決戦!戦国三大奇襲・厳島の戦いVer.2
弘治元年(1555年)10月1日、毛利元就が周防(すおう・山口県東部)の名門・大内氏の実権を握っていた陶晴賢を倒した厳島の戦いがありました。
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と言っても、4年前の2007年10月1日に、一度、厳島の戦いについて書かせていただいているのですが(2007年10月1日参照>>)、その時は、戦いに関するほぼすべての内容を1ページに書いてしまったので、かなり、大まかな内容になってしまいました。
なので、本日は、もう少しくわしく、その日の様子を書かせていただきたいと思います(なのでVer.2です(*´v゚*)ゞ)
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まずは、これまでの経緯・・・
主君の大内義隆(よしたか)を倒して、事実上、実権を握った大内氏の重臣・陶晴賢(すえはるかた)(8月27日参照>>)・・・
これまで大内氏の傘下であった毛利元就(もうりもとなり)は、これをきっかけに反旗をひるがえしますが、名門・大内の勢力をそのまま引き継ぐ陶軍に相対するためには、「まともな方法では勝ち目はない」とばかりに、狭い厳島(いつくしま・宮島)に囮(おとり)の城=宮尾(みやの)城を築き(4月8日参照>>)、陶軍をおびき寄せる事に成功しますが、陶軍の攻撃に宮尾城は、もはや落城寸前の状態に・・・(9月21日参照>>)
そこへ頼もしい助っ人=待ちに待った能島(のしま)と来島(くるしま)の村上水軍が登場し、元就は、いよいよ出陣を決意します。(9月28日参照>>)
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9月30日午後6時・・・元就の乗った船にだけ一灯をともし、これを目印に充分な船間距離をとりつつ、運命の渡海を開始します。
先頭の船が、対岸の包ヶ浦に到着する頃には少し風も納まり、無事上陸を終えた時、元就は、川内警固衆を指揮する児玉就方(こだまなりかた)に、すべての船を戻すよう命じます。
「戦いに敗れた時に帰りの船があると、気持ちが揺らいで無様な負け方をしてしまうかもしれない」
この戦いは、負けたら死ぬ覚悟で挑むのだから、帰りの船はいらないというのです。
就方は
「せめて(元就の乗る)御座船だけでも残しておいたほうが・・・」
と言いますが、元就の決意は固かった・・・
一方、本隊と同じく地御前(ぢごぜん)から出航した小早川隆景(こばやかわたかかげ・元就の三男)率いる第2軍は、熊谷信直(くまがいのぶなお・吉川元春=元就の次男の舅)(8月30日参照>>)・乃美宗勝(のみむねかつ)を先頭に、予定通り、大きく迂回して厳島神社の正面へとやってきます。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
しかし、ここには敵軍の船が密集して停泊していて、簡単に接岸する事ができません・・・なんせ、相手は500艘の船で厳島に来てますから・・・
そこで一計を案じた宗勝・・・「筑前よい加勢に参った!」と大声で叫びながら敵船の間をすり抜けて、そのまま堂々と奥へ・・・闇夜だったおかげで、敵兵に味方だと信じ込ませる事に成功し、なんなく正面からの上陸を果たします。
そして、その間に周辺警備を任されている村上水軍が、ただ接岸されているだけの無人の敵船の碇綱をを切断して敵の逃げ口を封鎖・・・これで、戦場=厳島は密室となりました。
かくして弘治元年(1555年)10月1日・・・空が白々と明ける頃、全山を揺るがすような鬨(とき)の声とともに、陶軍本隊の背後・塔の岡に陣取った元就本隊は、あの源義経の逆落としよろしく、急坂を駆け下って晴賢本陣に奇襲をかけます。
実は、この日は、陶軍も、かの宮尾城に最後の総攻撃をかける予定で準備をしていました。
しかし、それは、完全に夜が明けてからのつもり・・・なので、未だ準備が整う前に攻撃を受けた大軍は、たちまち混乱して総崩れとなります。
これを知った陶軍の先鋒・三浦房清(ふさきよ)らは、慌てて晴賢の本陣にかけつけ、毛利軍の猛攻を防ぎますが、狭い地形に大軍がひしめき合う状態となり、さらに混乱に拍車をかけます。
本陣の方に集まって来る大軍に
「落ち着け!敵は小勢だ!引き返せ!」
と、指示を出す晴賢でしたが、その頃には、正面から上陸した小早川隊がもう一方からの攻撃を開始し、もはや完全にはさみ撃ち状態・・・
一部の者は、未だ動ける状態の船を確保して逃走を図ろうとしますが、漕ぎ出た先には村上水軍の警固船・・・結果的に、その猛攻をくぐりぬけて周防(すおう・山口県)に帰還できた者は、ごくわずかだったと言います。
一方、毛利軍の猛攻に、もはや敗戦を悟った晴賢は、自刃を覚悟しますが、房清に止められて、一路、厳島を脱出すべく、大元浦へと向います。
主君を逃がすべく殿(しんがり)をつとめた房清は、この途中で壮絶な討死を遂げました。
こうして大元浦に向かった晴賢ですが、そこには、もう、動ける船はなく、やむなく、さらに西岸沿いに馬を走らせ、大江浦までたどりつきますが、ここまで、無事な船は1隻もなく・・・
覚悟を決めた晴賢は、側近と水盃を交し、自ら自刃して果てました・・・時に晴賢・35歳、逆臣の汚名を着た猛将は、弁解の余地を許されず、厳島に散ったのです。
その場所は、たどり着いた大江浦とも、さらに山奥に入った高安ヶ原とも言われ(10月5日参照>>)・・・
そうです。
こういう場合、大将である晴賢の首を確保しなければ、毛利軍の勝利とはなりません。
しかも、まだ敵方では、今回の元就のおびき出し作戦を、最初から見抜いていた弘中隆兼(ひろなかたかかね)(再び9月21日参照>>)という勇将が奮戦中です。
さぁ、毛利の追撃が開始されます!
・・・と、気になるところではありますが、続きのお話は、10月3日の【厳島の戦い~勇将・弘中隆兼の場合】でどうぞ>>
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コメント
厳島の戦い、今でいう水陸両用作戦ですね。
マリーンの戦にしか無いような経路を辿り、城攻めあり、逆上陸あり、陸戦あり、海戦ありの複雑さで、東国武士ではついて行けなさそう。
元就以下の緻密と豪胆、茶々さまの解説を今、拝読しても凄いですね。奇襲された方も、よっぽどIQ高くないと、何が起こってるかも解らないまま、溺れて死んじゃいそう。
投稿: レッドバロン | 2011年10月 1日 (土) 23時20分
レッドバロンさん、こんばんは~
ほんとに、綿密ですね。
計画が思い通りに進んだのは、時の運もあるのかも知れませんが、「その運をも味方につけるほどの計算をしていた」という事かも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2011年10月 2日 (日) 02時01分