伊予平定で実現!長宗我部元親の四国統一
天正十二年(1584年)10月19日、長宗我部元親の配下・久武親直が西園寺公広の黒瀬城を落とした後、元親が南伊予を平定しました。
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色白で仕草も女っぽく、22歳まで合戦にも出た事が無かったおかげで「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれていた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、永禄三年(1560年)、初陣を飾った長浜表(ながはまおもて)の戦いでの活躍で、一気に汚名返上・・・そのニックネームも「土佐の出来人(できひと)」と変化しますが、戦いからまもなく、父の国親(くにちか)は、息子・元親に土佐(高知県)統一の夢を託して亡くなります(5月26日参照>>)。
こうして家督を継いだ元親は、永禄十一年(1568年)にライバルだった本山氏を配下に組み込んで土佐中央部を平定(4月7日参照>>)した後、土佐東部を治める安芸国虎(あきくにとら)をも倒して(8月11日参照>>)、天正三年(1575年)7月、父の代からの念願だった土佐統一を成し遂げたのです(7月16日参照>>)。
しかし、勢いに乗る元親にとって、土佐統一はまだまだ序章・・・その先にある阿波(徳島県)と讃岐(香川県)へ・・・いや、さらに四国統一へと夢は広がります。
そんな時、元親は、阿波と讃岐の国境に近く、讃岐平野を見下ろす事のできる雲辺寺(うんぺんじ)山にある雲辺寺を訪ねます。
ふとした事から、その寺の住職に、四国統一の野望を語る元親・・・
すると住職は、
「そらムリやろな。
おまはんは、土佐に蓋をする器量しか持ってないさかいに、四国に蓋をするのは難しい・・・茶釜の蓋で水桶に蓋するようなモンや。
ヘタしたら、隣国どころか、今持ってる土佐も手放す事になるで~」
しかし、元親は反論します。
「俺の持ってる蓋は、名人の作った蓋なんや。
土佐の小さい領主から十何年で土佐全土にまで蓋をデカくした・・・あと2~3年で四国全土に蓋ができる大きさにしてみせる!」
と・・・
果たして、その言葉通り、天正十年(1582年)には、本能寺のドサクサで阿波の平定を果たし(9月21日参照>>)、続く天正十一年(1583年)には、羽柴(後の豊臣)秀吉の気持ちが賤ヶ岳に向いてる間に引田表(ひけたおもて)の戦いで仙石秀久(せんごくひでひさ)を破り讃岐をも手に入れたのです(4月21日参照>>)。
いよいよ、残る四国は伊予(愛媛県)のみ・・・この頃の伊予では、北伊予の河野(こうの)氏、中伊予の宇都宮氏、南伊予の西園寺氏、東伊予の金子氏が、それぞれの領地の小豪族を束ねる形で治めていました。
これまでも、阿波や讃岐への進攻と並行して、伊予にも度々兵を進めていたものの、河野氏が毛利元就を頼っていた事から、その毛利の援軍に悩まされて続けていた元親でしたが、ここに来て、伊予に全力を注ぎこめるようになり、やや有利な展開となって来ました。
そこで元親は、東伊予を治める金子元宅(もといえ)と結んで河野氏をけん制する一方で、配下の久武親直(ひさたけちかなお)を軍代に任命して南伊予を攻撃させ、西園寺公広(きんひろ)をビビらせます。
この公広という人は、かつて、元親が織田信長との友好関係を持ち、信長から「四国は切り取り次第(四国にて元親が実力で勝ち取った領地は元親の物)」のお墨付きをもらっていた時に、「アイツ、きっと将来信長さんに反発しまっせ!」とチクリ、信長に「ちょっと待った!」と切り取り次第を撤回させた人物(再び4月21日前半部分参照>>)・・・自然とリキも入ります。
かくして、天正十二年(1584年)10月19日、親直は、すでに次々と南伊予の諸城を落とされてしまっていた公広が拠る居城・黒瀬城(愛媛県西伊予市)に猛攻撃を仕掛け、黒瀬城を陥落させたのです。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
さらに勢い乗る元親は、約1万6000の兵を率いて北へと進攻し、河野氏の湯築城(ゆづきじょう・松山市)へと迫ります。
この時、元親の更なる強大化を恐れる毛利は、河野氏への援軍派遣を強化しようと考えますが、肝心の河野氏が、ここに来て、あまりの元親の勢いにビビリはじめ、一転して恭順な態度に変わり、それを知った伊予の諸将も、次々と元親の軍門に下ったのでした。
こうして元親は、翌・天正十三年(1858年)春に悲願の四国統一を成し遂げたのです。
実に、父の遺志を継いでから25年・・・元親47歳。
土佐を統一したあの時、雲辺寺の住職に「ムリだ」と言われた四国の蓋・・・見事、元親は、その蓋を閉じてみせたのです。
しかし、間もなく、その蓋を力づくでこじ開けようという大物が登場します。
ご存じ、秀吉の四国征伐・・・果たして、長宗我部の運命は???
と、そのお話は、すでに2008年7月25日に書かせていただいている【一宮城・攻防戦~長宗我部元親の降伏】でどうぞ>>
(タイトルで結果、言っちゃったけど…(゚ー゚;)
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コメント
長宗我部元親の四国平定には諸説あり、阿波・讃岐の未制圧説、伊予の未制圧説等があります。
統一したと主張する学者は四国統一の根拠として江戸時代の土佐物語をおもな根拠として挙げています。
しかし近年南伊予の攻略に失敗した証拠が見つかり伊予の未制圧説が有力視されています。
投稿: | 2012年10月13日 (土) 00時57分
阿波・讃岐の未制圧説や伊予の未制圧説があるのは存じておりますが、本日は、一般的に言われております伊予平定を成し遂げたとされる10月19日の日づけで書かせていただいておりますので、そのお話をさせていただきました。
異説は、別の機会にと考えております。
投稿: 茶々 | 2012年10月13日 (土) 01時56分