小早川秀秋を苦しめた恐怖~岡山城・開かずの間
慶長七年(1602年)10月18日、豊臣秀吉の甥で小早川隆景の養子となった小早川秀秋が亡くなりました。
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豊臣秀吉の奥さん・おねさんの兄・木下家定の五男として天正十年(1582年)に生まれた小早川秀秋(こばやかわひであき)は、3歳で秀吉の養子となり、その4年後には、丹波亀山に10万石の領地を与えられ、一時は秀吉の後継者とも考えられていたものの、文禄二年(1593年)に秀吉の側室・淀殿が秀頼を生んだ関係からか、その翌年には、秀吉の命により、小早川隆景の養子となって小早川家に入りました。
秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦いでは、東軍の徳川家康と西軍の石田三成の両方からのお誘いを受け、とりあえずは西軍として参加したものの、合戦の最中に東軍に寝返り、それが、東軍の勝利に大きく貢献したと言われています(9月15日参照>>)。
そこンところは、2009年の10月18日に書かせていただいた【関ヶ原後わずか2年で早死~小早川秀秋の苦悩】>>で読んでいただくとして、本日は、その関ヶ原後に秀秋さんが城主となった岡山城に関するウワサ・・・(あくまで噂です(゚ー゚;)
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関ヶ原でキーマンとなった小早川秀秋・・・彼の行動を高く評価した徳川家康により、戦後、石高50万余石の岡山城主に栄進します。
海運上の要地にあるこの岡山城は、もともと、謀略の将・宇喜多直家(うきたなおいえ)(10月30日参照>>)が、金光宗高(かねみつむねたか)を謀殺して奪い取った城・・・
その直家が亡くなった時、未だ幼かった息子の宇喜多秀家(うきたひでいえ)を、養子並みの扱いで可愛がった秀吉の支援のおかげもあって、やがて岡山城は秀吉縁者の城にふさわしい大城郭に生まれ変わりました。
しかし、ご存じのように、その秀家は、かの関ヶ原で、西軍の副将軍として活躍したため、負け組の将として戦後は八丈島への流罪第1号となってしまいました(8月6日参照>>)。
そして、そのあとに岡山城に入ったのが秀秋です。
岡山に入った秀秋は、領内に残っていた宇喜多時代の遺構を潰して、それらを資材に、さらに岡山城を大きくしたと言いますが、そんな秀秋を悩ませていたのが、やはり、関ヶ原における自らの行動でした。
もちろん、後から考えれば、どっちについたにとしても、そこには後悔が残っただろうし、それによって得られた結果も、戦国の常と言えば常・・・過ぎ去った事にいちいちこだわっていては、戦国武将なんて商売はやってけないわけですが、それが、秀秋にはできなかった・・・
彼は、いつしか、西軍の将・大谷吉継(よしつぐ)(2008年9月15日・後半部分参照>>)の亡霊に悩まされるようになるのです。
吉継の亡霊が、病に冒された風貌で、それも物ズゴイ形相で秀秋を睨みつけている・・・
「おのれ!」と、その亡霊に斬りつけると、それは、いつも見慣れた家臣だった・・・と、こんな事が毎夜のように続きます。
それは、側近や小姓だけにとどまらず、果ては、ちょっと見かけた農民まで、吉継に見間違えて斬り殺す・・・なんて事に・・・
もちろん、それらの殺された人物が吉継の亡霊に見えるのは秀秋だけですから、周囲から見れば、ただのご乱行・・・まもなく、何か気に入らない事があれば、すぐに家臣を斬り殺す恐怖の殿さまという噂が急激に広まります。
それを心配したのが、秀秋とともに岡山城に入り、財政の補佐役をこなしていた杉原重政(しげまさ)・・・
彼は、小早川家の行く末を案じて、度々、こうしたご乱行を諫めていたわけですが、それが気に入らない秀秋は、家臣の村山越中に、上意討ちと称して、重政を殺すように命じます。
何も知らない重政は、秀秋の命を受けた彼ら数名に呼び出された天守の一角で、無残にもメッタ斬りにされ、命を落としたのでした。
それからというもの、重政が殺されたその部屋では、いくら清めても血の跡が消える事なく、何度新しい畳に敷き変えても、またシミが浮き出て来るという怪現象が起こります。
しかも、部屋の中に入った者が何人も変死したとか・・・
やがて、そこの扉が開けられる事はなくなり、厳重に釘を打って、開かずの間となったという事です。
そして、ご存じのように、秀秋自身も、関ヶ原から2年後の慶長七年(1602年)10月18日、わずか21歳の若さで狂死したと言われます。
秀秋の死によって小早川家は断絶しましたが、廃城される事はありませんでしたので、その後も、かの開かずの間が残ったまま、岡山城は明治維新を迎えますが、あの太平洋戦争の戦災で城ごと焼失・・・
その後、昭和四十一年(1966年)に再建された現在の岡山城には、当然、開かずの間はありませんので、ご安心を・・・
ま・・・豊臣大好きの私としては、秀秋の死は吉継の呪いというよりは、家康の策略のような気がしないでもないですが・・・
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コメント
いかに茶々さまが豊臣贔屓でも、あのヤローだけは許せません。他に朽木、赤座、小川らの面々。末代までの恥曝しです。
某校で 「小早川る」という動詞が流行りました。勿論、土壇場で人を裏切るという意味です。畏れながら、作者は不肖私めです。
それにしても 家康も人が悪いですよね。小早川秀秋に宇喜多秀家の旧領、毛利を改易して吉川広家に防長二国を与えるという話もありました。殺されろ、と言わんばかりではありませんか。
投稿: レッドバロン | 2011年10月18日 (火) 17時38分
レッドバロンさん、こんにちは~
>殺されろ、と言わんばかり
まったくですね~
やっぱ怖いのは、吉継の怨念より家康の策略でしょう。
投稿: 茶々 | 2011年10月18日 (火) 17時45分
岡山城の歴史には、こんなブラックな事が
あったんですね。
「黒烏城」
11月3日にリニューアルオープンの
岡山城は「金烏城」になっています。
https://kin-ujo.jp/
投稿: やぶひび | 2022年10月18日 (火) 13時27分
やぶひびさん、こんばんは~
お城にはブラックな話がつきものですね。
平和な江戸時代になってリニューアルしたお城でもイロイロありますから…
>11月3日にリニューアルオープンの…
そうなんですか?
金鳥…それは美しい!
投稿: 茶々 | 2022年10月19日 (水) 01時22分