼が捕まって後、秀頼に男子がいた事を知った家康が、慌ててその探索の命を出した事を受けて、忠興が、家臣たちに、その命令を伝えている手紙なわけですが、上記の通り、「探す男児は、10歳と7歳の二人」となっています。

つまり、国松には弟がいたと・・・
(忠興の物だけでなく、同様の手紙は複数存在します)

結局、その弟の方は捕まる事が無かったので、本当に二人いたのか?
はたまた、落城時のドサクサの誤報だったのか?

ところが・・・
その後、江戸時代に書かれた『本朝高僧伝』『続日本高僧伝』など、高僧とされる僧たちの事を書いたデータベースのような文献に、江戸増上寺で長年修業して高僧の一人と讃えられ、晩年に移った山城・伏見の地で80歳の生涯を終えた求厭(きゅうえん・求猒)上人なる僧の話が出て来ます。

もはや、死を悟った求厭は、臨終の直前、それまで誰にも言わず隠していた自らの出自を語ったと・・・そう、彼が、その弟だと言うのです。

大坂城落城の時に脱出した彼は、灯台もと暗しのごとく江戸に潜伏し、長じて、増上寺に修業に入った・・・

増上寺と言えば、ご存じ、徳川家の菩提寺ですよ!

彼は、その徳川家の菩提寺にて、周囲を欺きつつ、心の中で、亡き父・秀頼以下、豊臣の人たちに対してのお経を詠む事で、その恨みのいく分かを晴らすつもりで、修業に励んでいたのだと・・・

しかし、死を前にして心落ち着けた時、
「天下は一人の天下に非ざるを省悟して胸間爽然たり…」

人生80年・・・ここに来て、やっと悟りを開き、恨む気持ちを捨てる事ができた・・・と、老僧は静かに、弟子たちに告白したというのです。

大河ドラマどころか、荒唐無稽に思える、あの「プリンセストヨトミ」をも連想させる歴史のおもしろさ・・・もちろん、これらはトンデモ説ではなく、ちゃんとした1級史料とされる文献に残されるエピソード

もう、ワクワクドキドキです!
これだから、歴史好きはやめられません\(;゚∇゚)/
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2011年10月15日 (土)

武士?僧侶?ストーカー?スパイ?謎多き歌人・西行

 

保延六年(1140年)10月15日、鳥羽上皇北面の武士であった佐藤義清が、突然に出家し、西行と名乗りました。

・・・・・・・・・

ご存じ、西行(さいぎょう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した僧侶で、全国を旅しながら、おりにふれて詠んだ歌は、平安貴族のそれとは一風変わった新時代の歌として高く評価され、後には、あの松尾芭蕉が、その足跡をたどって旅をして俳句を詠むなど、歌人としても、後世に大きな影響を与えた人物です。

しかし、そんな西行・・・冒頭に書かせていただいた通り、もともとは、鳥羽(とば)上皇の院の警固を担当する北面の武士・・・

Saigyou500 その名を佐藤義清(のりきよ)と言い、あの平将門(まさかど)を倒した事で有名な藤原秀郷(ひでさと)9代めの子孫で、代々、近衛兵として仕える家柄であり、紀伊国(和歌山県)田仲荘という所領も持ち、経済的にはかなり裕福・・・

しかも、彼自身が18歳の若さで兵衛尉(ひょうえのじょう)に任じられるほど武勇にも優れ、このまま行けば、かなりの出世を見込めるエリートコースを歩んでいた武士なのです。

ところが、保延六年(1140年)10月15日・・・突如として、未だ23歳の若さで出家してしまいます。

それも、『西行物語絵巻』によれば、「お父ちゃん、見捨てんといて!o(;△;)o」と、追いすがる幼い娘を、縁側から蹴り落としてまで、現世との縁を断ち斬っての出家だったとか・・・

何が、西行をそうさせたのか???

それには、いくつかの説があります。

『源平盛衰記』では・・・
「申すも恐れある上朧(身分の高い女性の事)片思いをして何度も迫るうち、その女性から「あこぎ(しつこい)!」と拒否された事に傷ついて・・・って、ストーカーかい!ヽ( )`ε´( )ノ

そのお相手は、鳥羽上皇の中宮の待賢門院(たいけんもんいん)だったとも、鳥羽上皇の皇后の美福門院(びふくもんいん)だったとも、鳥羽上皇と待賢門院に生まれた上西門院(じょうさいもんいん)だったとも言われますが、もし、それが本当の理由なら、蹴られて捨てられた妻子が、あまりにもお気の毒・・・

・・・で、やっぱり『西行物語』に戻れば・・・
仲良くしていた同僚の佐藤憲康(のりやす)と、「明日、一緒に出勤しような」と元気に別れたものの、翌朝、誘いに行くと、すでに昨晩、急死したと・・・その場で泣き崩れる老母と嫁をの姿を目の当たりにし、明日をも知れぬ人生の空しさを感じたのだと・・・

さらに、鳥羽上皇と、対立する息子の崇徳(すどく)天皇との板挟みになって苦しんでいたという話も・・・なんせ西行は、崇徳天皇の母である待賢門院の実家・徳大寺家の家人でしたが、上記の通り、務め先は鳥羽上皇の警固なわけで、この対立は、後に、保元の乱(7月11日参照>>)まで引き起こし、負けた崇徳天皇を史上最強の怨霊(8月26日参照>>)にしてしまうくらいですから、その板挟みとなれば、悩みも大きいかも知れません。

でもなぁ~~(-ε-)、
ストーカー説よりは、後者の説の方が説得力はありますが、なんだか男の責任を果たしてない気がする・・・いくら「空しさを感じた」「板挟みが辛かった」とは言え、君には、養うべき嫁と子がいるのだゾ!

でも、まぁ、それこそ現代の価値観では測れないし、ひょっとして、彼の世話になどならずとも一生食うに困らないほど、嫁さんの実家が裕福なら、さほど、男の責任を感じる事もないだろうし・・・

が、しかし、その出家理由もさる事ながら、実は、その後の西行にも少々疑問が残ります。

・・・と言うのも、上記の通り、出家して諸国を放浪し、その土地々々で仮の草庵を構えては多くの歌を残した西行ですが、まったく俗世間との接触の無い世捨て人となったか?というとそうでもありません。

意外と時の権力者に近くにいて、ある時は、北面の武士だった頃の人脈を駆使して、高野山の免税の交渉に尽力したりもしています。

また、『吾妻鏡(あづまかがみ)の文治二年(1186年)8月15日の項に書かれている鎌倉での源頼朝との対面などは有名ですね。

この時、西行69歳で頼朝40歳・・・鶴岡八幡宮に参拝した頼朝が、そこで西行に出会い、弓馬の事や和歌の秘訣についてなど尋ねたところ・・・

「秘伝の兵法書が焼けてしもたし、罪つくりな事はぜ~んぶ忘れてしもたんで」
と武勇については語らず
「僕は、花や月やらに心動かされた時に、それを31文字にして詠むだけで、特別な秘訣なんておまへんわ~」
と、どちらの質問にもうまくかわされたのだとか・・・

さらに、頼朝が「お礼に…」と西行に渡した銀製の猫を、八幡宮門前で遊んでいた子供にポイっと渡して、サッサと立ち去って行ったと・・・

と、これだけの内容だと、何やら、ひと言ふた言、二人が言葉を交わしただけように見えますが、実は、この時の二人の面会は一晩中かけて行われていて、その内容を、頼朝は、右筆(ゆうひつ=秘書・文官)藤原俊兼(としかね)に書きとめさせていたとか・・・

しかも、この時の西行は、東大寺の再建資金に苦労していた僧・重源(ちょうげん)から、財力を誇る奥州の藤原氏への寄付金の依頼を頼まれていて、この先、奥州・平泉へと向かう途中であったという事・・・

そう、文治二年(1186年)8月と言えば、その前月に、あの静御前男児を産み(7月29日参照>>)、翌月の9月には、佐藤忠信壮絶な討死を遂げる(9月21日参照>>)、おそらくは、奥州藤原氏を頼って落ち延びたと思われる弟の源義経(よしつね)必死で捜索していた、まさにその頃だったわけです。

そんな時期に奥州へと向かう西行に頼朝が会った・・・これは、偶然の出来事ではないのかもしれません。

故に、西行は出家後も武の一面を失う事なく過ごし、もしかしたら「頼朝の放ったスパイだったのでは?」との噂も囁かれますが、これは、あくまで噂・・・

やはり、旅の中にあって風流な歌を詠む歌人として姿が、一番西行らしいのかも知れません。

♪ねかはくは 花の下(した・もと)にて 春しなん
   そのきさらきの 望月の比
(ころ)  ♪

晩年に詠んだこの歌の通り、 文治六年(1190年)2月16日・・・釈尊涅槃の日に73歳で、その生涯を終えたという事です。
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2011年10月14日 (金)

封建社会を痛烈批判…思想家・安藤昌益

 

宝暦十二年(1762年)10月14日、秋田藩出身の医師で思想家の安藤昌益が60歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

安藤昌益(あんどう しょうえき)・・・元禄十六年(1703年)に出羽国秋田二井田村(大館市)の農家に生まれた彼は、家を継ぐべき長男では無かった事もあって、若くして京に上り、仏門に入ったと言われます。

しかし、どうやら、その教えに納得がいかず、寺を出て、今度は、味岡三伯(あじおかさんぱく)なる医師の弟子となり、医学の道に進みます。

やがて40歳前後の頃に、陸奥国八戸城下町医者として開業・・・そこで、八戸藩士やら僧侶やら、同じ医者仲間やらと交流する中で、なかなかの博識ぶりを披露し、学者としても知れれた存在となっていったようです。

その後、郷里を継いでいた兄が亡くなった事を受けて、宝暦八年(1758年)に故郷に戻りますが、そこで町医者として開業しつつも、凶作にあえいでいた村を指導して復興に成功・・・自ら守農大神と名乗ったと言います。

宝暦十年(1760年)に昌益の弟子たちが、一門の全国集会を開いたところ、14名ほどの参加者がいたという事ですが、その2年後の宝暦十二年(1762年)10月14日60歳で亡くなったとの事・・・

と言っても、実は安藤昌益についての記録はほとんどありません。

医者としても学者としても、それほど特出した人ではなく、言わば、物知りなオッチャン程度・・・なので、その死後には、彼の存在は、ほとんど忘れ去られてしまっていたのです。

