ヤルからには徹底的に…長連龍の復讐劇
天正六年(1578年)10月22日、危険を感じた長連龍が、越中の神保氏張のもとに逃れました。
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幼名は萬松、次男だった事から出家して宗先と称し、その後、一族でただ一人生き残った事から還俗(げんぞく・僧となっていた人が一般人に戻る事)して好連となり、最終的に長連龍(ちょうつらたつ)と名乗るのは、織田信長の傘下となる天正八年(1580年)からなのですが、ややこしいので、今日は、連龍さんで通させていただきます。
連龍の父・続連(つぐつら)は、能登畠山氏に仕える重臣=畠山七人衆の一人でした。
この能登畠山氏というのは、あの桓武平氏から続く坂東八平氏から枝分かれた一族で、足利義満の時代から能登の守護を任されていたお家柄ですが、7代目の畠山義総(はたけやまよしふさ)の頃をピークに、その後の当主に短命な人が続いた事も手伝って、いつしか、傀儡(かいらい=あやつり人形)の当主となり、政務は、七人衆と呼ばれる重臣たちの合議制によって進めていく形となっていました。
しかし、そうなると、その7人の中にも、派閥やら対立やらが生まれて来るわけで・・・
お互いの意見の食い違いによる、追放&迎え入れを繰り返していた中、第15代室町幕府将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たした織田信長が、越前(福井県)の朝倉と近江(滋賀県)の浅井を倒して(8月27日参照>>)北へと進んでくる事態に・・・
一方、それまで武田信玄との川中島の合戦(武田信玄と勝頼の年表を参照>>)を繰り広げていた越後(えちご・新潟県)の上杉謙信も、新たな敵=信長の出現に、長年敵対関係にあった石山本願寺と同盟を結び、すでに越前までやって来た信長に相対する事になります。
そう、越前まで来た信長、越後の謙信・・・と、まさに、ここ能登は、その間に入っちゃう事になります。
この時の畠山氏の当主は、10代目の畠山春王丸(はるおうまる)・・・その年齢は不確かですが、まだ諱(いみな・本名)も無い事を考えると、おそらく10歳に満たない幼児だったと思われますが、この幼き当主を擁立したのが、七人衆のうちの一人だった続連で、その続連が信長派だった事から、ここ能登七尾(ななお)城は、謙信の攻撃対象となり、天正四年(1576年)10月から、謙信による七尾城への包囲が開始されます。
とは言え、上記の通り、一枚岩では無い畠山七人衆・・・幼き当主を擁立した事で、城内の実権を握っていたのは続連と、その長男・綱連(つなつら)ですが、彼らと敵対していた遊佐続光(ゆさつぐみつ)や温井景隆(ぬくいかげたか)らは、戦況が悪くなるにつれ、密かに謙信に内通していくのです。
そんな中、天正五年(1577年)夏・・・七尾城内にも疫病が発生し、いよいよ籠城も限界と感じた続連は、次男・連龍を七尾城から脱出させ、信長への援軍要請の使者として派遣したのです。
落城寸前の七尾城から危険を犯して脱出し、一路、上方へ向かった連龍・・・しかし、何とか、援軍出陣の約束を取り付けて七尾城へ戻って来た彼が見た物は・・・
すでに落城して、一族郎党散り散りになった無残な光景・・・そうです、謙信に内通した続光と景隆によって父と兄は殺害されていたのです(9月13日参照>>)。
このままでは終われない連龍・・・僧を捨て、還俗した連龍は、生き残った旧臣や浪人たちなど、自ら500の兵を率いて、彼らに対抗し、天正六年(1578年)8月14日には、上杉勢を破って能登穴水城を奪回しました。(8月14日参照>>)
さらに、復讐の念に燃える連龍は、続光らを相手に能登にて転戦を繰り返すのですが、そんな中の天正六年(1578年)10月22日、もはや少数では叶わぬと判断した連龍は、能登を脱出し、織田方の神保氏張の治める越中へと逃走・・・以後、氏張と結んだ連龍は、その支援を受けて続光らに対抗する事になります。
