織田信長の三瀬の変…名門・北畠の最後
天正四年(1576年)11月25日、織田信長の意を受けた藤方朝成・柘植三郎左衛門・滝川雄利らが、北畠具教を伊勢三瀬館に襲って殺害しました。
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北畠具教(きたばたけとものり)は伊勢国司北畠家の8代め・・・ご存じ、後醍醐(ごだいご)天皇(8月16日参照>>)の建武の新政を支え、その後は南朝の軍事的指導者となった北畠親房(きたばたけちかふさ)(5月10日参照>>)の子孫です。
その親房の三男・顕能(あきよし)が伊勢国司になった事から、伊勢一帯に独自の勢力を誇るようになった村上源氏の流れを汲む名門・・・それが伊勢北畠家でした。
天文二十二年(1553年)に、父・晴具(はるとも)の隠居にともない家督を継いだ具教は、すでに伊勢の南半分に加え、大和(奈良県)宇陀(うだ)郡をも手中に収めていましたが、ここに来て、伊勢安濃郡を支配していた長野藤定(ふじさだ)へ、次男の具藤(ともふじ)を有利な形で養子に送り込む事に成功し、更なる勢力拡大を狙っていたのです。
永禄六年(1563年)には、家督を、嫡男の具房(ともふさ)に譲って隠居しますが、それでも家内の実権は具教が握ったままでした。
ところが、そんなこんなの永禄十年(1567年)・・・あの織田信長が北伊勢に侵攻して来ます。
侵攻を開始した翌年の永禄十一年には、それまで北畠の支配下にあった北伊勢の豪族・神戸具盛(かんべとももり)に、三男の信孝を養子に送り込む事に成功して、神戸氏を配下に治めた信長は、いよいよ、北畠氏に狙いを定めます。
永禄十二年(1569年)、総勢8万の大軍を率いて具教の本拠・大河内城(おおかわちじょう・三重県松坂市)に攻めよせた信長・・・対する城兵は約8000・・・(8月26日参照>>)
8月28日より城攻めにかかる信長軍でしたが、初戦の段階は激しい抵抗に遭い、急攻めでは北畠軍の勝利であったものの、長い籠城戦となれば、多勢に無勢で先は見えています。
やがて兵糧は尽き、もはや万事休す・・・2ヶ月後の10月4日、具教は降伏を決意しました。
その条件は、信長の次男・信雄(のぶお・のぶかつ)を具教の養子として迎え入れる事と、大河内城を開城する事・・・
やむなく、この条件を呑んだ具教は、信雄に大河内城を開け渡し、自らの娘・雪姫を信雄の妻とし、具教自身は出家して三瀬(みつせ・三重県多気郡大台町)に隠居しました。
冒頭から、何度か「養子に送り込む」と書いておりますが、「養子に送り込む」とはこういう事・・・相手の息子となって、近い将来、またはすぐにでも家督を継ぐという事で、つまりは、その家を乗っ取るという事です。
しかし、このままでは事は収まりませんでした。
間もなく、あの15代室町幕府将軍・足利義昭(よしあき)と信長の関係がややこしくなりはじめる(1月23日参照>>)と、具教は密かに甲斐(山梨県)の武田信玄と連絡を取ったりして、何やら、義昭の求めに応じて形成された信長包囲網の一角に加わろうとしている様子・・・
そんな中で、天正三年(1575年)には、信長の強い押しで、正式に北畠氏の家督が信雄に譲られました。
と、なると・・・
そうです・・・こうして、信雄が伊勢国司家を継いだ以上、もはや北畠の存在は、信長にとって邪魔者以外の何者でもありません。
信長の具教に対する態度も、日に々々冷たくなって来ていた天正四年(1576年)11月25日、信長の命を受けた藤方朝成(ふじかたともなり)・柘植三郎左衛門(つげさぶろうざえもん)・滝川雄利(たきがわかつとし)らが、具教のいた三瀬館を襲撃したのです。
彼らは3人とも、もともとは北畠の家臣・・・しかし、上記のように、その北畠を信雄が継いだわけですので、現時点では信雄の家臣なわけですが、それこそ、内心は葛藤の嵐だった事は察しがつきます。
しかし、リーダー的存在の朝成などは、この時、父の慶由(よしゆき・6代当主の北畠材親の息子と言われる)が、信雄の居城・田丸城(たまるじょう・三重県度会郡玉城町)に、半ば人質の形で留め置かれていたわけで、命令通りに襲撃を決行しなければ、その父がどうなるかわかりません。
一方、彼らの襲撃を受けた具教・・・実は、あの塚原卜伝(ぼくでん)(2月11日参照>>)に奥義・一の太刀を伝授されたと言われる剣豪で、新陰流の上泉信綱(かみいずみのぶつな)(9月3日参照>>)にも剣を学び、ともに剣を極める者として柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)(4月19日参照>>)とも親交があったと言いますから、かなり熱心に剣を学んでいたのでしょう。
江戸時代の『寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)』によれば、この襲撃を受けた時にも、具教一人で、19人を斬り殺し、100人に重軽傷を負わせるほどの抵抗を見せた・・・なんて事も言われますが、
まぁ、それは、多少オーバーだったとしても、かなりの腕前だった事は確か・・・しかし、いくら剣豪と言っても、やはり数の多さには勝てません。
その抵抗も空しく・・・未だ手元にいた息子の徳松丸・亀松丸も含め、その場にいた近臣たちのすべてが、ここで、具教とともに殺害されるのです。
具教・・・享年・49歳でした。
しかし、それだけではありませんでした。
北畠材親(たけちか)の子供かも知れない朝成の父がそうであったように、この時、何人かの北畠の一門や主だった家臣が、人質同様に田丸城に置かれていたわけですが、同時に、彼らも皆、その田丸城で殺害されてしまうのです。
ちなみに、一説には、朝成自身は、息子が具教を襲撃した事実を聞いて自刃したとも言われますが・・・
三瀬の変と呼ばれるこの出来事・・・ここに、戦国大名としての北畠氏は滅亡し、完全に織田の配下となったのです。
なお、具教の嫡男だった具房は、信雄の縁者となる事から、命は取られなかったものの、その後3年間幽閉され、幽閉が解かれた直後に亡くなっています。
また、興福寺の僧となっていた具教の弟という人も、兄の殺害を聞いて還俗(げんぞく・僧となった人が俗世間の一般人に戻る事)して北畠具親(きたばたけともちか)を名乗り、抵抗を試みますが、まもなく鎮圧され、毛利輝元を頼って西国に落ち延びたという事です。
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