そんな彼が世に出るキッカケとなったのは・・・

彼の死後から138年経った明治三十二年(1899年)・・・当時、一高の校長をしていた狩野亨吉(かのうこうきち)が、昌益が宝暦三年(1753年)頃に書いたとされる著書・『自然真営道(しぜんしんえいどう)稿本(こうほん=写本・下書き:実際には、弟子が昌益の死後に遺稿をまとめた物)100巻を発見した事に始まります。

その中で、昌益が語る徹底した平等主義思想が、まさに、明治のその頃にもてはやされた思想に通じる物があったのです。

残念ながら、発見後に東京帝国大学図書館に寄贈されていた稿本は、未だ書き写す前に関東大震災で大部分を焼失してしまいます。

が、しかし、幸いにも、その後、明治の発見以前に写されていた写本や宝暦三年(1753年)に刊行された刊本が見つかり、今に至っています。

Sizensineidou1a800
「自然真営道」第1巻(日本史ものしり事典より)

・・・で、ここで気になるのは、その明治の頃に絶賛されたという昌益独自の世界観・・・

彼が言うには・・・

人間は本来、万人が「直耕=直接生産」をして、皆で平和に暮らす「自然世」の社会で、そこには天皇も将軍も武士もおらず、男女も平等に働いていたはずである。

ところが、そこに「不耕貪食の徒=自らは生産しないで農民を搾取して支配する者」が現われた。

昌益は、この社会を「法世」と呼び、人間社会の墜落の始まりとしています。

こうした思想ゆえ、昌益は武士が支配する封建社会を徹底的に批判し、その根本となっている儒教や仏教をも否定したのです。

さらに、直耕する者だけで作る自然世を理想のユートピアとして掲げた・・・つまり、農民による共産主義が理想であると・・・

Sizensineidou2a800 あのフランスの哲学者=ジャック・ルソー『人間不平等起源論』を刊行したのが1755年・・・その2年前に同じような事を考えていた日本人がいたとは!

私は、右だ左だと論議を交わせるほどの知識を持ち合わせていませんので、昌益の主張が正しいか否かについては意見をひかえますが、江戸時代という封建制度真っただ中の時代に、それを真っ向から否定するような事を考え、かつ、その著書を刊行していたという事実に、一歴史好きとして、とても興味を抱きますね。

ちなみに、聞くところによれば・・・
稿本のとある箇所で、徳川家康を称して「聖人」と書いてあるところに、見ると何枚も貼紙が重ねてあって、その下に何か書いてある・・・つまり、何かヤバイ事が書いてあったので、その上にシールのように紙を貼って、一番上に「聖人」と書いてあるわけです。

発見者の狩野が、その下に何て書いてあったのかが気になり、水を湿らせて丁寧に剥がすと、下から出て来たのは「君主」という文字・・・

さらに、それを剥がすと「獣」・・・さらに剥がした一番下には「奴輩(どはい)と書いてあったのだとか・・・

「君主」と「獣」の間に差があり過ぎやろ!
というツッコミはさておき、

江戸時代に、神君家康公を「奴輩」とは( ̄○ ̄;)!・・・
よく、後世まで残っていたもんだとつくづく・・・。
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2011年10月13日 (木)

パワハラで改易?不運続きの宇都宮国綱

 

慶長二年(1597年)10月13日、下野の戦国大名・宇都宮国綱が、羽柴秀吉から改易を言い渡されました。

・・・・・・・・

下野(しもつけ・栃木県)に生まれた宇都宮国綱(うつのみやくにつな)は、わずか9歳の時、父・広綱(ひろつな)病で失いました。

父の死を受けて、その後、第22代の当主となった国綱でしたが、幼い当主の家督継承のドサクサに、家内が乱れて離反者は相次ぎ、外からは関東一円に領地拡大を図る北条氏からの進攻も受けました。

これに対抗すべく、国綱は、すぐ下の弟・朝勝(ともかつ)下総(しもうさ・千葉県北部&茨城県西南部)結城晴朝(ゆうきはるとも)の養子に出して同盟を結び、さらに常陸(ひたち・茨城県)佐竹氏甲斐(山梨県)武田氏とも盟約を結ん周囲を固めました。

家内においては、一番下の弟・高武(たかたけ)を有力家臣の芳賀高継(はがたかつぐ)の養子として出し、兄弟、力を合わせて、家臣団の統率を図事にしました。

しかし、それでも北条氏政(うじまさ)の進攻は止まず、やがては周辺の諸城が次々と北条に寝返ったため、やむなく国綱は、本拠である宇都宮城を捨てて、守りの堅固な山城・多気城(たげじょう・栃木県宇都宮市)に移る事を余儀なくされました。

北条の前に、もはや風前の灯となった宇都宮氏&国綱・・・(【宇都宮国綱~長きに渡る北条との戦い】参照>>)

Toyotomihideyoshi600 ・・・と、そこへ登場したのが羽柴(後の豊臣)秀吉・・・そう、天正十八年(1590年)の小田原征伐です(3月29日参照>>)

当然の事ながら、早々に小田原に参陣し、秀吉の配下となって奮戦する国綱・・・石田三成の指揮した忍城(おしじょう)攻め(6月9日参照>>)にも参戦して活躍したおかげで、戦後は、秀吉から本領の下野18万石を安堵され、以後、秀吉の配下として文禄の役(4月13日参照>>)にも参戦して頑張る日々・・・

ところが、慶長二年(1597年)10月13日秀吉から、突然、改易を言い渡され、備前(岡山県)宇喜多秀家(うきたひでいえ)預かりの処分を受けます。

なぜに???

これには、ある噂が…

当時、豊臣政権の五奉行の一人であった浅野長政(あさのながまさ)が、未だ子供のいない国綱に、自分の息子を養嗣子(ようしし=将来、その家の後継ぎとなる養子)として迎えてくれないか?と頼んだのを、彼が断ったからだとか・・・

確かに、その時は、未だ国綱には、将来、後継ぎとなる息子はいませんでしたが、国綱はまだ30歳・・・現に、その翌年の慶長三年(1598年)には、嫡男・義綱(よしつな)が誕生しています。

まだまだ後継ぎが生まれる可能性大な中で、養子など・・・

第一、宇都宮家は、藤原北家藤原道兼(ふじわらのみちかね)を祖に持つ名門・・・あの八幡太郎・源義家前九年の役(9月17日参照>>)で武功を挙げて宇都宮一帯を賜ってから、鎌倉・南北朝・室町を生き抜いて来た由緒正しき家柄です。

悪いですが、当時の宇都宮家から見た浅野家は、どこの馬の骨・・・秀吉の配下としては上位にいる長政ですが、家柄としてはかなりの格下ですから、国綱はともかく、家臣たちによる「そんな息子を当主と仰ぐ事はできん!」との猛反対によって、丁重にお断りしたわけですが・・・

ところが、その後始まった太閤検地(7月8日参照>>)で、宇都宮家の領地の検地担当となったのが、かの長政・・・すると、とんでもない結果がはじき出されます。

先ほども書かせていただいた通り、宇都宮家の石高は18万石だったわけですが、検地を行って算出された石高は・・・なんと!その倍以上の39万余石が計上されたのです。

つまり、実際の石高の半分しかないと申告して、その差額を私的に隠していたとの疑いがかけられてしまったのです。

かくして、不正をした領主として改易に・・・主家を失った旧臣の多くは、農民になったと言います。

ひょっとして、
かの養子問題の恨み?・・・
これが噂のパワハラってヤツですか?

もちろん、身に覚えのない国綱は、「何とかお家再興を・・・」と訴えますが、秀吉は
「戻して欲しかったら、朝鮮で武功を挙げなはれ~」
と・・・

そう、この時、ちょうど、2度目の朝鮮出兵=慶長の役(11月20日参照>>)の真っ最中でした。

「ならば…!」と、宇都宮氏の再興を賭けて張り切って渡海し、その大活躍で、朝鮮でも武功を挙げた国綱・・・しかし、ご存じのように、秀吉は、この慶長の役の途中で亡くなってしまうわけで、戦い終わって日本に帰ってみれば、もはや、お家再興の話はウヤムヤに・・・

結局、その後は諸国を流浪し、慶長十二年(1607年)、江戸は浅草にて、失意のまま病死したとの事です。

ただ一つの救いは、あの時生まれた国綱の遺児・義綱が、成人した後に水戸藩に召し抱えられ、その後、家臣として明治維新に至るまでの間、見事に宇都宮家の家名が守られたという事・・・

不運の連続とも言える人生の中、わずか40歳で旅立った国綱さんも、子孫たちが紡いだ糸に、きっとあの世で安堵されている事でしょう。
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2011年10月12日 (水)

西欧の地球分割支配と秀吉の朝鮮出兵

 

1492年10月12日、コロンブス率いるスペイン船隊が、西インド諸島に初上陸しました・・・いわゆる「コロンブスの新大陸=アメリカ発見」です。

・・・・・・・・・・・

「おや?今日は世界史?」
と見せかけておいて、実は日本史です(*´v゚*)ゞ

世界史苦手の私も、さすがにこの部分は避けて通れないのが、スペインポルトガルによるこの頃の世界争奪戦であります。

そもそもは、コロンブスが登場する以前・・・ヨーロッパにある二大強国・スペインとポルトガルによる領土拡大作戦が始まっていました。

彼らを後押ししていたのはカトリックの大本山であるローマ法王(教皇)・・・その勅書(ちょくしょ・王の命令を伝える文書)には、
「異教徒の征伐と改宗に尽力する両国国王を支援し、征服・領有・貿易・漁猟などの独占を認め、原住民の奴隷化を許可する」
といった内容が見えます。

とは言え、地中海より東の地域へは、簡単に征服して進んでいく事は困難・・・

そこで、ポルトガルのエンリケ航海王子は、1415年にアフリカセウタ(モロッコ)を攻略し、続いて、30年かかってアフリカの西海岸を行き、1446年にはギニアから約1000人の黒人奴隷を輸入したり・・・と言っても、攻略というよりは探検に毛が生えたような物だったようですが、これに気を良くした法王庁は、ギニアはおろか、アフリカの最南端に至るまでのすべての陸地を、「征服した際は、永久にポルトガルの領土とする」事を許可しちゃったのです。

