美女のやわ肌に刺青を…松江藩主・松平宗衍
天明二年(1782年)10月4日、第6代出雲松江藩主・松平宗衍が54歳でこの世を去りました。
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松平宗衍(まつだいらむねのぶ)が、父・松平宣維(のぶずみ)の死を受けて、松江藩を継いだのは、わずか3歳の享保十六年(1731年)でした。
その苗字でお察しの通り、宗衍の松平家は、徳川家康の息子で養子となった結城秀康(ゆうきひでやす)(11月21日参照>>)から連なる越前松平家、徳川の同族です。
さすがに、3歳の当主では何ともできないとばかりに、松平宗矩(むねのり・越前福井藩主)、松平直純(なおずみ・播磨明石藩主)、松平義知(よしとも=明矩・上野前橋藩主)らが後見人となったうえでの新藩主誕生でした。
しかし、運の悪い事に、その翌年に領国ではイナゴが大発生して、石高が一気に減る大飢饉・・・藩の財政もひっ迫したために重税を課す事になり、当然の事ながら、たまりかねた農民たちによる百姓一揆が頻繁に起こる事態となって、それからしばらくの間は、宗衍は入国する事もできませんでした。
その後、彼が、ようやく入国できるようになったのは、17歳の頃・・・立派な若者に成長していました。
若き藩主は、早速、財政再建に着手します。
それまで家老たちによる合議制だった政治形態を廃止し、自らが腕を奮う親政を開始・・・中老だった小田切尚足(なおたり)を補佐役に抜擢し、金融政策や、殖産興業にも力を入れて特産品の専売化など、様々な再建計画を実行していったのです。
これらは一応の成果を挙げ、はじめは成功に見えた改革でしたが、運の悪い事に、次から次へと天災が相次いで、結局は、思うように進まない・・・となると、盛り返して来るのは反対派・・・
やがて、上層農民や藩内の反対派から「改革失敗」の声が上がるようになり、尚足は失脚してしまいます。
しかも、そんなこんなの宝暦十年(1760年)・・・第10代江戸幕府将軍・徳川家治(いえはる)が、比叡山の山門の普請事業を松江藩に命じてきます。
何とか、藩のメンツを賭けて、この工事だけはやり遂げましたが、もはや藩の財政は破たん状態・・・周囲からは「雲州様(松江藩の藩主)滅亡」なんて噂されるほどに・・・
頑張ったのになぁ・・・(´・ω・`)ショボーン
しかたなく、その責任を取る形で、明和四年(1767年)・・・宗衍は、次男の治郷(はるさと)に家督を譲って、自らは隠居生活に入りました。
失意の隠居・・・
それが災いしたのでしょうか・・・隠居後、宗衍は、おかしな趣味に走ります。
侍女の中から、若い美女を選んでは、その肌に花柄の刺青(いれずみ)を彫らせ、その彼女らに透けるような薄物の帷子(かたびら・裏地のない着物)を着せて、身の回りの世話をさせて喜んでいたのだとか・・・
彼の好みは、背の高い中肉中背の女性で、もちろん肌は白いほうがイイ・・・薄物の着物から透けて見える彫り物がたまらんかったんでしょうねぇ。
刺青をさせられた侍女にとっては大迷惑な話だけれど、元藩主の命令とあっては背くわけにもいかず・・・
が、しかし、刺青は一生もの・・・やがて、歳をとるにつれ、肌のつやも無くなり、背中の花柄も、だんだんしおれて、形が崩れてくるもので・・・
そうなると、もはや、宗衍の好みでなくなった女性たちはどうしたら???
ここで、よく聞く暴君の伝説なら、
「そんな事、おかまいなしに、次から次へと、若い侍女をその餌食に・・・」
って、なるのでしょうが、宗衍さんの場合は、少し違いました。
反省して、なんとか彼女たちを幸せな道に・・・と、家臣たちに声をかけて、千両の持参金をつけて「妻にしてやってくれんか?」と頼みまくります。
しかし、それでも誰も手を挙げる者はいませんでした。
ますます反省した宗衍さん・・・彼女たちを近くの屋敷に住まわせて終身雇用=一生困らないように、扶持(ふち・給料)を与え続けたのだそうです。
やっぱり、根はマジメな人だったんでしょうね。
もう少し、長い目で見て、財政再建&名誉挽回の機会をさしあげたかったです。
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コメント
宗行さん、あと一歩で 名君になれたような…。惜しい人ですね。
藩祖の結城宰相秀康といい、何かと悔しいお血筋とお見受けしました。
17歳までシティ・ボーイだった人、多分に江戸趣味で、刺青ガールズは松江という土地柄への鬱屈があったのかもしれませんね。
投稿: レッドバロン | 2011年10月 4日 (火) 19時00分
レッドバロンさん、こんばんは~
確かに、結城秀康も悔しい人生でしたね。
頑張ったのにうまくいかない…それも天災がらみだとお気の毒です。
投稿: 茶々 | 2011年10月 4日 (火) 22時14分