毛利元就を支えた良妻賢母・妙玖
天文十四年(1546年)11月30日、1代で中国地方に広大な領地を持つ西国の雄となった毛利元就の正室・妙玖が47歳で亡くなりました。
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その頃は中国地方の2大勢力である周防(すおう・山口県)の大内氏と出雲(島根県)の尼子氏の間で奔走する一国人に過ぎなかった毛利家・・・
そんな中の永正十四年(1517年)・・・戦国の世となってから小豪族たちが領地化して、勝手に治めていた安芸(あき・広島県)という場所を、鎌倉時代からの守護であった武田氏の当主・武田元繁(もとしげ)が奪回しようと動き始めます。
まずは、2年前に毛利興元(おきもと:元就の兄)に奪われた有田城(広島県山県郡)を奪い返そうというのです。
実は、この前年に興元が突然死亡・・・毛利の家督を継ぐのは、その息子でわずか2歳の幸松丸(こうまつまる)という事態になっていて、元繁としては大チャンス!!
その時の有田城は、興元の義弟・吉川元経(きっかわもとつね・興元&元就の妹を奥さんにしてる)が守っていましたが、なんだかんで守護のターゲットとなった城は大ピンチ!!
そのピンチを救ったのが、亡き興元の弟・毛利元就(もとなり)・・・21歳の彼にとって、これが初陣でした。(10月22日参照>>)
上記の通り、興元&元就強大の妹・松姫が嫁いでいた事で、すでに姻戚関係にあった毛利家と吉川家ではありましたが、守護の武田家を破った事で一気にその名を挙げた元就と、ピンチを救われた吉川家が、より親密な関係になった事は言うまでもありません。
その吉川元経の妹である妙玖(みょうきゅう)が、元就の妻となったのは、おそらく、この頃と思われます。
以前、関連のページ(7月10日の後半部分参照>>)に書かせていただきましたが、この元経さんの祖父・吉川経基(つねもと)は、この少し前に、散々、尼子経久(つねひさ)に毛利との縁組を勧めていたようで、ひょっとしたら、尼子氏の姫を娶っていたかもしれない元就でしたが、結局、その縁組は実現せず・・・
そんな微妙な運命の行き違いにより、元就の正室となった妙玖でしたが、この後、元就が尼子氏を敵に回して大内氏の傘下となる(1月13日参照>>)事を思えば、それは、すでに決まっていた運命なのかも知れません。
やがて、長男・隆元(たかもと)、次男・元春(もとはる)、三男・隆景(たかかげ)の毛利三傑と、後に重臣・宍戸隆家に嫁ぐ事になる五龍(ごりゅう)という姫の合計4人の子供を、夫・元就との間にもうける妙玖ですが、その人となりや夫婦関係の事は、ほとんど史料に登場しません。
しかし、ドラマや小説に登場する妙玖さんは、決まって良妻賢母に描かれる・・・実は、そこには、妙玖さんが亡くなった後に、元就が発するラブラブ光線満載の語録が複数存在するからなのです。
なにか、事あるごとに
「妙玖がおったら、もっと楽やのに…」
「なんや、この頃、妙玖の事ばっかり、考えてまうわ~」
さらに、息子らにも・・・
「お前らが仲良うする事が、お母さんの供養になんねんで」
嫁さんが亡くなった後に旦那がこんな事を思う・・・それは、ひとえに、「奥さんが良い人で、すばらしい人だったからなんだろう」って事なわけです。
もちろん、妙玖さんが健在の間には、元就は側室の一人すら持つ事がなく、奥さん一筋だった事も・・・
さらに、元就がその生涯で戦ったとされる2百数十回の合戦の中で、それこそ、一か八かの危ない合戦のほとんどが、彼が、初陣の21歳から50歳になるまでに経験した戦い・・・妙玖は元就より2歳下という事なので、まさに、彼女とともに生きていた時代は、危険な戦いにあけくれる日々だったわけで、
しかも、その間には、長男の隆元が15歳で大内氏の人質に、三男の隆景に至っては、わずか12歳で小早川家乗っ取りの道具として手元を離れる(9月27日参照>>)事になるわけで・・・
さすがに隆景の時には、彼女は、3年間も猛反対し続けたと言いますが、それこそ、昨今のドラマでは「息子を政略の道具に使うなんて!!離縁して下さい」てなモンですが、彼女は、そうはならず、
合戦と謀略にあけくれる夫、他家との架け橋となるべく向かった息子、そして、その領域を広げる使命を帯びて他家へ入った息子たちをしっかりと支え、見守り、彼らの最大の内助者となるのです。
天文十四年(1546年)11月30日、病に倒れた妙玖は、安芸郡山城(広島県安芸高田市)にて、静かにその生涯を終えました。
この5カ月前には、幼くして亡くなった生母の代わりに自分を育ててくれた父・毛利広元の側室・杉大方(すぎのおおかた)も亡くしていた元就・・・
妙玖の喪が明けるとすぐに、長男の隆元に家督を譲って隠居するのも、彼を支えてくれた二人の女性が、ほぼ同時に亡くなってしまった事が、少なからず影響しているのでしょうか?(そのワリには、あんまりおとなしくしてないけど…)
毛利元就自筆書状(毛利博物館蔵)
真ん中あたりに「内をば母親以って…」という言葉が書かれています。
後の、元就自筆の書状の中に・・・
「内をば母を以って治め、外をば父親をもって治め候(そうろう)と申す金言、すこしもたがはず候」
とあります。
嫁さんがしっかり家を守ってくれるからこそ、自分は安心して外で力を発揮できる・・・
女性の社会進出が叫ばれて久しい今日この頃・・・それも大切だと思いますが、個人的には、やっぱり、こんな夫婦関係が好きな茶々でおますヽ(´▽`)/。
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