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2011年11月 2日 (水)

御三家を相手にした江戸町奉行・大岡越前守忠相

 

寛延四年(1751年)11月2日、大岡忠相が病気を理由に、寺社奉行の辞任を申し出・・・ひと月半後の12月19日に亡くなりました。

・・・・・・・・・・

未だパナソニックの字も無かった頃のナショナル劇場での加藤剛竹脇無我の名コンビ・・・

もしくは、暴れん坊でサンバ好きな健さんのもとで活躍した横内正田村亮大和田伸也格さんコンビに挟まれた猛やん(どてらい男)の親友・・・と、

世代によって、強く印象に残る名俳優さんが演じた事で、もはや超有名な名奉行大岡越前こと大岡忠相(おおおかただすけ)さん・・・

家系図では藤原姓九条教実(のりざね)の末裔となっている大岡家は、三河(愛知県東部)以来の徳川家・譜代の家臣・・・

忠相さんは、そんな大岡一族の中の1700石取りの旗本・大岡忠高の四男として江戸屋敷に生まれましたが、9歳になった貞享四年(1686年)、同族の大岡忠真(ただざね)に後継ぎとなる子供がいなかった事から、求められて養子となり、その養父の死後、家督と遺領を継ぎました。

5代将軍・徳川綱吉の時代の元禄十五年(1702年)に書院番(しょいんばん・将軍の親衛隊)になったのを皮切りに、元禄大地震の復興仮奉行徒頭(かちがしら・下士官クラス)使番(つかいばん・監察役)目付(めつけ・政務全般の監察役)と、奉行への道まっしぐらの出世コースを順調に進み、幕府官僚として成長していきます。

そんな彼の運命を変える事になるのが、6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)時代の正徳二年(1712年)に就任した山田奉行・・・

この山田奉行というのは、遠国(おんごく)奉行の一つで、幕府の天領である伊勢(三重県)山田を統治するために、中央幕府から現地に派遣される役人・・・

と、この伊勢山田(伊勢市)の隣にあったのが、徳川御三家の一つ=紀州徳川家の領地・松坂(松坂市)・・・

実は、ここは、この山田と松坂の境界線を巡って、これまで何度も農民同志の抗争が起きていた場所なのですが、歴代の山田奉行は、その都度、紀州徳川家に遠慮した裁定しか出来ず・・・そのために、一旦納まっても、ほとぼりが冷めたら、またぞろ抗争が起きるという事をくり返しだったのです。

そこを、ビシッと公平に、双方の意見を汲みつつ、見事なまでの裁定を下したのが忠相だった・・・と、

これまでは、紀州家に遠慮した采配だったのをピシッと・・・って事は、おそらく、紀州家にとっては不利な裁定であったはずなのですが、そこを、「道理のある裁定」として納得させた・・・

これが、「御三家の威光を恐れない骨のある男」として紀州家には見えた???

実は、この時の紀州徳川家の藩主が、後に将軍となって(8月13日参照>>)、忠相を江戸町奉行に大抜擢するあの徳川吉宗だったのです。

まさに、抗争を繰り返す不良グループのリーダー同志がタイマンを張って、お互いの強さを知り、理解し合った後に、さらに大きな敵に向かって一つになる・・・まるで、学園ドラマの王道を行くような展開・・・

やはり、この逸話に関しては、「後世の創作である」との見方をされる専門家も多いとか・・・(未だ、結論は出てませんが)

確かに、忠相は山田奉行での一件がなくとも、順調に出世コースを歩んでいたわけですから、そのままマジメに職務をこなしているだけで、いずれは町奉行になる事は決まっていたような物なわけですが、彼が、将軍に就任した吉宗のもとで南町奉行になるのが享保二年(1717年)の41歳の時・・・

それまで、60歳前後の旗本が町奉行に就任していた例を踏まえると、やっぱり異例の大抜擢と考えられるわけで、そこに、吉宗×忠相の何らかの接点があると思われるわけで・・・