さらに、その後、アフリカ西海岸から東回りでインドに到達する航路上の全域を、ポルトガルが占有する事も、法王庁から許可されます。

ちょっと出遅れてしまったスペイン・・・

で、ここに登場するのが、西への冒険を模索していたコロンブス・・・とは言え、この頃には、すでにバイキングがヨーロッパから大西洋を越えて北米大陸に達していたわけですが、コロンブスは、その事を知らなかったようで、とにかく大西洋回りでインドやジパング(日本)に到達する事を夢見て、各国の王家へ支援の頼んで回ってたわけですが、上記の通り、ポルトガルはアフリカ回りでのインドの領有を認められているので、コロンブスの提案には興味を示さず、逆に、出遅れたスペインが喰いついたというワケです。

とにかく、こうして発見された北米大陸・・・これで、遅れをとっていたスペインの海外展開は一気に挽回されました。

当然の事ながら、スペイン国王は、発見された新大陸の領有の承認をローマ法王に求め、さらに、北極から南極に線を引いて、地球を東西に2分割する案を奏上・・・

これを受けて、ローマ教皇・アレクサンデル6世は、大勅書と称される文書で、大西洋上のアゾレス諸島とベルデ岬諸島のところに、北極から南極までに線を引いた境界線を定めます。

その後、1494年には、スペイン・ポルトガルの両国の間で、正式にトルデシリャス条約が結ばれ、
「ベルデ岬諸島より西方に370レグワ(1レグワ=約5.6km)の地点から両極に向かって南北に引いた直線より東で、すでに発見された、あるいはこれから発見される島や大陸は、すべてポルトガル王とその継承者の属し、西方で発見された、あるいはこれから発見される島や大陸はカスティリャアラゴン(当時スペインは2国に分かれていたので)に属する」
と決定したのです。

Dbunkatusen</a
> トルデシリャス条約で決定された分割線

おいおい!何を勝手に分けとんねん!という間もなく、その線から東回り&西回りで開始された2国による地球争奪戦・・・

これらの侵略行為を正当化するに当たっては、やはりローマ法王庁が登場・・・その言い分は、
異教徒は・・・
これまで、キリスト教徒の土地を不当に占拠して領有していたのだから、それを取り返すための戦争は正当である。
アジアやブラジルに対しては・・・
彼らの霊魂を救済しようと、すばらしい宣教師を派遣しているのだから、その宣教師たちが現地で優遇されるのは当たり前だし、宣教師の話に耳を傾けなかったり迫害したりする者に対する戦闘行為は正当である。
アメリカ大陸の原住民については・・・
彼らは、布教を妨害したり圧迫したりしない者たちだが、キリスト教において重大な罪となるような悪習を守り、それをやめようとしないのだから、武力で服従させる戦争は正当である。
という事だそうです( ̄◆ ̄;)

ところで、こうして引かれた分割線・・・当然のことながら、北極&南極を通り越した裏側にもつながっているわけですが、たどってみると、それは北海道の東あたりを通過してます。

ただ、この条約が締結された頃は、未だ地図も不正確で、裏側に関しては何も決められてはおらず、両国は、表側のその境界線から、インドを目指して航海を競い合うという段階でした。

しかし、それから100年も経つと、「ポルトガルに属する東インド」「スペインに属する西インド」などという言葉も登場し、16世紀末には、
「果たしてジパング(日本)はどっちのインドに属するのか?」
という事が、両国の間で激しい論争になったのだとか・・・

「コラ!日本はどっちにも属さへんわい!ヽ( )`ε´( )ノ」
と、日本人の一人としては声高に叫びたい・・・

やがてスペインは南ヨーロッパを制し、中南米を制し、1571年にはオスマントルコも破り、さらには覇権を争ったポルトガルも併合し、もはや地球上に敵無しの絶頂期を迎えた頃、「どっちに属するのか?」との討論のネタになっていた遥かなる日本で、スペインより先に明(みん・中国)を手中に治めようと考える男が登場します。

そう、豊臣秀吉です。

秀吉の朝鮮出兵の目標が明の制圧だった事は皆さまもご存じの通り・・・

文禄元年(1592年)に朝鮮の釜山(プサン)に上陸して(4月13日参照>>)、わずかの間に首都・漢城(ハンソン・京城)を落とした報を聞いた秀吉は、名護屋城から、関白の秀次に手紙を書きますが、その中で
「明を征服したあかつきには、大唐の都・北京(ペキン)後陽成(ごようぜい)天皇を移して皇帝とし、秀次を大唐の関白に・・・自らは寧波(ニンポー)に居を構えるつもりである」
てな事を書いています。

寧波とは、首都の北京よりも西・・・ひょっとしたら、秀吉は、その先の天竺(てんじく=インド)を見据えていたのかも知れません。

もちろん、まだまだ謎多き朝鮮出兵・・・秀吉の真意にたどりつく事は難しいでしょうが、

ただ、結果的には、撤退を余儀なくされる朝鮮出兵であるため、ドラマなどでは、この頃の秀吉は、歳をとっておかしくなった人のように描かれ、荒唐無稽な夢に周囲が振り回されているがのごときシーンが満載・・・

今年の大河ドラマでも、朝鮮に渡った夫=羽柴秀勝を心配する(ごう)に、姉の(はつ)
「こんなバカげた戦は、すぐ終わる」
(↑個人的にはこのセリフはあってはならないセリフだと思います)
なんて言ってましたが、この朝鮮出兵がバカげた戦かどうかは、当時の世界情勢も踏まえて考えなければ、その真意にはたどり着かないように思います。

少なくとも、当時、極東アジアの小国で簡単に征服できると思っていたジパングが、世界有数の軍事大国である事を、秀吉の朝鮮出兵がスペインに気づかせた事は確か・・・

もちろん秀吉も、キリスト教布教の名のもとに、スペインが日本を征服しようと考えている事を、すでに気づいていたようですしね(6月19日参照>>)
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2011年10月11日 (火)

大化の改新の影の立役者・南淵請安

 

舒明天皇十二年(640年)10月11日、遣隋使として大陸に渡っていた学問僧・南淵請安が唐から帰国しました。

・・・・・・・・

高市郡(たかいちのこおり・高取町&明日香村)にて、漢人系帰化人として生まれた南淵請安(みなぶちのしょうあん)は、7世紀頃の人というだけで、その生没年も不明です。

推古天皇十六年(608年)に遣隋使・小野妹子(おののいもこ)に従って、学者の高向玄理(たかむこのくろまろ)や学僧の(みん)ら、8人の留学生の一員として(ずい・中国)へと渡りました。

そこで、32年間の留学生生活を送る事になりますが、ご存じのように、その間に、隋が滅んで唐が建国されるという中国の一大転機を目の当たりにし、舒明天皇十二年(640年)10月11日玄理らとともに帰国しました。

ちなみに、旻は舒明天皇四年(632年)に、彼らより一足先に帰国しています。

この時代、隋や唐から帰国した彼らに求められた物は、もちろん、先進的な海外の知識や文化を、この日本に広める事・・・朝廷にて政治に従事する者もいたでしょうが、一方では、豪族の子弟たちを相手に私塾を開設し、次世代を担う後継者の育成に力を注いだ人も多くいました。

請安より先に帰国した旻の私塾に通っていたのが、今をときめく大臣(おおおみ)蘇我蝦夷(そがのえみし)の息子・蘇我入鹿(いるか)・・・

彼は、旻をして
「我が堂にあって蘇我太郎(入鹿の事)に及ぶ者なし」
と言わせたほどの優秀な生徒だったと言われます。

Dscn3989a600 一方、帰国後、飛鳥川の上流にある南淵朝風(あさかぜ)という場所に居を構えて私塾を開いたのが請安で、ここに通っていたのが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)・・・

一説によれば、法興寺(ほうこうじ)で行われた蹴鞠(けまり)の会で、勢い余って(くつ)を飛ばしてしまった中大兄皇子に、その沓をササ~ッと拾って差し出したのが鎌足で、それが二人の出会いだったとされています。

法興寺は、入鹿のお祖父ちゃんである蘇我馬子(そがのうまこ)が、敵対していた物部(もののべ)を倒して、実権を掌握した時に建てた日本初の本格的な僧寺で、まさに、蘇我氏の全盛の権力の象徴とも言える蘇我氏の氏寺・・・現在の奈良県明日香村の飛鳥寺の場所にありました(4月8日参照>>)

ちなみに、法興寺そのものは都が明日香から藤原京→平城京と遷るのと同時に都に移転していて、現在、奈良市のならまちにある元興寺が、その法興寺です。

そんな蘇我氏の権力の象徴であり、蘇我氏を守るべく願いを込めて建てられた寺で、中大兄皇子と鎌足が出会う・・・ドラマですね~~~

そう、こうして出会った二人が、親しくなった後に、ともに請安の私塾に通い周孔の学儒教などを学びながら、敵に悟られぬよう、この請安の邸宅で、あるいは通学途中の道すがらに、入鹿の暗殺=乙巳(いっし)の変(6月12日参照>>)の計画を練ったと言われているのです。

もちろん、蘇我氏滅亡後に行われる大化の改新の青写真も話し合った事でしょう。

そうなれば、まさに請安が持ち帰った最新の知識が、後の歴史をリードしたとも言えるわけですから、請安は大化の改新の影の立役者と言ったところでしょうか・・・

んん・・・影の???
そう、実は、上記のように、中大兄皇子&中臣鎌足という政変の両主役の師匠でありながら、請安自身は、政変後の新政権には加わっていないのです。

ともに大陸に渡った玄理や旻は国博士(くにはかせ=唐の律令制度を実際に運営する左右大臣や内臣をサポートする知識人)として新政権に入っているのに・・・

そのために、請安は、大化の改新以前に、すでに亡くなっていたのではないか?とも言われています。

しかし、一方では、請安は王仁(わに)博士(12月15日中ほどを参照>>)に次ぐ大儒学者として新政権は大いに欲しがり、好条件を提示して、何度も官人を使いに出したものの、ついに彼が朝廷に入る事はなく、その後は、南淵にて農業に従事したと伝える史書もあるのだとか・・・

これには、これまでの東アジアの状況を見た入鹿が、百済(くだら)との関係と同等の国交を高句麗(こうくり)新羅(しらぎ)にまで広げた聖徳太子と同じ視野を持って、広く、外国との交流を推進しようとしていたのに対し、乙巳の変で政権を握った中大兄皇子らの外交は、それを再び、百済オンリーの外交に戻そうとする物だったので、請安は、それに反対して袂を分かつ事になったのでは?とも・・・

