厳島の戦い~勇将・弘中隆兼の場合
弘治元年(1555年)10月3日、去る1日に火蓋を切った厳島の戦いで、陶晴賢配下の弘中隆兼が討死しました。
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主君・大内義隆(よしたか)を倒して(8月27日参照>>)大内氏の実権を握った陶晴賢(すえはるかた・隆房)の大軍を、狭い厳島(いつくしま・宮島)におびき出して決戦に挑んだ安芸(広島県)の国人領主・毛利元就(もとなり)・・・
合戦のこれまでの経緯は・・・
●準備段階の諜略作戦:8月27日参照>>
●陶軍が出陣:9月21日参照>>
●元就の思惑と村上水軍・参戦:9月28日参照>>
●厳島の戦い・開始:10月1日参照>>
●位置関係図:別窓で開きます>>
でどうぞ
・‥…━━━☆
10月1日の明け方に決行された厳島の戦い・・・その日、毛利方の宮尾(みやのお)城への総攻撃を予定していた陶軍は、ふいを突かれたうえ、村上水軍の海上封鎖と、毛利軍の陸からの挟み撃ちに遭い、またたく間に総崩れとなってしまいました。
もはや敗戦を悟った晴賢は、海岸沿いに西へと逃走し、(おそらく、その日に)自刃して果てます。
主君を逃がすべく殿(しんがり)を務めた三浦房清(ふさきよ)も、同じ10月1日に討死しますが、それでもなお抵抗を続けていたのが、陶軍の勇将・弘中隆兼(ひろなかたかかね・隆包)でした。
この隆兼の弘中氏は、清和源氏の流れを汲む名門で、あの壇ノ浦の戦い(3月24日参照>>)で平家が滅んだ後から、代々に渡って岩国(山口県岩国市)の領主を務め、西国の雄・大内氏の配下でも中心的存在の家系でした。
そんな中、大内氏の第30代当主・大内義興(おおうちよしおき)と、その息子・義隆の2代に仕えていた隆兼は、途中から大内氏の傘下となった毛利氏を救うための安芸郡山城の戦い(1月13日参照>>)でも大活躍し、大内氏のライバルである山陰の尼子氏との一連の抗争では、元就とともに戦った、良き戦友でもありました。
特に、人質時代を大内氏で過ごした元就の長男・隆元(8月4日参照>>)とは、年齢も近く、ともに主君・義隆の「隆」の字をもらいうけている関係もあって、おそらくは、かなり親しい間柄であったと思われます。
しかし、冒頭に書かせていただいたように、晴賢が義隆にとって代わり、事実上大内氏の実権を握るようになって両者の関係が一変・・・(と言っても、義隆を倒した最初の頃は元就も晴賢側についてたんですけどね)
やがて、厳島の戦いへと至るまでの、一連の元就の諜略作戦が始まるわけですが、その中で、元就が、敵将の中で最も脅威と感じた二人を、晴賢から引き離そうと画策する・・・その二人が江良房栄(えらふさひで)と、この隆兼なのです。
以前のページで、「元就の諜報活動により謀反を疑った晴賢が、家臣に房栄を殺害させた」(再び8月27日参照>>)と書かせていただきましたが、これを実行した家臣というのが、実は隆兼・・・つまり、元就が脅威に感じた二人の重臣の二人ともに疑いが向くようなニセ情報を流した事で、二人ともに疑いを持った晴賢が、「無実なら房栄を殺害して証明して見せろ!」と言い、その忠誠心を見せるために房栄を殺害したわけです。
・・・と、こうまでして、晴賢への忠誠心を見せた隆兼でしたが、結局は、その疑いが100%晴れる事はなかったようです。
これも、以前の9月21日に書かせていただいていますが(再び9月21日参照>>)、この厳島の戦いに出陣するにあたって、隆兼は、
「おそらく、今回の宮尾城は、陸路での野戦では勝ち目が無いと踏んだ元就の苦肉の作戦・・・厳島にこだわるのはやめましょう」
と、元就のおびき出し作戦を見抜き、陸路での進軍を進言しますが、晴賢にはまったく聞き入れてもらえず、むしろ、臆病者呼ばわりされて、彼の提案は一蹴されてしまっています。
こうして、決戦は厳島となったわけですが、主君が決定した以上、その命令に従い、全力を尽くすのが武士というもの・・・とは言え、やはり有能な隆兼は、今回の戦況を予想していたのでしょうか?
