見事な財政立て直し~肥後の鳳凰・細川重賢
天明五年(1785年)10月26日、肥後熊本藩の中興の祖と言われる細川重賢が66歳でこの世を去りました。
・・・・・・・・・・
肥後熊本藩の第4代藩主・細川宣紀(ほそかわのぶのり)の五男として、享保五年(1721年)に生まれた細川重賢(ほそかわしげかた)。
父の死後は、兄の細川宗孝(ほそかわむねたか)が5代目藩主を継いだので、重賢は部屋住みの身分・・・
この部屋住みというのは・・・
当時は、家を継ぐのは長男ですから、当然、その下の次男三男以下は、家を継ぐ事ができないわけで、分家を造って独立するか、どこかにの養子になるかしないと家を出る事は無い・・・そんな風に親または兄の家にとどまっている人の事を部屋住みと呼び、言わば半人前という意味でした。
しかし、分家なんてよほどハブリの良い家しか造る事はできませんし、婿養子の口だって早々あるわけではありませんし、当然ながら、部屋住みの間は無職・・・かと言って、武士の身分の者が、フリーターでアルバイトするわけにもいきませんから、イイ歳になっても嫁を娶る事もできないのが現状でした。
しかも、この頃の熊本藩の財政は、とんでもない火の車の状態・・・第3代の藩主・細川綱利(つなとし)に少々の浪費グセがあって藩の経営がうまく行っていなかったというのもありますが、それより何より、その頃から毎年のように、イナゴの発生やら洪水やら疫病の流行やらで、万年大飢饉の農地荒れ放題が続いていたのです。
部屋住みの重賢も、質屋に通って喰いつなぐのが精いっぱいだったとか・・・
そんな中、事件が起こります。
5代藩主を継いでいた兄の宗孝が、江戸城内の刃傷事件で命を落としてしまうのです。
以前書かせていただいた板倉勝該・刃傷事件(8月15日参照>>)・・・
下総(栃木県)芳賀(はが)郡6千石の旗本・板倉勝該(かつかね)が、恨みを持つ相手と間違えて宗孝に斬りかかり・・・つまり、人違いで起こしてしまった殺人事件です。
この時、未だ31歳の若さだった宗孝に世継ぎもいなかった事から、お取り潰しも免れない危機に立たされた細川家でしたが、そばにいた仙台藩主・伊達宗村(むねむら)の機転により、未だ息のある間に宗孝を藩邸で連れ帰り、その間に弟を養子に迎えて家督をと譲る手配をしたと書かせていただきましたが、その弟が、今回の重賢です。
時に重賢28歳・・・万年部屋住みの青年に突然訪れた第6代熊本藩主の座でした。
とは言え、安心はできません。
なんせ、上記の通り、藩の財政は切羽詰まった状態・・・すでに江戸の商人からの借金は37万両にも膨れ上がり、その費用の捻出が出来ないために、重賢は参勤交代も延期しなければならないほどでした。
しかし、貧乏はすでに部屋住みで経験済みの重賢さん・・・将来の後継ぎとして優遇を受けて育つ長男とは、その精神の鍛え方が違います。
早速、藩の財政改革=宝暦の改革に乗り出します。
まずは、門閥(もんばつ・家柄の良さ)や世襲(親族の縁のある)役人を登用せず、五百取り用人・堀平太左衛門勝名(かつな)を総奉行に大抜擢し、彼の下に6人の奉行をつけて、12種の職種に分けて財政再建に当たらせました。
勝名が、わざわざ大坂にまで出向いて借金の交渉に奔走すれば、その間に重賢は、質素倹約を打ち出して、藩邸の費用を最低限に抑える努力を・・・
さらに、米に依存する収入減を見直して、櫨蝋(はぜろう=ろうそくの原料)の製造や紙漉(かみすき)などの殖産興業にも着手し、それらを藩の専売にすべく努力します。
次に、行政と司法を分離して『刑法叢(草)書』を制定・・・これは、それまでの江戸時代の刑罰が死刑か追放刑かに分類されていたうちの追放刑を笞刑(ちけい=ムチ打ち刑)と徒刑(とけい=懲役刑)に分けた形の物で、再犯を防ぐ効果があるうえに、懲役刑の罪人を無償で働かせる事ができるという一石二鳥の画期的刑法で、後に明治憲法下での刑法の手本にされたとも言われています。
また、長年をかけて『地引合』という検地を実施した事で、700町余りの陰田も摘発し、税の徴収もクリーンに・・・
さらに、人材育成を重視した重賢は、熊本城内に藩校・時習館(じしゅうかん)を設けます。
この時習館は、許可(入学試験みたいなものか?)さえ出れば、身分の上下に関係なく、家臣や一般庶民や藩外へも広く門戸を開いたもので、しかも、現在で言う奨学金制度まで設けられていました。
藩が無くなる明治まで続いたこの学校からは、後に、横井小楠(よこいしょうなん)(1月5日参照>>)、井上毅(こわし)(10月30日参照>>)などを輩出しています。