漢人系帰化人で外国を見て来た請安なのですから、おそらくは外交の門を広く開ける事を望んでいたでしょうからね。

ところで、これまでは、何かと悪人呼ばわりされていた入鹿・・・

しかし、橿原市の入鹿神社近くの入鹿の旧跡に建つ江戸時代の石碑には、「蘇我入鹿公御旧跡」と、入鹿に敬語が使われていますし、室町時代に書かれた『元亨釈書(けんこうしゃくしょ)という文献にも、「蘇我氏が初期仏教に果たした役割は大きい」として、その貢献を評価しています。

実を言うと、現在のように、蘇我氏が悪人呼ばわりされるようになったのは、明治の初め頃から・・・と、なかなかに歴史が浅い・・・

それは、徳川幕府に代わる新しい政権を担う天皇を中心に集権体制を構築しようとした明治政府による『日本書紀』重視の政策が行われたためです。

なんせ、日本書紀の中での蘇我氏は、その権力を振りかざして横暴の限りを尽くし、天皇家に弓を引く大悪党で、偉大なる聖徳太子の息子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)をも殺害したとされ、中大兄皇子と中臣鎌足は、太子一族の仇を討つべく、蘇我氏を退治した英雄なのですから・・・

しかし、ここ最近は、再び、明治以前のように蘇我氏の名誉が回復されつつあります。

上記の通り、聖徳太子の政策を継承していたのは、むしろ蘇我入鹿のほうで、蘇我氏滅亡後に行われた大化の改新は、それに逆行するような形であった事から、中には、「聖徳太子=蘇我入鹿」と考える専門家さんも登場しているくらいです(11月1日参照>>)

もしかしたら、請安は、そんな逆行する政治体制に参加する事を拒んだという事なのかも知れません。

何も語らず、突然に歴史の表舞台から去った謎多き南淵請安・・・現在、彼のお墓は、邸宅があったとされる朝風から、飛鳥川を挟んだ対岸の明日香村稲渕に鎮座します。

Dscn3990a800
稲淵・竜福寺境内にある南淵請安の墓(向こう側が邸宅があったとされる朝風)

今もあの頃と変わりなく流れる飛鳥川を見下ろす高台から、請安先生は、大化の改新後の日本を見守り続けているのかも知れません。

*南淵請安の墓へのくわしい行き方は、本家HP【奈良歴史散歩:奥明日香・飛鳥川をさかのぼる】でどうぞ>>
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2011年10月 9日 (日)

アンケート企画「歴史上で一番ナイスなカップルは?」の結果発表

 
今回のアンケート
「あなたが、歴史上で一番『いい夫婦だなぁ』と思うカップルは?
の投票にご協力いただきありがとうございましたo(_ _)o

それこそ、好みは様々なので、おそらくは、沢山の「その他」の意見が寄せられる物と予想しておりましたが、やっぱり、第1位は「その他」でした!!( ̄ー ̄)ニヤリ

それにしても、今回は「同数」というのが多かったですが・・・
いつものように様々なご意見を、とても楽しく拝見させていただき、ありがたい限りであります。

ではでは、
そのコメントも含め、本日、このブログ上にて、結果発表をさせていただきますね。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

 

1位
22票
その他
やはり思いはそれぞれで沢山の意見が出ましたね~大変興味深いです~一つ一つについては下部のコメント紹介の時に…
2位
8票
前田利家×まつ
やはりドラマの印象とともに、出世前から苦楽をともにした感が好感を呼びますね~事実上の1位です
3位
7票
源頼朝×北条政子
武田勝頼×北条夫人
上杉鷹山×幸姫
坂本龍馬×楢崎龍
大山巌×山川捨松
共通して感じるのは「逆境を乗り越え愛を貫いた」というところでしょうか?
まさか5項目も同数になるとは思いませんでしたが…
8位
6票
愛新覚羅溥傑×嵯峨浩
離れてもなお揺るがなかった愛…映像が残っているぶん、お二人の人柄の良さを感じますね
9位
5票
山内一豊×見性院
なんだかんだで内助の功・貞女の鏡の筆頭ですからね!ドラマもおもしろかったですし…
10位
4票
毛利隆元×尾崎局
宇喜多秀家×豪姫
徳川秀忠×
戦国を彩った3組が揃いましたね…「お互いを助け合い」っという雰囲気が良いのかも
13位
2票
聖武天皇×光明皇后
生まれながらにして決められていた結婚ですが、だからこそ、愛情が生まれるのかも知れません。
14位
1票
聖徳太子×膳部妃
源義経×郷御前
なんだか、ともに夫の自害に寄り添って一緒に亡くなった2組になりました…来世の平穏を祈りたいです
16位
0票
蓮如×如了
残念ながら0票(;ω;)蓮如様のお言葉がもう少し欲しかったかも…というより、この後も結婚するからなぁ

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

では続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」の管理人のコメントもお楽しみください

 

その他 木戸孝允と松子さん(桂小五郎と幾松) (女性/20代/東京)
「逃げの小五郎が松子さんからは逃げなかったところがGoodですね」
その他 先物買いで新島襄・八重夫妻に1票! (男性/20代/千葉)
「どんなドラマになるのか???楽しみですね~」
その他 豊臣秀吉とおね このブログで紹介されていて印象に残っているため。 (男性/40代/愛知)
「このブログで…そう言っていただけるとありがたいです;:゙;`(゚∀゚)`;:゙」
源頼朝
北条政子
承久の乱のうったえは、愛の証でしょう! (女性/10代)
「涙の演説…やはり、頼朝を思えばこそ!ですよね~」
徳川秀忠江 真実はわからないけれど、私の昔からの憧れの夫婦です。 (女性/30代/長崎)
「史料が少ない江さんがお気の毒です…きっとステキな逸話がたくさんあるだろうに」
前田利家
まつ
前田家のことを第1に考えた決断力があり、かつ寛容なおまつさん (女性/50代/福井)
「ですね~秀吉からの信頼も篤かったですし…ゴッドマザーって感じ?」
溥傑
浩さんのお葬式の時の溥傑さんの姿に感動しました。 (女性/30代/神奈川)
「私も、インタビューを受けている溥傑さんが、とても良い印象で、「すばらしいご夫婦だったんだろうなぁ」と思いました
その他 徳川家茂X和宮内親王 (50代/北海道)
「動乱の時に半強制的に決定した結婚ですが、家茂の遺品に和宮様へのお土産が含まれていた事が二人の愛を物語っていると思います」
武田勝頼
北条夫人
夫人の手紙が泣かせる・・。 (男性/30代/千葉)
「短い期間でも武田の女として生きた彼女の姿に感動しますね~」
その他 木曽義仲 X 巴御前 (男性/50代/石川)
「昼は一騎当千のツワモノ、夜は子猫のように…最後の別れは切ないですね~」
坂本龍馬
やはりこれでしょう。 (男性/30代/千葉)
「やはり…お龍さんは、龍馬の思い出を大切にして生きていたんでしょうね」
大山巌
捨松
知名度は他に劣るものの、以前 茶々様の記事で知ることになり 感動しました。 (男性/30代/【海外】)
「私もお二人の生き方には感動しました…“茶々様の記事で…”ありがとうございますm(_ _)m」

前田利家
まつ

逸話の多いのがベストでしょう (男性/岩手)
「ただ従うだけの妻ではない!って雰囲気がイイですね…まつさんがドッシリした感じです」
その他 宮本顕冶×宮本百合子。小生、決してサヨクじゃないけど、特高に見張られた夫婦生活ってスゴクないすか。 (男性/50代/北海道)
「近代史が苦手な私は、ほとんど知りませんでしたが、ずっと手紙のやりとりをなさっていたんですね~スゴイです」
その他 今上天皇と美智子皇后 現在進行形^^ (女性/40代/奈良)
「これは私も同感です…災害の時は特にお二人のすばらしさを感じます」
その他 昭和天皇×香淳皇后 史上最大の危機に天皇であったことはどれほど大変だったか。それを支えた皇后さま (女性/40代/東京)
「そうですね~日本史上最大の危機でしたね…苦難の時も、きっと支え合っておられたのでしょう」
武田勝頼
北条夫人
苦しい立場でも添い遂げた純愛に1票! (男性/30代/新潟)
「最期までともにした姿は涙々ですね~「来世でもともに…」ステキな奥さんです」
その他 一条天皇 定子皇后
「平安の雅な世界…夫婦の会話ってどんな感じなんでしょ??おとぎ話の世界のようです」
聖武天皇
光明皇后
一択。 (男性/40代/長野)
「夫の遺品を見ていると涙が出てしょうがないので…正倉院にお宝を納めるキッカケになったのは、光明皇后のこの言葉ですもんね~」
武田勝頼
北条夫人
勝頼も奥さんが隣にいるときは幸せだったと思います。 (男性/20代/大阪)
「そうですね~彼女はただ、勝頼さんのそばにいたかった…若い姫にはそれだけが頼りだったのかも知れません」
源頼朝
北条政子
出世しても家柄のいい正室に乗り換えなかった頼朝、夫の死後幕府を守り通した政子。いい夫婦です。 (女性/40代)
「ファーストレディを勝ち取った政子さんには、男性を見る目があったんでしょうね」
その他 「織田信忠×信松尼」 見えない互いの姿に思いを馳せ、ずっと愛(思い)を寄せるなんて・・もう泣けます。 (女性/30代/大阪)
「“おんな風林火山”ですね~信忠は正室を持たず、信松尼は結婚しない…そこに愛が芽生えていたのかも」
その他 李方子(梨本宮方子)×李垠 夫婦に一票投じたいと思います!愛新覚羅夫妻と同時代を生きた方々です。 (女性/20代/東京)
「勲章を受章された頃でしょうか、この方のドキュメンタリー番組を見て感動したのを思い出しました…このお二人も苦境に耐えながら愛を貫いた方々でしたね
山内一豊
見性院
いわずと知れた夫婦です。その他もなら、現代で秋篠宮殿下ご夫妻です。 (30代)
「新旧の貞女ですね…「夫を支える」簡単なようで難しいです(^-^;」
その他 自分は浅井長政&お市の方夫婦が好きです(*^_^*) (女性/10代/東京)
「ブラコンから夫への愛に目覚めたお市の方…大人の女性になったって感じですね」
その他 家茂&和宮 (男性/50代/富山)
「篤姫との事がイロイロ言われますが、宮中で育ったお姫様がいきなり武家に馴染めるはずはなく…でもそれを越えてしまうのが愛なんですね~」
その他 歴史上で一番くるったbaカップルは、前首相夫妻
「辛口ですね」
その他 明智光秀と煕子。光秀を美化する気はないですが、プライベートでは普通に仲が良かった二人だと思います。 (女性/20代/岐阜)
「お金の無い時に髪を売って光秀を助けた奥さんですね~謎多き人だけに妄想が膨らみます」
武田勝頼
北条夫人
隆盛を極めた武田家の惨めな滅亡の時、勝頼の最後にうら若き婦人が寄り添っていた。涙を誘われる話ですね。 (男性/50代/大分)
「短い間でも勝頼への愛情がひしひしと感じられますね」
その他 個人的には浅井長政とお市です。
「長政の性格がよさげで、そこに気の強いお嬢様お市がコロッと…と勝手に想像してしまいました(*´v゚*)ゞ」
徳川秀忠
今の旬な気持ち (女性/10代/東京)
「大河ドラマ=旬ですからね」
源頼朝
北条政子
時代を変えたのんびりお坊ちゃまと豪快姉さんの組み合わせがとても好きです。 (女性/40代/神奈川)
「のんびりお坊ちゃまと豪快姉さん…そんな感じします(*^.^*)」
宇喜多秀家
豪姫
支えあって生きる二人が素敵!!このアンケートで豪姫が好きになりました。 (女性/10代/千葉)
「このアンケートで…ありがとうございますo(_ _)oひょっとして小学校からの知り合いみたいなご夫婦だったのかも」
その他 今川氏真と早川殿  波乱万丈ではあるけど、あの時代では幸せな夫婦だったと思う。 (男性/20代/東京)
「危険な時も常に夫とともに脱出…夫の権力が無くなっても、死ぬまで一緒にいたんですもんね~」
徳川秀忠
この夫婦は普通に仲良かったと思います 昔から好きな夫婦
「春日局や後継者問題が絡まない二人の本当の姿を見てみたいですね~」
大山巌
捨松
あの時代に薩摩と会津の人が結婚するのはたいへんだったはず!結婚した二人の愛は凄いと思います。 (女性/10代/千葉)
「恋愛結婚を貫いたお二人は、まさに良き夫婦ですね」

