江戸をおもしろくした天才・司馬江漢
文政元年(1818年)10月21日、江戸時代に活躍した絵師で蘭学者の司馬江漢が、72歳でこの世を去りました。
・・・・・・・・・・
長く平和が続いた江戸時代は、ちょっと変わったオモシロイ人が多く登場した時代でもありましたが、
「チョット変わった困ったちゃん」
で思い出すのが、有名な平賀源内(ひらがげんない)・・・(11月21日参照>>)
エレキテルなど、様々な突飛な発明をして人々を驚かせたと思えば、「土用の丑」でウナギのCMを考えたり、自作の浄瑠璃『神霊・矢口渡』では、破魔矢(はまや)というコラボ作品をヒットさせたり・・・(10月23日後半部分参照>>)
そんな源内さんのお友達でもあったのが、本日主役の司馬江漢(しば こうかん)さん・・・まさに「類は友を呼ぶ」と申しましょうかww
江戸時代の寛政十一年(1799年)に発行された『蘭学者相撲見立番付』では、前頭六枚目・高慢うそ八として、見事ランクインした変わり者でありました。
とは言え、その才能はスゴイもの・・・
蘭学者としては、
天文・地学・植物学に精通し、彼が書き残した世界地図や天文図は見事な物・・・
絵師としては、
狩野派に入門して浮世絵の基礎を学んだ後、有名な鈴木春信の弟子となり、鈴木春重(はるしげ)の名で師匠の偽絵を描いていた時代もあったようですが、まもなく、自らの新しい技法を開拓していきます。
それは、浮世絵に、西洋の遠近法や陰影法を取り入れただけでなく、それまでの絵の具と墨に荏胡麻(えごま)油を混ぜて描く・・・つまり、日本初の油彩画を描いたのが彼なわけです。
また、天明三年(1783年)には、日本初の銅版画(エッチング)も制作・・・これらの独特の技法で、『不忍池図』や『江ノ島富士遠覧図』などの名作を残しています。
また、杉田玄白(げんぱく)らが著した『解体新書』(3月4日参照>>)の解体図を描いた小田野直武(なおたけ)(6月1日参照>>)を通じて、前野良沢(りょうたく)ら知識人との交流も盛んあったという江漢・・・
しかし、そんなマルチな天才も、寄る年波には勝てず・・・
文化十年(1813年)・・・江漢の友人たちに、悲しい知らせが届きます。
「江漢先生は老衰して、絵を買いたいという人が現われても絵筆を取らず、友人の招きにも応じません。
蘭学や天文学、珍しい機器を考えるのも飽きてしまい、ただ、老子や壮子のように、あるがままの自然に任せる生活を楽しんでおられました。
昨年は、吉野の桜を見物してから、1年間、京に滞在した後、春には江戸に戻り、再び上方に向かおうとしたところで、相模・円覚寺の誠摂禅師の弟子となり、ついに悟りを開いてからのち、病を得て亡くなられました。
・・・
それ天地は無始に起こり、無終に至る。
人は小にして、天は大なり。
万歳をもって一瞬のごとし。
小慮なるかな。 嗚呼。
文化癸酉八月 七十六翁司馬無言辞世の語 」
そう、江漢の死亡通知が届いたのです。
知らせを受けた友人たちは、皆、驚き、中には香典を送った人も少なくなかったと言いますが・・・
実は、コレ、江漢本人が書いてます。
・・・なので、死んでません。
年号が文化十年(1813年)なら、江漢は、まだ67歳のはずですが、数字を反対にして76歳と、年齢も9歳サバ読んでますねぇ。
もちろん、いただいた香典は、ご本人がありがたく受け取っています。
いったい何がしたかったのでしょうか?
俗世間での友人関係をシャットアウトして、本当にゆっくりと余生を楽しみたかったのか?
「自分が死んだらどうなるんだろ?」と周囲の反応を見たかったのか?
天才のやる事は、よくわかりませんなぁ。
とにかく、こうして、死んだふりをして、自宅で引き籠る生活を送っていた江漢ですが、さすがに、一歩も外へ出ずに生活するわけにはいかず、ある日、どうしても外せない用事があって外に出た時、見事に知り合いに遭遇します。
「ありゃ?江漢先生、生きておいででしたか!」
と、当然の事ながら驚くその人・・・
もちろん、江漢は無視して、知らん顔で通り過ぎようとするのですが、相手は、
「ねぇ、江漢先生ですよね?」
「そうなんでしょ?江漢先生」
と、しつこい・・・(死亡通知を受け取ってる身としては当たり前ですが…)
すると江漢は、彼を振り切るように逃げながら、ハタと、振り返り
「死人豈(あに)言吐かんや!」
と、ひと言・・・
「死人がしゃべるかい!」
という捨てゼリフを残して、その場を立ち去ったとか・・・
そんな生活を5年ほど続けていた江漢でしたが、文政元年(1818年)10月21日、とうとう彼は、本当に亡くなってしまいました。
享年72歳・・・
♪喰うてひる つるんで迷う 世界虫
上天子より 下庶民まで ♪ by Koukan
「喰っちゃぁ出す 恋すりゃ迷う・・・エライ人もそうでない者も、みんな、同じやん」
100年先を見る事のできる天才は、江戸という封建社会の中で、自分を思うように出せずにもがいていたのでしょうか?
それとも、もっと広い心で、おもしろおかしく時代を風刺していたのでしょうか?
いろんな想像をかきたてられる人物ですね。
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コメント
以前、平賀源内の面白さを茶々様に教えていただきましたが、まぁ、この江漢さん、なんてすっとぼけた天才なんでしょ。大好き!こういう人。ステキな絵ですね。ここの博物館に行ったら、よ~く見てきます。
投稿: Hiromin | 2011年10月21日 (金) 21時16分
Hirominさん、こんばんは~
ホント、おもしろい人ですね~
まだまだいろんなエピソードがありそうで、興味をそそられます。
投稿: 茶々 | 2011年10月21日 (金) 21時56分
茶々さん
こんにちは
司馬江漢さん、おもしろいおっさんですね。この時代の72才は長生きでしょうか。
投稿: ひろ | 2011年10月22日 (土) 13時33分
ひろさん、こんばんは~
そうですね~
未だ、医療が、そこまで発達していない時代ですから、72歳と言えば、なかなかの長生きだったと思いますよ。
小憎たらしいジイサンだったのかも…
江漢さんの場合は、それも笑えますけどね
投稿: 茶々 | 2011年10月22日 (土) 19時41分