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2011年10月29日 (土)

女好き?名君?後楽園を造った池田綱政

 

正徳四年(1714年)10月29日、岡山藩第2代藩主の池田綱政が、77歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

江戸初期の名君と言われる池田光政(みつまさ)を父に持ち、本多忠刻(ただとき)千姫の娘・勝姫を母に持つ、サラブレッド感バリバリ池田綱政(つなまさ)・・・

Ikedatsunamasa500 寛永十五年(1638年)に江戸藩邸で生まれた綱政は、寛文十二年(1672年)に家督を譲られますが、その時には隠居した父が実権を譲らず、いわゆる院政の状態・・・

天和二年(1682年)の光政の死を受けて、45歳にして、やっと藩政に腕を奮う事ができるようになりました。

ところが、そんな綱政さん・・・妙な噂があります。

元禄三年(1690年)に当時の大名家・234家を、隠密が調査した探索記録である『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)には、

「父の光政は名君だが、その子の綱政は無学のアホ・・・山積みしてある儒学の本や軍学書も1回も読んだ事がないので、頭は悪いし行いも良くない。
昼夜を問わず酒宴を開いて遊びまわって政道につく事もなく、しかも、異常なほど女好き」

とケチョンケチョンに書かれてます。

また、『池田家覆歴略記』という文献にも、

「綱政の子供は、今、ここにいるだけでも、男子21人、女子31人・・・世継ぎの継政公を入れると53人だけど、その他にも早世した人や養女を加えると70人に及ぶと言われている」
と・・・

いやはや、
もし本当に子供が70人もいたら、おそらく、それに伴う側室の数も、ものすンごい事になるんだろうなぁ・・・さすがは、女好き!

・・・と言いたいですが、どうも、納得がいきません。

それは、その後継ぎの継政さん・・・
確かに、彼は四男なので、その上に3人の兄がいた事になりますが、その兄たちが亡くなったり病気がちだったりして、継政に藩主の座が回って来た時には、まだ、13歳の少年・・

本来なら、もう少し大人になってから藩主になるのがベストでしょうが、正徳四年(1714年)10月29日綱政が亡くなってしまったために、未だ13歳の若さで家督を継いだのですよ。

もし、上記の文献にあるような「女好き&子だくさん」なら、「今、ここにいるだけでも、男子21人」男子は、どこでどうしていたのでしょうか?

しかも、綱政は、自らが政治に腕を奮えるようになった45歳から亡くなるまでの間に、様々な事業を行い、ことごとく成功に導いています。

それこそ、先代の光政が名君だったおかげで、岡山藩は安定した大藩に成長しましたが、藩が大きくなれば大きくなるだけ、その支出も膨大な金額になるもので、藩の財政そのものは、けして安泰と言える物ではなかったのですが、そこに、新田開発による農村の再生事業を決行・・・同時に、毎年のように見舞われていた大洪水を防ぐために治水も行った事で、見事、この農業政策を成功させています。

また、父の時代に建てられた藩校・閑谷(しずたに)学校・・・その時には、10数人しか収容できないような小さな造りの建物が点在していたのを統一し、現在に残る国宝の講堂に造りあげたのも綱政だと言われます。

さらに、日本三名園として有名な後楽園を造営したのも・・・

ちょいとここで・・・
お城に隣接した庭園の造営は、この元禄時代に盛んに行われますが、それを殿様の贅沢と考えるのは、ちと違うように思います。

お城というのは、今で言うところの会社=職場なわけで、今年の大河ドラマでは、お城で家臣が仕事の話をしに来ても、殿様がゴロ寝しながら聞くのが流行ってるみたいですが、実際には、今もそうであるように、職場で社長がゴロゴロしてる事はあり得ません

つまり、お城の中では緊張しっぱなしの状態なわけで、人間、やっぱり息抜きが必要・・・しかも、側室やお姫様だって、勝手にお城を出て行ける身分ではないので、彼女たちにも、ホッとする空間が必要なわけです。

戦国時代から江戸時代に変わり、ほぼ安定した時代となった元禄の頃に、その生活様式も変化していき、それに伴う大名の新しい生活空間として創設されたのが、大名の居住空間のための座敷や、外交の時の応接間としての座敷、家臣の控えの座敷などを点在させた城郭に隣接する庭園というわけです。

しかも、当時の日記によれば、
城内で火災が発生すれば、側室や姫など、女性を優先に後楽園に避難させるように」
という綱政の指示もあったとか・・・避難場所でもあったんですね。

また、完成した後楽園では、家臣や家臣の妻女のみならず、領民まで招待して、藩主自らが舞う能を披露した事もあったとの事ですから、庶民との交流の場としても利用されていたのかも知れません。

これらの事を踏まえると、とても暗愚な藩主とは思えない綱政さん・・・

なぜに、隠密の調査にボロカスに書かれなければならないのかは、まったく以ってわかりませんが、それこそ、名君なればこその、幕府より一枚上手の策略があったのかも知れませんね。

勝手ながら、
イチャモンつけられないように、アホのふりをしていた前田利常さん(10月12日参照>>)を思い出しました(*^-^)
 .

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コメント

名君だとおもいます。後楽園も閑谷学校も行った事があります。今は観光スポットになって、人々を楽しませてくれます。

投稿: やぶひび | 2011年10月29日 (土) 22時13分

やぶひびさん、こんばんは~

そうですね。
やはり、名君でしょうね。

私も、後楽園は、ずいぶん前に1度行ったきりですが、さすがに三名園と呼ばれるだけのすばらしい庭園だったのを覚えています。

投稿: 茶々 | 2011年10月29日 (土) 23時23分

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