・‥…━━━☆

以上、楽しいコメントをありがとうございました~

様々な夫婦に様々な思い・・・本当は、順位なんてないのでしょうが、あーだこーだというのは、やはり楽しい物で、これだから、歴史好きはやめられませんヽ(*≧ε≦*)φ!

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
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2011年10月 7日 (金)

逃避行で初恋を実らせた里見義弘と青岳尼

 

天文七年(1538年)10月7日、安房の戦国大名・里見義堯と組んだ小弓公方足利義明が、相模の戦国大名・北条氏綱と戦った第一次・国府台合戦がありました。

・・・・・・・・・・・

以前は、ネットで「足利義明」と検索しても「もしかして足利義昭?」と返されるくらいマイナーな小弓公方(おゆみくぼう)・・・戦いのお話は、4年前の10月7日に書かせていただいた【第一次・国府台合戦~小弓公方の最期】のページ>>でご覧いただくとして、本日は、この戦いで、彼=義明が命を落とした事で、その人生を大きく変える事になる姫のお話・・・

・‥…━━━☆

足利義明(よしあき)は、第2代古河(こが)公方足利政氏(まさうじ)の次男で、父や、その後古河公方を継ぐ兄と対立して離れ、下総(しもうさ)小弓(おゆみ・千葉県千葉市)にて居を構え、小弓御所と称した事から小弓公方と呼ばれます(公方に関してのくわしくは上記の国府台合戦のページで…)

そんな彼を支援したのが安房(あわ・千葉県南部)の戦国大名・里見義堯(さとみよしたか)でした。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

義明の野望が鎌倉奪回なら、義堯の野望は関東制覇・・・もちろん、そこに立ちはだかるのは、あの北条早雲(そううん)の息子・北条氏綱(うじつな)でした。

かくして、天文七年(1538年)10月7日武蔵(埼玉県・東京都)に進攻して来た義明・義堯連合軍を氏綱が迎える形で、上総国府台(こうのだい・千葉県市川市)で両者がぶつかっわけです。

しかし、残念ながら、この戦いは足利&里見の敗北・・・義明は、その命をも落としてしまうのです。

義明には二男二女=4人の子供たちがいましたが、もともと一族と離反しての小弓公方・・・なので、義明の遺児たちは、里見家に引き取られる事になります。

本日の主役は、その引き取られた子供たちの中で、長女とされる青岳尼(しょうがくに)という女性・・・残念ながら、その本名がわかっていないので、本日は青岳尼と呼ばせていただきます(本当はいかにも美しい姫って感じの名前が良いんですが…(゚ー゚;)

この姫の兄である長男の足利義純(よしずみ)が、15歳で元服を済ませて、今回の国府台合戦に出陣している事と、弟で次男の足利頼淳(よりあつ・頼純)が天文元年(1532年)生まれとされるので、おそらく彼女は、10歳前後で里見家に引き取られたものと思われます。

その暮らしぶりの記録はなく、想像するしかありませんが、何たって、里見家がその威信をかけて後押しする小弓公方=足利家の遺児たちなのですから、おそらくは、4人とも、大事に大事に扱われていたものと思われます。

・・・と、ここで、もう一人の主役に登場いただかねば・・・それは、青岳尼たちを引き取ってくれた義堯の嫡男・里見義弘(よしひろ)(11月8日参照>>)です。

義弘は、享禄三年(1530年)の生まれとも大永五年(1525年)生まれとも言われますが、この後の展開を考えると、おそらく青岳尼と同世代だったと思われます。

そうです・・・
義弘と青岳尼の間には、ともに、同じ屋根の下で暮らすうち、幼馴染から一歩進んだ、ほのかな恋心のような物が芽生えていたのです。

しかし、青岳尼は、足利家支流の血脈を受け継ぐ姫・・・自由な恋愛など許されるはずもなく・・・まもなく彼女は、鎌倉の大平寺に入る事になります。

彼女が尼になった正確な年号はわかりませんが、天文二十二年(1551年)に大平寺の住持(じゅうじ=寺の主僧・住職)として正式に記録されている事から、それ以前には、すでに尼僧になっていたのでしょう。

しかも、この大平寺というのは、鎌倉尼五山の一つで、寺の中でもかなり寺格が上のお寺・・・さすがは、足利支族の姫という事で、その身分は、関東一円の尼僧を統轄する頂点の位置だったわけです。

こうして、離れ離れになった二人・・・なんせ当時の鎌倉は、里見が国府台で戦った北条の支配下ですからね。

しかし、このままで話が終わっていたら、当然、二人の淡い恋心も歴史の彼方に消え、表に出る事はなかったわけですが・・・

時は、弘治二年(1556年)、父・義堯同様に敵対関係にあった北条を攻める義弘・・・相手は氏綱の後を継いで、3代めの当主となっていた北条氏康(うじやす)です。

この時、鎌倉に入った義弘は、なんと!大平寺の青岳尼のもとを訪れ
「尼僧なんかやめて、俺の妻になってくれ!!!」
と・・・

義弘に連れ出された青岳尼は、そのまま二人で江戸湾を渡り、恋の逃避行・・・義弘の居城・上総国(かずさ・千葉県中部)佐貫城(さぬきじょう・千葉県富津市)へと入って、まもなく、彼女は義弘の正室となったのです。

義弘!!カッコイイ~~ψ(`∇´)ψ

ただ、これは、あくまで軍記物のお話で、実際のところは、青岳尼が大平寺を出た年代はわかっておらず、義弘が鎌倉を攻めた時に連れ出したかどうか?という事は不明です。

ただ、青岳尼が、その時の地位を捨てて還俗(げんぞく・一度僧になった人が一般人に戻る事)し、義弘の正室となった事は確か・・・

鎌倉攻めの時に、二人が再会したかどうかは別として、お互いに連絡を取り合っていた事は確かでしょう・・・それでないと、彼女が寺を出る理由がありません。

この事件に関しての1級史料はただ一つ・・・
「大平寺殿(青岳尼の事)が向地(房総半島の事)に移座した以上、大平寺断絶もやむを得ない・・・まことにもって不思議なる御くわだて」
と、住職がいなくなったために大平寺を廃寺にせねばならない事が書かれた氏康の書簡のみ・・・

上記の書簡に年号が書いてないので、彼女がいつ寺を出て、義弘の正室となったかわからないわけですが、義弘が享禄三年(1530年)の生まれだとしたら、青岳尼が大平寺にいた事が確実な天文二十二年(1551年)には22歳、おそらく、未だ正室とはなっていない鎌倉攻めの弘治二年(1556年)なら、すでに27歳・・・

10代半ばで正室を迎える事が一般的な戦国時代・・・まして義弘は一国の戦国領主なのですから、20代後半まで、正室を迎えずに独身でいたというのは、かなり不自然・・・

おそらくは、二人の中には、ずっと断ちきれない恋心があり、いつかそれを実らせるべく、時を待っていたという事でしょう。

だからこそ、足利の姫を迎えるにふさわしい「正室」という座を空席のままにしていたのでは?

彼女を迎えに行くまで独身を貫いた義弘・・・
関東トップの地位を捨てて愛する人のもとへ走った青岳尼・・・

確かに、二人の熱い思いを知らなければ「まことにもって不思議なる御くわだて」ですわな。

ただ、ちょいと気になるのは・・・
現存する興禅寺(千葉県南房総市)の彼女の供養塔には天正四年(1576年)と明記されていて、それが、彼女の亡くなった年だとすると、二人の結婚期間は20年ほど・・・

生涯をともに・・・というわけには行かず、彼女の死んだ後に義弘は継室(次の正室)を迎える事になるのですが、それこそ、長ければ幸せという事はないワケで・・・

初恋を実らせた彼女の結婚生活が、とても充実した物であったと願いたいですね。
 

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2011年10月 6日 (木)

二宮金次郎像のヒミツ…その隆盛と衰退

 

天保十三年(1842年)10月6日、江戸幕府が、利根川の水利土木調査の為の御普請役格に二宮尊徳を登用しました。

・・・・・・・・

ご存じ、あの二宮金次郎です。

一昔前までは、全国・・・それこそ、津々浦々の公立小学校の校庭に、背中に薪(たきぎ)を背負い、本を読みながら歩いている銅像があったものです。

ちょっと前は「歩きながら本を読むのは危ない」として、
薪を横に置いて、「道ばたに座って本を読む」姿の銅像などもありましたが、「それって、ただの休憩やん!」というツッコミを入れる間もなく、もはや、現在の小学校では、その姿を見る事は困難となりました。

おそらく、金次郎10代の少年の頃の姿を映したとおぼしきこの銅像は、貧しい家に生まれ、働きながらであっても、勉強はいつでもどこでも出来、「勉強すれば、将来、立派な人になれる」という勤勉の大切さを子供たちに教えるための物だったわけです。

ところで・・・
ならば、この金次郎はどんな立派な人になったのか???