「ひょっとして、隣国同志だった山田奉行の時に何かあったのでは?」
と、ついつい考えてしまうわけです。

ついつい考えてしまうと言えば、あの大岡名裁き・・・

Tenitibouoookaseidanbando あの天一坊(てんいちぼう)事件(4月21日参照>>)に代表される『大岡政談』の数々ですが、そのページでも書かせていただいたように、それらは、ほぼ創作です。

そもそも『大岡政談』とは、1冊の本のタイトルではなく、大岡忠相を主人公として、その事件解決に至る名采配を楽しむ戯曲や読本、講談や歌舞伎の総称なわけで、最初っから「お客さん(読者)が見て楽しむ物」というスタンスのもの・・・

なので、決して「密着!警察24時」ではなく、あくまで「サスペンス劇場」なのですよ。

とは言え、すべてが創作なのではなく、実際に忠相が行った功績というのも、しっかりとあります。

町火消し「いろは組」(3月4日参照>>)の創設に代表される防火対策の強化小石川養生所の設置などの下層民対策青木昆陽(こんよう)(3月9日参照>>)書物御用達に任命して飢饉対策の作物としてのサツマイモの栽培を促進、株仲間を公認しての物価安定策などなど・・・

享保の改革(6月18日参照>>)を実施した吉宗のもと、忠相は庶民のための政策の数々を打ち出しています。

こうして町奉行として活躍した後は、寺社奉行を務めながら、晩年の寛延元年(1748年)には、三河国西大平(岡崎市)に1万石の領地を賜って正式に大名となり、初の「奉行から大名になった人物」となった忠相さん・・・

しかし、寛延四年(1751年)の6月に、かの吉宗が亡くなると、にわかに体調を崩しはじめ・・・

結局、寛延四年(1751年)11月2日、その病気を理由に寺社奉行を退職した忠相は、同じ年の12月19日、75歳の生涯を閉じたのです。

奇しくも、その吉宗の葬儀担当をした事が、彼が行った最後の仕事となりました。

そこにも、何やら不思議なエニシを感じる吉宗と忠相ですね。
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コメント

今夜のBS・TBSの「THEナンバー2」は大岡越前守忠相です。

投稿: えびすこ | 2011年11月 7日 (月) 16時13分

えびすこさん、こんばんは~

>今夜のBS・TBSの…

おぉ、そうですか。
情報、ありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2011年11月 7日 (月) 18時18分

本題に入る前に一言。今から話す内容は、人に拠っては「!!」になるので、要注意です。では本題を。大岡忠相が、母親にこんな質問をしました。「母上、女の人は何時まで“その気”になるのですか?」ところが、母親は黙って火箸で火鉢の灰を掻き回しているだけ。それを見た忠相は、「母上を怒らせてしまった。」と落ち込みました。しかし、数日経って気付きます。「母上は怒っていたのではない。黙って火箸を掻き回していたのは、『灰になるまで変わらない。』つまり、『天寿を全うして身体が土に還るまで、女にも“その気”がある。』と仰りたかったのだ。」と。

投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月12日 (火) 21時08分

クオ・ヴァディスさん、こんばんは~

質問の答えより、「その質問を、息子が母親にした」という事に驚きを隠せない茶々でした~
スズメ百まで踊り忘れず…

投稿: 茶々 | 2015年5月13日 (水) 01時22分

茶々さん、まいど〜です。
私にとっての大岡越前と言ったら加藤剛のですねぇ。
あのエンディングに流れる音楽、何とも言えぬ哀愁を帯びていて、ドラマの内容は忘れてもドラマのイメージとして残っています。
それはシリーズで交互に放送されていた水戸黄門がドラマのエンディングで高らかに笑う時のカラッとしたイメージと対極をなすような。
‥でも、大岡越前に対するイメージを持ってる人って少なくなってるんでしょうね。それが良いか悪いかはともかく。

投稿: とーぱぱ | 2017年3月16日 (木) 05時14分

とーぱぱさん、こんにちは~

私も加藤剛さんですね~
同じく、細かな内容は覚えていなののですが、竹脇無我さんが小石川養生所の先生?か何かだったのは覚えています。
当時の「2大男前」のそろい踏みでした(o^-^o)

コメントのブログへの反映に少し時間がかかりますが、今後ともよろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2017年3月16日 (木) 11時26分

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