弟の方明(かたあきら・まさあきら)は岩国に残したまま、息子の隆介(たかすけ)だけを連れて渡海しています。
かくして10月1日・・・塔の岡の背後から襲撃された晴賢本陣近くにいた隆兼は、先陣を切って奇襲をかけて来た吉川元春(きっかわもとはる・元就の次男)との激戦に突入します。
さすがは勇将の誉れ高き隆兼・・・混乱に陥りながらも、見事な防戦をくりひろげますが、その後、毛利勢への加勢が現われて戦況が一転した事で、周囲に火を放って敗走します。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
海岸沿いを逃げた晴賢とその殿を務めた房清とは、別の、山側へ逃走する隆兼・父子・・・弥山近くの原生林に囲まれた駒ヶ林に籠り、その後も抵抗を続けるのです。
この時、未だ隆兼の勇将ぶりを恐れていた元就は、
「ひとりも逃すな!」
と、将兵にゲキを飛ばし、周囲を柵で囲んで逃走を阻み、追い込んで行ったと言います。
こうして、毛利勢の追撃に3日間耐えた隆兼らでしたが、弘治元年(1555年)10月3日、とうとう元春らの大軍に囲まれます。
それでも、孤軍奮闘する隆兼は、なんと、最後は主従合わせて3名になるまで戦い続けたと言いますが、最後の最後、息子・隆介が討たれるのを見て覚悟を決めた隆兼が、自刃しようとしたところ、毛利に加勢していた鳥籠山(とこのやま)城主・阿曾沼広秀(あそぬまひろひで)の家臣・井上源右衛門(げんえもん)に討ち取られました。
おそらくは、享年・34歳前後と思われる隆兼・・・
この後、晴賢が傀儡(かいらい・あやつり人形)の主君としていた大内義長(よしなが)をも自刃に追い込む(4月3日参照>>)元就ですが、岩国に残っていた隆兼の弟・方明の事は優遇し、毛利水軍の一員に加えて一族を保護したとか・・・
それだけ、元就も隆兼の武勇には、いち目置いていたという事でしょう。
ひょっとしたら、厳島の前の謀略作戦も、「隆兼が離反するとウソの情報を流した」のではなく、本当に陶軍に離反して、毛利側について欲しかったのかも知れません。
ちなみに、元就が使ったとされる「百万一心(ひゃくまんいっしん)」という言葉・・・「百万」という文字を分割して「一日一力」、これを一心と合わせて「一日一力一心」となる事から、「一人一人が力を合わせれば、何事でも成し遂げられる」という意味なのですが、この言葉を考えたのは隆兼だったとも言われます。
この時、滅びゆく大内氏に忠誠を誓わず、毛利の傘下となっていたら・・・その後、どれほどの活躍をした人物なのでしょう?
「ifは禁物」とは言え、妄想は膨らみます。
一方、毛利にとっては、あとは晴賢の首を確認して、勝利宣言するのみ・・・となりましたが、そのお話は、次の展開となる10月5日【大寧寺&厳島…陶晴賢の思いやいかに】でどうぞ>>
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コメント
本当に味方について欲しいと偽の情報を流す!ありえそうですね。
投稿: minoru | 2011年10月 4日 (火) 04時22分
minoruさん、こんにちは~
生き残った弟の事を考えると、「そうなのかな?」って思いました。
投稿: 茶々 | 2011年10月 4日 (火) 11時03分