その逸話に関しては、金次郎の高弟・富田高慶(とみたこうけい)が書いた『報徳記(ほうとくき)によるところが大きいのですが、その冒頭には
「鶏鳴(けいめい)に起きて遠山に至り、あるひは柴を刈り、あるひは薪をきり、これを鬻(ひさ)ぎ、夜は縄をなひ草鞋(わらじ)を作り、寸陰(すんいん)を惜しみ、身を労し心をつくし、母の心を安じ二弟を養ふことにのみ苦労せり」

と、天明七年(1787年)に相模(さがみ)国足柄上(あしがらかみ)郡柏山(かやま)(神奈川県小田原市)に生まれた金次郎が、幼くして父を亡くし、母と弟を養うために苦労した事が書かれています。

また、続いて
「採薪(さいしん)の往(ゆ)き返(かへ)りにも大学書を懐(ふところ)にして、途中歩みながらこれを誦(しょう)し、少しも怠らず。
これ先生の聖賢の学の初めなり。
道路高音にこれを誦読
(しょうどく)するが故に人々怪しみ、狂児(きょうじ)をもってこれを目するものあり」
と、あります。

おそらくは、上記のシーンを、具体的に見ただけでわかるよう銅像にしたのが、あの二宮金次郎像って事ですね。

・・・で、こうした努力を積み重ねた金次郎は、やがて、小田原藩主・大久保忠真(ただざね)にその才能を認められて、藩内の農村復興に腕を奮い、藩財政の再建に大きな功績を残す人物となったわけです。

Ninomiyasonotoku400 彼が説いた「報徳思想(ほうとくしそう)は、その独学で学んだ神道仏教儒教などの学問上の道徳理論と、幼い頃から働いた経験で身に着けた農業の実践的ノウハウを融合させた経済学・・・豊かになるための生活の知恵とも言うべき物です。

そのモットーは
「私利私欲に走らず社会に貢献すれば、いずれ利益は自分たちに戻ってくる」

まさに正論・・・その内容は、今でも充分通じますし、むしろ、親孝行や努力や勤勉といった物が失われつつある今こそ、再確認せねばならない思想かも知れません。

まぁ、細かな個々の業績に関しては、いずれ書かせていただくとして、
それにしても・・・

明治の初めにもてはやされ、国定教科書にも1位2位を争う頻度で登場して隆盛を極めたあげく、各地の小学校に建てられたはずの銅像が、もはや、ほとんど見られなくなったのはなぜ???

実は、その銅像誕生と衰退には、金次郎本人とは無関係の大人事情があったのです。

そもそも、この銅像・・・先ほどの『報告記』の記述をもとにしているとは言え、「実際に金次郎が薪を背負いながら本を読んだという事実はない」とされています。

なんせ、高弟と言えど、直接金次郎の少年時代を見たわけではなく、いかに先生が頑張って勉強したかを伝えたいがための文章なのですから・・・

で、なぜ、「金次郎が薪を背負いながら本を読んだという事実はない」と言われると言いますと・・・

実は、近年の研究で、当時の足柄上郡には、荷物を背負う習慣がなく、物を運ぶ時は天秤棒を使っていたという事が解明されているから・・・天秤棒だと、両手がふさがりますから、本を持つ事ができません。

「いやいや、勉強熱心な金次郎の事だから、どこかで見聞きした“背負って運ぶ”という方法を知ってたんじゃないの?」
と、思われるかも知れませんが、実は、その背負いでも本を読む事は、ほぼ不可能なのです。

それは、明治以前の日本人の歩き方・・・以前書かせていただいた『ナンバ歩き』です(くわしくは11月11日参照>>)

明治維新後に西洋式の軍隊が導入されて、現在のような歩き方になるまで、日本人は皆、このナンバで歩いていたわけですが、このナンバ歩きの最大の特徴は、前のめりになって体重を移動させて前へ進む事・・・つまり、歩く時には、ほとんど前を見ないで、地面か、もしくは自身のお腹のあたりに顔が向くわけで、金次郎ならずとも、のんびりと読書しながら歩くという事は、たぶん無かったでしょうね。

では、なぜ、そんな金次郎に薪を背負わせ、銅像にしたのか???

実は、明治初期の日本が、英語の教科書として採用していたアメリカ『ウィルソン・リーダー』という書に、「アメリカで勤勉だと評判の牛をひきながら本を読む少年の話」というのがあり、これを日本の歴史上の人物に置き換えて、明治五年(1872年)に発足したばかりの文部省が、子供たちに勤勉さを教える象徴として登場させたのが金次郎とその銅像ではなかったか?と・・・

だからこそ、教科書にも頻繁に登場し、明治三十五年(1902年)には、文部省の幼年唱歌に「二宮尊徳(桑田春風:作詞)なる歌も登場しています。

正直・勤勉・忍耐・・・子供の理想像としての金次郎像という事なのです。

しかし、こうして、大人の事情で誕生した金次郎像は、またまた、大人の事情で衰退を見せます。

そう、あの太平洋戦争・・・
GHQにとっては、日本人の勤勉性はいかにも脅威・・・その勤勉性や忍耐力が、愛国心や忠誠心を養うと考えられたようです。

そう言えば、戦後しばらくは忠臣蔵の上映&上演も禁止でしたからね。

今では、どう考えても危険とは思えない二宮金次郎像ですが、時代とともに、様々な事情があるのかも知れませんね。
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2011年10月 5日 (水)

大寧寺&厳島…陶晴賢の思いやいかに

 

弘治元年(1555年)10月5日、厳島の戦い後、陶晴賢の草履取りであった乙若が捕縛され、晴賢の首が、毛利方に確保されました。

・・・・・・・・・

*すでに読んでくださってる方は、この、これまでのあらすじ部分は飛ばしてくださいo(_ _)oペコッ

主君・大内義隆(よしたか)を倒して(8月27日参照>>)大内氏の実権を握った陶晴賢(すえはるかた・隆房)から離反し、反旗をひるがえした安芸(広島県)の国人領主・毛利元就(もとなり)は、様々な諜略作戦を駆使して(8月27日参照>>)、晴賢の大軍を、狭い厳島(いつくしま・宮島)におびき出す事に成功(9月21日参照>>)・・・

さらに、瀬戸内の雄・村上水軍の援軍を得た元就(9月28日参照>>)は出陣を決意・・・弘治元年(1555年)10月1日、いよいよ厳島の戦いの幕が開きます

元就の狙い通り、狭い場所にひしめき合った晴賢の大軍は、毛利方の挟み撃ちに遭い、またたく間に総崩れとなってしまい(10月1日参照>>)、もはや敗戦が濃くなった晴賢は、海岸沿いに西へと逃走をはかります。

位置関係図:別窓で開きます>>

・‥…━━━☆

何とか大元浦までやって来た晴賢でしたが、厳島の沿岸に停泊させていた船は、すでに碇綱を切られており、海上に漂うばかり・・・わずかに残る船には、厳島から脱出しようとする陶軍の将兵で溢れかえっています。

しかも、運よく動ける兵船に乗って漕ぎだしたとしても、その向こうには、すでに海上封鎖を完了した村上水軍が待ち構え、火をかけられたり奪われたり・・・晴賢を救出するどころか、戦場から脱出する事さえ困難な状態でした。

やむなく、さらに西へと向かって馬を走らせる晴賢は、少し沖へと漕ぎ出した船を見つけては馬印(大将の位置を示す旗印)を見せて、漕ぎ戻るよう指示を出しますが、もはや、その命令に従う船もありませんでした。

結局、島を脱出する事をあきらめた晴賢は、やおら刀を抜き、最後のひと差しを舞うと、側近と水盃を交し、自刃して果てました。

Sueharukatazizin800
陶全姜敗死の図「厳島図絵」(廿日市市宮島歴史民俗博物館蔵)

享年・35歳・・・
♪何を惜しみ 何を恨みん 元よりも
  この有様に 定まれる身に ♪
 陶晴賢・辞世

・・・と言われますが、その自刃した場所というのは複数伝えられています。

  • 大元浦から西の大江浦にて宮川市充(いちのじょう)の介錯で割腹…『棚守房顕覚書』
  • 山を越えて東海岸の青海苔(あおのり)まで行き、乳母子(めのとご)伊香賀隆正(いかがたかまさ)の介錯で自害…『吉田物語』
  • 青海苔浦の奥の高安(たかやす)ヶ原『芸藩通誌』(現在、石碑が建ってます)

その後、伊香賀隆正が、晴賢の首をとある場所に隠した後、彼も自刃した・・・との事・・・

そうです。
先日も書かせていただきましたが、たとえ態勢が勝利となっていても、敵の大将を討ち取る、あるいは、今回のように自害した場合は、その首を確認せねば、合戦の終結とはなりません。

なので、毛利方は追撃を開始し、晴賢の重臣・弘中隆兼(ひろなかたかかね)父子も、まだ戦い続けていたわけで・・・そんな隆兼も、最後の3人になるまで奮戦しますが、残念ながら10月3日に討死(10月3日参照>>)を遂げました。

こうして、ほぼ戦闘状態ではなくなった後も、必死の捜索をする毛利軍・・・やがて、戦闘開始から5日経った弘治元年(1555年)10月5日山中に潜伏していた少年が捕まります。

彼は、名を乙若(おとわか)と言い、晴賢の草履取りをしていた者・・・まだ、幼さの残る少年は、屈強な武者たちに囲まれて怖くなったのでしょう、
「主君の首のありかを教えるので助けてください」
と、命乞いをしたのです。

