耳川への序章~大友宗麟・日向高城攻撃へ…
天正六年(1578年)10月20日、豊後の戦国大名・大友宗麟が、田原紹忍を総大将に任じて、日向高城攻めを開始しました。
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天正五年(1577年)の12月、木崎原の合戦での奇襲で薩摩(鹿児島県)の島津義弘(義久の弟)に大敗を喫し、日向(ひゅうが=宮崎県)の南半分を奪われた伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)が救援を求めた事から、島津との抗戦を決意した豊後(大分県)の戦国大名・大友宗麟(そうりん)・・・
あのフランシスコ・ザビエルに会って以来、キリスト教にどっぷりハマっていた宗麟は、かねてより造りたいと思っていたキリシタンの理想郷を、日向の地に建設する事を夢見て出陣します。
以前からキリスト教に反対していた正室(奈多鑑基の娘)と離縁して、洗礼名・ジュリアと名乗る新しい奥さんを迎え(若いのに乗り換えただけかも知れん)、自らも洗礼を受けてドン・シマンとなり、家督を息子に譲っての覚悟の出陣・・・
宗麟自身は、3万5千の大軍を率いて海路にて南下を開始し、天正六年(1578年)の8月12日には日向無鹿(むしか・宮崎県延岡市)に着陣して、その場所にキリシタン王国建設を着々と進めていく一方で、別働隊の重臣・田原紹忍(しょうにん・親賢)の率いる2万の軍勢が、伊東氏を道案内に陸路で南下し、島津との勢力境界線である耳川を渡り、島津配下の高城(宮崎県木城町)へと迫ったのでした(8月12日参照>>)。
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このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。
かくして天正六年(1578年)10月20日、近隣の民家に放火した後、高城を包囲した大友軍・・・
しかし、ここで徹底的なミスが・・・
この高城を任されていた島津の家老・山田有信の手もとの兵は、わずかに500・・・確かに、高城は北・東・南を天然の要害に囲まれ、たった一つの攻めるべき西側にも、何重もの空堀を設置した防御に優れた堅城でしたが、ここまでの多勢に無勢なら、本来は、すぐにでも陥落してしまうはず・・・
ところが、有信の放った使者から、この急変を聞いた佐土原城の島津家久(義久の末弟)が、急きょ兵を率いて高城に入城・・・さらに、島津配下の諸城からの救援も受け、高城の城兵は、またたく間に3000に膨れ上がったのです。
そう、すでに包囲を完了していたにも関わらず、大友方は、これらの援軍の入城をやすやすと許してしまったのです。
続く小競り合いでも、大友方はおおむね勝利しますが、城兵の抵抗はなかなかの物で、どれも、城を陥落させるだけの痛手は与えられなかったうえ、この時、大友方最大の武器として導入した大砲=国崩(くにくずし)は、距離が遠すぎて高城には届かず、あまり効果が発揮できませんでした。
そこで、大友方は長期戦を視野に入れ、包囲を強化・・・そうなると、籠城する側に襲ってくるのは兵糧不足です。
やはり、しばらくすると高城内では水不足となり、川に汲みに行こうとしても、強化された包囲網により不可能な状態・・・
もはや開城も時間の問題かと思われたその時、土塀の下に水がしみ出ているのを一人の城兵が発見し、その場を掘ってみると、なんと、こんこんと水が湧き出て来て、「神は我々に味方している!」(キリシタンじゃないけど…)と、城内の士気も高まったのだとか・・・
そんなこんなしているうちに鹿児島にいた島津の当主・島津義久が3万の軍勢を率いて出陣します。
その行軍の途中、義久はとある夢を見ます。
その夢の中で霧島神社の神の使いと称する老人から、
♪討つ敵は 龍田(たつた)の河の 紅葉(もみじ)かな♪
という句が書かれた短冊を受け取る義久・・・
「これは吉兆に違いない!」
と大いに盛り上がり、義久は、その句を起請文に添えて霧島神社に奉納し、現地へ向かったのだとか・・・まぁ、これは将兵の士気を高めるための方便なのかも知れませんが・・・
やがて11月1日、義久は、佐土原城へと入りますが、その頃には、各地からの援軍を含めて、総勢5万に膨れ上がった島津軍は、もはや小さな城には納まりきらないほどになっていたようです。
しかし、一方の大友軍も、ただ包囲していたわけではありません。
そこに集結した軍勢は6万・・・
さぁ、ほぼ互角となったところで、運命の決戦=耳川の戦いとなりますが、そのお話は、決戦の始まる11月11日のページ【耳川の戦い初日~大友の大砲と島津の奇襲】でどうぞ>>
(前半部分が本日の内容とかぶり気味ですが、お許しを…m(_ _)m)
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コメント
キリシタン大名の方は「汝殺すなかれ」の教えと、どう向き合ったのでしょうかね?
キリシタン王国を創るための「聖戦」だから、よし!ってことでしょうか・・・
投稿: Hiromin | 2011年10月20日 (木) 20時22分
Hirominさん、こんばんは~
先日=10月12日の【西欧の地球分割支配と秀吉の朝鮮出兵】>>というページにチョコッと書かせていただきましたが、ローマ法王庁の言い分は、Hirominさんのおっしゃる通り…
「正しい法を伝授してるのに、従わないのだから武力で以って従わせるのは正しい事」と言った雰囲気です。
当時としては、致し方ないのかも知れません。
なんせ、宣教師が母国に軍事情報を報告したりしてますから…
投稿: 茶々 | 2011年10月20日 (木) 22時30分