しかし、そんなこんなしているうちに起こったのが、あの謙信の死・・・(3月13日参照>>)
大黒柱の死によって後継者争い=御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)となった上杉家は、もはや、能登・越中どころではなくなり、逆に越中の上杉派の諸将が、御館の乱に駆り出されるに至り、能登・越中の情勢は一気に変わります。
上杉の支援をアテにできなくなった続光と景隆は、信長への降伏を申し出ますが、これを「ダメです!」と、ピシャリ反対する連龍・・・
その後も、何度も何度も降伏を申し出る二人に対して、反対し続ける連龍に、さすがの信長も
「もう、許したったら?」
と説得しますが、それでも聞きません。
とうとう、信長は、連龍から献上された脇差を本人に突き返して
「ええ加減にせぇよ!」
と、たしなめますが、それでも反発する連龍・・・そこには、それほどの怨みがあったのでしょうが・・・
やがて続光と景隆は、織田傘下に入るだけでなく、
「今いる七尾城を開け渡して、そっくりそのままお渡ししますんで、どうか降伏を認めてチョーダイ」
と、まるで命乞いのような恭順姿勢です。
「もはや、これ以上は・・・」
と判断した信長は、この申し出を受け入れて、すぐに配下の者を城代として七尾城に送り込み、連龍に対しては
「これまでの武功を認めるよって、鹿島半群を与えよう」
と説得・・・
さすがの連龍も、信長には、これまでの恩もある事だし、あまりに反発しても良くないと思ったのか、ここに来てやっと受け入れ、続光と景隆の降伏を承諾しました。
しかし、連龍の執念は、ここで終わりません。
七尾城をを退いて後、行方をくらませていた続光ら遊佐一族を見つけ出し、彼ら一族を皆殺しにしたのです。
さらに、その事に危険を感じて越後に逃走していた温井景隆を、佐久間盛政や前田利家の協力を得て攻めて敗死に追い込んだのです(6月26日参照>>)。
父と兄を失ってから、約5年間の復讐劇でした。
・・・と、この復讐劇に関しては、ちょっとコワイ連龍さんですが、その後は利家の与力として、賤ヶ岳の戦い(4月23日参照>>)では殿(しんがり)を務め、あの末森城の戦い(8月28日参照>>)では、決戦には間に合わなかったものの、救援に駆け付けたその心意気を利家に買われ、利家が亡くなる際には、その息子・前田利長への遺言として
「高山右近と長連龍は、役に立つ人材やから大事にせぇよ」
との言葉を残したとか・・・
その期待通り、北陸の関ヶ原と言われる浅井畷(あさいなわて)の戦い(8月8日参照>>)にも、自軍に多大な犠牲を出しながらも利長に従い、果ては、大坂の陣でも、第2代藩主・前田利常(10月12日参照>>)に従いました。
その後、連龍の長氏は、3万3000石を賜って加賀藩最上級の八家(はっけ)と呼ばれる重臣の家柄の一つとなり、前田家の家老なれど、独立した大名のごとき権限を持ち、明治維新を迎えるまで存続する事になります。
風前の灯となったお家を再興させるためには、時として鬼にならねばならない・・・それが戦国というものかも知れません。
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コメント
謙信の七尾城攻めは有名ですが、城の内側はそんなに酷いことになってましたか。
連龍さん、名前も凄いけど、凄まじい人生ですね。晩年は落ち着いて、良かったです。
めったにない姓なので、あれっ?と思いましたが、沖縄戦の第32軍参謀長・長勇中将は長家の末裔のようですね。
投稿: レッドバロン | 2011年10月22日 (土) 19時43分
レッドバロンさん、こんばんは~
ほほぉ…
やはり戦国武将の血脈を受け継いだご子孫は、やはり軍人として名を残されるのですねぇ
投稿: 茶々 | 2011年10月22日 (土) 20時18分