彼に案内をさせて大江に行くと、その告白通り、岩の陰から晴賢の首を発見・・・ここで、毛利軍はようやく、勝鬨(かちどき)を挙げて勝利宣言したのです。

ちなみに、約束通り、その命を助けられた乙若ですが、主君を裏切った自責の念にかられたのか、後に自殺したと言われています。

ところで・・・
こうして厳島に散った晴賢の事を、先日の10月1日のページ(再び10月1日参照>>)で、
「逆臣の汚名を着た猛将は、弁解の余地を許されず、厳島に散った」
と書かせていただきましたが、

この「逆臣」というのは、もちろん、主君の大内義隆を自刃に追い込んで、自らが、事実上の実権を握った大寧寺の変(再び8月27日参照>>)の事です。

そして、この後、これまでの経緯の通り、物の見事に元就の計画通りに厳島の大勝利となる事から、とかく、晴賢については、あまり良い噂は聞きません。

「所詮、平時の軍師止まりで、戦国の荒波を越える器量はなかった」
とか、
「猜疑心が強く、冷酷で直情型、単独専行ばかりで周囲との摩擦も多かった」
とか・・・

しかし、それこそ、死人に口無し・・・もはや、晴賢には弁解する術もなく、勝てば官軍の毛利の言い分ばかりがまかり通るというもので、後世に伝えられる晴賢が、どこまで、彼の真実の姿に近いのかは微妙なところでもあります。

その昔、主君の義隆が、ライバルの尼子氏月山富田(がっさんとが)城攻めで負け戦となった時、晴賢は自ら危険な殿(しんがり)をかって出て、追いすがる敵をかわしつつ、残り少なくなった米を兵卒たちに与え、自分は水と雑草で飢えをしのぎながら撤退を成功させたと言います。

晴賢は、そんな一面も持っている人なのです。

主君への謀反の時、晴賢自身が、『史記』の一説を引用して、
「天の与えを取らざれば、かえってその科(とが)を受く」
と言って、謀反を正統化したしたと言いますが、一方では、晴賢自身は、主君の義隆の失脚は願っていても、命を取るまでのつもりはなかったとされています。

それが、結局、主君殺害にまで発展するのは、重臣たちで行った評議の結果
「消極的な政策ばかりを行う義隆・義尊(よしたか)父子を誅殺しなければ、家内の乱れは収まらない」
となったからで、この謀反は、晴賢個人の野望ではなく、重臣たちの意見で行った事がうかがえます。

もちろん、この時点では、元就だって晴賢に同調しています。

その後、大内氏一族の大内義長(よしなが・当時は大友晴房=大内義隆の甥で大友宗麟の弟)を新たな当主に迎えるところを見ても、やはり、自身が大内氏にとって代わろうという野望は無かったように思えます。

その義長が、傀儡(かいらい・あやつり人形)の当主で、実権を握った晴賢の言いなりだったというのも、ひょっとしたら、その後に義長を死に追いやる(4月3日参照>>)毛利側の言い分なのかも知れません。

果たして真相やいかに・・・
ワクワクドキドキの歴史ミステリーには、
今夜も眠れません\(;゚∇゚)/
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2011年10月 4日 (火)

美女のやわ肌に刺青を…松江藩主・松平宗衍

 

天明二年(1782年)10月4日、第6代出雲松江藩主・松平宗衍が54歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

松平宗衍(まつだいらむねのぶ)が、父・松平宣維(のぶずみ)の死を受けて、松江藩を継いだのは、わずか3歳の享保十六年(1731年)でした。

その苗字でお察しの通り、宗衍の松平家は、徳川家康の息子で養子となった結城秀康(ゆうきひでやす)(11月21日参照>>)から連なる越前松平家徳川の同族です。

さすがに、3歳の当主では何ともできないとばかりに、松平宗矩(むねのり・越前福井藩主)松平直純(なおずみ・播磨明石藩主)松平義知(よしとも=明矩・上野前橋藩主)らが後見人となったうえでの新藩主誕生でした。

しかし、運の悪い事に、その翌年に領国ではイナゴが大発生して、石高が一気に減る大飢饉・・・藩の財政もひっ迫したために重税を課す事になり、当然の事ながら、たまりかねた農民たちによる百姓一揆が頻繁に起こる事態となって、それからしばらくの間は、宗衍は入国する事もできませんでした。

その後、彼が、ようやく入国できるようになったのは、17歳の頃・・・立派な若者に成長していました。

若き藩主は、早速、財政再建に着手します。

それまで家老たちによる合議制だった政治形態を廃止し、自らが腕を奮う親政を開始・・・中老だった小田切尚足(なおたり)を補佐役に抜擢し、金融政策や、殖産興業にも力を入れて特産品の専売化など、様々な再建計画を実行していったのです。

これらは一応の成果を挙げ、はじめは成功に見えた改革でしたが、運の悪い事に、次から次へと天災が相次いで、結局は、思うように進まない・・・となると、盛り返して来るのは反対派・・・

やがて、上層農民や藩内の反対派から「改革失敗」の声が上がるようになり、尚足は失脚してしまいます。

しかも、そんなこんなの宝暦十年(1760年)・・・第10代江戸幕府将軍・徳川家治(いえはる)が、比叡山の山門の普請事業を松江藩に命じてきます。

何とか、藩のメンツを賭けて、この工事だけはやり遂げましたが、もはや藩の財政は破たん状態・・・周囲からは「雲州様(松江藩の藩主)滅亡」なんて噂されるほどに・・・

頑張ったのになぁ・・・(´・ω・`)ショボーン

しかたなく、その責任を取る形で、明和四年(1767年)・・・宗衍は、次男の治郷(はるさと)に家督を譲って、自らは隠居生活に入りました。

失意の隠居・・・

それが災いしたのでしょうか・・・隠居後、宗衍は、おかしな趣味に走ります。

侍女の中から、若い美女を選んでは、その肌に花柄の刺青(いれずみ)を彫らせ、その彼女らに透けるような薄物の帷子(かたびら・裏地のない着物)を着せて、身の回りの世話をさせて喜んでいたのだとか・・・

Hito094ccc 彼の好みは、背の高い中肉中背の女性で、もちろん肌は白いほうがイイ・・・薄物の着物から透けて見える彫り物がたまらんかったんでしょうねぇ。

刺青をさせられた侍女にとっては大迷惑な話だけれど、元藩主の命令とあっては背くわけにもいかず・・・

が、しかし、刺青は一生もの・・・やがて、歳をとるにつれ、肌のつやも無くなり、背中の花柄も、だんだんしおれて、形が崩れてくるもので・・・

そうなると、もはや、宗衍の好みでなくなった女性たちはどうしたら???

ここで、よく聞く暴君の伝説なら、
「そんな事、おかまいなしに、次から次へと、若い侍女をその餌食に・・・」
って、なるのでしょうが、宗衍さんの場合は、少し違いました。

反省して、なんとか彼女たちを幸せな道に・・・と、家臣たちに声をかけて、千両の持参金をつけて「妻にしてやってくれんか?」と頼みまくります。

しかし、それでも誰も手を挙げる者はいませんでした。

ますます反省した宗衍さん・・・彼女たちを近くの屋敷に住まわせて終身雇用=一生困らないように、扶持(ふち・給料)を与え続けたのだそうです。

やっぱり、根はマジメな人だったんでしょうね。

もう少し、長い目で見て、財政再建&名誉挽回の機会をさしあげたかったです。
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2011年10月 3日 (月)

厳島の戦い~勇将・弘中隆兼の場合

 

弘治元年(1555年)10月3日、去る1日に火蓋を切った厳島の戦いで、陶晴賢配下の弘中隆兼が討死しました。

・・・・・・・・・

主君・大内義隆(よしたか)を倒して(8月27日参照>>)大内氏の実権を握った陶晴賢(すえはるかた・隆房)の大軍を、狭い厳島(いつくしま・宮島)におびき出して決戦に挑んだ安芸(広島県)の国人領主・毛利元就(もとなり)・・・

合戦のこれまでの経緯は・・・
準備段階の諜略作戦:8月27日参照>>
陶軍が出陣:9月21日参照>>
元就の思惑と村上水軍・参戦:9月28日参照>>
厳島の戦い・開始:10月1日参照>>
位置関係図:別窓で開きます>>
でどうぞ

・‥…━━━☆

10月1日の明け方に決行された厳島の戦い・・・その日、毛利方の宮尾(みやのお)への総攻撃を予定していた陶軍は、ふいを突かれたうえ、村上水軍の海上封鎖と、毛利軍の陸からの挟み撃ちに遭い、またたく間に総崩れとなってしまいました。

もはや敗戦を悟った晴賢は、海岸沿いに西へと逃走し、(おそらく、その日に自刃して果てます。

主君を逃がすべく殿(しんがり)を務めた三浦房清(ふさきよ)も、同じ10月1日に討死しますが、それでもなお抵抗を続けていたのが、陶軍の勇将・弘中隆兼(ひろなかたかかね・隆包)でした。

この隆兼の弘中氏は、清和源氏の流れを汲む名門で、あの壇ノ浦の戦い(3月24日参照>>)で平家が滅んだ後から、代々に渡って岩国(山口県岩国市)の領主を務め、西国の雄・大内氏の配下でも中心的存在の家系でした。

 

そんな中、大内氏の第30代当主・大内義興(おおうちよしおき)と、その息子・義隆の2代に仕えていた隆兼は、途中から大内氏の傘下となった毛利氏を救うための安芸郡山城の戦い(1月13日参照>>)でも大活躍し、大内氏のライバルである山陰の尼子氏との一連の抗争では、元就とともに戦った、良き戦友でもありました。

特に、人質時代を大内氏で過ごした元就の長男・隆元(8月4日参照>>)とは、年齢も近く、ともに主君・義隆の「隆」の字をもらいうけている関係もあって、おそらくは、かなり親しい間柄であったと思われます。

しかし、冒頭に書かせていただいたように、晴賢が義隆にとって代わり、事実上大内氏の実権を握るようになって両者の関係が一変・・・(と言っても、義隆を倒した最初の頃は元就も晴賢側についてたんですけどね)

やがて、厳島の戦いへと至るまでの、一連の元就の諜略作戦が始まるわけですが、その中で、元就が、敵将の中で最も脅威と感じた二人を、晴賢から引き離そうと画策する・・・その二人が江良房栄(えらふさひで)と、この隆兼なのです。

