祝!80周年 昭和の大阪城天守閣・復興
昭和六年(1931年)11月7日、江戸時代の焼失以来、失われていた大阪城天守閣が再建され、竣工式が行われました。
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今年は、昭和の時代に再建された、現在の大阪城天守閣・復興80周年!!
それを記念して、大阪城では様々なイベントが催されています。
たとえば、今日は、「天守閣の入城が無料!!」とか…
かくいう私も、何度か記念イベントに参加させていただいてますが・・・
以前書かせていただいたように(8月18日参照>>)、寛文五年(1665年)の豊臣秀吉の命日の日に、落雷とともに炎に包まれた大坂城は、以来、徳川幕府によって再建される事なく明治を迎え、維新後は明治政府によって陸軍の本拠地が置かれて東洋一の軍事施設となっていました。
そんな中、郷土の誇りとして再建される事になった大阪城天守閣・・・
昭和五年(1930年)5月6日に地鎮祭が行われ、翌昭和六年4月24日に棟上式・・・その後、関係者の努力もあって工事は進み、10月30日に工事完了、
昭和六年(1931年)11月7日、竣工式が行われたのです。
・‥…━━━☆
そもそもは、大正十四年(1925年)4月…
大阪市が隣接する東成&西成両郡の町村を合併して、人口200万人を超える、当時、日本一の大都市になった事を記念して、毎日新聞社の主催で、天王寺公園と大阪城の二つの会場を舞台に「大大阪記念博覧会」というイベントを開催したそうです。
当時の大阪城は、徳川から新政府へと開け渡された明治維新の頃そのままの東洋一の軍事基地でしたから、市民に開放されるのは、出入り口の大手門と、そこから入って、桜門を通っていく天守閣広場・・・
そして天守閣の北側にある山里曲輪(やまさとくるわ・山里丸)だけで、現在の内堀の中だけという、かなり狭い物でした。
とは言え、せっかくの博覧会なのだから…とはりきって、天守台部分に「豊公館」と名づけた桃山様式の2階建ての建物を設置して、この内部には秀吉ゆかりの資料を展示したのだそうです。
すると、これが市民に大評判!!
…と、ちょうどその時、この博覧会会場を訪れた後藤新平が、イベント会場の活気あふれる姿に感動!!
その場で、東京市議会議員宛てに
「本日大阪記念博覧会に臨み市民生活に刺激を与ふるところの一大教訓を得たり。
実に東京においては見る能はざる学俗接近の臨時機関たり。
特に市議会議員諸君に観光団として来遊せられんことを勧告す。
東京市民の為に深厚なる福音たるべし」
と打電したのだそうです。
その後、そばにいた関係者に・・・
「今、この豊公館を見て思ったんやけど、大阪の歴史を記念するためにも、市民のためにも、築城当時の建築構造を研究して常設の天守閣なんかを建てて、展示会の会場(今で言う博物館)にあてたらどうやろ?
東京とか、その他の府県市議会議員らも、しょーもない事で議論ばっかりしてるよりは、一回、この博覧会、見に来たらええねん!」
と言い、その日のうちに大阪市長・関一と面談して、その事について語り合ったのだそうです。
とは言え、実はそれまでも、大阪城内に仁徳天皇を祀る浪速神宮の建立の話なんかが出ていたのですが、交渉相手の大阪市教育部などに、陸軍が法外な移転費用と提示してくるもんで、なかなか話が進んでいなかったのです。
そこを、後藤新平に触発された関一の「鶴のひと声」をきっかけに動いた大阪市議会が、大阪城天守閣復興を全員一致で可決・・・陸軍の移転費用を100万から80万にねぎって、話が進められて行きます。
ちょうど、昭和四年(1929年)に、それまで古社寺限定だった国宝保存法が改訂され、翌年に、名古屋城が城郭として全国初の国宝に指定された事も大きかったでしょう。
それまで無用の長物として歴史的価値が無いとされていた城郭に、文化財としての価値を認める風潮が高まって来たのです。
建設費用の150万円は、全額、市民の寄付によって賄われる事になりますが、上は住友吉左衛門氏の25万から、下は10銭の一般市民まで合計78250件、わずか半年で集まったのだとか・・・大阪市民が、いかに天守閣の復興を願っていたかがうかがえますね~。
その後、完成した大阪城天守閣は、戦後に次々と復興された天守閣のモデルケースとして注目を集める事になります。
・‥…━━━☆
ところで、もはや史料が少なく、おそらくは、戦国や江戸時代の姿を復元する事は不可能と思われる城跡に、現代人が新たな天守閣を建ててしまう事に違和感を持たれる方もおられるでしょう。
たとえば、この大阪城も・・・
ご存じのように、現在の大阪城の石垣は徳川時代の物・・・そこに、秀吉時代のデザインの天守閣を建てているわけですから、極端に言えば、それは、戦国でも江戸でも無い時代の空想の産物なわけです。
無くなった物は無くなったまま・・・自然のままの姿で保護していくのがベストという考えも一理あります・・・というより、平成の今では、その方が主流かも知れません。
しかし、天守閣が復興された昭和の初めという時代は、また、現在とは違った価値観があったのです。
たとえば・・・
大阪城に来られた事のある方・・・天守閣北側の山里曲輪にある「秀吉・淀殿 自刃の地」の石碑の後ろの石垣に階段があるの、ご存じですか?
