日清戦争~旅順口攻略
明治二十七年(1894年)11月21日、日清戦争にて、清軍が要塞を構築していた旅順口への総攻撃が開始されました。
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これまでの日清戦争の経緯については、コチラのリンクから↓
- 明治二十七年(1894年)6月2日
【日清戦争への足音】参照>> - 明治二十七年(1894年)6月9日
【いよいよ日清戦争へ…】参照>> - 明治二十七年(1894年)7月25日
【豊島沖海戦】>> - 明治二十七年(1894年)7月29日
【成歓の戦い】>> - 明治二十七年(1894年)9月16日
【日清戦争~平壌・陥落】>> - 明治二十七年(1894年)9月17日
【制海権を握った黄海海戦】>>
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もはや国内の混乱を抑えきれない朝鮮に、日本と清国(中国)がそれぞれの思惑を以って介入する事から始まった日清戦争・・・日本が各国の公使に『交戦通告書』を交付した明治二十七年(1894年)7月31日を以って、国際法上にも、日清戦争が成立しました。
まずは、陸軍が朝鮮半島の清国軍をけん制しながら、海軍が、海上に展開している清国海軍を撃破して黄海と渤海(ぼっかい)の制海権を握るという目標を掲げていた日本軍・・・
すでに陸戦を展開していた陸軍は、7月29日には成歓(ソンファン)戦いを制し、9月16日には平壌(ピョンヤン)をも陥落させていました。
一方、なかなか清国艦隊に遭遇できなかった連合艦隊も、9月17日の黄海海戦に勝利し、ようやく制海権を手に入れたのです。
そして、平壌陥落後も、さらに、清と朝鮮との国境線を目指して北上を続けていた陸軍は、国境沿いにある義州(ウイジュ)に全軍を集結させて、10月24日の午前から、鴨緑江(おうりょくこう・清国と朝鮮の国境線となっている川)の渡河作戦を実行したのです。
しかし、何たって国境ですから、さすがに、清国軍の防衛もハンパじゃありません。
その数30400の将兵を配置し、90門の大砲を配備して、日本軍の渡河を防ごうとします。
ただ、この30400の中には、先の平壌での負傷兵を含んだ敗走兵が10000人ほどおり、どうやら、彼らの士気は低く、この時、清軍の総指揮をとっていた宋慶(そう けい)の采配も、うまく機能していなかったようで・・・
そこにつけ入る隙があったのか?・・・清軍の猛攻撃をかいくぐって進む日本軍は、困難を極めながらも、何とか鴨緑江を渡りきり、鴨緑江北側の高地を占領する事に成功しました。
一方、この間に、上記の陸戦を展開する軍に加え、新たな第2軍の編成を決定した広島の大本営・・・遼東半島攻略の使命を帯びたこの第2軍は、10月24日に半島の花園口(かえんこう)から上陸した後、要所である金州(きんしゅう)攻略に向かいます。
やがて11月5日午後・・・乃木希典(のぎまれすけ)少将率いる歩兵第1連隊は、金州郊外の波頭山(はとうざん)にて、清軍との交戦に入りました。
翌早朝からは、金州城外の敵陣の攻撃を開始・・・約30分で、ほぼ、すべての陣地を陥落させた日本軍は、午前9時、さらに突き進んで金州城への砲撃を開始したところ、こちらも、30分ほどで、敵からの攻撃が止んだ事から、城内への突入を開始します。
案の定、すでに、ここの清国兵は逃亡していて、城内はもぬけの殻・・・さらに、翌7日には、やはり、すでに無人となっていた大連湾の砲台場も占拠しました。
これで、残るは、遼東半島の突端部分に位置する旅順口(りょじゅんこう)のみとなったのです。
かくして、明治二十七年(1894年)11月21日未明、金州から前進を続けた日本軍によって、旅順口にある清国の要塞への総攻撃が開始されます。
第1師団砲兵部隊が援護砲撃を加える中、第12旅団歩兵第24連隊が、北から南に向かって進撃を開始・・・一方、左翼からは第14連隊が西から東に向かって前進を開始します。
これによって、正午頃には、日本軍が高台にあった砲台場を制圧し、さらに市街地も制圧・・・これで、旅順の東側を確保した事になります。
翌22日、西海岸に残る砲台場を目指す日本軍でしたが、到着した頃には、砲台場はすでに無人・・・なんせ、季節は冬ですから、夜ともなれば氷点下で、軍服も凍りつくような寒さの毎日であり、しかも、ここのところの天候も悪く、冷たい雨が降り続いていたのです。
また、この場所に駆り出されていた清軍の守備兵は、実戦経験のない若者が多く、もはや、命がけでせ守れなんて言われてもムリな事・・・ここで踏ん張るより、すばやく撤退して後に備えたほうが得策という物です。
こうして、季節の助けもあってなんなく西海岸の砲台も占領した日本軍・・・ここに、旅順口は完全に陥落したのでした。
その後、この旅順攻略に勢いづく大本営は・・・と、この続きのお話は2月2日のページでどうぞ>>
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コメント
茶々さま、こんばんは〜。
この時は 金州も旅順もあっさり抜けたのでしたよね。(次の日露戦争では、途轍もないことになりますが)
なお、この当時の乃木希典さんの階級は少将、指揮していたのは歩兵第1旅団(東京)ではありませんか?乃木さんは西南戦争の時に既に連隊長でした。ご参考まで。
投稿: レッドバロン | 2011年11月21日 (月) 18時43分
おお、レッドバロンさん、
ありがたき幸せ
階級やら師団やら連隊やら出て来ると、よく間違えるんですよ~
今後とも、お気づきになりましたら、速やかに…よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2011年11月21日 (月) 19時46分