「将棋の日」にちなんで将棋の歴史
江戸幕府・徳川吉宗の時代に、毎年11月17日に、将軍の御前にて行われる「御城将棋」が制度化された事から、今日、11月17日は「将棋の日」という記念日なのだそうです。
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以前、やはり「いい碁の日」という記念日に書かせていただいた囲碁のお話・・・(1月15日参照>>)
今回の将棋も、おそらくは、同時期の奈良時代に、中国から日本に伝わったのではないか?という説が有力ですが、囲碁ほどはっきりした記録は無く、非常に曖昧です。
と言うのも、古代インドで誕生し、ユーラシア大陸一帯に広がって、それぞれの国で様々な変化を遂げた将棋なので、ルールや形も様々・・・日本には、インドから直接伝わったのは?とおぼしき部分もあり、もはや確定は不可能なようです。
とにもかくにも、あの奈良の興福寺からは、天喜六年(1058年)と書かれた木簡とともに将棋の駒が発掘されているので、平安時代にはすでに伝わっていたという事だけは確かでしょう。
発掘された将棋の駒は、簡素な木製ながらも、すでに5角形の形をしていて文字もしっかり書かれていたとか・・・
ただ、この頃は駒数の多い大将棋という物で、しばらくして必勝手順が見つかると、さらに駒を増やしたり、ルール変更したりと非常にややこしいです。
・・・で、やがて、複雑になり過ぎた大将棋から、簡略化された中将棋や小将棋が生まれ、ここから、現在の本将棋へとつながるのですが・・・。
『太平記』には、あの楠木正成(まさしげ)が鎌倉幕府軍を相手に奮戦する千早城の攻防戦(2月5日参照>>)のシーンで、奇策を用いて押し寄せる大軍をなぎ倒す時の表現として「将棋倒ヲスル如ク、奇手四五百人、圧(おし)ニ討タレテ死ニケリ」と書いていますので、室町時代の初期には、すでに、あの「将棋倒し」なる遊びもあったのでしょう。
(注:人が密集した場所で、次々と折り重なって倒れる事故の表現には、「将棋のイメージが悪くなる」として、最近は使われないようになってます)
さらに、戦国時代には将棋が盛んに行われるようになり、この頃には、あの「相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再利用できる(持ち駒)」という日本独自のルールも考案され、まさに現在の本将棋となっていきます。
ただし駒台が現在のようになるのは明治以降で、それまでは、取った駒は懐紙の上に置かれてました。
江戸時代には、徳川家康が将棋を好んだ事から、囲碁とともに幕府の公認となって、寺社奉行の管轄下に置かれました。
はじめは碁将棋所として、囲碁の名人・本因坊算砂(ほんいんぼうさんざ)(6月1日参照>>)が代表をつとめていたいう事ですが、途中から独立して、将棋の名人は、将棋所(しょうぎどころ)という称号を名乗るようになったのだとか・・・
やがて、この将棋所が毎年1度、江戸城内での公務として御城将棋(おしろしょうぎ)なる対局を行うようになるのですが、それが、毎年11月17日と制度化されるのが8代将軍・徳川吉宗の頃・・・
家元と7段以上の棋士には禄(給料)が与えられるという待遇の中、この御城将棋が将棋所の唯一の公務であり、本来は将軍の面前での御前試合のような位置づけでありましたから、各棋士はその日に向かって全力投球で、各家元もその日のために研究を惜しまずといった具合でした。
「碁や将棋は親の死に目にもあえぬ」
ということわざがありますが、これは、御城碁や御城将棋の時は、たとえ「親が危篤だ」との知らせを受けても、打ちかけとして帰る事はなく、必ず、その場で打ち終わったという故事から来ているのだとか・・・それだけ、厳しい世界だったと・・・
ただ、最近では、将棋の家元の一つである大橋家に伝わる『大橋家文書』の研究から、一応、タテマエとしては、その日のうちに打ち終えるというしきたりだったものの、メッチャ対局が長くなる事もあり、そこンところは、臨機応変に行われていたという事がわかって来ています。
さらに・・・
そんなプロの対局とは別に、いわゆる縁台将棋と言われる庶民の将棋の世界では、子供向けに、挟み将棋、飛び将棋(ウチはかえる飛びんと呼んでました)、盗み将棋(同じくお金取りん)、回り将棋(同じくひょこ回り)などもできて、大変流行しました。
日露戦争(2月9日参照>>)の頃には、3人でやる軍人将棋なんてのも生まれ、本将棋をやる前の入門として子供たちを夢中にしましたね・・・まぁ、軍人将棋も、今もありますが・・・
思えば、コンピュータゲームの「信長の野望」なんかのシュミュレーションゲームも・・・
一時、流行った「ファミコンウォーズ」や「ファイア・エンブレム」なんか、まんま、将棋ですね。
古代インドに生まれて、形を変えながらも、21世紀の私たちをも夢中にさせる・・・いやはや将棋ってスゴイですね。
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コメント
15年前の朝ドラ「ふたりっ子」では、双子姉妹の1人が女流棋士になる話でしたね。ところで将棋は指しますか?
将棋の「玉将」は豊臣秀吉の機転で出来たと言う説を知ってますか?
投稿: えびすこ | 2011年11月18日 (金) 16時43分
朝倉氏の一乗谷遺跡を訪れた時に、出土した将棋駒を見たことがあります。
戦国時代には醉象という駒が王将の前に配置されていたようですね。
投稿: 備前民 | 2011年11月18日 (金) 22時10分
えびすこさん、こんばんは~
>将棋の「玉将」は豊臣秀吉の機転で出来たたと言う説を知ってますか?
ごめんなさいですm(_ _)m
そのお話は知りませんねぇ。
どんなお話なんでしょう?
「王将」の駒自体は、平安時代の大将棋にすでに使われていますので、秀吉が何かしらのルールを加えた??という事なのかしら?
投稿: 茶々 | 2011年11月19日 (土) 00時03分
備前民さん、こんばんは~
おぉ、あの発掘された駒、直接ご覧になったのですか?
一乗谷の朝倉氏の遺跡に行けば、いつでも見られるのでしょうか?
一乗谷は、長年「行きたい」と思ってる場所なんですが、なかなか行けてません。
いつか行きたいです。
投稿: 茶々 | 2011年11月19日 (土) 00時07分
茶々さん、こんにちは。
秀吉作は太閤将棋というのがあります。自分だけ、飛車の頭の歩を取った状態で始めるものです。
投稿: いんちき | 2011年11月19日 (土) 09時07分
いんちきさん、こんにちは~
なるほど…
新たなルールのような物が決められたという事ですね。
>飛車の頭の歩を取った
…って事は、囲碁でいうところの、「先にいくつか置き石をしておく」みたいな、対戦する両者にレベルの差がある時に使うルールなんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年11月19日 (土) 13時48分