島原の乱~原城総攻撃に散る板倉重昌
寛永十四年(1637年)11月9日、江戸幕府が、島原の乱の鎮圧のために、板倉重昌らを派遣しました。
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この年の10月・・・神の予言した救世主と称され、後に天草四郎と呼ばれる事になる益田四郎時貞(ますだしろうときさだ)を旗印に掲げて勃発した、ご存じ、島原の乱・・・
キリシタン仲間の農民が代官に捕えられた事をキッカケに始まった農民一揆・・・ここにに、先の関ヶ原で負けて没落していた小西行長の旧臣たちが加わって、その勢力は拡大します。
やがて、島原半島南部にあった古城・原城を拠点として、島原城や富岡城を攻め立てる一揆勢でしたが、さすがにプロの戦闘集団=武士相手の城攻めは、一揆勢には荷が重く、いくら攻めても城を落とすまでには至りませんでした。
そこで、12月頃からは、一揆勢は討って出る作戦を小休止し、原城にて籠城の構えを見せ始めます(10月25日参照>>)。
一方、江戸の幕府に、この一揆のニュースが届いたのは寛永十四年(1637年)11月9日・・・
これを受けた幕府老中たちは、早速、三河(愛知県東部)深溝(ふこうず)藩主・板倉重昌(いたくらしげまさ)と、目付・石谷貞清(いしがいさだきよ)の両名を、上使(将軍の命令を諸大名に伝える使者)として、島原に派遣する事を決定します。
彼らが江戸を出立した11月12日には、すでに天草でも一揆の蜂起があったという一報が伝えられますが、幕府としては、おそらく、板倉と石谷の派遣によって、ほどなく乱は鎮圧されるであろうとの読みがありました。
11月26日、豊前(福岡県東部)の小倉に到着した重昌らは、早速、熊本藩・細川家を、新たに蜂起した天草へ向かわせますが、すでに、ここには一揆勢はいませんでした。
そう、冒頭に書いたように、もう彼らは原城での籠城の準備に入っていたのです。
そこで、重昌らは、島原へと進み、原城近くで陣を構えます。
一方、上記の通り、ほどなく乱が鎮圧されると判断していた幕府は、鎮圧後の後始末をするための追討上使として、老中・松平信綱と美濃(岐阜県)大垣城主・戸田氏鉄(とだうじかね)の両名も派遣する事に・・・
ところが…です。
この原城は、島原半島南部に突き出た高さ31mほどの丘の上に構築された城で、北・東・南の3方が海に突き出た高い崖となっている天然の要害・・・さらに、たった一つの攻め所である西側も沼地と、攻め難さは第1級です。
しかも、そこに島原だけでも2万7000人・・・そこに天草のメンバーをくわえて4万人近くにも膨れ上がった籠城の人数がいるのです。
確かに、籠城する者の中には女子供が含まれていますから、実際に戦闘に参加できる者は、それよりは少ないわけですが、固い信仰で結ばれた彼らが、徹底抗戦を決意したとなると、やはり、なかなか手ごわいです。
ある時には、重昌らが、本陣からさらに近くに、敵目前の陣を構築しようと試みたりなんぞしますが、準備を始めた途端に鉄砲の雨あられが降りかかり、それを断念せざるを得ない・・・なんて事もありました。
しかし、だからと言って、何もしないわけにもいかず・・・やがて、筑後(福岡県西南部)の立花忠茂(ただしげ・宗茂の息子)と有馬忠頼(ただより・豊氏の息子)らが援軍として重昌らの幕府軍に加わったのをキッカケに、その12月19日の夜(20日)、彼らは、夜陰にまぎれて原城に攻めかかります。
しかし、一揆勢の抵抗が激しく、500人近く死傷者を出してしまった幕府軍は、一旦占領した天草丸(松山丸)を放棄して、やむなく退却・・・
でも、なんとか城を落としたい重昌・・・「おそらく、元旦の朝なら、敵も少しは油断しているかも知れない」と、来たる1月1日に総攻撃を仕掛ける決意をするのです。
かくして寛永十五年(1638年)が開けた1月1日・・・未だ夜が明けないうちに、幕府軍が一気に攻めかかります。
ところがドッコイ・・・一揆勢の守備は万全で、近づくなり槍に鉄砲、石投げの猛カウンターパンチ!!!
そうですよ、重昌さん・・・残念ながら、キリシタンに元旦は関係なかったんですよね。
だからって、クリスマスなら油断してたってワケでもないでしょうが、とにかく、一揆勢の猛防御に攻めあぐね、もはや我慢できなくなった重昌は、自ら陣の外に出て決死の突進!
そんな最前線の城壁に喰らいついた重昌に、雨ように浴びせかけられる銃弾・・・そのうちの一発に撃ち抜かれ、重昌は命を落としてしまうのです。
もちろん、重昌だけではありません。
この日の幕府軍の死者は612人、負傷者は3213人というとんでもない数・・・その負傷者の中には、重昌とともにやって来た石谷貞清も・・・(ちなみに、あの宮本武蔵も一揆勢の投石を受けで負傷してます)
どうやら、一揆勢は、この日に総攻撃がある事を事前に察知していたようで、完全なる幕府軍の敗北となってしまいました。
ただ、少しばかり重昌さんの味方をさせていただくならば・・・
おそらく、彼には、鎮圧後の後始末をするための追討上使として派遣された松平信綱と戸田氏鉄の事が重くのしかかっていたものと思われます。
「彼らが到着する前に、何とか一揆勢を潰しておきたい」
それは、鎮圧を任された武士の責任であり、意地だったのかも知れません。
追討上使の彼らが、ここ島原にやって来るのは、2日後の1月3日・・・この現状を目の当たりにした信綱は、九州の大名を総動員しての長期戦に切り替える事になります。
*4年前のページなので前半分がかぶってますが2007年2月28日参照>>
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コメント
茶々さま、今晩は。
板倉家・移封先の福島市には重昌さんを祭った板倉神社がありますね。
譜代で一番の貧乏くじ?だったかもしれませんが、誰のせいにもせず、責任を全うするとこが、サムライのいいとこですかね。
投稿: レッドバロン | 2011年11月 9日 (水) 20時18分
レッドバロンさん、こんばんは~
>譜代で一番の貧乏くじ?
そうだったかも知れませんね~
やはり、老中らが来る前に責任を果たしておきたいと思ったんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年11月 9日 (水) 23時27分
始めまして、羽柴茶々様
京都所司代を務めた、板倉重昌公の壮絶な死
今は吉良荘にしおの長円寺に葬られています。父勝重公の板倉家の菩提寺に家臣で戦死された方々ともに葬られています。
私のブログに羽柴茶々様の記事を利用して、載せたいと思いますが、如何でしょうか。?
ブログ名 (歴史公園と夢の足跡)
投稿: 吉良荘にしおのようさん | 2012年10月17日 (水) 12時53分
吉良荘にしおのようさんさん、こんにちは~
このブログはリンクフリーという事にしておりますので、引用先を明記してご紹介いただけるなら、むしろ光栄です。
ありがとうございますm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2012年10月17日 (水) 13時09分