さらにさらに、藩校だけでなく、日本初の公立医学校・再春館も創設し、こちらは、あの北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)を輩出し、後に熊本大学医学部になります。
こうして重賢+勝名の強力タッグで、見事、藩の財政を立てなおしたのです。
断絶した加藤家の代わりに肥後に入った初代熊本藩主(細川家2代)細川忠利(ほそかわただとし)以来、ずっと54万石だった熊本藩ですが、この中興の改革のおかげで、実質的には100万石に匹敵するほどであったとか・・・
そんなこんなで熊本藩の中興の祖、あるいは肥後の鳳凰と称される名君となった細川重賢は、天明五年(1785年)10月26日、静かに66歳の生涯を閉じます。
そのそばには、若き日の部屋住みの頃に借金した時の質札が・・・彼は、その質札を、豊かな藩主となった後も、肌身離さず、生涯に渡って手元に置いていたのだとか・・・
どこかにいませんか?
平成の細川重賢さん・・・
.
「 江戸時代」カテゴリの記事
- 元禄曽我兄弟~石井兄弟の伊勢亀山の仇討(2024.05.09)
- 無人島長平のサバイバル生き残り~鳥島の野村長平(2024.01.30)
- 逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア(2023.11.25)
- 徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方(2023.08.22)
- 徳川家康の寵愛を受けて松平忠輝を産んだ側室~茶阿局(2023.06.12)
コメント
この話、いい話ですよね。何で誰もコメントしないですんかね?有名な人の話がやっぱり課題になるからですからね。残念。本当に現代にこういう人が必要ですね。
投稿: minoru | 2011年10月28日 (金) 13時14分
人間違い殺人事件のとんでもない余波が…。しかし、重賢公、聞けば聞くほど、名君であらせられますなぁ。
昔日の俊傑に感心しつつも、今日の様に、深い嘆息が洩れるお話しであります。
投稿: レッドバロン | 2011年10月28日 (金) 14時36分
minoruさん、こんにちは~
ホント、質札を大事に持っていてくれたところが、また、イイですね~
不況の続く昨今…もっと注目されて良い人だと思います。
投稿: 茶々 | 2011年10月28日 (金) 17時39分
レッドバロンさん、こんにちは~
ホント
早く登場してほしいですね~平成の細川重賢さん…
投稿: 茶々 | 2011年10月28日 (金) 17時41分
はじめまして
財政再建には殖産興業が不可欠なんでしょうげど、このご時世、新たな産業育成というのは難しいんでしょうね。
ところで、文中に出てくる閑谷学校、庶民に門戸を開いた江戸時代初の公の学問所だと習った気がするのですが、特定の人物のみといえるのでしょうか?
投稿: 備前人 | 2011年10月29日 (土) 01時10分
備前人さん、こんばんは~
ご指摘ありがとうございました。
10月29日は池田綱政さんのご命日なので、そのお話を書こうと調べなおしたところ、確かに、「閑谷学校は庶民にも門戸を開いた学問所である」との記述を見つけました。
勘違いしていて申し訳ありませんでした。
訂正させていただきます。
今後とも、お気づきの点がありましたら、お教えください。
よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2011年10月29日 (土) 02時55分
おお、変更ありがとうございます。
いつも楽しく読ませていただいております。
今後ともよろしくお願いします。
投稿: 備前民 | 2011年10月30日 (日) 12時03分
備前民さん、ありがとうございます。
こちらこそ、よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2011年10月30日 (日) 15時44分
「実禄100万石」だと九州地域の大名では最多石高ですね。
50万石でも他の大名にはなかなかいませんからね。
先週、阿蘇山が噴火して宮崎県側にも火山灰が飛んでいましたが、熊本県にお知り合いは住んでいますか?
投稿: えびすこ | 2021年10月26日 (火) 11時01分
えびすこさん、こんばんは~
阿蘇の噴火は気がかりですね。
個人的な知り合いはいません。
投稿: 茶々 | 2021年10月27日 (水) 02時01分