(写真:…の部分が階段です)
実は、コレ、その大正14年4月に開催された博覧会が行われた時に造られた階段なのです。
その時、山里曲輪には、子供が遊べるちょっとした遊具が設置されたそうなんですが、当時は、まだ、極楽橋から北へ抜けるルートが無く、入った人は、また天守閣の方へ戻って帰るしかなかったわけですが、その山里曲輪と天守閣とをつなぐ通路が一本だけだったので、そのままだと行く人と帰る人がゴッチャになってややこしいから、「グルリと一回りできるように」と、石垣をぶっ壊して作った帰り道用の通路(地下道)なのだそうです。 博覧会のために、江戸時代の石垣をぶっ潰してしまうという発想は、それこそ平成の世にはない発想です。
しかし、そんな当時の発想を物語っているのが、上記の後藤新平の言葉・・・
「東京においては見る能はざる学俗接近の臨時機関たり」です。
そう、それまで、神社仏閣などで保管されている宝物や、発掘現場で発見発掘されたような貴重な品々は、一部の有識者のみが見る事ができるだけで、それらの品々に一般市民が触る事は、ほとんど無かったわけです。
まぁ、神社仏閣の秘仏の御開帳などはあったでしょうが、それは文化財というより信仰の意味での一般公開ですから・・・
後藤新平が博覧会の会場で見た光景に感動したのは、まさに、そこです。
老若男女・・・老いも若きもが一団となって、貴重な展示品を喰い入るように見つめ、その品についての由緒や歴史についての説明を聞き、普通の一般市民が学識を深める・・・未だ、当時の日本には無かった、そんな場所が必要だという事なのです。
時代が変われば価値観も変わる・・・今となっては大正から昭和にかけてのその時代の価値観も、大切な歴史の一つではないでしょうか?
現在の大阪城天守閣・・・
全国各地の多くの復興天守閣が長期的な入城者の減少に悩む中、大阪城は毎年120万人前後という安定した入城者数を保っているそうです。
それは、今もなお復興当時の昭和の初めの「貴重な遺産と触れあいながら市民の学識を高める」という目標を実践すべく、日々の研究に余念のない学芸員さんを配置し、常に高度な学術的価値のある展示を心がけておられる大阪城天守閣関係者の方の努力があるからなのでしょう。
徳川時代の石垣に、昭和の大阪市民が建てた、豊臣時代の天守閣・・・
時空を越えた夢のコラボ天守閣は、今も、そしてこれからも、大阪のシンボルであり続ける事でしょう。
80歳の誕生日おめでとう!
以上、大阪城のそばで生まれ育ち、
大阪城大好きの茶々でした(*´v゚*)ゞ
*山里曲輪の地下道への行き方は、本家ホームページ:大阪歴史散歩「秘密の大阪城・石垣めぐりと太閤下水」のページで紹介しています>>(コラムの内容が、このページとかぶっていますがスンマセン)
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コメント
茶々さん、こんにちは。
いつも楽しく拝見しています。
今年の5月に大阪城北側の網島町に
事務所を移転しましたので
よくお城を眺めたりしています。
大阪人のパワー、すごいですね!