以前のページで、「元就の諜報活動により謀反を疑った晴賢が、家臣に房栄を殺害させた」(再び8月27日参照>>)と書かせていただきましたが、これを実行した家臣というのが、実は隆兼・・・つまり、元就が脅威に感じた二人の重臣の二人ともに疑いが向くようなニセ情報を流した事で、二人ともに疑いを持った晴賢が、「無実なら房栄を殺害して証明して見せろ!」と言い、その忠誠心を見せるために房栄を殺害したわけです。

・・・と、こうまでして、晴賢への忠誠心を見せた隆兼でしたが、結局は、その疑いが100%晴れる事はなかったようです。

これも、以前の9月21日に書かせていただいていますが(再び9月21日参照>>)、この厳島の戦いに出陣するにあたって、隆兼は、
「おそらく、今回の宮尾城は、陸路での野戦では勝ち目が無いと踏んだ元就の苦肉の作戦・・・厳島にこだわるのはやめましょう」
と、元就のおびき出し作戦を見抜き、陸路での進軍を進言しますが、晴賢にはまったく聞き入れてもらえず、むしろ、臆病者呼ばわりされて、彼の提案は一蹴されてしまっています。

こうして、決戦は厳島となったわけですが、主君が決定した以上、その命令に従い、全力を尽くすのが武士というもの・・・とは言え、やはり有能な隆兼は、今回の戦況を予想していたのでしょうか?
弟の方明(かたあきら・まさあきら)は岩国に残したまま、息子の隆介(たかすけ)だけを連れて渡海しています。

かくして10月1日・・・塔の岡の背後から襲撃された晴賢本陣近くにいた隆兼は、先陣を切って奇襲をかけて来た吉川元春(きっかわもとはる・元就の次男)との激戦に突入します。

さすがは勇将の誉れ高き隆兼・・・混乱に陥りながらも、見事な防戦をくりひろげますが、その後、毛利勢への加勢が現われて戦況が一転した事で、周囲に火を放って敗走します。

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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

海岸沿いを逃げた晴賢とその殿を務めた房清とは、別の、山側へ逃走する隆兼・父子・・・弥山近くの原生林に囲まれた駒ヶ林に籠り、その後も抵抗を続けるのです。

この時、未だ隆兼の勇将ぶりを恐れていた元就は、
「ひとりも逃すな!」
と、将兵にゲキを飛ばし、周囲を柵で囲んで逃走を阻み、追い込んで行ったと言います。

こうして、毛利勢の追撃に3日間耐えた隆兼らでしたが、弘治元年(1555年)10月3日とうとう元春らの大軍に囲まれます。

それでも、孤軍奮闘する隆兼は、なんと、最後は主従合わせて3名になるまで戦い続けと言いますが、最後の最後、息子・隆介が討たれるのを見て覚悟を決めた隆兼が、自刃しようとしたところ、毛利に加勢していた鳥籠山(とこのやま)主・阿曾沼広秀(あそぬまひろひで)の家臣・井上源右衛門(げんえもん)討ち取られました。

おそらくは、享年・34歳前後と思われる隆兼・・・

この後、晴賢が傀儡(かいらい・あやつり人形)の主君としていた大内義長(よしなが)をも自刃に追い込む(4月3日参照>>)元就ですが、岩国に残っていた隆兼の弟・方明の事は優遇し、毛利水軍の一員に加えて一族を保護したとか・・・

それだけ、元就も隆兼の武勇には、いち目置いていたという事でしょう。

ひょっとしたら、厳島の前の謀略作戦も、「隆兼が離反するとウソの情報を流した」のではなく、本当に陶軍に離反して、毛利側について欲しかったのかも知れません。

ちなみに、元就が使ったとされる「百万一心(ひゃくまんいっしん)という言葉・・・「百万」という文字を分割して「一日一力」、これを一心と合わせて「一日一力一心」となる事から、「一人一人が力を合わせれば、何事でも成し遂げられる」という意味なのですが、この言葉を考えたのは隆兼だったとも言われます。

この時、滅びゆく大内氏に忠誠を誓わず、毛利の傘下となっていたら・・・その後、どれほどの活躍をした人物なのでしょう?

「ifは禁物」とは言え、妄想は膨らみます。

一方、毛利にとっては、あとは晴賢の首を確認して、勝利宣言するのみ・・・となりましたが、そのお話は、次の展開となる10月5日【大寧寺&厳島…陶晴賢の思いやいかに】でどうぞ>>
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2011年10月 1日 (土)

決戦!戦国三大奇襲・厳島の戦いVer.2

 

弘治元年(1555年)10月1日、毛利元就周防(すおう・山口県東部)の名門・大内氏の実権を握っていた陶晴賢を倒した厳島の戦いがありました

・・・・・・・・・・

と言っても、4年前の2007年10月1日に、一度、厳島の戦いについて書かせていただいているのですが(2007年10月1日参照>>)、その時は、戦いに関するほぼすべての内容を1ページに書いてしまったので、かなり、大まかな内容になってしまいました。

なので、本日は、もう少しくわしく、その日の様子を書かせていただきたいと思います(なのでVer.2です(*´v゚*)ゞ)

・‥…━━━☆

まずは、これまでの経緯・・・
主君の大内義隆(よしたか)を倒して、事実上、実権を握った大内氏の重臣・陶晴賢(すえはるかた)(8月27日参照>>)・・・

これまで大内氏の傘下であった毛利元就(もうりもとなり)は、これをきっかけに反旗をひるがえしますが、名門・大内の勢力をそのまま引き継ぐ陶軍に相対するためには、「まともな方法では勝ち目はない」とばかりに、狭い厳島(いつくしま・宮島)(おとり)の城宮尾(みやの)を築き(4月8日参照>>)陶軍をおびき寄せる事に成功しますが、陶軍の攻撃に宮尾城は、もはや落城寸前の状態に・・・(9月21日参照>>)

そこへ頼もしい助っ人=待ちに待った能島(のしま)来島(くるしま)村上水軍が登場し、元就は、いよいよ出陣を決意します。(9月28日参照>>)

・‥…━━━☆

9月30日午後6時・・・元就の乗った船にだけ一灯をともし、これを目印に充分な船間距離をとりつつ、運命の渡海を開始します。

先頭の船が、対岸の包ヶ浦に到着する頃には少し風も納まり、無事上陸を終えた時、元就は、川内警固衆を指揮する児玉就方(こだまなりかた)に、すべての船を戻すよう命じます。

「戦いに敗れた時に帰りの船があると、気持ちが揺らいで無様な負け方をしてしまうかもしれない」
この戦いは、負けたら死ぬ覚悟で挑むのだから、帰りの船はいらないというのです。

就方は
「せめて(元就の乗る)御座船だけでも残しておいたほうが・・・」
と言いますが、元就の決意は固かった・・・

一方、本隊と同じく地御前(ぢごぜん)から出航した小早川隆景(こばやかわたかかげ・元就の三男)率いる第2軍は、熊谷信直(くまがいのぶなお・吉川元春=元就の次男の舅)(8月30日参照>>)乃美宗勝(のみむねかつ)を先頭に、予定通り、大きく迂回して厳島神社の正面へとやってきます。

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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

しかし、ここには敵軍の船が密集して停泊していて、簡単に接岸する事ができません・・・なんせ、相手は500艘の船で厳島に来てますから・・・

そこで一計を案じた宗勝・・・「筑前よい加勢に参った!」と大声で叫びながら敵船の間をすり抜けて、そのまま堂々と奥へ・・・闇夜だったおかげで、敵兵に味方だと信じ込ませる事に成功し、なんなく正面からの上陸を果たします

そして、その間に周辺警備を任されている村上水軍が、ただ接岸されているだけの無人の敵船の碇綱をを切断して敵の逃げ口を封鎖・・・これで、戦場=厳島は密室となりました。

かくして弘治元年(1555年)10月1日・・・空が白々と明ける頃、全山を揺るがすような(とき)の声とともに、陶軍本隊の背後・塔の岡に陣取った元就本隊は、あの源義経逆落としよろしく、急坂を駆け下って晴賢本陣に奇襲をかけます

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厳島合戦図(廿日市市宮島歴史民俗資料館蔵)

実は、この日は、陶軍も、かの宮尾城に最後の総攻撃をかける予定で準備をしていました。

しかし、それは、完全に夜が明けてからのつもり・・・なので、未だ準備が整う前に攻撃を受けた大軍は、たちまち混乱して総崩れとなります。

これを知った陶軍の先鋒・三浦房清(ふさきよ)らは、慌てて晴賢の本陣にかけつけ、毛利軍の猛攻を防ぎますが、狭い地形に大軍がひしめき合う状態となり、さらに混乱に拍車をかけます。

本陣の方に集まって来る大軍に
「落ち着け!敵は小勢だ!引き返せ!」
と、指示を出す晴賢でしたが、その頃には、正面から上陸した小早川隊がもう一方からの攻撃を開始し、もはや完全にはさみ撃ち状態・・・

一部の者は、未だ動ける状態の船を確保して逃走を図ろうとしますが、漕ぎ出た先には村上水軍の警固船・・・結果的に、その猛攻をくぐりぬけて周防(すおう・山口県)帰還できた者は、ごくわずかだったと言います。

一方、毛利軍の猛攻に、もはや敗戦を悟った晴賢は、自刃を覚悟しますが、房清に止められて、一路、厳島を脱出すべく、大元浦へと向います。

主君を逃がすべく殿(しんがり)をつとめた房清は、この途中で壮絶な討死を遂げました。

こうして大元浦に向かった晴賢ですが、そこには、もう、動ける船はなく、やむなく、さらに西岸沿いに馬を走らせ、大江浦までたどりつきますが、ここまで、無事な船は1隻もなく・・・

覚悟を決めた晴賢は、側近と水盃を交し、自ら自刃して果てました・・・時に晴賢・35歳、逆臣の汚名を着た猛将は、弁解の余地を許されず、厳島に散ったのです。

その場所は、たどり着いた大江浦とも、さらに山奥に入った高安ヶ原とも言われ(10月5日参照>>)・・・

そうです。
こういう場合、大将である晴賢の首を確保しなければ、毛利軍の勝利とはなりません。

しかも、まだ敵方では、今回の元就のおびき出し作戦を、最初から見抜いていた弘中隆兼(ひろなかたかかね)(再び9月21日参照>>)という勇将が奮戦中です。

さぁ、毛利の追撃が開始されます!

・・・と、気になるところではありますが、続きのお話は、10月3日【厳島の戦い~勇将・弘中隆兼の場合】でどうぞ>>
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