プリンセストヨトミを思い出しました。
投稿: あずまっく | 2011年11月 7日 (月) 12時48分
茶々様、こんにちは。
大阪城は中学か高校の修学旅行で行ったきりでしょうか(あれ、記憶が定かではない)。今年の9、10月には大阪に出張すること3回。近くまで来ているのに・・・。
投稿: いんちき | 2011年11月 7日 (月) 13時20分
そうか、徳川の建てた天守閣は太閤さんの命日に炎上したのですか。当然、色々な噂があったしょうね。
「江」は 昨日が大坂落城の回でした。とうに整理ポスト入りのこのドラマですが、茶々様、秀頼公はイメージを維持して歴史の彼方に去り、大野治長さんも最後までご苦労様。実質最終回でした。
投稿: レッドバロン | 2011年11月 7日 (月) 15時49分
こんばんは。
大阪城お誕生日おめでとうございます!
東国の私には遠いですが、行きたいです。(行きたいお城何個あるのだろう)
こうして文化財が遺していられる事にも感謝したいです。
投稿: Ikuya | 2011年11月 7日 (月) 18時28分
あずまっくさん、こんばんは~
>大阪城北側の網島町に事務所を移転…
イイですね~
朝な夕なに大阪城を眺めて…ヽ(´▽`)/
「プリンセストヨトミ」は大阪人なればこそ、あり得る話ですよね~
投稿: 茶々 | 2011年11月 7日 (月) 18時49分
いんちきさん、こんばんは~
お仕事だと、なかなか時間が取れませんよね~
いつか、プライベートでゆっくりと…戦時下にも耐えた大阪城ですから、ずっと待っててくれると思います。
投稿: 茶々 | 2011年11月 7日 (月) 18時51分
レッドバロンさん、こんばんは~
淀役のりえちゃん、秀頼役の太賀くんは株をあげましたね。
一方、江と秀忠は…???
初と千に「任せておけ」と言っておきながら、「(大坂城に)火を放てぇ~~」って、いつ心変わりしたのか???
思わず画面を2度見してしまいました。
投稿: 茶々 | 2011年11月 7日 (月) 18時57分
Ikuyaさん、こんばんは~
>文化財が遺していられる事にも感謝
ホントですね~
「自然のまま」って言っても、本当にそのままにしていたら、いつかは朽ちてしまうわけですから、貴重な遺産を維持する事に、陰ながら努力しておられる方々にも感謝ですね。
投稿: 茶々 | 2011年11月 7日 (月) 19時00分
茶々さま、お返事有難うございます。
ホント、りえ茶々様はじめ、大坂方はみんな高値圏で大引けを迎えることが出来ました。旧豊臣家臣団として一安心。
秀忠君の決心変更、大きな史実を前にするとバタバタとキャラが変る、また悪い癖が出ましたね。
おまけに本陣を蹂躙した敵将に親爺の安否を尋ねてました。いや、もう、死ぬほど笑いましたよ
侍としては、この世に生まれて来ない方が余程マシです。
投稿: レッドバロン | 2011年11月 7日 (月) 20時27分
レッドバロンさん、こんばんは~
私は、息絶えた幸村の顔に、家康が布をかけるところ…
幸村が家康の本陣で死ぬというのは、最期の姿を視聴者に見せるサービスという事で1万歩譲りますが、ああいう光景になるまで、徳川軍の誰一人として幸村の首を取ってないだけでもツッコミたいのに、さらに、その上塗りとなって力が抜けました(笑)
投稿: 茶々 | 2011年11月 8日 (火) 00時58分
大阪府民の皆さん。
再建80周年おめでとうございます。(o^-^o)
向井くんが「ヒゲただ」になりましたね。
「葵 徳川三代」では西田さん扮する秀忠は、将軍就任後からひげを生やしておりました。あの時は「自分が将軍である」と、家臣に対するパフォーマンスと言う解釈でした。
向井くんの場合は無精ひげを整えた程度かな?
6日の放送で秀忠が「親父の命令なんかくそくらえ」と言ったのは、ささやかな反抗でしょうか?見ていると「万年反抗期」の様な感じですが、大坂の陣時点で30代後半ですね。
投稿: えびすこ | 2011年11月 9日 (水) 11時03分
えびすこさん、こんにちは~
あんなに豹変するなら、なんで、あんなにギリギリまで平和主義者に描いたのか?
ホント、先の読めない脚本家先生です。
投稿: 茶々 | 2011年11月 9日 (水) 15時09分